引退公演
「またロミオとジュリエットを読んでるんだ。訳者が違ってたりはするけど、よく読んでるよね。好きなの?」
宮川祐輔がそう言いながら自分が座っているテーブル席の向かいに側に着いて、香坂光は顔を上げた。
「いえ、そういうわけではないんですが。色々な訳者のものを読めば少しでも何か掴めるかなと思って。同じ内容でも、訳者によって表現の仕方が違いますから。色々参考にできるかなと。」
そう返すと、祐輔に疑問符を浮かべられてしまい、光はそれを見て疑問符を浮かべ返した。
「大学の課題か何か?それか、演劇でもするとか。あ、そういえば。香坂さん、市ヶ谷学園大学の学生さんだったよね。あそこの演劇部、引退公園の演目がロミオとジュリエットに固定だったような気が。もしかして香坂さんって、あの市学演劇部の役者さんだったりするの?」
そう言われて、そういえば言っていなかったっけと思って、光はえぇとかまぁとか曖昧に返事をしてばつが悪そうに笑った。こうやってカフェで一緒の時間を過ごすようになって久しく、祐輔とは沢山の話をしてきた。趣味が似ていて、お互いに好きな本や映画を勧めあったり、同じ作品について感想や解釈を語り合ったり。彼と過ごす時間は有意義で、心地よくて、まるで昔から一緒にいるような安心感があった。だからすっかり忘れていた。彼と自分が出会ってから大して期間が経っていないと。そして、彼と自分はこうしてカフェで語り合う以外に交流がないということを。
光が祐輔と出会ったのは、役作りのために女装をして生活をし始めてすぐのことだった。柏木遙から、喫茶店とかで時間潰してるフリしながら女性客観察してみたら?と言われ、適度に普段の生活圏内から離れていて、手頃な値段でゆっくりできる喫茶店を探して、見付けたのがこのカフェだった。そしてここに通い始め、女装をして出歩くことにも、ここで課題や読書をしながら人間観察をすることにもなれてきた頃に、この場所で祐輔と出会った。その日は、近くのショップの新装開店とかで、そこに買い物に訪れた客がこのカフェにも流れてきて人が多く、空いている席を見付けられなかった祐輔が、申し訳なさそうに相席をお願いしてきたのが始まりだった。今日は人が多いですね、ここには良く通ってるんですが、こんなに混んでいるのは初めて見ましたと、間が持たなかったのか祐輔が話しかけてきて、それで、光の持っている本に目をやって、シェイクスピア好きなんですか?なんて話題になった。
「シェイクスピアといえば、俺が印象的なのはベニスの商人ですね。子供の頃に読んで、その時は普通に、意地悪な金貸しを頭の良い女性が懲らしめる懲悪物の話しだと思って楽しんでいたんですけど。大人になってから読むと結構複雑で。これは差別の話でもあるんだなって思いました。確かに金貸しは自分勝手な恨み言から酷いことをしようとはしたけれど。でも、それはちゃんと契約書通りの話しで。なのに、物語中ずっと、金貸しが一方的に悪者で、ものすごい悪い奴で酷い奴という扱いで。最終的に彼は、主張する当然の権利さえも認められず、それどころかアントーニオの命を奪おうとした罪に問われ、財産は全て没収、死刑宣告までされてしまう。そして、被害者であるアントーニオが慈悲を与えたというていで、全財産の没収と死刑は免れたものの、ユダヤ教徒であった彼は強制的にキリスト教に改宗させられてしまった。酷い話しですよね。それが、物語の中では当たり前に、それが当然であり、それで全員がハッピーエンドになったかのように語られているんですよ。そのことに気が付いたとき、俺は身の毛がよだつ思いがしました。大衆の当たり前や普通を押しつけ、それが正しいと少数の人間に強制すること、そしてそれが皆の幸せだと疑うこともなく信じてしまうこと。それがどれだけ恐ろしいことなのか。何も考えずに、それを普通だと思い懲悪物のスカッとする話しだと思って楽しんでいた子供の頃の自分自身のことも、とても恐ろしいと思ってしまいました。」
そう語った祐輔が印象的だった。そこに何か自分と近しいものを感じ、そして、自然と光も語っていた。色々と、語り合っていた。そして、それ以降このカフェで一緒になると、互いに声を掛け合うようになり、そのうち普通に、まるで待ち合わせでもしていたような気軽さで同じ席に付くようになり。すっかりこうして祐輔と一緒にカフェで語り合うのが当たり前になっている現在、光は、そろそろちゃんと打ち明けるべきかなと思った。自分が実は男だと、引退公演の役作りのために女装して過ごしているだけなのだと伝えたら、彼はどんな反応をするだろう。そう考えると、少し怖い気がする。でも宮川さんなら、普通に受け入れてくれそうな気もする。それどころか、最初から気が付いていたなんて言われてしまったりして。だって、彼の前では僕はずっと演技をしていなかった。一人称をわたしと言う事だけは気をつけていたけれど、それ以外は本当に素のままで接してしまっていた。元々、中性的と言われる声音ではあるけれど、流石に、ね。そんなことを考えて、光は心の中で苦笑した。
「香坂さん、市学演劇部の役者さんだったのか。なんか納得。正直、そこまでパッと目を惹くような見た目の派手さはないけど、不思議と惹かれるというか。人を惹き付ける魅力がある人だなとは思ってたんだ。なんか、こんなこと言うと、ナンパでもしてるのかって勘違いされそうで言えなかったんだけど。」
そう照れくさそうに笑う祐輔を見て、光は思わず笑いがこみ上げてきて口元を抑えた。
「ねぇ、香坂さん。勘違いされそうで恥ずかしいついでに言っちゃうんだけど。そろそろ、カフェで行き当たりばったり会った時だけじゃなくて、普通に約束して会ったり話したりできないかな。なんていうか、こんなに気が合う人って初めてで。でも、連絡先教えてとか、どっか一緒に出掛けようとかそういうこと言うと、変に思われるかなって。それで、今まで言い出せなかったんだけど・・・。」
そう少しテンパった様子で祐輔が言って、俺と連絡先交換して下さいと頭を下げてきて、光はその様子に少したじろいだ。
「えっと。僕も宮川さんとちゃんと友達になりたいと思っていたので、連絡先を交換するのはいいんですが・・・。」
そう口に出して、祐輔が「僕」というところに反応し、頭を上げ怪訝そうな顔で見てきて、光は苦笑した。
「すみません。騙すつもりはなかったんですが。引退公演の役作りのためにちょっとこういう格好で生活しているだけで、僕、実は男なんです。」
「役作り?」
「はい。僕の世代、役者組に女性がいなくて。それで、体格が一番小柄で声が中性的だって理由から、僕がジュリエット役をやることになってしまったので。少しでも女性になりきれるようにと、アドバイスをもらって女装生活を・・・。」
「あ。あぁ。そういうことだったんですね。なるほど。」
そう言いながら戸惑い混乱した様子で、香坂さんが男性、なんて呟いている祐輔を見て、光は少し罪悪感をおぼえた。
「すみません。結果的に騙すような事になってしまって。本当に申し訳ありませんでした。」
「いや。別に、それは。うん。いや。正直なところ、凄く驚いてるけど。うん。ちょっと、頭追いついてないけど。香坂さんが男性、か・・・。」
そう言ってあからさまに項垂れて気落ちしている祐輔に、光はどう接したら良いか解らなくなった。そんなに落ち込むって事は、宮川さん、僕のこと女性だと完全に勘違いして、しかも恋愛感情抱いてたってことでいいんだよね。そう思うと酷くやるせない気がする。
「僕もこんなに気が合って話が合う人って中々いないので、ちゃんと事情を打ち明けて、改めて友達になれたらと思っていたところだったんですが。でも、こんなんじゃ、友達になるのはムリですよね。すみません。」
「いや。そんなことは。別に、俺、ナンパ目的で話し合わせてたんじゃないから。本当にこんなに気が合う人初めてだなって。それで。まぁ、ちょっと、そういう意味で惹かれてたところはあるけど。嘘は吐いてない。嘘は吐いてないよ。友達になろう。是非。」
そう慌てた様子で弁解してくる祐輔の様子がおかしくて、光は笑った。そして連絡先を交換して。今のやりとりを互いに笑い話にして笑い合って。今度はちゃんと男性の姿で会うことを約束して別れた。
日を改めて、今度は本来の普段通りの格好で待ち合わせをし、初めて男性として祐輔に会った日。祐輔に上から下まで眺められ、そしてどこか落ち込んだように、やっぱこうやって見ると香坂さん完全に男性だね、と呟かれ、光はそれにどう答えるのが正解か解らず乾いた笑いで返した。
「本当、化粧とか怖い。もう、全然別人。いや、同じ人だって解るけど。でも、今の香坂さんに女性的要素何処にもないっていうか。はー。声はまんまそのままなのに、今は完全に男に見える。なんで?やっぱ、市学演劇部の役者さんは凄いな。」
「いやー。それは、僕を女装させてくれてた子の技術が凄いだけで、僕の演技力はそれほどでも。実際、宮川さんといたとき、一人称をわたしにしていただけで、ほぼ素でしたし。」
「え?素だったの?演技してたわけじゃないの?うっそだー。絶対嘘だよ。絶対、女の子作ってたね。」
「いや、嘘じゃないですよ。本当に。なんて言うか、宮川さんといると普通に自然体でいられて。まるで昔から一緒にいたみたいだなって思ってましたから。というか、すっかり連絡先も交換してないような仲だったって忘れてて、僕の素性話してなかったことさえ頭になかったくらいですから。」
「本当に?」
「はい。本当ですよ。」
「嘘じゃなくて?」
「嘘なんて言いませんよ。」
そう言うと祐輔がなんとも言えない嬉しそうな顔をして、それをごまかすように視線を逸らして口元に手を当てて、光はなんていうか宮川さんってかわいいなと思った。
「いや。俺も前からずっと一緒にいたみたいだなって思ってたから。奇遇だなというかなんというか。こんなこと言うと変に思われそうで怖いんだけど。別に変な意味はないんだけど・・・。」
何かをごまかすように、言い訳するようにそう言う祐輔の姿に少し胸がときめいて、光はそれが表に出ないように自制した。ダメだよ、好きになっちゃ。宮川さんは普通の人だから。僕が男だって知ってショックを受けるような普通の人なんだから。そう自分に言い聞かせて、そう自分に言い聞かせなくてはいけないことに光は苦しくなった。
「あー。これで、香坂さんが本当に女性だったら、運命的なものを感じるねって、なんかこっから先に発展するようなこともあったかもしれないのに。男だからな。男じゃ、どうにもならないじゃん。」
そう大げさに嘆く祐輔の姿に笑いがこみ上げてきて、光はですねとそれに同意し二人で笑い合った。
「ねぇ、香坂さん。お互い前からずっと一緒にいたみたいとか言いながら、名字にさん付けで呼び合うのやめにしない?しかも香坂さんはずっと中途半端な敬語だし。そういうのもやめて、これからは普通の友達みたいにさ。って、改めてこういうのなんか照れくさいね。」
「そうですね。なんていうか、友人同士って、いつの間にか呼び名が変わって、いつの間にか話し方も変わっているものですから。こう、改めてっていうと変に照れくさく感じますね。」
「ほら、また敬語。」
「いやー。宮川さん、年上ですから。社会人だし。つい。目上の方に敬語で話すのは癖みたいなもので、別に距離をとってるわけじゃないですよ。許して下さい。そのうち、慣れますから。」
「じゃあ、それはおいおいでいいけど。香坂さんって、友達からなんて呼ばれてるの?」
「うーん。基本、呼び捨てですかね。香坂とか光とか。小さい頃はひー君とかひーちゃんとか、ぴかるんなんて呼ばれてたこともありましたけど。流石にこの年になると。一緒に住んでる幼馴染みも、昔は僕のことひー君って呼んでたけど、いつの間にか光呼びになってて今じゃそれで定着ですし。まぁ、それはお互い様ですけど。」
「じゃあ、俺も光って呼んでいい?」
「どうぞ。」
「光も、俺のこと祐輔でいいから。」
「了解。って、なんかこのやりとりも凄く恥ずかしいね。」
そんなやりとりをして、祐輔が、あ、今敬語抜けたと少し顔を綻ばすのを見て、光はこれは本当に危ないなと思って目を逸らした。というか、このやりとりがまず、なんなんだろう。まるで付き合い初めの中高生みたいで凄く恥ずかしい。そう意識すると、余計そんな方へ思考がいってしまいそうで、光は本当面倒くさいなと思った。僕が普通だったら、こんなやりとりもきっと、普通にネタにして笑えるのに。こんなことで本気で恥ずかしくなって、少し胸が高鳴ってしまう自分は、本当に面倒臭い。僕はバイだから、女性に恋している分には問題がないんだから、男性のことを好きにならずにいられればいいのに。彼と過ごす時間はとても居心地が良かったから。友達になりたいっていうのは、本当はもっと近づきたいなんて思ってしまった自分への言い訳だった。彼が女装した自分にそういう感情を抱いているんじゃないかって、自分ともっと近づきたいと思っているんじゃないかって、本当は気が付いていた。彼が自分を女性だと勘違いして好意を寄せてくれていたのだと解っていても、彼が自分にそういう感情を抱いていると考えるだけで意識してしまう自分がいて嫌だった。些細な事に胸がときめいてしまう。もしかしたらなんて考えてしまう。それが嫌で、バカみたいで。自分が本気になる前に、男だって解れば彼の方から離れていくかななんて。でも実際はこうやって友だち付き合いが始まってしまったわけで。本当、バカみたいだ。こんなことを知られたら、どうなるか解らない。掌を返すように態度が急変して、軽蔑され、罵倒され、存在そのものを否定されることだってあるかもしれない。僕は、そういう存在だから。普通には受け入れてもらえない。僕はそういうモノだから。男性と普通に恋愛するなんてできるはずがないんだから。それ以上を求めちゃいけない。期待してもいけない。ただの気が合う友達としているのが正しい。だから、こういうやりとりはいらないし、僕の挙動一つでそんな顔しないで欲しい。そんなことを考えて、光は本当僕って面倒臭いなと思って心の中で苦笑した。自分がバイセクシャルであることを、ずっと誰にもバレないようにとひた隠しにしてきた。ひた隠しにして、近しい人と距離をとって。自分は普通に人と関わるべきじゃないなんて、誰にも開かず一人でいることを選ぼうとした時期もあった。周囲の目に怯え、何かの拍子でバレるんじゃないかって、疑心暗鬼に陥って、怖くて普通が何もできなくなって、思うように自分を動かすことができなくなって、思い悩んで、でも誰にも打ち明けることはできなくて。大切だった人を酷く傷つけた。このままじゃいけないと、このままじゃずっと同じ事を繰り返すことになると。自分もちゃんと前を向いて行きたいと。そう思いながらも怖じけ付いてまごつき。全く前に進めなかった僕を、花月ちゃんが奮い立たせて背中を押してくれて、ようやく僕は自分の中の勇気を振り絞って健人にカミングアウトをした。それが予想外にアッサリと受け入れられて、普通に受け入れてもらえて。彼から、そういう性質を持っていても僕は僕だと。そういう性質を持っているからと言って誰彼構わず好きになるわけでもあるまいし、僕は相手の意思に反して何かを押しつけるような奴じゃないって言ってもらえて、信じてもらえて。少し気が楽になった。少しだけ、世界が怖くなくなった。でも、それが奇跡的なことで運が良かっただけだと解っているから。今でも怖い。前ほどではなくなったと言っても、まだ怖い。僕の真実を人に知られることが、そしてそれがもたらす変化が、怖くて怖くてしかたがない。だからきっと、僕はジュリエットを芯から演じることができないんだと思う。ロミオとジュリエットが、恋愛喜劇に近い形の恋愛悲劇の作品だから余計、ジュリエットになりきることが怖いんだと思う。そこに自分が投影され、一緒に練習に励む仲間に、そして舞台を観た誰かに、自分がそういう性質を持っていると気付かれてしまうんじゃないかと思って。そんなことは杞憂だと解っているのに。それに、健人が付いてるって、彼が絶対的な味方でいてくれるって解っているのに。それに彼が自分と仲間達と学生最後の舞台を、最高の舞台にしたいと心から願っていると解っているのに。その期待に応えたいのに。自分だって、最高の演技をして、幼い頃に健人と約束をしたあの夢を叶えたいと、文化祭公演の時のようにやりきった後のあの景色をまた、最後の舞台で見たいと思ってるのに。臆病な自分が嫌だ。そんな臆病な自分を変えたくて、遙君の軽口にのったフリをして女装生活なんて始めたのに。そうすれば何か乗り越えられる気がしていたのに。でも結局、僕は中途半端なまま。今もまだ、ジュリエットになりきれないままでいる。そんなことを考えて、光は気が塞いだ。
「光。この近くにお勧めのブックカフェがあるんだけど行かない?店主と気が合うのか、結構俺の好みの本が揃えられててさ。店内の雰囲気も良いし、コーヒーも美味しいし。学生からしたらちょっと割高かも知れないけど。でも、光も気に入ると思うよ。今日のところは社会人である俺が奢ってあげるから。」
そう祐輔の声がして、光は彼の方を見て、せっかくだからお言葉に甘えて、と答えた。
他愛のない会話をしながら店に向かう。そして、いつも通り。いつもと違うのは、勧める本が実際に目の前にあって、お互いにそれを取り合って、コーヒー片手に黙々と読書して。こういう沈黙も苦痛ではない。語らい合って過ごすのも、互いが違うことをして過ごすのも、ただこうやって同じ空間にいて、相手の存在がそこにあることを感じながら穏やかに過ぎていくこの時間が心地よくて、愛おしくて。光は、自分はいったいなにがしたいんだろうと思ってモヤモヤした。
○ ○
「光、調子はどうだ?女装生活もだいぶ板に付いてきたように見えるが、何か掴めそうか?」
そう三島健人に訊かれ、光はそれが全然と言って申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。僕が足を引っ張ってて。」
「別に良い。引退公演までまだ日にちもあるしな。中途半端に妥協した演技で勧めるよりずっと、ギリギリになっても納得のいくものを追求するほうがマシだ。それに、光ができなくても、俺達は俺達で個々人の役作りは勧められる。細かいところを除けば、普通に全体で練習も打ち合わせもできるしな。まぁ、全体像がハッキリしないというか、俺達の舞台はこれだっていう明確なものが見えないから、締まらないことは否めないけどな。」
健人にそう言われ、光は心苦しくなって、ごめんと呟いて俯いた。全部自分が悪い。自分が役にちゃんと入り込めないから。だから、皆の足を引っ張って、それで・・・。
「気にするなよ。役が掴めなくて右往左往するのなんて当たり前だ。迷いながら、試しながら、色々足掻いて自分なりの役を作っていくのもな。光は天才型だから、今までそんなことしなくても役が掴めてたみたいだが、ここに来てつまずくなんて。なんて言うかこの間の悪さは本当お前らしいな。当たり前のことなんだから、あまり重くとるなよ。どうしたらと考えるのは良いが、周りを気にしたり、自分のせいでなんて考えて焦ると余計沼にはまるぞ。」
そうおかしそうに笑いながら健人に言われ、光は顔を上げた。
「光は昔、台本読めば役がすっと自分の中に入ってくるなんて言って、本当に台本渡されたその場の一発目で俺なんかにはできないような演技をして見せてきたっけな。俺なんて、役を掴むためにどれだけその人物の背景やらなにやら調べて、人から話し聞いて、既存の作品なら色々と読んだり観たりして研究してきたか解らないって言うのに。子供の頃はお前の才能に嫉妬したし。才能がない分俺は努力しないとって、どれだけ必死になったことか解らない。自分の感性磨くのに色々やったし、色々な経験を積むようにも努力した。徹底的に基礎を鍛えて、勉強して。ようやく、お前と並んで芝居ができるって自信が持てるようになった頃、急にお前は俺から離れて演劇辞めるし。あの頃は凄く腹が立ったな。今じゃ懐かしい話しだ。」
そう言って健人が真っ直ぐ自分を見つめてきて、光はその視線の強さに目が離せなくなった。
「俺は、お前の才能に嫉妬もしていたが、ずっと憧れてもいたんだ。そして、なによりずっと、お前とちゃんと肩を並べて演劇がしたかった。ようやくお前が本気になってくれて、俺は心から嬉しいんだ。最初で最後になるかもしれないが、引退公演ではお前と本気で舞台ができるって本当に楽しみにしてる。だから、光。時間がかかってもいい。お前の納得のできるものを仕上げろ。妥協した中途半端なものなんて俺は認めない。お前はお前の全力を出し切って、最高の芝居をすることだけ考えろ。その他は全部フォローする。」
真剣な顔でそう言って、その顔をちょっといたずらっぽいものに変えて、中途半端なもの仕上げてきたら、本番ギリギリで本当に花月にジュリエット役交代させるからなと健人が言ってきて、光は笑った。
「健人、変わったね。」
「そうか?」
「なんか丸くなったというか、余裕ができたというか。頼もしくなったよ。」
「俺も、色々なしがらみが解けてスッキリしたからな。今はただ、本当に俺達の学生最後の舞台を最高のものにする。その決意と、自分達が作りあげる舞台への期待感しかないからな。正直、今が最高に楽しい。舞台に立つときの事を考えるとワクワクする。まるで子供の頃に戻ったみたいな感覚だ。俺も花月に感化されたかもな。あいつを見てると、余計なことごちゃごちゃ考えないで、好きなものは本気で楽しまないとなって思えてくる。」
「そうだね。あの子はいつだって全力で全身全霊で楽しんでるもんね。その気持ち、解る気がする。僕もあの子には随分と影響を受けたよ。素直で真っ直ぐなあの子の言葉は、何よりも強く僕の中に入って来て、あの子に拳で押された胸が熱く感じて、自分で立たないとって、僕がちゃんと頑張らなきゃって思えた。」
そう言って光は、去年、篠宮花月に頑張るのは今だと、今勇気を出さないと後悔すると、だから頑張ってと拳で胸を押された時の事を思い出して、また胸が熱くなるような感覚がした。そうだった。あの時、僕は健人に見限られて、もういいと、もう僕には期待しないと言われて、それでも健人と一緒にもう一度本気で舞台がしたいんだって一人で足掻いてた。一人で足掻いて、もがいて、でも結局自分の壁を乗り越えられずにいて苦しくて。僕の中からその壁を越える勇気を引き出してくれたのが花月ちゃんだった。あの時、僕が壁を乗り越えたのは、引退公演に全力で取り組むためじゃないか。恐れず、前に進むために。自分にできる最高の芝居をして、自分達の最高の舞台を作りあげる、そのために僕はあの壁を飛び越えた。なのに、今僕は、またあの時と同じような壁を作って尻込みしていた。こんな壁、あの時のものに比べたら大したものじゃない。こんなもの。そう思う。
「花月ちゃんって不思議な子だよね。本当、あの子の力って凄いと思う。なんか花月ちゃんのこと思い出したら自分ならできるって思えてきたよ。よし。頑張るぞ。健人、ちょっと立ち稽古付き合ってくれる?」
そう言うと、健人がもちろんと小さく笑って、光も笑みを返した。
「そう。光がスランプから抜けられそうで良かった。」
「スランプって、僕のはそんな大層なものじゃない気が。僕はただ、思い切りが足りなかっただけな気がする。一回踏み込んじゃえばね、後は自然となんとかなるものなのかなって。」
演劇部の稽古の後、光は祐輔と会っていた。祐輔にもだいぶ相談に乗ってもらったから。演劇のことは詳しくないし、俺にはよく解らないけどと言いながらも、彼は親身になって話しを聞いて、彼なりのアドバイスを色々してくれたから。だから、自分が腹をくくれたことを彼にも報告しないと、そう思って稽古が終わった後、光は彼にメールした。そして、彼からもうすぐ仕事終わるから待ち合わせして会わない?なんてメールが返ってきて、それを見て嬉しくなっている自分がいて光は苦しくなった。でも、こうして彼と会って話していると心が落ち着いて、苦しかった自分がどうでも良くなった。胸が暖かくなって、凄く、ドキドキする。こんな時間をもっと一緒に過ごしたいだなんて、こんなこと言ったら引かれるだろうな。引かれるだけで済めば良いけど。そんなことを考えて自制して、自制しなくてはいけない自分にまた苦しくなって。彼と友だち付き合いを始めた当初から彼が度々、光が本当に女の子だったらなと言ってくることを思いだして、本当に自分が女だったら良かったのになんて光は思った。今まで一度だって女性になりたいと思ったことはない。今だって、本気で女性になりたいなんて思わない。でも、もし本当に自分が女性なら、最初から諦めなくても良かった。こんな風に苦しまなくて良かった。こうやって一緒にいられるだけでも幸せなことなのに、友達でいるのが辛いなんて、彼に触れて、もっと近くに感じたいだなんて、僕はわがままだな。そんなこと同性から言われたら困るどころの話しじゃないだろうに。そんなことを伝えたくなる自分がいて嫌になる。
「俺も引退公演観に行ってもいい?」
「もちろん。チケットとっておくね。」
「ありがとう。光の舞台観るの楽しみだな。女装してるときの光ってさ、なんかなんとも言えない魅力があるよね。不思議と目が離せないというか、気になるというか。俺、観に行ったら光のジュリエットに目が釘付けになりそう。」
「いやー。そんなに期待されると恐縮するんだけど。っていうか、僕の女装姿が気になって目が離せなかったって、それ、ただ僕の女装が中途半端で違和感が拭えなかっただけじゃないの?」
「いやいやそんなことは。俺、光のこと本気で女の子だと思ってたし。本当、あんなに惹かれる女の子に巡り会ったの初めてだったからさ。光が男だって知ったときのショックが・・・。」
「もうそれやめよう。この流れ、絶対また僕が本当に女の子だったらなってなるんでしょ。そんなこと言われても困るから。どうにもできないから。」
「解ってるけどさ。解ってるけど。でも、未練がさ。女装バージョンの光みたいな彼女が欲しい。趣味も合って気も合って。本当、光が女の子だったら最高だったのに。」
冗談を言うような軽い調子で言われたその言葉に辛くなって、光はじゃあ友達付き合いやめる?と言っていた。
「僕といると未練が拭えないんでしょ。じゃあ、もう関わらない方が良いんじゃないの。」
そう言った自分の声が想像以上に険があって、光は胸が締め付けられた。こんなのネタで、冗談だって解りきってるのに。冗談に冗談のように返せなかった。こんなことに過剰反応している自分が滑稽でばからしくて。そして、こんな反応をする自分が変だと思われないか、自分の気持ちに気がつかれてしまうのではないか、怖くなって。
「いつまでもそのネタで、僕が女の子だったら良かったって言われ続けるのは正直面白くないよ。役作りのために女装していただけで、僕は女の子になりたくもないし、なるつもりもない。冗談だと解っているけど、そうしつこく言われ続けると嫌にもなる。」
そう言い放って、光はその場を後にした。いったい自分は何を言っているんだろう。なんでこんなこと。早足でその場を離れながら、光は泣きたくなった。僕はいったい何をしてるんだろう。訳がわからない。こんなこと、今までなったことがない。どうして僕は・・・。
「光。待って。」
そう祐輔の声が追ってきて、でも彼の顔が見れなくて、見たくなくて、光は足を止めずそのまま歩みを進めた。
「光。ごめん。本当、俺が悪かったから。ちょっと。光。お願い、ちょっと待って。ねぇ、光。」
そうずっと追ってきた祐輔の声がぴたっと止んで、光は何故か胸が痛んで足を止めた。
「光。そんなに嫌だった?俺にああ言われるの。いつも冗談みたいに返してきたのに、本当はそんな風になるほど嫌だった?俺と友達やめたくなるほど嫌だったの?」
そう言う祐輔の声が冷たくて、彼が酷く怒っているようで、光は心がざわめいた。
「なら、冗談みたいに笑って返してないで、ハッキリ言えば良かっただろ。嫌だって、やめろって。そんな風に怒って立ち去る前にさ。光は、ずっとそうだ。俺と昔から一緒にいたみたいだって、俺といるのが居心地良くてちゃんと友達になりたかったって、そう言ってたくせに。呼び方が変わろうが敬語をやめようが、ずっと、どっかで俺と距離とったまま。そんなこともちゃんと言ってくれないまま。近づいたと思ったら遠ざかって、開いたかと思えば根っこの部分では俺を拒絶して。そんな自分勝手に簡単に友達やめるって言い出せるほど、俺は、君にとってどうでも良い存在だったのかよ。」
そう叫んだ祐輔の声が泣いているように聞こえて、光は胸が詰まって苦しくなった。
「俺がどんな気持ちで君といたのか何も知らないくせに。俺がどんな気持ちで君と友達を続けたいと思っていたか、君との交流をなくしたくないと思ってたか。何も解らないくせに。君の言動一つ一つにいちいち振り回されて苦しかった俺の気持ちなんて。俺の辛さなんて君は何も解らないくせに。俺の苦悩なんて絶対君には解りっこないくせに。勝手に、一方的に、そんな風に拒絶するなんて。君は・・・。」
そう言う祐輔の言葉が自分の気持ちと重なって、光は振り返った。
「こんな風に拒絶されるなら、隠さなければ良かった。本当のこと。」
そう呟いて、祐輔がどうしようもなく辛そうな悲しそうな顔をして、ごめん、今のは忘れてと言って踵を返すのを見て、光はその手を取っていた。
「祐輔、ちょっと待って。」
「何?今度は光が俺を追いかける番?別にいいよ。ちゃんと話しする気がない人と話すことなんてないから。もう俺と関わらないで。」
「違う。ちゃんと話すから。お願い、僕の話しを聞いて。」
「いらない。何も聞きたくない。本当、もう俺に関わるな。光なんて大嫌いだ。」
祐輔のその言葉が胸に刺さって、光は一瞬手を離しそうになって、でも、ぐっと彼の手を掴んだ自分の手に力を入れた。
「そう拒絶するのは。僕に拒絶されるのが怖いから?」
そう言葉にして、それを聞いた祐輔の身体が強張るのを感じて、光は何かがすとんと腑に落ちた。
「僕も同じだよ。君に拒絶されるのが怖かった。怖かったんだ。それで、ずっと・・・。」
そう言って、光は少しの間目を閉じて、そして自分の中で決心を付けた。
「僕はバイセクシャルだ。女性だけでなく男性にも恋愛感情を抱ける性質。僕の初恋の相手は男性だった。それで僕は思い悩んで、周囲の目が怖くなって、近しい人と離れ、周囲を拒絶し、そのことを誰にも気付かれないようにひた隠して過ごしてた。高校時代、女の子に恋をして、自分がバイセクシャルだって知った。女性を普通に好きになることができて凄くホッとして、彼女といれば自分は普通でいられるって、そう思った。でも、結局、自分の性質からは逃げられないから、何かのきっかけでそれがバレたらどうしようって。それを知られたらって考えたら、怖くて怖くてしかたがなかった。あることがきっかけで、その恐怖が増幅して、疑心暗鬼に駆られて追い詰められて。そんな僕を心配して寄り添ってくれた彼女に僕は何も打ち明けることができなかった。彼女を信じて打ち明けることより、彼女に知られて彼女が僕を見る目が変わるんじゃないかってことの方がずっと怖かった。それが彼女を傷つけて、追い詰めて、そして僕は別れを告げられた。祐輔、君に対しても同じだよ。僕のこの性質を知られて、君が僕を見る目が変わるんじゃないかって怖かった。拒絶され、軽蔑され、人格全てを否定されるんじゃないかって。僕自身だけでなく、僕が君と過ごしてきた時間全てを否定されるんじゃないかって。怖かった。それが耐えられなかった。君と過ごす時間は本当に僕にとって居心地が良いものだったから、それを失いたくなくて。だから君には気付かれたくなかった。知られたくなかった。でも、君に惹かれている自分がいて、友達でいるのも辛くなって。君の言動に振り回されていたのは僕の方だよ。僕がこんな性質を持っていて、そして君と友達以上になりたいだなんて思ってしまったから。だから、君の冗談が流せなくて、辛くなって、必要以上に拒絶した。怖かったから。」
「光。俺のことからかってるの?」
「からかってない。」
「そんなこと言って。俺が。もし君のその言葉に万が一応えたりなんかしたら。そしたら。冗談だって、何本気にしてるのって。俺のこと嘲笑う気でいるんじゃないの。うわっ。やめてくれ、そういうの。本当に。」
そう言う祐輔の手が震えていて、光は胸が詰まった。やっぱり同じだった。僕と。祐輔はずっと僕と同じように辛かったんだ。僕と友達でいることが辛くて、でも離れたくなくて。だからって知られることが、拒絶されることが、離れるよりももっとずっと怖くって。でも、もっと近づきたいって溢れ出しそうになるこの気持ちを冗談にしてごまかして。必要以上におどけて見せて。そんな自分が滑稽で、変に思われてるんじゃないか、バレるんじゃないかなんて怖がりながら、心のどこかでそれを受け入れてもらえることを期待して。そんなことを考えて、光は自分の中に渦巻いていた何かがか一つに纏まるのを感じ、そして自分がどういう生き方をするのか覚悟が決まった。
「祐輔。僕は君が好きだ。僕は君と友達以上の関係になりたい。」
そう言って、光は祐輔の手を離した。もう掴んでいる必要は無い。繋ぎ止める必要はもう。
「キモい。男が男に好きとか、友達以上の関係になりたいとか。ありえないでしょ。本当、気持ち悪いんだけど。」
「うん。だから、好きにして。男に告白されてキモかったって、ありえないって。僕のこと嘲笑して言いふらしても構わない。僕はもう、自分の性質から逃げないって決めたから。僕は、君に気持ちを伝えられて良かった。自己満足だとは思うけど。でも告白なんて、男同士じゃなくたってそんなものでしょ。なんで同性だからって理由で異性同士より気を遣わなきゃいけないの。そういうの、バカみたいじゃない?でも、それがそんな風に受け入れられないことだってこともよく解ってる。気分悪くするようなこと言ってごめんね。だから、もう二度と会わないよ。さようなら。」
祐輔の覚悟ができないなら。祐輔が僕のことを信じることができないなら。僕のこの気持ちが本心で彼の本当がどこにあったとしても、結局は彼を追い詰めることにしかならない。結局お互いのことを信じられなければ先になんて進めない。信じられなければずっと疑心暗鬼に駆られ、怯え続けるだけだ。好きにならなければ良かった。友達のままでいられたらよかったなんて。そんな風になるくらいなら、先になんて進まない方が良い。だから僕にできるのは、彼に勇気を見せて、そして彼の前から消えること。今は勇気が持てなくても、僕とはこれ以上にならなかったとしても、僕が見せたこの勇気が、少しでも彼のこれからの励みになれると良いと思う。そんなことを考えて、光は黙り込む祐輔を一人その場に残し帰路についた。
○ ○
スマートフォンのアドレス帳を開いて、光はスライドさせながら目的の名前を探した。まだ連絡先を残していたなんて、未練がましいなんて思われるのかな。そんなことを考えて苦笑する。僕が連絡したら、彼女はどう思うだろう。驚くかな。怯えるかな。普通に久しぶり、元気にしてた?なんて話ができたら良いんだけど、あんな別れ方しといてそんな訳にはいかないよね。そんなことを考えながら、光は緊張し変に鼓動が早くなっているのを感じ、深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、目的の名前の番号を選択し、電話を掛けた。
コール音が鳴っている間、怖じけ付いて、彼女が出る前に切ってしまおうとする自分がいて、いやいや元彼からの目的の解らない着信履歴が残ってるって怖くないとか、実は番号変わってて全然知らない人が出たりしてなんて考えて気を紛らわし、光はコール音が切れるのを待った。
『もしもし。』
スマートフォン越しに、戸惑ったような聞き覚えのある声が聞こえて、光はとりあえず本人みたいで良かったと思った。
「香坂ですが。久しぶり。急に電話してごめんね。今、大丈夫?」
『大丈夫だけど。何か用?』
「うん。君に、僕はもう大丈夫だよって伝えたくて。あの頃はだいぶ心配掛けちゃったから。」
『そう。それは良かった。用事が済んだなら、もう切るけど。』
自分にどう接して良いか解らなくて戸惑い続けている感じの声でそう告げられて、本当に切られそうな気配を感じて、光は慌てて、ちょっと待って、まだ、まだ用事終わってないからと彼女を引き留めた。
「君に、僕の引退公演を観に来て欲しいんだ。会いたいとか、もう一度やり直したいとかそういうんじゃないから、顔を合わせる必要はない。ただ、今の僕の全力の、最高の芝居を君に見てもらって、本当に僕がもう大丈夫だって、ちゃんと立ち直ったって事を知って欲しいと思って。言葉でいくら説明するより、きっとそれが一番伝わると思ったんだ。チケット、受付の子にでも頼んで渡してもらえるようにしておくから。だから・・・。」
そう伝えて、暫く沈黙が続いて、そして。
『考えておく。』
彼女のその言葉を聞いて、光はホッとして気が抜けた。メールアドレスが変わってないか確認し、詳細は後日メールすると伝え通話を切る。来てくれるかは解らない、でも伝えたいことは全部伝えた。後はただ、全力で引退公演をやりきるだけだ。そう思う。
通話を切ったばかりのスマートフォンが着信を告げるアラームをけたたましく鳴らして、光は焦って、誰からの電話か確認もせずにそれをとった。
『あ、光。良かった、出てくれて。』
スマートフォン越しにそう祐輔の声が聞こえて、光は少しパニクった。
『急に電話して、ごめん。その。今、大丈夫?』
「え?あ。うん。大丈夫。大丈夫だけど、どうかした?」
さっきとは逆で、今度は自分の方が戸惑ってどうしたらいいのか解らなくなっていて、光はなんだか変な気分になった。
『いや。えっと。最後にあった日の事なんだけど。あの時はごめん。俺、光に酷いこと言っちゃって。本当、ごめん。ありえないとか、気持ち悪いとか、あれ、嘘だから。俺そんなこと全く思ってないから。なのに、ごめん。そのことちゃんと謝りたくて。』
「いいよ別に、気にしてないから。そんなこと解ってるし。」
『あのさ、光。俺の話し聞いてくれる?』
「うん。もちろん聞くよ。」
『もう完全にバレてるとは思うんだけど。俺、そっちの人で。光と違って完全に、男にしか興味がない方の。言い訳にしかならないんだけど。それで、昔色々あって。正直今でもまだ怖い。色んな事が。光にああ言ってもらえて嬉しかった。俺だって本当は、そうなれたらって思ってて、ダメだって思いながらも、ムリだって思いながらもそれでも期待して、ずっと光に接してきたくせに。でも、怖かったんだ凄く。自分みたいなのがあんな風に普通に恋愛するとかって。嬉しいよりずっと、怖い方が勝っちゃったんだ。それで。光に酷いこと言ってた。受け入れるより先に否定して、拒絶して。そんな自分が止められなかった。』
「解るよ。僕も同じだから。僕もそれで、大切な人達を今までずいぶんと傷つけてきてしまったから。」
『色々な人の助けを借りて、これでもだいぶマシになったんだ。でも、俺は、まだ全然自分の恐怖に勝てなかった。きっと、これからも、どんな形であろうと光の近くにいたら、光のこと傷つけるんだと思う。光と過ごせて楽しかった。本当に、君といた時間は俺にとっても凄く居心地が良くて。ずっと、できればもっと近くで君と一緒に過ごせたらって思ってた。でも、俺にはまだその覚悟がないから。勢いで乗り越えられるほど、俺には度胸も勇気もないってよく解っちゃったから。ありがとう。光。それで・・・』
そう語った祐輔が続けようとした言葉を、光はあのさと言って遮った。
「僕の引退公演。祐輔、観に来てくれるよね?」
『え?あ。俺。行って良いの?』
「もちろん。祐輔にも、僕の舞台を見て欲しい。」
『うん。ありがとう。是非、行かせてもらうよ。それで・・・。』
「祐輔。一緒にいれば傷つけることなんて当たり前だよ。僕達みたいな人じゃなくても。僕だって君のこときっと傷つけると思う。でも、傷つけて、傷つけられることを恐れて避けてばかりいたら、その先には絶対にいけない。電話、ありがとう。こうして話すことも、凄く怖かったでしょ?解るよ。僕だって。解るから。でも、祐輔は勇気を出してくれた。こうしてまた僕に君と向き合うチャンスをくれたんだ。だから、また一から、友達から始められないかな?僕だって怖い。告白しといてなんだけど、男の人となんて付き合ったことないし。正直、解らないことだらけだし。だから友達から。ちょっとづつ。ね。ダメかな?」
そう言って、光は少し気持ちを落ち着けるために深呼吸をした。そう怖い。お互いに。でも、この怖さを乗り越えるのは、一人じゃ絶対できないから。お互いの恐怖の裏側に、受け入れられた経験の少なさがあるのなら。積み重ねていくしかない。これから、その経験を。
「祐輔。僕とまた、友達からはじめてくれませんか?」
そう改めて言葉にする。祐輔が息を呑むのがスマートフォン越しに伝わってくる。今、電話の向こうで彼がどんな顔をしているのか解る気がする。
『あのさ、光。俺。なんていうか・・・。』
「焦らなくて良いよ。ゆっくり考えてくれれば。ムリにとは言わないから。」
『ありがとう。光。あのさ。』
「何?」
『今度、俺がお世話になってるLGBTの支援団体の支部に一緒に行ってくれない?』
「もちろん。」
『もし、光にもそういう場所があるなら、そこも。』
「僕はそういうのは全く。僕はずっと一人で悩んできた人間だから。そういう団体があるのは知ってたんだけどね。そういうところに出向くってことが、自分がそういう人間だって認めるっていうか、自分がそういう人間だって他人に知られるってことだし、怖くてさ。僕はほら、女の子にも恋愛感情抱けるから。女の子だけ好きになってれば問題ないって。普通でいられるって。そんな風に考えて、ずっと本当の自分を否定してきてたから。こういう自分をちゃんと受け入れられたのは、本当に、君に告白したあの時なんだ。」
そんな話をして、そしてぎこちなく、お互い今までどういうことがあって、自分がどんな思いをしてきたのか、そう言う話しを語り合って。光は大丈夫だと思った。大丈夫、これから。これからちゃんと前に進める。僕達みたいな人間は普通に恋愛することは難しい。普通に知り合って、普通に交流を重ね、普通に惹かれ恋をする。そんな当たり前のことが、ただ相手が同性であるというだけで許されなくなる。例えお互いがそれを受け入れていても、周りがそれを許さないと解っているから、怯えて、小さくなって。でも、そういう感情を持つと言うことは普通のことなんだから。自分がそう言う人間であることに罪悪感を覚える必要なんて無い。開き直れば攻撃されるのも解ってる。堂々とそれを晒すことが危険だってことは。でも、別に、誰かにそれを強制してる訳じゃないんだから。誰もにそれを受け入れろと強要している訳じゃないんだから。僕らが僕らであることを世間はもう少し受け入れてくれても良いと思う。でも、それは本当に難しいことだから。だから、まずは自分達から。自分達が自分自身の事を受け入れて、自分がこうであることを認めてあげるところから始めないと。まずはそれから。そこから頑張っていこう。スマートフォン越しに聞こえる祐輔の声を聞きながら、光はそう思った。
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引退公演当日、光は演劇部の同期の仲間達と舞台袖に立ち、本番前の緊張感と高揚感に包まれていた。
「なんだ。珍しく緊張してるのか?」
そう健人に訊かれ、光はそりゃねと答えた。彼女は観に来てくれているだろうか。祐輔も。ずっと向き合えずにいた。ずっと、自分というものが受け入れられなくて、自分というものを見せるのが怖くて、ずっとできなくなっていた。自分の芝居。ようやく僕は、またもう一度、健人と同じ舞台に立てる。ちゃんと肩を並べて彼と舞台に立てる。幼い頃に、一緒に役者になって拍手喝采を浴びる側になろうと。同じ舞台に立って、同じ景色を見ようと交わした約束を。プロではないけれど、プロになるつもりはなくなってしまったけれど。それでも、それにより近い形で果たすことができる。僕の最後の舞台がこれから幕を開ける。
「香坂のせいで俺達の引退公演、コメディ色が強くなったんだから。緊張して、笑い逃すんじゃねーぞ。」
「本当、本当。香坂の事だから、どんな形であれ王道のジュリエットで仕上げてくると思ってたのに、まさかの世間知らずの脳天気箱入りお嬢様系お花畑ちゃんだからな。それに振り回されるロミオ。おかげで、王道外れてコメディ強めになって。しかも、軸はシリアスのままで、アップダウンの激しい全員が全員かなりの表現力を求められる、難易度最高の舞台になって。俺たちの集大成としては申し分ないが、出遅れさせといてコレだからな。コケたら許さねーぞ。」
「いやー。僕は別にそんなにコメディ路線強めで行くこと考えてなかったんだけど。僕の演技見て、皆がノってってこうなっただけでさ。僕はただ、この話しってジュリエットとロミオの連絡が上手く付かなかったから駆け落ちが失敗して、二人が亡くなって。その結果、たまたま両家の和解に繋がっただけで。駆け落ちしようとしてた二人は両家の和解とかなんて全く考えてなかったんじゃないかなって。特に駆け落ち計画を立てたジュリエットは、案外二人の未来に夢見てたんじゃないかなって。それだけなんだけどな。」
「それにしても、役が嵌まってからの香坂の追い上げ凄かったな。」
「役が入るまでは時間かかったけど、嵌まったらあとはもうな。正直、香坂が三島と張り合えるような奴だなんて、四年間も一緒にやって来たのに初めて知ったよ。」
「いや。入部当初は結構目を見張る物があったけどな。一年の時、あの女にぼろくそ言われてから、完全沈没してたからな。スランプ抜けるの遅すぎだろ。」
「でも、俺達の最後の大舞台にちゃんと間に合ってくれて良かった。これで、心残りなく俺達は俺達の四年間を全て集約し出し切る最高の舞台ができる。役者も裏方も一丸となって、俺達の最高の舞台を。」
そう言って健人が、ほら、そろそろ幕が上がるぞ、皆配置に付けと号令を掛けた。
持ち場に着き、幕が上がるのを待つ。適度に緊張し胸が高鳴って、そしてこの先に待つものにワクワクしている自分を感じて、光は顔を上げた。視線の先に健人がいて。そして彼と目配せでお互いの想いをかわし合って。そして、自分達の最後の舞台の幕が上がった。
「終わったな。俺達の学生演劇最後の舞台。」
「そうだね。終わっちゃったね。」
「ところで、光。お前のあのジュリエット。ベース花月だろ?」
「あ、やっぱ解った?なんかね、色々吹っ切れて、演技に打ち込む覚悟ができたときさ。普段は役がすっと入ってくるんだけど、今回は珍しく役じゃなくて花月ちゃんが下りてきたんだよね。しかも、花月ちゃんならこんな風に演じるだろうな、じゃなくて、ジュリエットがもし花月ちゃんだったならこうだろうなって感じで。姿が目に浮かぶようで、なんか凄く微笑ましいというか、楽しかったよ。それまで演じることに尻込みしてたのが嘘みたいにさ。全く迷うことなくできてた。なんか、あの子に乗り移られてる気分だったよ。」
「それは心底楽しかったんだろうな。」
「うん。楽しかった。全部がキラキラして見えて、全部が楽しくて。あの子が見てる世界はきっとこんな感じなんだろうなって思った。おかげで自分の最後の舞台を、僕は全力で楽しめたよ。」
「そうか。なぁ、光。花月に乗り移られてる気分だったって言ってが、舞台でのお前、ちゃんとお前らしい芝居してたよ。自然体で伸びやかで。本当にお前らしいお前自身の最高の芝居ができてたと思う。でも、舞台立ってた時、ちょこちょこお前の姿が花月の姿に見えてきてな。お前と芝居してんだかあいつと芝居してんだか。なんかあいつも一緒に舞台に立ってたみたいな変な感じだったな。でも、俺も楽しかった。本当に。」
引退公演を終えて、皆で抱き合って成功を喜び合って、舞台の撤収が終わり、少し高揚感がおさまってきた頃。健人と光は部室がある棟の裏側にあるベンチに並んで座っていた。こう話していても、ほんの少し前までのことがまるで夢の中の出来事のようで不思議な感じがする。
「光。スマホ鳴ってるぞ。」
そう言われて、光は自分のスマートフォンを確認し、届いたメールの中を確認して、口元がほころんだ。
「良い知らせでもはいってたか?」
「まぁね。ほら、僕が前付き合ってた彼女、覚えてる?会ったことはないと思うけど。」
「あぁ、お前が高校時代から付き合ってた。色々あって別れたあの子な。」
「引退公演観に来てって誘ってたんだ。それで、感想くれて。」
「そうか。良かったな。寄り戻すのか?」
「まさか。っていうか。そもそももう別の相手いるってさ。彼女の大学の同じ演劇部の人。その彼も含めた演劇部の仲間達何人かと小さな劇団立ち上げて、卒業後は活動してくんだって。多分、僕がもう大丈夫だって知らせたくて引退公演に誘ったから、そのお返しに近況報告入れてくれたんだと思うけど。わざわざ彼氏の存在伝えてくるって、やっぱ、久しぶりに急に連絡入れて誘ったから、そういう気があるんじゃないかって思われて警戒されたのかな。なんにせよ、もうこれからは連絡とることはないと思うよ。お互いもう過去の人だからね。」
「そうか。お前は、卒業後はどうするつもりだ?」
「知ってるでしょ。僕は教員志望だよ。」
「もう演劇する気は全くないのか?良かったら、俺と一緒に劇団受けないか?俺は、まだお前と一緒に演劇をしていきたい。ようやくまた本気でぶつかり合えるようになったのに、これっきりっていうのは、ちょっと寂くてな。」
「誘ってくれてありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、僕はもうこれでお腹いっぱいかな。この公演で全てを出し切って、満足しちゃった。だから、僕は演じる方はここでお終いにして、これからは観る方だけ楽しむことにする。本業にするほどの熱意は、やっぱ僕にはないから。でも、そうだね。職業にしなくても、たまに立ち稽古付き合ったりエチュード練付き合うくらいならいいかな。」
「そうか。じゃあ、卒業しても付き合ってもらうかな。これからも。」
「うん。」
そんな話をしていると、またスマートフォンからメールの着信を知らせる音がして、光はそれを開いた。
「ずいぶん嬉しそうな顔してるが、今度は誰からだ?」
「うーん。友達以上恋人未満ってとこの、現在進行形で関係構築中の相手かな。」
「なんか、ややこしいな。そういうのはハッキリさせろよ。」
「ハッキリさせるのが難しいこともあるんだよ。健人には解らないだろうけど。」
「お前な・・・。」
「そのうち紹介するよ。どれだけ先になるか解らないけど。そのうち。きっと。」
そう言って、光は立ち上がった。
「そろそろ部室に戻って、打ち上げ会場に移動する準備した方が良いんじゃない?」
「そうだな。じゃあ、そろそろ行くか。」
自分達の学生最後の舞台が終わった。そして、これからはそれぞれがそれぞれの道を歩いて行く。でもきっと、こうして皆で一丸となって舞台を作り上げれたことは、全力でやりきることができた経験は、ずっと自分の中に残って、これからも自分を支えてくれる。そう思って、光はこれからの自分から目を逸らさないように、前を見て歩き出した。