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125話  岩倉城攻防戦 壱の段

岩倉城攻めです。坊丸が出てこないので、三人称です。たぶん。

岩倉城は、清須城から北北東に約10キロ。

尾張守護代、尾張上四郡の織田伊勢守家歴代の居城である。

本来ならば、清須城と並び尾張の中心的な城郭であるはずだったが、先日の家督騒動による先代信安の追放、そして浮野の戦いでの敗北と明らかに家運が傾き始めていることを受けて、以前よりもその城下はすこし寂しいものとなっている。


しかし、城の規模は依然としてその威容を誇っており、周囲よりもやや高い台地に建っており、東西110メートル、南北170メートルの大きさをである。そして、周囲には五条川からの水を引いた堀が二重に作られており、防御を固める。


永禄2年2月、織田信長は、自身が上洛中から、岩倉城攻めを指示。

佐久間信盛、森可成、柴田勝家を各々の大将として、岩倉城を包囲する様に命令を下した。


浮野の戦いの傷が癒えない岩倉城の織田信賢は籠城戦を選択。美濃の斎藤に助力を要請するというなりふり構わない状態であった。しかし、美濃斎藤には信賢自身が家督争いで追い出した父信安、弟信家が既に匿われており、斎藤義龍としても、信安、信家を自身の従属勢力として岩倉城に返り咲かせる目算もあったため、信賢の要請に安易に応えるわけにはいかない状態であった。

 

そう、織田信賢は、父と弟を岩倉城から追い出すという自身の行いにより、美濃斎藤家との間にすきま風を吹かせてしまったことに思い至らない状態だったのだ。


浮野の戦いで織田伊勢守家を支える家老の山内盛豊が討ち死にし、もう一方の家老、堀尾泰晴が負傷しており、年若い上に守護代の威光をいまだに信じる信賢による外交交渉では、斎藤家と織田伊勢守家の微妙な機微はわかっていない様子であった。

 

浮野の戦いの前の動員可能兵力は、織田信賢方は3300~3500人に対し、織田信長方は2400~2500程度と守護代の威光か依然織田信賢方の方が勝っていたが、戦いの後は大きくこの戦力差が変化する。


浮野の戦いでは織田信賢方が1250人の討ち死に、さらに数百の負傷者を認めたが、織田信長方は討ち死に負傷者合わせても100人程度であった。


さらに、浮野城の破却、犬山勢・川並衆との協力関係といった状況をみた尾張上四郡の土豪たちは、信長方に下ったもの、日和見を決め込み中立状態を保つのものなどが少なからずおり、岩倉城に籠るのは歴代の譜代衆や岩倉城の近くの土豪のみとなってしまった。

 

このため、岩倉城に籠る兵力は浮野の戦いで負傷しいまだ傷が癒えないものも含めてやっと1000人ほどであった。


信長は自分がいない状態での戦であったが、三人の将にそれなりの兵力を預けた。

その数は、佐久間信盛700、森可成500、柴田勝家500の合わせて1700。

兵力としては織田信長の動員兵力の半数強。岩倉城に籠る兵力に比して2倍弱である。

攻城戦では、力攻めで落とすには攻撃側は守備側の3倍程度の兵力が必要と言われている時代である。

佐久間信盛たちの率いる兵力では、力攻めで岩倉城を攻略は困難と思われた。


三人の部将は信長の基本方針である兵糧攻めを基本方針として選択。森可成や柴田勝家は時々、嫌がらせの様に軽く一当て、二当てはしたが、その程度であった。


包囲された岩倉城は当初は意気軒高であったが、徐々に兵糧が欠乏していく。

織田信長が浮野の戦いで仕掛けた罠が、岩倉城の兵糧を削っていたのである。

岩倉城付近での徹底的な青田刈りにより織田伊勢守家の勢力下での秋の収穫が不十分であったこと、津島や熱田を抑える経済的に優位である信長は、秋の収穫で余剰となった兵糧を買い入れ、値段を吊り上げることで岩倉城に備蓄を増やすことができないように仕向けたこと、この二つの罠が仕掛けられていたことに気付いたものは、岩倉城内には居なかった。


佐久間信盛、森可成は、いつも以上に兵糧攻めの効果が出ていることを不思議に思っていた。

攻め手の大将の中ではただ一人、柴田勝家のみは虎哉禅師から麦の収穫前に岩倉攻めを行うこととその理由を聞いており、兵糧攻めに自信を持ち始めていた。


岩倉攻めを始めて20日ほど、三人の部将は主君である織田信長が上洛を終え、尾張に帰ったことを知らされる。

数日すれば、主君がさらに兵を率いてくることは火を見るより明らかである。

三人は、佐久間信盛の陣に集まり軍議にて主君が来るまでの方針を相談することにした。


「おう、佐久間殿、柴田殿。すでにお揃いか、いやぁ、遅れてすまん」

佐久間信盛の陣に、森可成が到着した。


「森殿、それがしも先ほど到着したばかりでござる」

と森可成を気遣う柴田勝家。

「うむ、それほど待っておらんぞ、森殿。とりあえず、座られよ。ゆっくり挨拶でもしたいところなれど、まずは軍議を進めよう。殿が尾張に戻ったようだ。岩倉城攻めだが、このまま遠まきに包囲し兵糧攻めを続けるか、それとも力攻めで個の三名にて岩倉城を落とすか、各々いかがお考えか?まずは森殿はいかがか?」


「う~む。こたびの岩倉城攻めは殿より当初は兵糧攻めを指示されており、その通りにしていたが、思ったよりも岩倉城が弱ってきておる。力攻めもあり、と思っておる」


「承った。では、柴田殿は?」


「それがしは、兵糧攻めの継続が良いかと。岩倉城は浮野の戦いで弱っておりますが、二重の堀などもあり守りは硬い。弱っているとはいえ、力攻めは損害も多いでありましょう。それに、岩倉城の兵糧が少なく、弱っておるのは浮野の戦いで青田刈りを徹底的に行ったからでございましょう。と、なると、殿は浮野の戦いの時点で兵糧攻めでの落城をすでに考えていたものと存じます。殿の意向に沿うならば、兵糧攻めでありましょう。して、佐久間殿のお考えは?」


「それがしとしては、殿から預かった兵を徒に減らすことはしたくはない。我々にも、『出来たならば岩倉城を落としてもよい』と言われた。無理をする必要はない。岩倉攻めの手柄を我々で取りたい気持ちもあるが、やはり信賢の息の根を止めるのは殿に行ってもらうのが良いと思う」


「う~む。お二方がそうお考えならば、それがしも無理に力攻めを選択することもない。兵糧攻めで同意いたす」


「森殿がそういっていただけたので、三名同意ということで、兵糧攻めを継続し殿を待つといたしたい。柴田殿もそれでよろしいかな」


「もとより、それがしは兵糧攻めを希望でござれば、異存はございません」


「では、兵糧攻めの継続といたす。殿が来るまで、お二方も抜け駆けなどせぬよう、よろしく頼む」


佐久間信盛が頭を下げたのに合わせて、森、柴田の両名も頭をさげた。そして、二人は自分の陣に戻っていく。

一人自分の陣に残った佐久間信盛は、頬杖を突きながら呟く。


「勝家めが、分かったようなことを。しかし、勝家の言うとおりであれば、殿は浮野の時から岩倉城を落とす絵図を描いてたことになる…。もし本当ならば、先の先まで読んで動いている恐ろしいお方よ。うつけ、などと言われていたのは偽りであったか。まぁ、良い。運のある主君、知恵のある主君についていれば、自分にも運が回ってくるし、主君の知恵の恩恵にあずかれる。今は、殿に忠実に従っておこう」


数日後、織田信長は馬廻り衆や丹羽長秀、蜂屋頼隆など800人を率いて岩倉城を包囲する陣に着陣したのであった。

岩倉城攻めは一話で終わらせようと思ったのに、終わりませんでした。

やれやれ、困ったものだ。←他人事

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