117話 信長、上洛。 壱の段
永禄2年2月。
織田信長は室町幕府13代 足利義輝の新御所造営に対する寄進の要請に応え、機嫌伺の名目にて上洛を敢行した。
軍を率いての大規模なものではなく、あくまで私的な上洛であり、名のある家臣は10数名、全体でも80名程度の小規模なものであった。
信長一行は清須城を出発し、斎藤家の勢力下の大垣、関ケ原を経て、六角家の勢力下である南近江は琵琶湖沿岸を抜け、瀬田を経て山科荘から洛中に入った。
入京した信長は、上京室町通りの裏辻に宿をとった。信長が小姓衆などを伴い、洛中の見物をするなか、佐久間盛次や村井貞勝ら文官系の家臣は、連絡を取っていた幕府奉行衆に申次を頼んだ。
主に、尾張守護の斯波氏に縁のある奉公衆の伝手を頼ってのことではあるが、先年信長の父信秀が内裏の修繕費用として銭四千貫を寄進していたことも幸いし、比較的速やかに将軍家との面談がかなうことになった。
そして、数日後、信長は、足利義輝が仮の御座所としている二条法華堂にて面会することになった。その際、信長は装いを凝らし、刀の拵えは金銀飾りで飾っていたという。そして信長は、面会に合わせて足利義輝に新御所建設の資金として一千貫を寄進した。
足利義輝は、その寄進を大いに喜び、信長が私称した上総介を黙認、新御所完成後に朝廷に働きかけ正式に叙任を約した。
そして、その晩、事件が起きる。
二条法華堂を辞した信長主従は、同行の者どもの待つ上京室町通りの宿に戻った。
今回の上洛の目的のうち、最大のものを終わらせた信長とその一行は、大きな目的が終わった安堵感から宿で夕餉を取りつつ酒宴を開いたのだった。
「皆のもの、本日はご苦労」
上洛に同行したもののうち主だったものが広間に座る中、信長が上座に座すとそう、切り出した。
「そなたたちの尽力にて、本日、将軍様にお目見えすることができた。礼を言う。足利義輝公に謁見の上、一千貫の寄進を行った。公はことのほか喜び、現在、儂が名乗っている上総介の官位を正式に叙任するよう朝廷に働きかけていただけるとのことじゃ。まずはめでたい」
「殿、おめでとうございます」
「いやいや、まことにめでたいことです」
その言葉を受けて、丹羽長秀、池田恒興、林秀貞、佐久間盛次など比較的信長の側に座る諸将が祝いの言葉を述べる。
「上総介の叙任については、まぁ期待せずに待つことにいたす。林の爺、山科卿への面会についてはどうだ」
「はっ、明後日に面会のご了解をいただきました。ただ…」
「ただ、なんじゃ、秀貞」
「山科卿のお屋敷は、一条烏丸にあるのですが、何故かご自宅ではなく、山科卿の親族にあたる中御門卿のお屋敷にて面会したいとのことでございます」
「まぁ、先方がそういうのであれば、中御門卿の屋敷に参上するしかあるまい。で、中御門卿の屋敷はどこにあるのだ?」
「山科卿の屋敷の側、一条烏丸にございます」
「なんだ、同じ区画ではないか。わざわざ近くに親族の屋敷に呼ぶなど貴族の考えることはわからんな」
「拙者が愚考するに、親族の中御門卿の屋敷を使うことで、中御門卿にも土産を持参するしかありません。その土産を多くせしめるのが目的かと。でなければ、屋敷が痛んでるところでもあって見られたくないのかもしれませぬな」
「京の都の状況を見れば、いずれもありそうなことよな。で、明日は暇になったか。では、明日はどこか京見物でもして歩くかのぉ」
「殿、この上京室町通りの近く、立売や小川表は名刹や呉服屋などがありますればせっかくですから、明日はそこを見物に行きませんか」と、池田恒興が明日は暇になったと聞いて、すぐに観光を提案する。
「恒興殿、今回の上洛、物見遊山ではございませんぞ」と、丹羽長秀が、池田恒興に釘をさす。
「長秀、まぁ、良いではないか。明日くらいは物見遊山といたそうぞ」
という信長による明日の観光の方針表明が出たことで、家臣たちは口々に明日のことを話し始める。
と、そこに宿の門や戸をたたく音が聞こえた。
叩く音とともに大声も聞こえてきた。
「火急のお知らせにございます。織田家家中の方々に取次をお願いしたい」
その音を聞いて、小姓衆や太田牛一など護衛役の面々は箸をおき、刀をもって立ち上がった。
戸を叩く者は大声で続ける。
「清須城に仕える那古野弥五郎の家中、丹羽兵蔵と申します。金森様か蜂屋様に取次をお願い申す」
「殿、いかがいたします」信長の側に近寄って丹羽長秀が小声で信長の意向を聞く。
「長近、頼隆、戸を叩く者に会って来い。太田と小姓衆は二人の後ろに控えておけ。もし、金森らが顔を知らぬ者であった場合は斬れ」
「はっ」
信長の指示に従い、金森長近、蜂屋頼隆を先頭に宿の戸の方に数名が動く。
そして、酒宴を行っていた広間はシンと静まる。
宿の戸を開け、外を確認する金森と蜂屋の目の前には、本当に丹羽兵蔵が目の前にいた。
「おお、金森様、蜂屋様。丹羽兵蔵でございます。挨拶をいたしたいところなれど、火急の知らせにございます。此度の上洛に合わせ、美濃の斎藤の手のものが、信長様に刺客を放った様子。瀬田の渡しの船の中で刺客と思われる一団と遭遇いたしました」
「な、なんだと、至急殿に知らせねば!」




