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158話 桶狭間の戦い 補項

連載開始1年の区切りの投稿ですが、こんな内容で大変申し訳ございません。

さて、158話は補項とさせていただく。

すなわち、坊丸は出てこないし、物語は動かない。なので、158話については飛ばしていただいても問題ない。


さて、わざわざ補項などというものを記する理由は、159話以降の桶狭間の戦いは坊丸の行動でいくつか史実と異なる点が出てくるからである。

159話以降は「()()()云々であるが」「()()と異なり」という文言を多用することになる。

これらの文言が出た場合、我々の知る時間線での事実、すなわち「史実」と異なる事象や条件が発生していることをご了承いただきたい。

端的に言えば、「あれ?知ってる桶狭間の戦いと違う!こんなのありえない!」などと我々の知っている歴史的事実、現代知識を振りかざしたり、それらを基にしたりして意見や文句を言うのはお門違いであることを理解してほしい、と言うことである。


そして、本作品における本来の時間線による「史実」とは、新人物文庫「現代語訳 信長公記 著 太田牛一 訳 中川太古」のP98-106の「首巻(36)桶狭間の戦い」を基盤とすることをここに記しておく。


と、言われても読者諸賢でも新人物文庫版の「信長公記」をお持ちでない方もおられることと思うので、今回は「補項」として上記の内容のうち、信長が清須城を出陣して以降を要約して記させていただく。


再度記すが、上記の「信長公記」をお持ちの方、桶狭間の戦いについて造詣が深い方は、今回の話は飛ばしていただいて結構である。

ただ、いくつか考察の基盤となる情報も同時に記すので、必要な際には「補項」に戻って確認していただけるとありがたい。


では、以下「信長公記」の桶狭間の戦いの要約である。()内は文庫には記載無いがさらに補った項目

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


明け方近く、信長、清須城を出陣。この際付き従うは小姓五名の主従六騎。

熱田神宮の摂社、上知我麻までの三里(現在の地図上では13キロ程度)を一気に移動。

(後続の集合を待ちつつ、戦勝祈願)


辰の刻(午前八時ごろ)鷲津・丸根砦の方から煙が上がる。両砦の陥落の可能性大。

この時点で集まった織田軍は主従六騎と雑兵二百ほど。


丹下砦へ移動。その後、善照寺砦に移動。善照寺砦で陣容を整える。


今川義元本隊、沓掛城から大高城方向に移動。午の刻(正午ごろ)に桶狭間山で北西方向に陣を張り休息。

鷲津・丸根砦を攻め落としたと義元のもとに報告あり。


信長が善照寺砦に入ったことを知り、佐々政次、千秋季忠が三百の兵を率いて今川軍を攻撃。佐々政次、千秋季忠らは討ち死。これを見て義元は戦勝の謡をうたい陣にて休息継続。


信長、中島砦に移動。兵力二千弱。ほどなく中島砦より出撃。

前田利家、毛利十郎など十名程度が参陣。


織田軍が山際まで軍を寄せた時、霙・雹まじりの激しい風雨あり。

北西を向いて布陣した今川軍には雨が顔にかかり、織田軍には後方から降りかかった。

沓掛への峠の松の根元近くにあった楠が雨で東に倒れる。


空が晴れた後、信長の掛け声の後、黒煙をたてて今川軍に打ちかかる。

今川軍の本隊、織田軍の攻撃により、混乱状態になる。

未の刻(午後二時)ごろ、今川義元と旗本衆発見。乱戦の後、毛利良勝が今川義元を打ち取る。

日のあるうちに清須城に帰城。翌日、首実検。


(今川義元の首を渡すことと引き換えという条件で)鳴海城から岡部元信が退去。

大高城、沓掛城、知立城、鴫原城を織田軍が攻略。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

戦国時代の行軍速度について


徳川秀忠が大阪冬の陣にて江戸城から伏見城まで移動している情報を基に考察する。

10月23日から11月10日の15日間でその距離450キロを移動したことになる。

ちなみに15日間なのは太陰暦であるため。

一日30キロの移動である。

この際は大阪冬の陣に遅参しないため、秀忠はかなり強行軍を強いたようで、伏見についたときには兵は疲れ果て、陣容も整っていない有り様だっとのこと。

一日8時間の行軍だった場合、3.75Km/時。10時間だった場合は、3Km/時。

つまり、通常はこの速度以下であるのが普通ということになる。


なので、戦国時代で、敵襲や戦闘の可能性がある領域での標準的な行軍速度は、2.0-2.5㎞/時程度と考えられる。

当然、自領の安全な領域では行軍中に敵襲を警戒する必要がないので、2.5-3.0km/時程度は可能と思われる。


上記より、本作品では敵襲の可能性がある領域での標準的な行軍速度は2.0-2.5Km/時、冬場は8時間、夏場は10時間、春・秋は9時間の行軍時間と想定する。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

軍役、兵力について


江戸時代の慶安2年の軍役規定の幕臣・旗本の規定では以下の通り。500石、900石を抜粋。


500石:11人(侍2名 甲冑持1名 槍持1名 立弓持1名 草履取1名 挟箱持1名 馬口取1名 小荷駄2名)


戦闘員7名、非戦闘員4名 戦闘員比率 63.6% 

草履取までを戦闘員として計算


900石:19人(侍5名 甲冑持2名 槍持2名 立弓持1名 鉄砲1名 草履取1名 沓箱持1名 挟箱持2名 馬口取2名 小荷駄2名)


戦闘員12名 非戦闘員7名 戦闘員比率63.2% 

草履取までを戦闘員として計算


1637年津藩(藤堂家)の軍役規定


1000石:30名(若党5名 弓1名 鉄砲1名 薬持1名 道具持4名 具足持2名 馬取5名 甲立1名 指物竿1名 挟箱持2名 弁当2名 草履取2名 人足3名)


戦闘員18名 非戦闘員12名 戦闘員比率60%


若党・弓・鉄砲・具足持・甲立・指物竿・草履取を戦闘員と想定

挟箱持・弁当・人足を非戦闘員と想定

薬持・道具持・馬取の半数を戦闘員、半数を非戦闘員と想定


上記より本作品においては一般的な動員の場合、総兵力の60-65%を戦闘員と想定。




連載開始1年の投稿が、桶狭間の戦いについての補助情報になっちまうとは…

なにやってんだか。


少しでも「面白い!」「続きが気になる」と思った方は、下の★でご評価いただけると、作品継続のモチベーションになります。

宜しくお願いします。


って、今回の内容で★をつけてくれるとはとても思えませんが(笑)

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