時を刻む
始まりと終わり
幼い頃から「でかいだけのトウヘンボク」だと罵られてきた。それがまさか、別の世界に来たら木になってしまうとは思いもよらなかった。
この世界には大樹を信仰の対象とする文化が根付いているようで、私はお供え物と一緒に手を合わせて拝まれていた。私の意識が木に宿っていると知ったものはどうするのだろうかと最初はびくびくしていたが、切り倒されずにまだここにあるというこいとは全く気にもされていないのだろう。
あるときの話である。とある夫婦が「子どもができずに困っている」と願いを口に出した。現代なら不妊治療などもあるだろうになとぼんやり思いながら、この世界はどうなっているのだろうかと疑問に思った。尤も、それを知ろうにも足も動かせない巨木には何ら知ることはできないのけれども。私は木の幹をゆすった。ぼとり、と木の実が五つほど落ちた。それをありがたそうに拾い抱え、その夫婦は帰っていった。
願いの叶う木とは酔狂なものを考えるものだ。叶えているのは当人の努力であろうに。私はぶつぶつと風に交じって文句を言ったり、子の死に耐え切れぬ母親の言葉に一緒に悲しんだりするだけであった。できることは幹を揺するくらいで、すると実が落ちる。果たしてこの木は何の実をつけているのか。私には己のこともわからず、ただ在り続けた。
鳥がやってきた。たまに話ができるものがいて、彼と語らうのが私の楽しみでもあった。「あんたの手足は伸び切っているが、誰か伐ってくれないのかい?」とからかわれては、「お前さんは小さな身なりで風に左右されてばかりじゃないか、大変そうだね」と返しては笑いあう。そこからいつもの雑談が始まるのだった。その彼も年老いて木の枝に掴まるのがやっとだと言われ、途端に悲しくなってくることもあった。「俺が死んだらあんたの下に埋めてもらいてぇなぁ」と辛気臭いくことを笑いながら話した後で、彼は力がなくなったのかすーっと地に落ちていった。私は声をあげて泣いた。葉がざんざと揺れ、実は震えた。お参りに来た者の手で、私の木の根の近くに彼の墓が作られた。
どれだけ時間が経ったのか、ある少年がやってきた。果物を手に持って、老いた夫婦と共に。「ありがとう、おかみさん」と私の足元の祭壇に置き、夫婦は「このおかげですくすくと育ちました。本当にありがとうございました」と感謝を述べて一礼し去っていった。
私は見守るだけだが、こうして生きていくものを眺めていられることが幸せなのだと、こうして思い至るようになった。
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