表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

154/483

154話 桶狭間の戦い 第一段

永禄三年五月上旬 今川義元はついにその軍を発した。


俗説では、今川義元は上洛を目指して軍を動かしたとされるが、今川家の国力、兵站能力を考えれば、上洛は非現実的である。


では、現実的な最終目標は何か。

それは、那古野城の占拠と織田家のせん滅もしくは弱体化の上、従属を強いるというものであろう。

そして、第一目標は大高城、鳴海城の周囲の砦を取り除き、今川家の勢力下におき、佐治や水野と言った周囲の豪族を従属化しすることであったのではなかろうか。


今回の戦の名目上の大義は「大高城、鳴海城の救援と那古野今川家の居城を取り戻す」と言うことになる。


そして、那古野城とその周囲まで今川の勢力下におけば、織田は相当弱体化する。

そのまま殲滅できれば良し。殲滅できずとも三河の諸将の様に従属化できればそれはそれで良し。

そういった意志をもって今川は動いたのではなかろうか。


今回の総大将は今川義元その人である。

かつては太原崇孚が今川の総大将を務めることが多かったが、太原崇孚は今から五年前、弘治元年十一月に亡くなっている。


戸部政直、山口父子を駿府にて謀殺したことを見てもわかるように今川義元は基本的に猜疑心が強い人物である。


花倉の乱で兄弟と相争ったこと、その際に譜代の家臣達の支持が割れたことなどを経て、太原崇孚以下、花倉の乱で自分を支持した勢力以外は信じないような性格になっていた。


このため、鳴海城には忠義に篤い岡部元信、大高城には婚姻関係のある鵜殿長照を入れ、本陣付近には庶流の瀬名氏俊、岡部元信と並ぶ忠義者の松井宗信などを配した。

それ以外では瀬名氏俊の与力として井伊直盛、一族の娘を嫁がせた松平元康らが幕下に並ぶ。


今川の譜代以外では、尾張海西郡に割拠する服部友貞率いる服部党を水軍として協力を要請している。


太原崇孚が存命で総大将を務める、もしくは軍師としてその軍に附いていれば、服部党以外にも伊勢長島の一向宗、犬山の織田信清、美濃の斎藤や三河の山家三方衆なども手練手管をもって動かし、織田家の兵力を分散させていただろう。


しかし、だがしかし。今川義元の猜疑心と虚栄心はそのような他勢力を動かす策を良しとしなかった。


今川義元は気がついていなかった。

大軍を以て威風堂々、織田軍を鎧袖一触するという形が、官渡の戦いの前の袁紹の如くなっていることに。


五月十二日、駿府を発した軍は駿河、遠江を経て、五月十七日、三河の沓掛城に入る。既に鳴海城、大高城に入った兵を含めて、今川軍はその数約二万五千。


今川義元は、沓掛城に入ると、少しばかりその身を休めた後、軍議を開く。


鳴海城を守る岡部元信が率いるは三千。岡部元信には既に丹下、善照寺、中島砦への攻撃を行いつつ戦線を維持するよう指示が出ている。


大高城に入った鵜殿長照が率いるは三千。大高の守備が主にその任であり、これも駿府出立の前、鵜殿長照が大高城救援の後、城主を命じられた時に既に命じられている。


さて、この日の軍議にて、今川義元が諸将に命じた内容は以下の如くである。


朝比奈泰朝は三千の兵を与えられ、大高城に対して付城として築かれた鷲津砦、丸根砦への攻撃の任を命じられた。


松平元康には、大高城への兵糧の搬入と搬入完了後朝比奈泰朝の補佐の命が下る。率いるは、松平譜代の家臣達を中心に三河衆、その数は千余り。

大高城への兵糧入れのために、大高城までは小荷駄隊五百もその麾下に入ることとなる。


史書古録には大高城に対して天白川を挟んで対岸にある星崎城の牽制のため、葛山氏元が率いる四千が配されたとあるが、本作品ではこれを採用しない。


では、葛山氏元は何をしていたのか?

本作品では、葛山氏元は、織田家と婚姻関係にある水野家と佐治家の牽制及び、大高城から見て南方にある氷上砦、正光寺砦の攻略を命じられたとしておく。


そして、本隊の今川義元は駿河の旗本衆、一門衆等を中心五千余り。

本隊の先鋒として松井宗信率いる千五百、瀬名氏俊率いる今川庶流野各家とその与力に付けられた井伊直盛ら遠江衆合わせて千五百。


沓掛城に後詰として浅井政敏と近藤景春。

率いる兵は浅井が二千、近藤が千。

もともとは近藤景春が沓掛城の城主であったが、今回の侵攻にあわせて、今川義元の妹婿の浅井政敏に城主の座を譲っていた。

そして、近藤は沓掛城から東に五町ほど、現在の距離にしていく500〜600メートル離れたところにある沓掛城の支城として築かれた大圃城に入っている。


上記の如く今川軍の総数は二万五千弱。旗色を明確にしていなかった土豪たちがその大軍に恐れをなして、今川軍の門戸を叩き、その麾下に入ったものを合わせれば二万五千強というところである。


そして、正々堂々、正面から織田を叩き潰す心積もりの今川義元は、軍議にて全ての軍事行動を明らかにし、麾下の諸将に伝えていく。


曰く、朝比奈泰朝、葛山氏元は十八日に各々の攻撃目標に着陣すること。

松平元康は十八日夜に大高城に兵糧を搬入。その後、十九日朝の干潮に合わせて、朝比奈泰朝とともに丸根、鷲津砦への攻撃を開始すること。

葛山氏元も同刻、正光寺、氷上砦への攻撃を開始すること。


今川義元の本隊は、十九日朝、沓掛城を出立。途中休憩を挟み、大高城に夕刻に入る。

翌二十日、大高城で兵をまとめた後、鳴海城を囲む砦を潰し、鳴海城の救援を行う。

それ以降の予定は、鳴海城に入った時の状況で決する。


これが沓掛城で諸将に知らされた軍事行動の予定であった。


この軍事行動計画に従い、今川義元が運命の地に赴くまで、後、一日半。

桶狭間の戦いは、書き上がったら月曜日、水曜日、金曜日のいつもの予定投稿日を待たずに投稿するつもりです。


ただ、資料を確認しながらなので、スピード感が出るかは不明。逆に遅くなるかも。


その時はご容赦を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ