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サクラハイム物語2  作者: さき太
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顔を上げて、ちょっと前へ

 「管理人さん。そろそろ起きてきて下さい。朝食、できたっすよ。」

 管理人室の扉をノックしてそう声を掛け、暫くしても中から何も返事が返ってこないことを確認して、もう一度声を掛け、それでも何も反応がないので、片岡(かたおか)湊人(みなと)は食堂に戻った。皆が出掛けても起きてこなかったら電話するかなんて考えながら、住人達に朝食を促す。

 「管理人さん、今日も寝坊?自分でちゃんと起きて来れないとか、本当だらしなさ過ぎ。湊人、あとで電話して起こしてやろうとか思ってないよね?もしそうなら甘やかしすぎだから。少しほっときなよ。あの人も少し自己管理すること覚えた方が良いから。」

 呆れたようにそんなことを言ってくる柏木(かしわぎ)(はるか)に、湊人は、管理人さんも疲れてるっすよと返して、自分も朝食を食べ始めた。住人達の会話に混じりながら、空席のままの管理人である西口(にしぐち)和実(かずみ)の席を眺めて、元から朝弱いっすけどそうそう寝坊はなかったのに、最近寝坊続きだけど大丈夫っすかね、なんて湊人は思った。朝食が終わり、各々食器を片付けて、高校生組が出掛けていくのを眺め、湊人はとりあえず管理人さんのぶんラップかけとくっすかねと思って立ち上がった。

 「片岡はまだ出ないのか?」

 そう真田(さなだ)一臣(かずおみ)に声を掛けられて、湊人は俺は今日は三限からだからまだ平気っすよと返した。

 「前にちゃんと計算してるとは言ってたが、本当にそのペースで大丈夫なのか?」

 「本当に大丈夫っすよ。人に比べたら取得しなきゃいけない単位数の残り多いかもしれないっすけど、ちゃんと必須は逃さずとってきたし。去年の後期はフルでとってるから、そこまで危なくもないっすよ。去年の秋冬は食事当番、朝食は花月(かづき)、夕食が俺が基本だったっしょ。」

 「そう言われてみると、そうだったな。」

 「まぁ、四回生になっても講義受けないといけないのは確実っすけどね。そう言う真田は、なんかもう出掛ける支度してるみたいっすけど、今日はバイトっすか?」

 「まぁ、そんなところか?北村(きたむら)さんの所にな。今、アンティークカメラの修理のしかたを教えてもらってるんだ。あと、ゼンマイ時計とか。ほら、俺、元々小物作りとか手芸とかも趣味にしてるから、凄く楽しいんだが。楽しんで打ち込んでたら、最近、横に付いてるからやってみろって本当に依頼された品の修理を任されるようになってきてな。絶讃、卒業したらそのまま写真館で働けって勧誘されてるところだ。」

 「そりゃ就活しないで済んで良いっすね。お前の写真の腕も趣味も生かせるし、そのままその話しにのればいいじゃないっすか。」

 「それもそうなんだが、検討中だ。四月に代役頼まれて手伝いに行ってから、北村さん、写真館を俺に継がせるって張り切りだして、正直、ちょっと戸惑ってるんだ。北村さんも、元々は引退して写真館は閉めるつもりだったらしいし、俺自身カメラ初めたのも大学入ってからで大した経験も知識もないしな。こんな素人に任せて本当に良いのかとか。本人が続ける気がないなら、閉めた方が良いんじゃないかとか思うんだが、ああ熱心に勧誘されるとな。俺が独り立ちできるようになるまで引退控えて一から十まで叩き込んでくれるとは言ってくれてるんだが。正直、やっていける自信がまだない。だから、学生のうちに勉強させてもらって、それから返事をしようと思ってる。」

 「なるほど。そのまま本当に北村写真館をお前が継ぐってなったら、暖人(はると)結奈(ゆいな)の成人式とかお前に写真撮ってもらう事になるかもしれないんすね。それはそれで変な感じがするっす。」

 「そうなると、片岡とは今後も家族ぐるみの長い付き合いになるな。俺に代がかわったからって、写真撮りに来るのやめるとか言うなよ。お前の結婚式も、子供ができたらお宮参りとか七五三とかも、きっちり撮ってやるからな。なんなら、今からお見合い写真でも撮ってやろうか?」

 「お前な・・・。ってか、もうそれ答え出てるじゃないっすか。」

 「まぁ、写真館の仕事は好きだしな。契約してる学校の行事を撮りに行くのも楽しそうだ。自信がないから躊躇うだけで、自信を付けるために北村さんの所に通って勉強してるんだしな。じゃあ、検討中の前に前向きにって付けとくか。」

 そんなことを笑いながら言い合って、じゃあ行ってくると出掛けていく一臣を見送って、湊人は、前向きに就こうって思える職業が決まってて良いっすねと思った。自分は、どんな職業でもそれなりに頑張れる自信はある。普通にやっていける自信も。でも、コレになりたいとか、こういうことがしてみたいとかそういうモノは何もない。そして、こういう自分みたいな奴は就職を決めるのは難しいってことも知っている。入ってしまえば長く続ける自信はあるけれど、入るまでが難しい。四回生になっても単位残ってるし、就活にだけ集中できないって解りきってるのに、こんなんで俺大丈夫なんすかね。そんなことを考えて、湊人は今度、音尾(おとお)さんに愚痴がてら相談してみようと、バイト先のオーナーの顔を思い浮かべた。

 残っていた住人達もそれぞれ講義だのバイトだの部活だので出掛けていって、湊人は管理人さん遅いなと思った。流石にこんな時間まで起きてこないのは珍しい。そんなことを考えて、電話する前にもう一度声かけてみるかと管理人室へ向かう。そして、ノックしようとしたところで扉が開いて、そのまま前を見ないで出てきた和実がぶつかってきて、湊人は思わずうわっと声を上げていた。

 「あ、片岡君。ごめん。全然前見てなかった。」

 「あ、いや。大丈夫っすけど。管理人さん、大丈夫っすか?隈酷いっすよ。あんま寝れてないとか。」

 そう心配になって声を掛けると、和実がえ?そんな隈酷い?と慌てたように言って、ちょっと夜更かししただけでそんなとか年かな、と大げさに額に手を当てて笑いながら言ってきて、湊人は何言ってるっすかと笑い返した。

 「とりあえず、朝ご飯にしないっすか?もう冷めてるだろうし、温め直すっすよ。」

 「いや、いいよ。自分でやるから。と言うかごめんね。朝食、間に合わなくて。昨日は夜更かししたので、目覚ましを故意に遅らせてました。」

 「なら、最初から言っといてくれれば良いのに。」

 「いやー。起きたときに朝ご飯あるの凄く助かるから一緒に作っておいてもらえると有難くて。言っとくと、片岡君別で用意しそうだし。そんな手間掛けさせるのはさ。いや、自分で作ればいいだけの話しなんだけど。自分の手抜き朝食より、やっぱり片岡君の美味しくて健康的な朝食が食べたいし。」

 そんな会話をしながら二人で食堂に行き、すっかり冷めてしまった朝食を温めにキッチンに向かいながら、和実が時計を見て、もうこんな時間かと呟いた。

 「片岡君はまだ出なくて大丈夫なの?」

 「今日は三限からっすから。」

 「そっか。晴大はこっから近いし、じゃあまだ結構余裕あるんだね。ここに来たばっかの頃は、片岡君こうやって空いてる時間があったらバイト入れてたし。なんか片岡君がこうしてのんびりここにいるって不思議な感じがするな。なんか飲む?」

 「じゃあ、コーヒーでも淹れましょうか?」

 「いやいや、そこはわたしが淹れますよ。座ってて下さいな。お砂糖とミルクはどういたしましょう、お客さん。」

 「では、ブラックでお願いします、店員さん。って、なにごっこっすか、これ。」

 そんな会話をして声を立てて笑い合う。

 食事を温め終わって、二人分のコーヒーを一緒のお盆にのせて和実が戻ってきて、湊人の前に一つカップを置いて、彼の前の席に着いく。そんな和実の様子を見て、こんな風に管理人さんと過ごせるとか、自分の予定が空いてるときに管理人さんが大幅に寝坊してきてくれてラッキーっすねなんて湊人は思って、頬が緩んだ。もう少し管理人さんが早く起きてきてたら、まだ他の住人が残ってて、こんな風に二人きりで過ごすとか難しいっすもんね、なんて考えるとニヤニヤしてくる。遙はあんなこと言っていつも眉根寄せてるけど、俺的には管理人さんはこのままでいいっす。気張ってムリしてちゃんとされるより、普通にこうやっていてくれた方が安心するというか。この緩い感じが落ち着くっす。そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいると和実が、片岡君さっきから人見てニヤついて、もしかして寝癖つきっぱなしになってる?部屋出る前にちゃんと直したつもりだったんだけど、なんて焦ったように頭を押えて、湊人は思わず吹き出した。

 「ちょっと、片岡君。そんなに笑わないでよ。今日起きたら本当酷い状態で、これでも必死に直したんだからね。もう。ショートやめて髪伸ばそうかな。寝癖ついてても縛っちゃえばバレなさそうだし。でも、ショート楽なんだよね。ロングにすると普段の手入れが大変だし。やっぱ、ショートのままで良いかな。」

 「管理人さんらしいっすね。でも、そんなこと言ってたら、遙にまた何言われるかわかんないっすよ。」

 「ね。だから遙君の前じゃ口が裂けても絶対言えない。遙君は厳しすぎるんだよ。片岡君や真田君とは違った意味で、女子より女子力高過ぎだから。美意識高いお姉さん達の英才教育の賜なんだろうけど。花月ちゃんがまた、言われたことしっかりきっちり守ってやってるから、遙君にとって女子はちゃんと色々ケアして、身だしなみきちんとしてて当たり前なんだろうけどさ。わたしにはあそこまで細かく色々するとかムリ。世の女子皆が皆、普段からそこまできっちりケアしてるわけじゃないって。」

 「そうっすよね。うちの母親も遅く帰ってきたときは風呂にも入らないでそのまま寝ちゃったりとか。仕事が休みの日は完全スッピンでぼさぼさ頭のまま、下手すると部屋着から着替えもしなかったりして。父親にもう少しちゃんとしたらとか言われて、休日くらい楽させてよ、外行くときはちゃんとしてるんだから良いでしょなんて言ってったっす。管理人さんはまだちゃんとしてる方っすよ。」

 「そりゃ、流石にそこまでだらしない格好で皆の前には出れないよ。一応わたし、仕事でここにいるわけだし。それに、寝癖頭のままとか、寝間着のままとか、流石に恥ずかしい。」

 「俺的にはそんくらい気を抜かれても良いっすけどね。逆に、オフの時でさえきっちりしすぎてるような人は苦手っす。自分も気抜けないって言うか。本当、管理人さんが管理人さんで良かったっすよ。」

 「うー。なんか堕落への誘惑が聞こえる。片岡君の誘惑に負けてだらけてしまうと、自分がどんどんダメ人間に・・・。そんなこと言ってるから、遙君に甘やかし過ぎって怒られるんだよ。本当、あんまり甘やかしちゃダメだよ。持ちつ持たれつ。ギブアンドテイク。人の世話ばっか焼いてちゃいけません。と、言うわけで、片岡君には人を甘やかすの禁止令を発令します。」

 「なんすかそれ。別に俺、甘やかしてるつもりないっすけど。それに管理人さんはそうやって自制するじゃないっすか。甘えてこない人をどうやって甘やかすっすか。」

 「いやいや、充分甘やかされてるよ?甘えさせてもらってるよ。もらいすぎてるから逆に返さなきゃいけないくらいだよ。よっし。じゃあ、わたしを甘やかしてきたぶん、甘えてこい。お姉さんが片岡君のために一肌脱いでしんぜよう。」

 ふざけた調子でそんなことを言って、ほらほら何でも言ってこいと待ち構えている和実を見て、湊人はまた小さく吹き出した。

 「まったく。そんなこと言って、俺が変な要求したらどうするっすか。」

 「片岡君、変な要求するの?しないでしょ。」

 「分かんないっすよ。真田なんて、そういうこと言うとそれに便乗してさらっとデートとか誘うっすからね。」

 「いやー。それは真田君だし、相手が好きな子だからでしょ。片岡君がわたしのことデートに誘うとしたら、買い出しとか?どっかのスーパーで安売りしてて、お一人様何個までだから付き合って下さいとか。ちょっとまとめ買いしたいから車出して下さいとか、そんな感じ?」

 「ったく。そうやって、いつも軽口ばっか言ってふざけてくるっすから。本当、管理人さん、俺のこと弟かなんかだとでも思ってるんじゃないっすか?」

 「片岡君みたいな弟か。良いね、片岡君みたいな弟。片岡君みたいな弟、本当に欲しいな。なんて言うか、頼りにもなるんだけど、甘やかしたくなるよね。頭とか撫でてかわいがりたい。撫でていい?」

 そう言ってニヤニヤ笑いながら和実が頭を撫でようと手を伸ばしてきて、湊人は本当やめて下さいと渋い顔をした。

 「ごめん、ごめん。冗談だよ、冗談。そんなに怒らないでよ。」

 「別に、怒ってないっす。でも、本当、そういう冗談やめて下さい。」

 そう言って湊人はそっぽを向いて心を落ち着けた。まったく、本当、管理人さんは、人の気も知らないで・・・。心の中でそんな悪態を吐きながら、早鐘を打つ自分の心臓が早く落ち着かないかなんて思う。

 「ごめん。ごめん。片岡君相手だとつい、ね。ほら、コーヒーのおかわりでも持ってこようか?それとも何か違うのがいい?」

 そんな風に全然悪いとも思っていないような軽い調子で謝りながら、食べ終わった食器をと空になったお互いのカップを持ってキッチンに向かう和実の後ろ姿に、湊人は、じゃあコーヒーのおかわりお願いするっすと声を掛けた。

 「昨日は夜更かししてたって、何かやってたっすか?」

 そう洗い物をしている和実に声を掛けると、うーん、まぁ色々ねと返ってきて、湊人は仕事っすか?と追求した。

 「どうだろう?そうなるのかな。でもそんな大したことないよ。ちょっと考え事してたら、気がついたら遅い時間になってただけだから。」

 「そうやってまた一人で溜め込もうとして。管理人さんも大概、一人で頑張り過ぎっす。」

 「そんなことないよ。」

 「じゃあ、その大したことない仕事の内容を、何はぐらかそうとしてるっすか。本当に大したことないなら何してたか言うっすよ。そして、本当は大したことあることなら、素直に白状するっす。」

 そう追撃すると、あーとかいやーとか和実が唸って、ばつが悪そうに笑いながら片岡君には敵わないなと、お代わりのコーヒーを持って戻ってきた。そして、カップを置いて、また二人向かい合って席に着く。

 「他の皆にはまだ内緒にしておいて欲しいんだけど。結構、この建物の老朽化が酷くてさ。」

 そう困ったような顔で言う和実の言葉を聞いて、湊人は疑問符を浮かべた。

 「あれ?この間、水漏れがあって水道管の修繕工事と、ついででけっこう大がかりに他のとこまで修繕工事してませんでしたっけ。」

 「そうなんだけど。実は、あれだけ大がかりな修繕工事したのはさ。魔窟と化してる倉庫の片付けしてたら結構、床とか壁とか痛んでるところが見つかってで。あと、綺麗に見えるけど、普段使ってるところも結構床がきしんだりとかかしてきてるじゃない。それで、ついでと言ったら何だけど、水道管の修理来てもらったときに、建物の点検も入ってもらったら、かなりヤバいところが出るわ出るわで。ほっといたらいつ何があってもおかしくない状態だったから、これからもここで生活していくために、できる限り直してもらった訳なんだけど。ほら、花月ちゃんが普段から手入れしてくれてるし、雨漏りしてた所修繕したり、弱くなってるとこ補強してくれたりしてたから。そんな危機的状況だった割りには、点検してくれた人から、よく手入れされてて築年数の割に建物の状態が良いって、今回目立つところは直したし、これまで通り手入れしていけばあと数年は問題ないって言ってもらえたんだけど。なにぶん古い建物だし、老朽化が進んでるから、五・六年後くらいには立て替えしないとどうしようもなくなってくるって言われてさ。」

 そう言って、和実は大きな溜め息を吐いてコーヒーを口にした。

 「立て替えってなるとね。やっぱそれなりのお金も必要だし、その間皆には他の場所に移ってもらわなきゃいけないわけで。もし立て替えるとしたら、どうやってするかとか、何パターンかプラン立てて予算の見積もりも出してもらったりして。松岡(まつおか)さんにも相談して、色々。でも、やっぱここを存続させたいってわたしのわがままで、そんなに採算がとれる見込みのないサクラハイムに会社のお金を多額に投入して立て替えなんてできるわけもないわけでさ。ただの水道管工事なら家賃収入の積み立てでどうにかなったんだけど、今回、できる限り徹底的に修繕工事しちゃったからお金がかなりかかってさ。松岡さんも、どうせサクラハイムに渡された金なんだから、こういうときに使っちまえって言うし、今回の工事の費用に、花月(かづき)ちゃんの実家から渡された、迷惑料という名の口止め料を使っちゃったんだよね。だから、今うちの貯蓄はすっからかん。五年後立て替えするとして、それに向けて家賃収入から費用を積み立てていくとなると、だいぶ家賃を上げなきゃいけなくて。そうなると皆に負担がかかるし、特に風間(かざま)君や花月ちゃんにとって、家賃の上乗せってかなりキツいだろうしなって。まぁ、花月ちゃんは、今のところ本人がそれに頼る気がないだけで、実家からの手切れ金で貯蓄が、普通の生活してれば一生働かないで生活できるくらいあるから、最悪どうにかなるだろうけど。というか、こういう話ししちゃえば、使ってとか言って渡してきそうだから、絶対花月ちゃんには言えないんだけど。そもそも本人がそれを望んだとしても、花月ちゃんのお金を頼りにするなんて、そんなことはしちゃいけないと思うしね。皆のことだから、皆で決めて、皆で解決しないと。それで、皆に相談する前に、どうやったらこのままここの生活を続けられるか、どうしたら皆の負担を少しでも減らせるか、そういうことをできるだけ考えて、ちゃんと説明できるようにしておきたいと思ってさ。あと、立て替えに至るまでも、絶対ちょこちょこ手は入れなきゃいけないから、その予算をどうやって確保するかとかも考えたりとか。正直、ここって今でもそんなにお金掛けないで運営してるから、わたしには削れる場所が全く検討つかなくて。どうしたら良いだろうって、昨日はそんなことで頭を悩ましてたら、気が付いたら外が明るみ始めてて、慌てて寝た感じです。」

 「外が明るみ始める頃って。花月と三島さんが起きてきてランニング行くような時間っしょ。それは遅い時間に寝たじゃなくて、徹夜してたってことっすから。どうせ、そんなんじゃすぐ寝付けなかっただろうし。っていうか、もしかしてここのところ寝坊が続いてたのって、ずっとそれで頭悩ましてたせいっすか?」

 そう訊くと、和実が誤魔化すようにはははと笑って、湊人は溜め息を吐いた。

 「いやー。昨日はなんか経理の書類とか見ながらあれこれ考えてたら朝になっちゃっただけで、他はちゃんと寝てたよ。寝付きは悪かったけど。昨日、っていうか、今朝だって三時間は寝てるから。大丈夫。ちゃんと寝てる。」

 そうよく解らな言い訳をしてくる和実にデコピンをして、いてっと額を押える彼女に諭すように、湊人は今日はちゃんと休むっすよと言葉を掛けた。

 「俺、今日はまだ時間あるっすから。経理関係の書類と、こないだの工事とか、出してもらった見積もり案とかそういうのの資料持って来て下さい。俺も目通して、一緒に考えるっすから。」

 「いやー、それは。」

 「住人にそういう書類見せたの、松岡さんにバレなきゃ問題ないっしょ。一人で考えてたって埒あかないんすから。ほら、もう話しちゃったんすから、観念して俺も共犯にするっすよ。」

 そう言うと和実が悩むように唸り声を上げて、降参しましたと呟いて、今書類取ってくるよ、取ってくればいいんでしょとぶつぶつ言いながら管理人室へ向かって行って、湊人は小さく笑った。

 資料を持って戻ってきた和実が、テーブルにそれを置きながら、本当、結奈ちゃんの気持ちが解ると呟いて、湊人は疑問符を浮かべた。

 「本当、片岡君ってさ。変なとこ押しが強いというか、有無を言わせないとこがあるというか。頼らないようにしようって思ってても見透かされて、強制的に頼らさせられて。なんか、悔しい。」

 「じゃあ、去年の結奈みたいに、管理人さんも反抗期はじめるっすか?」

 「いや。わたしは反抗期ではないので素直に甘えさせて頂きます。ということで、よろしく。お兄ちゃん。」

 「了解。素直でよろしいっす。」

 そんなことを言い合って、笑い合って、湊人は書類に目を通した。今回直したところがここで、立て替えまでに修理を入れなきゃならなくなるとしたら、ここら辺か。となると、業者にもよるけど、だいたい工事にかかる費用はこんなんだから、ちょっと予算の交渉を管理人さんに頑張ってもらって、上手くいけばこれくらいには押えられるっすかね。普段の手入れは、規模に合わせて単純計算すれば必要な素材はこんなもんだから、前回買った時のレシートと照らし合せて、だいたい年間これくらいの費用になるっすかね。既に道具はあるし、後で在庫確認しないと解らないっすけど、素材も余ってるはずだから実際にはこんなにはかからないはずっす。となると、今の家賃収入から月平均の経費を引いて、余剰分の積み立てが年間でこれくらいになるから、それで賄うにはやっぱギリギリ。皆に節約呼びかけて、真田にお菓子作る頻度減らしてもらったり、俺も今以上に光熱費かからないように調理を工夫したりとかできなくもないけど、それをしたってたいしたプラスにはならないっすから、立て替えの予算を積み立てるにはどうにもならないっすし。普段の生活に余計な負担を強いる必要性は感じないっすね。立て替えのために、ここを居心地悪くさせて、しかも家賃まで値上げとかバカみたいっすもんね。書類を確認し、メモを片手に電卓を叩きながらそんなことを考えて、湊人はふと、感心した様な顔で自分をじーっと眺めている和実の存在に気が付いて、一瞬たじろいだ。

 「いやー。片岡君って頭良いんだね。」

 心底感心した様にそう言われて、湊人は、いや俺は別に頭良くないっすよと謙遜した。

 「いやいや。わたし、絶対そんなのできないもん。わたしなんて、数字の羅列見てるだけで頭こんがらがってきて訳わかんなくなってきてたのに。本当、この書類見ながら、必要な数字をピックアップしていくのだけで、だいぶ時間かかったし、その後ってなるともうね。片岡君、凄いよ。」

 「ムダに豊富な種類のバイト経験あるっすからね。こういう書類整理するのも、外注するとどんくらいかかるもんかの目算もそれなりにできるっすよ。あと理数系は得意な方っす。兄貴や結奈には全然敵わないっすけど。あの二人は母親似で頭良いから。自分の中じゃ得意科目って思ってても、アレと比べちゃうと自分なんてって思っちゃうっす。国語とか英語は全然っすし。平均して、俺は良くも悪くもない普通くらいの頭っすよ。」

 「いやいや、学力はともかく、即戦力の良い頭してるじゃないですか。本当、片岡君の方が管理人向いてるんじゃないかなとか思っちゃうよ。気配りもできて、いつも皆の中心にいて、こういうこともパッパと考えられるし。雑務なんかもきっと、わたしより処理するの早そう。片岡君と管理人交代して、わたしが住人になろうかな。」

 「何言ってるっすか。ここの管理人さんは管理人さん以外ありえないっすよ。管理人さんはいつも俺達のこと考えて、何かあったら間を取り持って、俺達が過ごしやすいように努力して。住人の得意分野を生かして任せてるだけで、ここがいつだって皆の居心地の良い家であるように、一生懸命考えて、工夫して、いつだって頑張ってくれてるじゃないっすか。それで、自分の苦労は住人に見せないようにして、いつも穏やかでいて。凄いと思うっす。そんな管理人さんがここにいてくれるから、俺達は安心してここで過ごせるっすよ。そんな管理人さんだから、俺は少しでも助けになりたいっす。俺は住人だし、仕事のことは言い辛いって言うか、松岡さんみたいには頼りにならないかもしれないっすけど。それでも、頼れることがあるなら頼って欲しいっすよ。俺に力になれることがあるなら、何だってするっす。できることがなくても、話し聞くぐらいならできるし。一人でムリしないで欲しいっす。」

 そう言って、湊人は少し気恥ずかしくなって、そうやって管理人さんが俺に言ったんでしょと付け加えた。

 「お互い様で、持ちつ持たれつ。ギブアンドテイク。皆で一緒にがモットーなら、管理人さんも外れたとこにいちゃダメっすよ。ちゃんと、俺達の内側にいて、俺達と一緒に。楽しいことや嬉しいことを共有するなら、ちゃんと苦しいことも辛いことも分け合うっす。大切な人とは良いことも悪いこともちゃんと分かち合わないとダメ、なんでしょ?俺は、管理人さんが大切っすよ。だから、分けてもらえないと寂しいし悲しいっす。管理人さんも俺達のこと大切に想ってくれてるなら、ちゃんと分けてくれないと。そのうち俺も結奈みたいに怒るっすよ。」

 そう言うと和実が、うわーとんだしっぺ返しが来た、恥ずかしいと言って両手で顔を押えて、湊人は笑った。

 「そう言えば、わたし。片岡君と結奈ちゃんの兄妹喧嘩の時そんなこと言ったかも。いや。人に言われると本当恥ずかしい。でも、ありがとう。本当に恥ずかしいんだけど、でもなんか、そうやって言ってもらえるのって嬉しいね。」

 そう言って照れくさそうに笑う和実を見て、湊人は胸が暖かくなって、でしょと言って笑い返した。

 「あの時、管理人さんがああ言ってくれたから。あれで俺は目が覚めたっす。自分がよかれとしてやってきたことが実は独り善がりで、大切な人を傷つけてきたんだなって。本当に相手を大切にするっていうことがどういうことなのか、あの時に解った気がするっす。それで、管理人さんが俺と結奈の間に入って仲直りさせてくれたから。今の俺があるっすよ。俺にあんなこと言っといて自分はやらないはなしっす。最低でも、俺の前じゃ許さないっすから。」

 「はい。すいません。今度から気をつけます。でも、少しくらい格好付けさせてくれても良いと思うんだ。そんな結奈ちゃんと同列の妹扱いチックなことしてこないでさ。もう少し年長者としてというか、管理人として立ててくれても良いんじゃないかな。」

 「何言ってるっすか。俺はちゃんと管理人さんの事、年長者として、管理人として尊敬してるっすよ。それとこれは別問題っす。」

 「もう、本当。片岡君が成長しすぎて、お姉さん、年長者ぶれなくて悔しいぞ。まったく。実は年齢詐称してるな。今年、二十一とか嘘だろ、このやろう。いったい本当は今いくつなんだ、白状しろ。」

 そうふざけた調子で言って和実がつついてきて、湊人は、ちょっ、何するっすか、本当そういうのやめて下さいと抵抗して、そして二人で声を立てて笑い合った。

 「まったく、管理人さんは。すぐそうやってふざけたことしてくるんすから。」

 「いやー。片岡君相手だとついね。なんていうか、片岡君には何しても怒られない安心感があるよね。」

 「なんすかそれ。俺だって、怒るときは怒るっすよ。」

 「そう?ムッとするくらいで、片岡君が本気で怒るって想像つかないんだけど。」

 「そりゃ、本気で怒るようなことなんてそうそう起きないっしょ。でも、俺だって人間っすから腹立つこともあれば、怒ることもあるっすよ。皆が思ってるほど俺は温和じゃないっす。」

 「そうかな?前は確かにそういう部分もあったけど、今はすっかり落ち着いちゃってる気がするんだけど。でも、普段穏やかな人の方が怒ると怖いって言うし、ふざけすぎて怒らせないように気をつけよう。」

 そう言っていたずらっぽく笑う和実を見て、湊人は本当この人は人の気も知らないでと思って、心の中で溜め息を吐いた。多分、住人達の中で自分が一番この人との距離が近い。でも、距離が近すぎて、あまりにも自分の前では無防備すぎて、本当、男として意識されてないんだなと思って辛くなる。花月みたいに中身が完全にお子様で全然そういう知識がなくてで、男相手にそんなことしてたら何が起こるかわからないって理解してないわけじゃないっしょ。本当そのうち、俺だって我慢できなくなるかもしれないっすから。むやみやたらに人のこと触ってきた手取って抱きしめたりとかしちゃうかもしれないっすから。なんて思って、そんなことを口に出せるわけもなく、実際に行動を起こすことができる訳もなく。意識されていないと解りきっているのに、好きだと伝えるなんて事はもっとできるわけがなく。湊人は、この距離感マジでしんどい、と心の中でうなだれた。

 「管理人さん。話しを建て替えの話しに戻すっすけど。やっぱ、どう頑張っても家賃を大幅値上げする他に予算を確保するのは難しいっすね。」

 「やっぱ、そうなのか。そうなると、立て替えをするなら今から積み立て始めないと。遅くなればなるほど家賃への上乗せ額が増えるから、早いところ皆に伝えて相談しないとだね。」

 「それは、そうなんすけど。正直なところ、五年後がどうなってるか想像つかないじゃないっすか。このままを続けたいって気持ちは俺もあるっすけど。でも、本当に五年後以降も皆が皆ここに住み続けるのか、それは解らないって言うか。遙も留学するつもりらしいっすし。香坂(こうさか)さんや三島(みしま)さんも今年度で大学を卒業して、社会人になったら仕事の都合なんかもあるだろうし。俺と真田だって、再来年には大学卒業する予定っすから。その先がどうなるかなんて解らないっす。それに、今年は耀介(ようすけ)が、来年は遙と浩太(こうた)、そして花月が受験予定っす。今、余計な気を揉ませたくないというか。ハッキリしない先のことを今決めるのはどうかなって思うっすよ。」

 真剣な口調でそういう湊人の言葉に、和実もそれもそうだねと呟いて、難しい顔をして頭を抱えた。

 「それで、俺思うんすけど。俺達の契約って、三年契約じゃないっすか。祐二と花月がイレギュラーっすけど、だいたい皆、再来年の春で契約の更新予定っすよね。だから、この契約期間中はそのまま据え置きにして、皆にもこの話は黙っとくっす。皆の契約更新に合わせて、内情を打ち明けて、どうするか話し合いの場を設けるのがいいかなって。それで、話し合いの結果に添った契約書を作成して、契約更新するっすよ。」

 「確かに、そうすれば皆も見通しが付きやすいと思うし、こっちも契約期間中の契約内容の変更に伴うもろもろの手間が省けるけど。でも、それで立て替えってなった時に積立金の負担がさ・・・。」

 「そこで、管理人さんの出番っす。頑張って松岡さん説得してきて下さい。」

 「え?えー!?松岡さんをわたしが説得するの?どうやって?っていうか、どんな風に?会社のお金出してくれは絶対ムリだよ。ダメ元で言ってみたけど、ふざけてんのかって一蹴されて、説教タイムに突入したからね。わたし、こないだこってり絞られて帰ってきたからね。」

 「それは、管理人さんの交渉のしかたが悪いんすよ。会社のお金を出してもらうって言うのは正解っすけど、あくまで貸してもらう交渉をするっす。ただドブに捨てるような投資はしてくれなくても、プラマイゼロなら、あの人も案外お人好しだから出してくれると思わないっすか?」

 「えっと、それって・・・。」

 「契約更新時、もちろん家賃は上乗せするっす。でも、上乗せする額は、住人の無理ないところでっす。祐二とかの事情を考えると、今の家賃に上乗せして払える限界はこれくらいっすかね。それで、五部屋分だから。単純計算で年間これだけ積み立てができるわけで。五年後に立て替えするとして、工事費に足りない額がこうなるっす。この足りない分を会社にいったん出してもらって、立て替えが終わった後の家賃収入から月々会社に返済してくっすよ。家賃を更に上乗せしない条件で計算すると、立て替えてからだいたいこのくらいの期間で返済完了見込みで。立て替えの予算を会社が銀行から融資を受けた場合は、そこに利子が付くっすから、少し期間が延びてこれくらいっすね。だから、最低この期間は住人を減らすわけにはいかなくなるっすから、もし誰かが出てく事情があったらまた新しい住人を入れなきゃいけないことにはなるっすけど。そこも、皆で相談っすね。でも、これなら皆も負担が少なく、立て替えができるんじゃないっすか。」

 「なるほど。それは確かに。」

 「だから、管理人さんには、住人達との話し合いの結果でどう転ぶかはわからないけどっていう前提で、こうさせてもらいたいって、松岡さんを説得してきてもらいたいっす。そこでOKがでれば、皆にはまだ内緒にしとくし、ダメって切られたら、早いうちに皆にも打ち明けて、話し合いするっすよ。頑張って下さい。」

 「了解。わたし、頑張るよ。そのメモもらっていい?それを元に資料作って、今日中に説得に行ってくる。これだけちゃんとした考えで案を打ち出してくれたんだもん。何が何でも、説得してくるよ。」

 「ムリはしないで下さいね。寝不足なんだし、今日は休んで明日とかでも・・・。」

 「いや。善は急げだよ。今の何とかハイみたいな状態なら、なんか乗り切れる気がするし。今のわたしなら、松岡さんともバチバチバトれる気がするよ。」

 「まったく、管理人さんは。じゃあ、お昼用にレンジで温めれば簡単に食べられそうなもの作っとくっすから。他のとこは休んで下さい。掃除も、花月に今日は管理人さん忙しいから、バイトから帰ったらやってくれってメールしとくっす。今日の夕飯は栄養満点で消化に良い物にするっすから、今日は早めに休んで下さい。」

 「ありがとう、片岡君。本当、何から何まで。片岡君のおかげでスッキリしたよ。じゃあ、わたし早速資料作ってくるから。色々やってくれるのは有難いけど、片岡君もムリしないでね。わたしのご飯とか気にしなくて良いから、三限に遅れないようにちゃんと出て。もういい時間だから、余計な事してると、いくら近いっていっても自転車かっ飛ばしても間に合わなくなっちゃうぞ。」

 そう言って食堂を後にする和実の背中に、大した物は作らないから大丈夫っすよと声を掛け、湊人は、管理人さんファイトっすよ、頑張って下さいとエールを送った。


          ○                           ○


 用事を済ませて、外出先からサクラハイムに帰宅すると、篠宮(しのみや)花月(かづき)と誰かが庭で何かをしているのが見えて、和実は玄関には入らず庭に向かった。いつものことだが、花月があまりにも楽しそうに何かを夢中でやっているから、今日は誰と何して遊んでるんだろうなんて好奇心で覗きに行ったのに、そこにあった予想外の状況に和実は固まった。遠目でも目立つ派手な金髪ではないから、遊び相手が楠城(くすのき)浩太(こうた)ではないことは解っていたが、まさか自分の知らない相手と遊んでいるなんて予想外すぎて。しかも相手は男性だし。でも、二人が普通に和気藹々と楽しそうに何かを作っていて、和実は混乱した。そして、その人誰?何処で知り合ったの?なんでここにいるの?なんて思って、和実は思わず、誰?と声を上げていた。

 「あ、お姉ちゃん。お帰りなさい。」

 声に反応した花月が顔を上げにこやかにそう声を掛けてきて、和実は見知らぬ男性に不審な目を向けたまま。ただいまと返事した。

 「あ。どーも始めまして。篠宮ちゃんのお姉さん?俺、平岡(ひらおか)裕貴(ゆうき)って言います。以後、お見知りおきを。」

 花月につられて顔を上げた男性が、にこやかに軽い調子でそう言って軽く頭を下げてきて、和実は思わず、あ、わたしは管理人の西口和実です、よろしくお願いしますと頭を下げ返していた。そして、いや、名前はわかったけどこの人誰?というかどういう人?来ばっかの頃に比べれば花月ちゃんも常識が身に付いたとは思うけど、でも、元々お菓子につられて知らない男の人についてっちゃうような子だし。今はフリーターとはいえちゃんと外で働いてちゃんとやってるって解ってるし、片岡君も口酸っぱくして色々言い聞かせてるの知ってるけどさ。でも、花月ちゃんってコロッと悪い人に騙されそうな雰囲気あるし、悪い人じゃなくてもなんか口車に乗せられて流されちゃいそうと言うか。隙だらけというか。ここだと結構子供扱いされてるけど、実際は成人してるわけで。美人だし、かわいいし。外の男の人には気をつけなきゃダメだよ。この人、男の人だよ。男の人にそんな無警戒に無邪気に接しちゃダメだって。ここの皆は花月ちゃんの事情も知ってるし、花月ちゃんのことも解ってるけど、普通の人は知らないんだから。勘違いされちゃったら危ないから。そんなことが頭の中をめまぐるしく駆け巡って、和実は不安感が募り、妙にハラハラした気持ちになった。

 「えっと、花月ちゃんの知り合い?」

 「うーん。わたしの知り合い、になるのかな?去年一回会ってるらしいけど、覚えてないから、知り合いじゃない?よく解らない。」

 首を傾げて本気で悩むようにそんなことを言う花月を見て、和実は更に頭の中がこんがらがった。ちょっと待って。花月ちゃん、それって全然知らない人って事だよね。去年一回会ってるってこの人の自己申告だよね。もしかしたら嘘かもしれないよね。そんな知らない人と、あんな楽しそうに仲良く遊んでたの?それ危険。本当、危険だから。

 「篠宮ちゃん。その紹介のされ方だと、凄く俺が不審人物っぽいんだけど。ほら、篠宮ちゃんが変な紹介のしかたするから、管理人さんから凄く不審がられてるじゃん。危険人物扱い、っていうか、変質者を見るような視線を向けられてるんだけど。どうしてくれるのコレ。俺、チャラいとはよく言われるけど、こんな視線向けられるようなことした覚えないんだけど。」

 「え?わたし、お姉ちゃんから知り合いか聞かれたから。」

 「もう、篠宮ちゃんったら天然さん。かわいいけど、そのボケはちょっと笑えないぞ。通報されて俺が警察に連行されちゃったらどうしてくれるの?」

 「え?裕貴、逮捕されちゃうの?」

 「逮捕されちゃうかもよ。」

 「何かしたの?」

 「何もしてないけど。かわいい女の子に不審者通報されたら、何もしてなくても連れてかれちゃうのよ。お兄さん、不審者のレッテル貼られるの辛い。」

 そんな本気で疑問符を浮かべて質問を繰り返す花月と、それを面白がってるように軽い調子で言葉を重ねる平岡のやりとりを見て、和実は状況が更にわからなくなった。

 「えっと。すみません。結局、あなたはどういった方なんでしょうか?」

 もう埒があかないので、直球で本人に聞いてみる。

 「あ、俺は、市ヶ谷学園大学演劇部、舞台美術担当の四回生っすよ。三島や香坂の同期。耀介の美術の師匠ってとこっすかね。」

 そう言って、決めポーズのようなものを決めてウインクをする平岡を見て、和実は、うわー市ヶ谷学園って頭良いとこのはずなのに、この人凄く頭悪そうなんて思って、ちょっと引きつつ少し胡散臭く思った。

 「うわっ、管理人さんの俺に向ける視線が凄く冷ややかなんだけど。俺の扱いが酷い。俺、辛い。」

 「なんか聞き覚えのあるうるさい声が聞こえると思ったら、平岡か。こんな所で何してるんだ?」

 不審者を見るような和実の視線を受けて、平岡が大仰な仕草で腕を額にあて天を仰ぎながら軽い調子で嘆いていると、帰宅した三島(みしま)健人(けんと)がそう言いながら現れて、うんざりした視線を彼に向けた。

 「あ、健人、お帰りなさい。」

 「あ、三島君。お帰り。この人、本当に三島君の知り合いだったんだ。」

 「え?俺、そこも信じてもらえてなかったの?マジ辛い。」

 「あー。知り合いというか、同じ学部の同期で演劇部の仲間だ。なんていうか、平岡はいつもそんな感じだから右から左にしといてくれ。まともに相手すると疲れるぞ。」

 「お前、酷いな。もう少しましな紹介のしかたないのかよ。」

 「じゃあ、美術の腕は確かだが、性格に難があるのと、余計な言葉が多くてしょっちゅうトラブルばかり起こしてる、うち一番のトラブルメーカーとでも紹介しとけば良いか?」

 「うわっ、更に酷くなってんだけど。確かに役者組とよく衝突起こすけど、お前は俺の理解者だと思ってたのに。そんなこと言ってると、引退公演の舞台背景、お前等役者組の意見片っ端から切り捨てて好き勝手やってやるからな。引退公演、役者なんて完全そっちのけの俺の舞台美術の作品披露会にしてやるぞ。」

 「好きにしろ。そんなこと強行しようとしたら、また裏方の奴等にフルボッコにされるぞ。それに、本当に俺達の意見に耳をかさなかったとしても、お前が全力で作った背景なら、どんな物でも最高の出来になるだろ。舞台を愛してるお前が、舞台を根底からメチャクチャにするような物を作るわけがないからな。俺達の代の役者が少ないからってバカにするなよ。今残ってる奴等は、役者組の大半が退部したあのトラブルに左右されず、それでもうちで演劇をすることを選び一緒に歩んできた精鋭だ。(ひかる)もやっと本気になったしな。お前が役者を食ってやる勢いで背景を作るなら、こっちはそれに負けない芝居をするだけだ。」

 そう真剣な顔で健人が平岡を真っ直ぐ見据えて言って、それを受けて平岡が目を輝かせた。

 「本当、俺、お前のそういうとこ好き。もっと抑えろだの、役者を立てろだの絶対言わねーし。やっぱそうじゃないと張り合いがないよな。俺の全力に全力で応えてくれる、お前は最高の役者だぜ。うっし。任せとけ。うちらの代の引退公演には、俺が今まで舞台美術に携わってきた全てを出し尽くして、お前等が最高の芝居ができる最高の背景を用意してやる。」

 そう言って、ニッと笑う平岡を見て、健人も任せたと言って満足そうに笑った。

 「で、話を戻すが。なんで平岡がサクラハイムにいるんだ?」

 「あー。耀介にちょっと用事でな。あいつ約束してたのに、忘れてたらしくて出掛けやがってさ。連絡したら急いで戻るって言うから、待ってんだけど。待ってる間ヒマだったから。耀介に技術教えてやろうと思って持ってきてた素材使って、篠宮ちゃんとタイルアート作って遊んでた。篠宮ちゃん、器用だよな。飲み込み早いし、仕事は丁寧だし。うちの職人にマジで欲しい。仕込めば絶対良い職人になる。来年度、市学受けるんでしょ?受かったら演劇部入りなよ。篠宮ちゃん、去年の文化祭公演で実績あるし、小柄だけど舞台に立ったときのあの存在感は絶対役者組も欲しがるだろうけど。美人だし、ポスターとか作ったときの見栄えもするだろうしさ。でも、役者組じゃなくて、絶対裏方組ね。篠宮ちゃんが入学する頃には俺いないけど、うちには俺以外にも良い職人揃ってるから。そいつらから技術教えてもらって、うちの舞台美術の次世代を担う職人にならない?」

 「えっと。わたし、ストリートパフォーマンス研究会に入りたいから。演劇部には入らない。」

 「おっと。もう、決まってたか。残念。ストリートパフォーマンス研究会ね。俺が二回生の時にできた新興同好会じゃん。うちの大学、良くも悪くも古参の部活が幅をきかせてる部分大きいのに、できて数年で結構な規模にまでなった新勢力。そんな新参同好会に、有望な新入生候補がとられてしまっていたとは。そのうちスト研、同好会から部に昇格あり得そうだな。演劇部はまだ、年に何人かは三島みたいに演劇したいから市学入ったって奴が入部してくるし、そこそこ人気高いけど。それでも年々新入生の獲得厳しくなってるしな。文芸部とか落ち目だし。歴史ある古参の部活も、うかうかしてると定員割れで降格または廃部あり得るかもな。そして、新しい部活が今度は幅をきかせていく。良いね。ドラマがあるね。」

 「お前は何でも楽しそうだな。」

 「おうよ。人生楽しまなきゃ損でしょ。我が道を行き、我が道を生きる。あぁ素晴らしきかな我が人生。」

 「なんていうか、平岡さんって裏方の人の割に、よく芝居がかったことする人ですね。」

 「管理人さん、そんな敬語とかいいっすよ。普通にため口で。俺のことは、平岡君でも、裕貴でも好きに呼んで。」

 「なんていうか、平岡君見てると、市ヶ谷学園に対するイメージが変わりそう。三島君も香坂君も、真面目でしっかりしてて、ザ優等生って感じだけど。二人とはタイプが違うよね。」

 「そうだな。うちの大学は、偏差値の高さよりも部活動の活発さで人気がある大学で、学生数も多いから、結構色々なタイプの学生がいるが。平岡は中でも色物だな。なんていっても、こんなんで、うちの学部の主席だからな。俺達の卒業式の時にはこいつが表彰されて、挨拶するのかと思うと、少し頭が痛い。」

 「うわっ、ひでー。文句あるなら、今からでもお前が主席になってみろよ。」

 「もうゼミと卒論残して他の単位を取り終わってるのに、今の成績の順位を覆せる訳がないだろ。そもそも俺は、主席狙えるほど成績が良くない。」

 「なら文句言うなよ。あーあ。卒業まだ先だけど、今から卒業式出るの億劫になってきたな。バックれるか。」

 「バックれるな。主席になったからにはちゃんと責任果たせよ。うちの学部の顔に泥塗るようなことするな。」

 「はいはい。ちゃんとしますよ。ちゃんとすればいいんでしょ。」

 そんなやりとりをしていると、すんませんお待たせしてと焦った様子の藤堂(とうどう)耀介(ようすけ)が庭にやってきて、その場は解散となった。

 食堂に移り、平岡がなにやらパンフレットのような物を広げて楽しそうに話し、それを真剣な様子で聞いている耀介の姿を見て、和実は二人にお茶を淹れた。それを持っていき、カップをテーブルに並べながら、その様子を間近で眺め、和実は専門学校のパンフレット?と呟いた。

 「管理人さんも見るっすか?」

 「見ていいの?」

 「どうぞどうぞ。減るもんじゃないし。耀介にやるもんだしね。」

 そんなことを言われ、和実は自分も席についてパンフレットを眺めた。

 「耀介が舞台美術学びたいからどっか良いとこないかって相談してきたから。俺のお勧めの専門学校のパンフレット、ピックアップして持ってきたんすよ。うちの大学に来れば、俺の育てた後輩もいるし、俺もOBとして色々見てやれるんだけど。耀介の学力で市学は無謀だし、そもそも部活であってそういうの学ぶ場所じゃないからね。遊びじゃなくて、それをゆくゆくは職業にするつもりで学びたいなんて言われたら、適当なとこは紹介できないでしょ。俺が受験したときとまた学校も変わってたりするし。耀介の立場に立って考えて、自分がなら何処行きたいか、そういう場所選んできたのがコレ。俺、本当は大学じゃなくてこういう専門学校行きたかった人間だからさ。」

 そう言う平岡は、庭で遊んでいた時のような軽薄さがなくて、真剣でどこか切なそうな雰囲気を醸し出していて、和実は、どうして専門学校に行かなかっの?と訊いていた。

 「簡単。親に反対されたから。舞台美術なんて遊びみたいなもの学んで何になるってさ。俺は本気でその道を行きたかったのに、聞きゃーしない。それで大喧嘩はしたけど、家を飛び出して一人でもその道に飛び込んでやってってやるって程の覚悟はできなくて。結局、専門学校行くのは諦めて、親の言う通り大学に進学することにした。それでも舞台美術に関わってたくて、部活動が盛んで、規模が大きい本格的な演劇部がある市学選んで受験した。市学に入って良かったよ。結構、張り合いがあったし、やりがいもあって、楽しかった。三島の言う通り、俺はトラブルメーカーだけど。でも、本気で役者を潰そうとか思ったことはない。いつだって、最高の舞台を作りあげたいと思ってた。だから、妥協しなかった。妥協を求めてくる奴は大っ嫌いだから、蹴散らしてやった。でも、三島みたいに本気でぶつかり合える奴は好きだ。お互い妥協せずに、譲れないモノをぶつかり合わせて、お互いより高見を求め合って。そうやって実際に舞台を作りあげるあの感動は忘れられない。幕が上がってそこに広がる世界を目前にするあの瞬間が、自分達が作りあげた物が動き出すあの瞬間が、そして全てを終えて幕が下りていくときのあの感動が、俺は忘れられない。俺は舞台美術が好きだ。俺にとってこれ以上の仕事はない。市学で舞台美術ができて、心からまたそう思えた。だから、最後になる俺達の引退公演は、本当に今までで一番の俺達の最高の舞台に仕上げて。心残りをすることなく学生は卒業して、そして、俺は改めて自分の道を進んでいく。相変わらず親は普通に就職しろだのなんだの言ってくるけど、俺ももう高校生のガキじゃないしね。もう、親の言うことなんか聞いてやんねー。めぼしい事務所に自分のこと売り込みまくって、就職先決めて来ちゃったし。俺はコレで生きていく。でも、ま、高校生の時の俺は、自分が妥協したことにモヤモヤして悶々して、むしゃくしゃして。妥協した自分に、妥協させた親に本当苛々して。大学入ったばっかの頃はこんなはずじゃなかったとか、今頃はこうなってたはずなのにとか後悔なんかしたりして。せっかく耀介が舞台美術に興味を持って、本気でやりたいって言ってくれてんだしな。俺みたいな思いはして欲しくないって言うか、やっぱ本気で応援してやりたいじゃん。」

 そう言って笑う平岡を見て、和実は良いなと思って少し胸が痛んだ。平岡君の気持ち、わたしも解る気がする。わたしの場合は、苦言を言いつつ親は美大への進学を許してくれたけど。わたしの夢を心から応援してくれる人は誰もいなかった。そんなことを考えて、ふと学生だった頃の自分を思い出して。そんな遊びみたいなことやって。どうせお前には授受できない。くだらないことしてないで真面目に将来を考えろ。才能なんてないくせに。ちゃんとした絵の一枚描けないくせに。どうせお前にはろくな物なんて描けないんだから。お前なんて、結局何にもなれない。そんな学生時代に親や知人から言われた言葉が頭の中でフラッシュバックして、和実は耳を押えたくなった。

 「大丈夫?管理人さん。」

 そう平岡の声が聞こえて、和実はハッとした。

 「うん。大丈夫。いやー。若いな、良いなと思いまして。わたしも昔美術やってた人間で、わたしは夢を諦めた人間だから。平岡君みたいな人が羨ましいななんて思っちゃったり。でも、藤堂君が美術に興味持ってくれて嬉しいとか、本気で応援したいって気持ちは解るよ。自分が夢を諦めた分、若い子の夢を応援したいというか。頑張って欲しいと思うし、大成してもらいたいななんて思う。もし、わたしみたいに諦めることになっても、自分が辿ってきた軌跡を後悔しないで、自分はやりきったって満足して次に進めるように。今は、目の前の夢に全力で取り組んでもらいたいなって。そのためにわたしにできることがあるなら、全力で協力して、全力で応援したいって思うよ。」

 「へー。管理人さんも美術やってたんだ。この業界、成功するのは狭き門だからね。けっこう、才能と運が物言う世界でもあるし。作業として画一的にもの作るような、技術だけを生かすような職種もあるけど。自分を持って自分の物を作りあげてきた人間にとって、型にはまってただ作業するなんて耐えられないもんね。今はもう何もやってないんすか?」

 「いや。職業としては諦めたけど、趣味としてたまに絵描くぐらいは。」

 「そうなんだ。管理人さん、どんな絵描くの?スゲー見てみたい。」

 「いや、それは。人に見せるとか恥ずかしいし。」

 「そんなこと言わないでさ。いいじゃん、ちょっと見せてよ。」

 そんなやりとりをしていると、食堂に入ってきた花月が、裕貴もうお姉ちゃんの絵見てるよと会話に入って来て。和実は、まさか花月ちゃんまたあれ人に見せてたの、と思ってちょっと焦ったような気持ちになった。

 「裕貴に見せた、絵本。アレ描いたのお姉ちゃんだもん。」

 そう続けられた花月の言葉に、やっぱりアレ見せたんだと思って恥ずかしくなる。

 「あー。あの絵本作ったの管理人さんなんだ。管理人さん凄いじゃん。あれ、どうやって描いてんの?暖かみがある柔らかさもあるのに、色がぼけてないというか。物の堅さや柔らかさ、温度まで伝わってくるような、なんだろう。色の塗り方なのかな。色彩の表現のしかたが凄く巧い。印刷じゃ解らない部分多くて、原画見たいと思ったんだよね。原画ないの?原画。」

 そう嬉々として自分の描いた物を褒めて原画を見せろと催促してくる平岡の勢いに、更に恥ずかしさが増して、和実は俯いて、原画はとってありませんと答えた。それを聞いて、心底残念そうに残念と呟いて、原画見たかったなと言う平岡に、花月がちょっと待っててと声を掛けるのを聞いて、和実はハッとして顔を上げた。

 「花月ちゃん。ちょっと待っててって、まさか。いや、ちょっと待って。お願いだから、色々人に見せびらかすの勘弁して。本当、恥ずかしいから。」

 そんな和実の叫びは虚しく、時既に遅し、そこにはもう花月の姿はなくなっていた。

 「もしかして、原画ないとか言って本当はあるの?」

 「ないよ。嘘は吐いてないよ。」

 「じゃあ、篠宮ちゃんは何取りに行ったの?」

 「それは・・・。」

 「管理人さんがあいつの誕生日にあげた絵じゃないっすか?その絵本に登場するキャラクターが一枚絵になってるやつ。お姉ちゃんがわたしの誕生日プレゼントに描いてくれたんだよって、あいつが喜んで皆に見せびらかして回ってた。」

 「やっぱ、花月ちゃんにあげたらそうなるよね。そうなるって解ってたよ。解ってたけどさ。本当、恥ずかしい。消えちゃいたい。」

 「管理人さんってかなりの恥ずかしがり屋さんなのね。そんな恥ずかしがることないよ。ってか、アーティストが自分の作品公開されて恥ずかしがってどうすんのよ。諦めたとはいえ、一度はその業界で生きていこうとした人間でしょ。もっと胸を張りなって。って、もしかしてその恥ずかしがりが原因で職業にするの諦めたとか?」

 そう軽い調子でからかうように平岡が言ってきて、和実はそうじゃないけどと思いつつ、返す言葉を見失った。自分の作品が見られるのが恥ずかしい。見られたくない。じゃあなんでわたしはまた絵を描き出したんだろう。絵を描いて、人にあげてるんだろう。しかも、花月ちゃんにあげたら皆に見せびらかされるの解ってるのに。花月ちゃんが喜んでくれるのが嬉しくて、また調子に乗って。花月ちゃんにつられて皆も笑ってくれるから。本当はわたし、皆に自分の絵を見てもらいたいの?いや、恥ずかしい。見られたくない。見て欲しい。恥ずかしい。見られたくない。見られるのが怖い。怖い?そう、怖い。

 『くだらない。そんな子供の落書きみたいな物になんの価値がある。』

 誰かの声が頭の中で響いて、視界が一気に暗くなる。そして、

 「おー。やっぱ印刷よりスゲー。なるほどね。場所によって画材を使い分けたり、同じ色でも違う画材を組み合わせて配合を変えて重ねてるのか。これは、紙上だからできる表現方法だな。あ、ここはこうしてるのね。こういう部分は指で伸ばして、こっちはペン先つかってるのか?この一枚の絵描くのに相当手間掛けてるな。これは、いい絵だ。これ、俺スゲー好き。」

 そんな感嘆する平岡の声が耳にい響いて、和実の視界が明るくなった。目の前に、自分の描いた絵を愛おしそうに眺めて笑う平岡がいて、胸が熱くなる。なんだろう。なんか、心臓がバクバクしてる。胸が痛い。どうしよう、よく解らないけど凄く今泣きそう。

 「わたしも、お姉ちゃんの絵、大好き。見てると、凄く暖かい気持ちになれる。なんか、凄く安心する。お姉ちゃんみたい。」

 「作品って作った人の人柄出るからね。いやー。今でもこんなに描けるのに、夢諦めちゃったなんてもったいない。絵本一冊出して廃れちゃったのは、運が悪かったかね。今からでもまた描けば良いのに。今度は運が回ってくるかもしれないし。新しい作品作って世に出したら、俺一番に買うよ。俺が管理人さんのファン一号になる。ってか、なった。気が向いたら本当に作ってよ。」

 そう言って笑顔を向けられて、和実はなんと返して良いか解らなかった。そう言ってもらえて嬉しい。でも、苦しい。痛い。なんだろう、これ。頭が痛い。嬉しいのに、嬉しいと思うのに、凄く辛い。苦しい。息が詰まる。

 「一号はわたしだから、裕貴は一号になれないよ。」

 「じゃあ、二号でいいや。」

 そんな花月と平岡のやりとりを見て、二人の話しが盛り上がっていくのを眺め、少しずつ和実は落ち着きを取り戻した。そして、自分の絵の話題には触れず、テーブルの上のパンフレットを眺め、耀介に、藤堂君はこの中じゃ何処行きたいとかあるの?と声を掛けた。

 「とりあえず、平岡さんの説明聞いて、ここ受けてみようかなと思うっす。最近できたばっかの学校でまだ実績はないらしいが、基礎からしっかり学ばせてもらえるのと、講師陣が良いって。俺には良く解らないっすけど、なんかその業界じゃ有名な人が講師してるらしくて、その人から学べるとか自分が行きたいとか言ってたっす。あと、授業内容のバランスが良くて、卒業前に実際に現場を体験できるシステムが良いって。」

 そんな耀介の言葉を聞きながら、和実はその専門学校のパンフレットを手に取った。中を見て、専門学校ってこんな所なんだなんて思う。

 「やっぱ、専門学校でも実技試験があるんだね。去年からちょこちょこデッサンはやってるけど、今度、公園かなんかにスケッチしに出掛けてみる?気分転換にもなるし、絵の練習にもなるよ。」

 「うっす。よろしくお願いします。」

 そんなやりとりをして、じゃあいつ行こうか、どこに行こうかなんて話し合う。そうしていると、自分がちゃんと普段の自分に戻っていることが解って、和実はホッとした。いったいなんだったんだろう。なんか、わたし変だったな。そんなことを考えて、和実の中に得体の知れないモヤモヤが広がった。

 平岡が帰って、一息吐いて、和実はなんかどっと疲れている自分を感じた。なんていうか、平岡君って賑やかな人だったもんななんて思う。ちょっと休もうかななんて考えて、食堂ではいつも通り、花月が浩太と一緒に香坂(こうさか)(ひかる)に勉強を見てもらっていて、食堂でぐたってしたら心配掛けそうだし管理人室に引き籠ろうと、管理人室へ向かった。そしてベットに突っ伏すと、酷い眠気に襲われて、和実はそのままぐったりと眠り込んでしまった。

 

 自分のスマートフォンの着信音が響いて、和実は飛び起きた。すっかり真っ暗になっている部屋の様子に、今何時?なんて思う。そして、点滅しメールの着信を告げているスマートフォンを手にとって、もう日付が変わっていることに気が付いて、和実はわたしそんなに寝てたんだと愕然とした。あー。絶対、夕食の時間に片岡君とか呼びに来てくれてるだろうけど全然気が付かなかった。そんなことを考えて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そして、メールの受信画面を開き、夕食は冷蔵庫に入れてあるからという湊人からのメッセージを確認して、本当、ごめんなさいと思った。

 ベットから下りて食堂に向かうと、食堂の明かりが付いていて、和実は誰かまだ起きてるのかなと思った。そしてドアを開け、そこにまだ私服姿の湊人がいて、自分に気が付いた彼が、もしかしてメールで起こしちゃったっすか?と申し訳なさそうに言うのを見て、和実はそんなことないよ、今目が覚めただけと首を横に振った。

 「なら良かったっす。」

 「片岡君は、まだ起きてたの?」

 「まだ起きてたって言うか、俺はいつも帰宅がこんくらいっすよ。バイト先の閉店時間が十一時で、そっからレジしめて掃除して、火元と鍵のチェックして退勤っすからね。下手するとしめた後に音尾さんに次の日の仕込み手伝わされたり、新しいメニューの試作に参加させられたりで、もっと遅くなることもあるっす。」

 「そうだったんだ。知らなかった。」

「だいたいこの時間は皆寝てるっすからね。たまに夜更かししてる奴がいるっすけど。起きてても自室に引っ込んでるし。帰宅してこんな風に誰かと顔合わせることはそうそうないっすよ。管理人さんは、今からご飯食べるっすか?」

 「今から食べたら太りそうだけど。お腹すいてるし、頂きます。」

 「なら、温めてくるから、座ってて下さい。」

 「いやいや、自分でやるよそれくらい。」

 「実は、俺もちょっと夜食食っちゃおうかと思って。ついでっすよ、ついで。」

 「なら、ついでにわたしが作らせて頂きますよ。」

 そんないつもの調子のやりとりのはずだったのに、そう言うと、湊人が酷く真面目な顔で、心底心配しているような調子で、顔色悪いっすよと言ってきて、だから管理人さんは座ってて下さいと促してきて、和実は黙り込んで席に着いた。

 「夕食の時、呼んでも返事しないし。電話もかけたっす。でも、全然気が付かなかったみたいで。悪いなとは思ったけど、実は管理人室に入らせてもらっちゃったっす。管理人さんが部屋で倒れてたらどうしようって、居ても立ってもいられなくなって。ダメ元でドアノブ回したら開いて、管理人さんが鍵掛け忘れててくれて良かったなって。ベットで横になってる管理人さん見たとき、あまりにも顔色が悪くてひやっとしたっす。でも、寝てるだけみたいでホッとしたっす。でも、そのまま起きてこなかったらどうしようって。うちの母親みたいに、ずっと目を覚まさなかったらどうしようって、メチャクチャ怖かった。今、管理人さんの顔見て、凄くホッとしたっすよ。ちゃんと起きてきてくれて、本当、凄くホッとしたっす。俺は、もう、あんなの耐えられないっすよ。絶対、耐えられない。」

 そう言って泣きそうな顔をする湊人を見て、和実はごめんねと呟いた。

 「なんて言うか、今になって自分が結奈にどんな思いさせてたのか実感してるっすよ。あいつ、兄貴に俺が母さんみたいになったらどうしようって、ムリしすぎて倒れて起きてこなくなったらどうしようって泣きついてたらしいっす。去年は管理人さんが凄く大人に見えて、なんか自分が凄く子供みたいに思えたっすけど。管理人さんも、そんな俺と変わらないっすね。管理人さんが俺に言ってくれたこと、全部そのまま返すっす。相手のこと大切に想うのと同じくらい、自分のことも大切にしてあげてください。もっと、我儘言って良いっす。もっと、人に甘えて良いっすよ。」

 「そんなこと言ったら、遙君にまた怒られるよ。」

 「そうやってはぐらかそうとするのやめて下さい。」

 「うん。ごめん。でもさ。わたしは本当にムリしてるつもりはないんだ。ちゃんと寝てるし、ちゃんと食べてるし。健康的な生活送ってると思うよ。たまにはそりゃ頑張ることもあるけど。でも、ずっとじゃないし。けっこう普通に皆を頼りにして、甘えさせてもらって。わたし、かなり贅沢な暮らししてると思うんだ。」

 「じゃあ、なんでこんなことになったっすか?こないだのムリがたたったんじゃないっすか?皆に心配掛けないようにとか、不安にさせないようにとか、自分は最年長者で管理人だからしっかりしないととか。そんなこと考えて強がってるから、いつだって気が抜けなくてそんな風になってるんじゃないんすか。」

 普段なら、注意するにしても子供に諭すように穏やかに話す湊人が、今日はいつになく声を荒立てるのを見て、和実は困ったように、ごめんね、わたしも自分でよくわからないやと呟いた。

 「片岡君の言う通りなのかな。自分が思ってるよりずっと、わたしムリしてるのかな。」

 「そうっすよ。ただでさえ普段から気苦労が多いっしょ。」

 「そうかな?ここに居ると本当、楽なんだけどな。皆、良い人ばっかだし。気持ちが明るくなれるし。半引きこもりやってたときよりずっと、わたし幸せだと思うんだけどな。」

 そんなことを言って、和実は昼間のことを思い出した。楽しかった。嬉しかった。でも、凄く苦しかった。そして、今日はものすごく疲れた。特に何もしていないのに、気持ち悪くなるほど身体が重く疲れていた。

 「今日ね、なんかやたら昔のことを思い出してたんだ。わたしがまだ学生で、夢を追いかけてた時の事。わたしには身近に応援してくれる人が誰もいなくて、結構酷いこと言われたりもして。藤堂君が羨ましいなって思っちゃった。あの頃、わたしにもそうやって応援してくれる誰かがいたら良かったのにとか。花月ちゃんがわたしの絵を好きって言ってくれるのも、今日、三島君達のお友達が凄く褒めてくれてファンになったって言ってくれたのも、凄く嬉しかった。でも、それと同時に、昔言われた酷い言葉が頭の中に溢れてきて、辛かった。あの当時、誰かにそう言ってもらいたかったなって。一人でも良いから、誰かそう言ってくれる人が居てくれたらって思っちゃって。なんで今更って。そんな風に考えちゃう自分が凄く嫌で。嫌で・・・。」

 そんな風に感じたことを言葉にしてみて、和実は涙が溢れてきた。一回流れてしまうと、それが止まらなくなって、止められなくなって、和実はそんな姿を見られたくなくてテーブルに顔を突っ伏した。そうすると頭を優しく撫でられて、大丈夫っすよと湊人の優しい声が降ってきて。片岡君はまたこうやってさと、心の中で悪態を吐きつつ、その感触の心地よさに安心している自分がいて、なんとも言えない気持ちがした。片岡君ってさ、なんていうかズルい。誰に対してもこうだって解ってる。誰に対してもこうやって同じように優しくするんだろうなって、解ってる。でもさ、でも、こうやって人が弱ってるときに優しくするのは、こんな風に頭撫でてくるのはズルいよ。わたしが勘違いしちゃったらどうしてくれるのさ。勘違いして、何かを期待しちゃったら・・・。違うな。違うでしょ。こうやって片岡君を悪者にして必死に自分に言い訳を言い聞かせて。本当はいつだって、わたしが片岡君の優しさにつけ込んで、甘やかしてもらって、癒やしてもらってる。解ってて甘えてる、そんなわたしが一番ズルい。そんなことを考えて、和実は胸が苦しくなった。

 「そうやって、人のこと妹扱いしてくるのどうかと思います。」

 涙が落ち着いてきた頃、顔を突っ伏したままそう言うと、湊人が焦ったように別に妹扱いなんて、と返してきて、和実は少し視線を上げて胡乱げな視線を彼に向けた。

 「前も、わたしと結奈ちゃんが重なったって、結奈ちゃんに良くこうしてたからつい癖でとか言って、人の頭撫でてきたくせに。」

 「いや。まぁ。それは、そうっすけど。すみません。」

 そう言って、シュンとする湊人を見て、和実は笑った。

 「ちょっとだけ結奈ちゃんが羨ましいな。片岡君みたいなお兄ちゃんがいて。片岡君が本当にお兄ちゃんだったら、素直に妹扱い受け入れられるんだけどな。でも片岡君、家族でもなければ年下だし。」

 「まったく。何言ってるっすか。俺のこと弟にしたいって言ってみたり、お兄ちゃんだったら良いって言ってみたり。意味分かんないっすよ。いったい管理人さんは俺のことどういう扱いしたいんすか。」

 「うーん。じゃあ、間を取ってお父さんって言うのはどうでしょう。」

 「弟とお兄ちゃんの間をどう取ればお父さんになるっすか。」

 「じゃあ、やっぱりここはお母さんでしょうか。お母さん、お腹すいた。ご飯持ってきて。」

 「はいはい。今温めてくるっすよ。まったく。本当、管理人さんはすぐそうやってふざけるっすから。」

 そんなやりとりをして笑い合って、この距離感が一番安心するなと和実は思った。近いけど、触れるにはちょっとだけ遠いくらいの、とても身近で安心できる距離。そう、触れたくはない。触れられたくはない。でも、ちょっとしたわがままを、ちょっとしたいたずらを許してもらえるこんな距離。これ以上は近づきたくない。でも、これ以上は離れたくもない。本音はきっと違うところにあるって解ってる。本当は時々、このあとちょっとの距離を維持している境界線に触れてしまいそうになる。触れて、触れられてしまうときがある。越えるんじゃなくて、ちょっと触れるだけ。でも、触れるだけでもこの安心できる距離が崩れてしまいそうになる危険な行為。そしてそれに怯える自分がいる。自分の本音に触れるのが怖い。だから、触れたくない。触れられたくもない。勘違いしたくない。勘違いだって思っていたい。片岡君が自分に向ける視線が、他の人に向ける物と違う気がするなんて。勘違いだって思っていたい。自分がどうしたいのかとか、相手がどう思ってるのかとか、そういうことは全部考えないようにして、関係性をハッキリさせることを拒絶して、はぐらかして、ごまかして、全部冗談で流して片付けて。つまりおいしいとこ取りしたいなんて、そんなわたしは本当にズルい。片岡君なら許してくれるから。片岡君なら受け止めてくれるから。なんで彼がそうしてくれるのかなんて、気付かないふり、解らないふりをして、彼の優しさにつけ込んで甘えきってる。わたしは本当にズルくて、悪い奴だ。だから、遙君に怒られると少しだけホッとする。怒られて当然だって思うから、怒ってくれてホッとする。そうやって人を使って勝手にバランスを取ってる、わたしは本当にズルい奴だ。そんなことを考えて、また気が塞いでくる。

 「明日はちゃんと起きて、皆に心配掛けてごめんねって謝ろう。」

 そんなどうでもいい決意を口にして、和実はまた突っ伏した。

 「そうっすね。それが良いと思うっす。皆も安心するだろうし。でも、調子悪かったらムリせずちゃんと寝てないとダメっすよ。流石に今回は遙も心配してたっすから、寝坊したっていつもみたいに怒られないっすよ。」

 温め終わった食事をお盆にのせて運んできた湊人の優しい声に、和実は少しだけ罪悪感のような物を感じて、その心地よい響きに甘えてしまいそうになる自分を自制した。

 「疲れてるときは悪いことばっか考えちゃうもんっすから。管理人さんが昔の辛いこと思い出してキツくなるのも、罪悪感感じて気が塞ぐのも、きっと疲れてるせいっすよ。人のこと羨ましいとか、妬ましいとか、誰だってそういうの持ってる物でしょ。汚い部分がない人間なんていないっすから。それくらい思ったとこで誰も管理人さんの事酷い奴だなんて思わないっすよ。俺は逆に、そういうとこ見せてもらえるとホッとするっす。だから、気にしないでゆっくり休むっすよ。誰も怒らないっすから。誰も、責めたりなんかしないっすから。」

 そうやって続けられた穏やかで優しい声を耳にして、和実はモヤモヤした。片岡君の声を聞いてると本当に安心する。その笑顔が頼もしくて、励まされて、ほっとして。全部を委ねてしまいそうになるから嫌だ。自分の弱いところを全部曝け出して、吐き出して、縋り付いてしまいそうで嫌だ。そんなことしたら自分が壊れて、崩れてしまいそうで、怖いから。でも、その優しさは、誰に対しても等しく向けられるその優しさだけはちゃんと素直に受け取っておこう。ちゃんと休んで、元気になって。それで、いつも通り。そう、いつも通りに戻ろう。そんなことを考えて、和実は温め直してもらった夕食を口に運んだ。

 「あ、でも、水面下で管理人さんが頑張ってたの皆は知らないっすからね。管理人さんが元気になったら、遙なんて絶対、自己管理できないなんて本当だらしなさ過ぎ、起きてこられないほど疲労溜め込むなんてバカじゃないの、とか言ってくるっすよ。」

 「あー。それ、凄く想像つく。」

 「で、あいつの事だから。自己管理できないなら日頃からこういうのに頼ってみれば。姉さん達にきいて、お勧め用意してあげたから。ほら、女って男には解らない不調とかもあるでしょ。俺がわざわざ用意してあげたのに、いくらものぐさだからって、飲み忘れたら許さないから。とか言って、サプリメントとか渡してきそうっす。」

 「うわー。それ凄く、遙君っぽい。って言うか、片岡君、遙君のモノマネ上手いね。」

 「たまに三島さんに付き合ってエチュードとかやってる効果っすかね。実際に遙が、女の事は男じゃ解らないこと多いし、姉さん達にちょっと聞いてみる、なんだったらお勧めのサプリとか用意してあげてもいいしとか言ってたから、ちょっと創作してみたっすよ。ってか、遙ってマネしやすくないっすか?」

 「言われてみるとそうかも。こんな話ししてるの見つかったら、凄く不機嫌そうな顔して、ちょっと、なに人のことネタにして勝手な話ししてんの、とか言われそう。」

 「勝手に人が凄く心配してたみたいなこと言わないでよ。別に、俺はそこまで心配してないから。とか?」

 「まぁ、ちょっとだけ、起きてこなかったのは心配にはなったけど。それだけ元気ならもう平気なんじゃないの。ってか、夜更かししてないでさっさと寝なよ。それで昼夜逆転でまた寝坊続きとか、本末転倒だからね。みたいな?」

 「あー。解るっす。超、あいつが言いそう。」

 「遙君に怒られるのを想像してたら、こんな風に遊んでないで早く寝なくてはって気がしてきたよ。とういうか、もうこんな時間?片岡君もごめんね。夜更かしに付き合わせちゃって。」

 ふと時計を見て、体感よりずっと時間が進んでいるのに気が付いて、和実は焦った。

 「別に良いっすよ。俺は、そうやっていつも通りな管理人さんが見られて本当にホッとしてるっすから。多分、顔合わせないままで寝るより、今の方がよく寝れるっす。風呂使うなら、先使って下さい。その間に俺は、食器片付けて朝ご飯の下ごしらえしちゃうっすから。米セットして、おかずも火に通すだけにしとけば、いつもより遅く起きても平気っすからね。」

 「じゃあ、お言葉に甘えて。片付けもよろしくお願いします。今日はシャワーだけにしてすぐ寝ることにするよ。片岡君もできるだけ早めに休んでね。」

 そんなやりとりをして。そんなやりとりにホッとして、和実は湊人にお休みなさいと声を掛けて食堂を後にした。大丈夫。昼間より今はずっと落ち着いてる。片岡君の言うとおり、疲れてるから余計なことを色々考えちゃうだけで、きっと休めば大丈夫。ちゃんと休んで、それで、明日からはちゃんといつも通りになれる。そう思う。


         ○                           ○


 「今日は良い天気だね。陽気も良いし、絶好のピクニック日和だね。サクラハイムからも結構近場だし、庭園とか、噴水とか色々モチーフにしやすい所が多いからここにしてみたけど。この陽気の影響か、今日は人が多いな。ここ、雰囲気が良い割に普段はそんなに人がいるイメージなかったんだけどな。」

 耀介と二人でスケッチに出掛ける約束をしていた日、目的の公園に着いて、和実はそんなことを口に出した。

 「管理人さんは、ここには良く来てたっすか?」

 「かなり通い詰めてたよ。実家がこの近くなんだけど。小学校とか中学校の写生大会、だいたいここだったし。その印象もあってか、高校時生になってもよくここに写生しに来てたんだ。美術部の先輩に凄く水彩画が上手い人がいて、憧れちゃってさ。わたしなんて全然だったんだけど、少しでも近づきたくて。休みの日はここに来て写生して、練習しまくってたのですよ。」

 「じゃあ、ここは管理人さんの美術の原点、みたいなもんすか。よく解んねーけど。俺も、勉強させてもらうっす。」

 「そんなたいそうな物じゃ。でも、ここ、初心者向けのモチーフ多いから、練習するには丁度良いかなって。同じモノばっか描いてると飽きちゃうけど、色々あると気分転換にもなるし。上手く描けなかったら、やっぱこっちにしようかなとかできるし。いやー、当時もそんなこと言って、そんなこと言ってるから上達しないんだって、怒られちゃったんだけどね。とりあえず今日は、技術云々よりも、描きたい物を好きなように描いてみることから始めよう。藤堂君は何処描いてみたい?ちょっと回って、場所取りしようか。人の邪魔にならないようにね。」

 そんな会話をして、二人で公園内を散策して。目に映る公園内の景色に、学生時代の思い出が蘇って、和実は懐かしく思った。それと同時になんだか息苦しくなっている自分を感じて、変な感じがする。寝込んじゃってから、皆にも気を遣ってもらっちゃって、自分でも意識してしっかり休んで、すっかり体調も良くなってたはずなのにな。もしかして運動不足?この程度歩いただけで、辛くなるとか重傷だな。皆に休んでろ休んでろ言われて、ちょっとだらけ過ぎちゃってたかも。元気になったんだしちょっと意識的に運動すること心がけよう。なんて考えてみる。

 耀介が、アレにするとモチーフを決めて、二人は周囲に気を配りながら場所を確保して、写生道具を開いた。

 「なんか、写生とか久しぶりだな。藤堂君に教えてあげるとか言いながら、自分が全然描けなかったりして。」

 「今日は技術より描きたい物を好きなように描く日っすから。平気っす。」

 「そうだったね。まぁ、元々勉強よりも気分転換目的の方が強いし。じゃあ、気張らずに描きますか。」

 「っす。」

 「藤堂君は、今日は鉛筆画のスケッチだけにする?色々モチーフ変えて描くのも良いし。色付けるなら、一応、絵の具とか色鉛筆も用意してるあるから。同じモチーフで、趣向を変えるのも楽しいかもよ。」

 「とりあえず、描いてから考えるっす。」

 「そうだね。なんか気になることあったら声掛けて。」

 「っす。」

 そんなやりとりをして、お互いキャンパスに向かう。今日はわたしはどうやって描こうかな。藤堂君にはちゃんと基礎的なやり方教えてあげた方が良いかもしれないけど、自分は遊びだから好きで良いよね。なんて考えて、和実は色鉛筆を選んで写生を始めた。ここはこの色かな、いやこっちにしようかななんて考えながら次々色を変え、スケッチブックの上に形を作りあげていって、和実はふと、耀介が絵を描く手を止め自分の手元をじっと見ているのに気が付いた。

 「あ。すんません。管理人さんがあまりにスラスラ描いてくからスゲーなって。色鉛筆。やり直しきかねーのに。しかもころころ色変えてんのに、形ができたらちゃんとそれに見えるっていうか、違和感がないのがすげー。」

 「そうかな?そう褒められると照れちゃうな。こんなの、慣れと勢いだよ。失敗を怖れず、どれだけ大胆になれるかが勝負みたいな?遊びだからできることでもあるけどね。」

 「そうなんすね。でも、スゲーっす。」

 「実はわたし、こういうのが好きで、こんなことばっかやってたから。ちゃんと描くのが苦手っていうか。一応、基礎は一通りやってるし。知識としては教えてあげられるけど。技術的な意味ではわたしはあまり参考になってあげられないかも。わたし、ちゃんと美術やってる人からは、ちゃんとした絵の一枚も描けないって言われちゃうような人間だし、美大での成績も酷かったからさ。なんとかギリギリ卒業できた感じ。たから、今わたしが描いてるようなのは参考にしちゃダメ。っていうか、まねしちゃダメだよ。」

 そう口に出して、和実は苦しくなった。そんな子供の落書きのような絵ばっか描いて。基礎から逃げているからろくな絵が描けないんだ。くだらない、そんな物になんの価値がある。誰かの声が頭に響く。あぁ、まただ。またこれが来た。嫌だ。思い出したくない。思い出したくない。そう願って、暗い部屋の中で、ひたすらに絵を描いている自分の幻像が見えた。ちゃんとしたものを描かなくちゃ。ちゃんとした物。評価される物。認めてもらえる物。頑張るから、頑張ってるから、ちゃんと基礎も勉強して、美大にも行って学んで。いつになったら認めてもらえるの。いつになったら評価してもらえるの。もうムリ。わたしはもう限界。もう頑張れない。評価なんてどうでも良い。頑張ったねって、ただそれだけで良かった。評価なんかしてもらえなくても、ただそれだけで、楽になれたはずだった。

 『結局、そこまでして所詮こんな物しか描けないんだね。君に才能なんてない。君は何にもなれない。ただの凡人のくせに、たった一回の奇跡で舞い上がって。本当滑稽で見てて恥ずかしいよ。君の絵なんてなんの価値もない。そんなものしか描けない君も。さようなら。』

 価値のない絵しか描けないわたしには価値がない。ちゃんとした絵が描けないわたしには。描かないと。ちゃんとした絵を描けるようにならないと。ちゃんとした絵ってなんだろう。ちゃんとた絵。ちゃんとした人にちゃんと評価されるちゃんとした絵。ムリだよ。君にはできない。君は評価されない。よくそんな絵を恥ずかしげもなく外に出せるね。そんなんで勘違いして恥ずかしくないの。ちゃんとした絵を描かなきゃ。まだそんなもの描いてるの。くだらない。ちゃんとした絵を描かなきゃ。ちゃんとした絵を・・・。

 「管理人さん、大丈夫っすか?」

 そんな耀介の声に、和実はハッとした。

 「まだ体調本調子じゃないんじゃないっすか?なんなら、今日はもう止めにして帰った方が・・・。」

 「大丈夫。なんかここのところ皆に甘やかされてダラダラしちゃったから、運動不足が加速しちゃったみたいでさ。さっきもちょっと歩いたらしんどくなっちゃったりして。」

 「そうっすか。なんていうか、俺でも解るくらい顔色悪いっす。戻って横になった方が良いんじゃないっすか?」

 「いやー。戻ってダラダラすると余計悪い気がするし。少しは日に当たってたほうが健康によさそうだし。わたしは写生止めにして、ひなたぼっこでもしてようかな。逆に、今立ち上がって歩くのしんどいかも。少しここで休ませてもらうよ。」

 「っす。じゃあ、帰るときまだしんどかったら言って下さい。俺、おぶって帰るんで。」

 「いや。それは恥ずかしいから遠慮させて。大丈夫。そこまで具合悪くないよ。そこまで調子悪くないからね。」

 そんなやりとりをして、耀介がまた自分のキャンパスに向き合うのを和実は眺めていた。藤堂君にも心配掛けちゃったななんて思って申し訳なく思う。そっか、自覚してなかったけど、わたしにとって美術ってもう毒みたいな物になってたんだ。好きなんだけどな。今でも。本当に好きなんだけどな。諦めようと決めたとき、完全に離れてしまったから気付かなかった。少しずつ前向きになることができて、また今度は趣味として、ちょっと描いてみようかななんてはじめっちゃったから。ただの趣味。そして、自分の絵を喜んでくれる誰かのためだけにちょろっと描くだけ。そして、いつかの自分と同じように美術を仕事にすることを夢見て頑張る人を応援したいだけ。ただそれだけなのに。ちゃんとした絵を描くことは諦めたんだから、皆に認めてもらえる絵を描く事は諦めたんだから。描きたいように楽しむだけにするって決めたんだから。もう、あんなこと思い出さなくても良いのに。忘れていた。完全に。半引きこもりになっていたときだって。わたしは忘れてたんだ。あんなことがあったって。半引きこもりになって、絵を描き続けていたとき、焦燥感に駆られて描き続けていた。絵本作家になるという夢を諦め切れず、それにしがみついて描き続けていたんだと思っていた。でも、本当は。本当は違ったんだ。わたしが半引きこもりになったのは。そんな大層な理由じゃない。ただ幼くて、どうしようもなかった。これはわたしの、幼くて、バカみたいで、どうしようもない、苦い恋の結末だった。バカみたい。本当、バカみたい。今なら解る。あの人に言われたことが、そんなものに耳をかす必要がないくらい、そんな物に傷つく必要なんて無かったくらい、どうしようもないくだらない言葉だったって。切り捨てていい言葉だったって。あんな人、切り捨ててもいい人だったって。でも、あの頃はそれにしがみついてしまった。そして、どんどん追い込まれて、最後には自分の方が切り捨てられた。切り捨てられたのに、それを取り戻そうと足掻いたりなんかして。バカみたい。そんなものに呪われて。大好きなことができなくなるなんて。大好きなことを楽しめなくなるなんて。本当、バカみたい。バカみたい。

 誰かの着信音が聞こえて、和実の意識はここに戻ってきた。音の方に視線を向けて、耀介が電話でやりとりをしているのが目に入る。

 「今から、片岡さんが弁当持ってこっち来るって。」

 通話を切った耀介にそう言われて、和実はなんでと疑問符を浮かべた。

 「なんか、真田さんにチーズタルト作ったから差し入れに持ってけって押しつけられたって言ってたっす。真田さんはなんか急用ができて持ってけなくなったからって。陽気も良いし、弁当作るからピクニック気分で一緒に昼にしようって言ってたっす。」

 「そうなんだ。真田君も、わざわざ片岡君に押しつけてまで差し入れしなくても良いのに。でも、確かに良い陽気だし、ピクニック気分でお昼って良いね。お弁当、何持ってきてくれるんだろ。ちょっと楽しみだな。」

 「っす。なんか、わんぱくサンド作るって言ってたっす。一回挑戦してみたかったけど、作る機会なかったから丁度良いって。」

 「わんぱくサンド?」

 「っす。俺はどんな物かわかんないっすよ。」

 「だよね。サンドって付くぐらいだからサンドイッチかな?名前的にもなんか楽しそうな感じがするよね。片岡君の作る物なら美味しいに決まってるし、どんな物かは見てのお楽しみにしておこう。」

 「っす。」

 そんなやりとりをして、和実は絵の方はどんな感じ?と耀介のキャンパスを覗き込んだ。そして、そこに自分が描いていたような描き方をしたであろう色鉛筆画の絵があって、まねしちゃダメって言ったのにと苦言を漏らした。

 「俺は、ちゃんとした絵ってよく分かんないっすけど。管理人さんの絵がスゲーなって、自分もやってみたくなったっす。今日は好きに描いて良い日だから、いいだろ?」

 そんなことを言われて、なんとも言えない気持ちになる。

 「で、見よう見まねでやってみたっすけど、見ての通り俺のはぐちゃぐちゃになった。どうしてだ?」

 「うーん。スケッチ自体は対象物の特徴をよく捕らえられてて良いと思うんだけど。色の組み合わせの問題かな。藤堂君はまだ色彩の勉強してなかったっけ?青と赤を混ぜると紫。黄色と赤で茶色。青と黄色で緑。そんな感じで原色同士を組み合わせて他の色は作れるんだけど、全部の色を混ぜると黒に近くなるの。だから、相反する色を組み合わせすぎるとどうしても暗くなってっちゃって。あと混沌とするからこんな感じに。」

 そんな話しをしていると、耀介が難しい顔をして、その頭の上に疑問符がいっぱい浮かんでいるように見えて、和実は色々試してみれば良いよと言って笑った。

 「遊びだからさ。色々試してるうちに感覚で覚えるよ。とりあえず、まずは同系色だけに絞ってやってみようか。」

 「どうけいしょく・・・?」

 「えっと、じゃあ、とりあえず黄色ね。黄色だけでも、これだけ沢山の種類があるでしょ。これだけ使って描いてみよう。」

 そんなやりとりをして、耀介が言われた通りに黄色だけを使って描いていくのを眺め、和実は感心した。意外とデッサン始めた初めの頃から絵描くの上手かったけど、腕あげたなと思う。ちゃんと濃淡に合わせて使う黄色を変えて、本当に細かいところまできっちり丁寧に描き上げていく姿に、藤堂君は本当に職人向きだななんて思う。わたしはなんて言うか適当で大雑把だからな。こんな自分が本当に彼に美術を教えて良いんだろうか。そんなことを思って、少し苦しくなる。でも耀介から、今度はどうしたら良い?とか、ここが上手く描けないんだがとか言われながら、それに答えていって。自分の適当な技法を酷く感心した様に聞きながら、スケッチブックの上の絵が変わっていくのに静かに目を輝かせている彼を見て、嬉しくなって。そうしているうちにだんだん息苦しさが軽減していき、耀介とのやりとりが楽しくなって、どんどん積極的に指導していくようになって、和実はいつの間にか彼と一枚の絵を仕上げていく作業に夢中になっていた。そして、色鉛筆画が完成して、ふと我に返って、和実は大丈夫かもしれないと思った。少し、変な感じに心臓がバクバクしてるけど、大丈夫。ちゃんと楽しめた。ちゃんとできてた。こうやって誰かが一緒なら、否定しないで一緒に楽しんでくれたなら、少しぐらい悪い言葉が頭を過ぎったって無視できる。冷静になった瞬間、少し変な感じはするけど、夢中になってる間は楽しかった。大丈夫。きっとコレなら。これからは、少しずつ、無視できるようになる。そのうち本当に気にしないで、どうでもよくなって、あんなこと本当に忘れてしまえる時が来る。良かった、わたしは大丈夫だ。ちゃんと大好きなことを心から楽しんでできるようにまた戻れる。きっと。そう思って、和実は酷くホッとしている自分を感じた。

 「おー。スゲー。さっきとは全く違う絵みてーだ。」

 「でしょ、でしょ。で、仕上げに絵の具をこの上に薄く被せるように・・・。」

 そんなやりとりをして、色鉛筆で描かれた耀介の絵に絵の具を重ねようとして、

 「和実?」

 そう自分の名を呼ぶ声が聞こえて、和実は手を止め顔を上げ、そして固まった。

 「やっぱ、和実か。なにをしてるんだこんな所で。」

 そう言いながら、男性が近づいてきて、耀介と自分を値踏みをするように見比べて、自分達が描いていた絵に侮蔑したような視線を落として。

 「まだこんなくだらない物を描いていたのか。まだ美術の世界に縋り付いてたとは滑稽だな。そんなに過去の栄光に縋っていたいのか。それ以外に自分を評価できるところがないから縋るしかないんだろうが。ろくなものが描けないで、ちゃんとした評価なんて得られないからといって、芸術になんて縁のないこんな素人を捕まえて先生気取りとは。本当、つくづく君は無様で救いようがない。」

 男性がそんな言葉を吐き出して、和実は心臓が痛いほどバクバクして呼吸ができなくなるほど苦しくなった。なんでこの人がここにいるの?なんでこの人が話しかけてくるの?なんで・・・。嫌だ。嫌だ。聞きたくない。それ以上何も言わないで。さっさとどこかに行って。そんなことを思いつつ何も言葉が出てこなくて、蔑むように自分を見る男の顔から目がそらせなくて、和実はそのままただただ男の口から溢れ出る暴言を受け止めていた。

 「君みたいなろくでなしに、でたらめで役に立たないメチャクチャな技術を仕込まれるなんて、君の生徒はかわいそうだな。君なんかに教えられて、自分は美術をやっていたなんて勘違いをして。世に出た時、バカにされ、嘲られ、恥をかかされることになるんだからな。それが解っていながら、自分の虚栄心のためだけに人に教えるなんて。君はなんて自分勝手でどうしようもない人間なんだ。本当、君みたいな人間がまだ恥ずかしげもなく人前で美術をしているなんて。反吐が出そうだ。」

 頭が痛い。聞きたくない。思い出したくない。でも、ここで逃げたら。わたしはこれからもずっと、この言葉に呪われ続けたままだ。そう思う。こんな言葉は聞かなくて良い。切り捨てて良い。この人はもう自分とは無関係の赤の他人だ。なにか返さなくちゃ、反論しなきゃ、戦わなきゃ。じゃないとわたしは・・・。そう思うのに、言葉が出てこなくて、身体が動かなくて。ただただ怖くて、痛くて、苦しくて。

 「止めろ、耀介!」

 そんな湊人の声が聞こえて、和実は金縛りが解けた。

 気が付けばそこに、いつの間にか湊人がいて、真っ赤な顔を怒りに歪ませている耀介を抱えて抑えていた。そしてその向こう側に男性が恐怖に顔を青くしているのが見えて。和実はいったい何があったんだろうと思った。

 「ほらほら、大丈夫だから。耀介。ちょっと落ち着くっすよ。お前の気持ちも解るっすけど、そんなことしたら中学の時の二の舞になるっすよ。頑張ってきたのに、それがパーになったら大変っすよ。ここは冷静に、な。ちょっと落ち着いて。弁当持ってあっち行ってるっすよ。なんなら中身全部食べていいから。腹満たして、頭冷やしてこい。」

 鼻息荒く、興奮して今にも男性に飛びかかろうとしている様子の耀介を抑えながら、いつもの調子で、場違いなほど優しい穏やかな声であやすようにそう声を掛けて宥め、湊人は、少し冷静になった耀介に、保冷バックを渡してその場を離れさせた。

 「すみません。あいつちょっとカッとしやすいところがあって。大丈夫っすか?」

 そうやって、いつも通りの調子で男性に穏やかに話し掛ける湊人を見て、和実は、やっぱ片岡君は片岡君だななんて思って、なんとも言えない気持ちになった。たぶん、あの様子だと藤堂君があの人に殴りかかろうとしちゃったんだもんね。きっかけがどうであれ、場を丸く収めるためには、大人になって謝るのが正しい。だけど、なんでわたし、ちょっと今苦しくなってるんだろう。これが正しい対応だと思うのに、正しくなくて良いから自分の味方をして欲しいだなんて、わがままだな。片岡君は自分の何でもないのに。本当、わたしどうしようもない。そう思う。

 「なんなんだ、急に。あんな・・・。」

 「本当。驚かせちゃって申し訳ないっす。いやー。でも、間に入るのが間に合って良かったっすよ。あいつ、前はけっこう荒れてて。日頃からカッとなっても手を出すなって言い聞かせてるし、あれでもあいつ、だいぶ落ち着いて我慢できるようになったんすけどね。どうにも我慢できなかったみたいっす。間に入るのがもう一歩遅かったら、確実に大怪我負わせちゃってたと思うっすから。本当、間に合って良かったっすよ。」

 「そうだ。怪我しなかったからいいものの。あんな粗暴な男、今すぐ警察に突き出してやる。」

 「何言ってるっすか。殴られもしてないし、怪我もしてないのに、警察突き出しても、警察は捕まえてくれないっすよ。本当、何もなくて良かったっすね。お互いに。あなたが病院送りになるのはどうでも良いっすけど、あなたみたいなクズ殴ってあいつのこれからがパーになったら大変っすから。本当、良かったすよ。間に合って。」

 そう言う湊人の声はいつもどおり朗らかで、いつも通り穏やかな笑顔で話してるんだろうなと思わせるのに、その内容に酷く棘があって、和実はなんだか変な感じがした。

 「本当、コレに懲りたら、気軽に人に暴言吐くの止めた方が良いっすよ。世の中温和な人ばかりじゃないっすから、今度は本当に殴られちゃうかもしれないっすし。病院送りなら良いっすけど、打ち所悪ければ死んじゃうケースもあるっすから。ほら、たまにニュースでも口論から喧嘩になって殺傷事件なんていうのが流れてたりするでしょ?世の中なにがあるか解らないっすからね。それに、なんて言うか、よくこんな公然とした場であんなことできるなって、凄く見ててみっともないというか。恥ずかしいというか。あなたみたいな人見てると、弱い物イジメして鬱憤晴らさないと人生やってけない可哀相な人なんだなって、憐れみすら感じてくるっすよ。でも、自分の人生が悲惨だからって、他人巻き込まないで欲しいっすね。可哀相な人だとは思うっすけど、だからって、大切な人傷つけられたら腹立つんすよ。本当は、そのままぶん殴らせてやりたかったっすけど、でもそういうわけにもいかないっすから。なんであなたみたいな人間守ってやらなきゃならないんだとか思うと、本当、嫌になっちゃうっすよね。本当、とんだ迷惑っす。嫌っすね、人の迷惑考えられない大人とか。本当迷惑だし、歩く公害みたいなもんなんすから、あなたみたいな人、外に出てきて欲しくないっすよ。本当、反吐が出るとかそんなレベルじゃないっす。あなたみたいなのと関わるとストレス酷くて寿命が縮むっすから。だから、もう二度と関わらないでもらえませんか?お互いのために。次、なんてあったら、今度はどうなるか分かんないっすからね。」

 そう最後まで穏やかな口調で言い切った湊人は、きっと良い笑顔をしてるんだろうななんて思うと、なんか妙に可笑しくて、なんか妙に嬉しくて、その背中が凄く頼もしく見えて、安心できて、和実は力が抜けた。何も返す言葉が出てこなかったのか、口をわななかせて、顔を白黒させてその場を立ち去る男性の姿を見送って、和実は急に身体が震えだして、涙が溢れてきた。なんだろう。ホッとしたのに。あの人がいなくなって、凄くホッとしたのに。急に、どうして・・・。

 「管理人さん。ちょっ、大丈夫っすか?」

 動揺し慌てたような湊人の声が聞こえる。

 「大丈夫。大丈夫なんだけど・・・。」

 声が震える。そして、よく解らない叫びたくなるような衝動が身体を突き抜けて、いっきに大量の涙が溢れ出して、

 「大丈夫だから。ごめん、なんか安心したら気が抜けちゃって。ちょっと、落ち着いてくる。」

 ちゃんと言葉になっていたか解らない。でも、そう口にして、和実は踵を返し走り出した。

 走馬燈のように高校時代の思い出が溢れだしてくる。忘れていた。忘れたかった。ずっと、自分の奥底に隠れていた傷の記憶。


 「凄い、素敵な絵。これ、二年生の人が描いたんだ。」

 それは、堂々と玄関に飾られていた一枚の水彩画。入学してすぐ、初めての登校日。その絵を見て、その絵に目が釘付けになって、そして心が奪われた。絵に添えられたステートメントを見て、その作者にも心惹かれた。美術部の二年生。美術部に入れば、その人に会えるかな。この絵を描いた人はどんな人なんだろう。そんな期待感に胸を膨らませ、その時にはもう、まだ見知らぬその人に恋をしていたのかもしれない。あまりにも幼くて、あまりにも世間知らずだった当時のわたし。

 その人は凄い人だった。数々のコンクールで入賞するような。とても凄い人だった。美術部に入部して、実際にその人に出会って、わたしはその人の描き出す世界に夢中になった。彼の筆捌きを見ているのが好きだった。彼の生み出す世界が好きだった。あまりにもずっと見ていて、集中できないなんて苦笑された。まねしてみて、まねできなくて、君は色々と雑すぎるなんて笑われた。でも、当時の彼は丁寧に教えてくれた。君の描く絵はメチャクチャだけど、暖かみがあっていい絵を描くねなんて褒めてくれた。それが凄く嬉しくて、あの時間は幸せだった。

 彼の描く絵が好きだった。いつだって、彼の手元を見ていた。彼の描き出す世界が好きで、自分もそんな風な絵が描きたいと、夢中になって描いていた。今思うと、自分が本当に彼に恋していたのか解らない。幼くて、絵に抱いた感動をそのまま作者である彼に重ねていただけのようにも思う。それでも、当時は彼が好きだった。好きだと思っていた。だから、付き合わないかと言われたとき、喜んでそれに応えた。付き合い始めると、距離が近くなって、より多くの時間を一緒に過ごすようになって。沢山の絵を一緒に描いた。ここをもっとこうした方が良いだとか、君のこういう所を直した方が良いだとか、だからダメなんだと言われるのも、本当に親身になって教えてくれる人だなと思っていただけだった。こんなに一生懸命教えてくれるんだから、期待に応えないと。そんな風に思った。言われた通りに直せば褒めてくれるから、それが嬉しくて。少しだけ彼に、彼の絵に近づけたような気がして、とても嬉しかった。彼に教えられ、どんどん自分が上手になっていると思っていた。でも、一度だってコンクールで入賞することはなかった。だから、やっぱ彼は凄いなって憧れて。自分は全然ダメだなって落ちこんで。でもいつか、自分も彼のように絵が描けるようになるだろうかと、描けるようになれば、彼の絵を見た時と同じように、自分も誰かに感動を届けられるだろうかと、そんな日がくるのを夢見ていた。

 優しい人だと思っていた。面倒見がいい人だと思っていた。彼の絵が好きだというわたしに、丁寧に描き方を教えてくれて、わたしが描く絵に細かく指導をしてくれて。ダメ出しをしながらも褒めてくれた。落ち込んでるときも慰めてくれた。君の絵には君の絵の良さがあるんだから、そのままでも良いんだよって言ってくれた。コンクールに入賞するだけが価値じゃないって、賞なんてとらなくてもいいんだって。他の誰もが評価しなくても、あの人はわたしの絵が好きだって、当時は言ってくれていた。わたしの価値を一番解ってるのはあの人だって、わたしにはあの人しかいないって。そう言われて、そう信じていた。今思うと、きっと、あの頃からそう思い込まされていた。

 恥ずかしかったから、絵本を描いていることは内緒にしていた。趣味のような物だから。あの人が描く絵画とはまた違った物だし。でも、描いているとき、いつだって彼のことを考えていた。彼の絵を思い描いて、彼から教わった技術も生かして、いつも大雑把なところを指摘されるから、丁寧に、丁寧に、自分が本当に心から描きたい物を、自分なりの方法で描きあげた。これを見せたらどんな反応をするだろう。そう思って、絵本を作りながらワクワクしている自分がいた。あなたから教わったことや言われたことを意識して、あなたの絵みたいに人に感動が届けられるようにって一生懸命描いたんだよ。そう伝えたら、彼はなんて言うだろう。そんなことを考えていた。だから、絵本が完成したとき、コンテストに応募する前に彼に見せようかと思った。でもやっぱり恥ずかしさの方が勝って、見せるのが凄く恥ずかしくて、結局見せなかった。でも、結果が出たら報告しようと思っていた。どんな風に描いたのか、どんな思いで描いたのか、それを彼に伝えようと思っていた。入賞してもしなくても、きっと彼はいつものように受け止めてくれると信じていた。そして、結果が出て、入賞して、出版される事が決まって。わたしは、嬉々として彼に報告しにいき、そんな一度きりの奇跡のようなことではしゃぎすぎだと怒られた。一緒に喜んでくれると、褒めてくれると思っていたわたしは落ち込んだけれど、でも、何回も絵画コンクールで入賞している人からしたら、そういうものなのかと妙に納得している自分がいた。それでも、おめでとうとは言ってくれたから、応援してると言ってくれたから、嬉しかった。一度だけじゃ奇跡でも、彼と同じように何度も賞が取れたなら、認めてくれるのかな。そんな風に思った。

 賞を取ってから、彼の態度が徐々に変わっていった。いくら絵本というのは絵だけがメインじゃないとは言え、あんなでたらめを世に出すの恥ずかしいと言われた。世に出すなら、もっとちゃんとしたものが描けるようにならないとと言われた。わたしのことを思って言ってるんだと言われて、それを素直に信じていた。僕は君の絵が好きだけど、君に恥ずかしい思いをして欲しくないから。酷い評価を受けて傷ついて欲しくないから。そんなこと言われて、それを素直に信じていた。だから、彼の言う通り、彼に言われるまま、ちゃんとした絵を描く練習をひたすらにしていた。こんなんじゃまだダメだよ。これじゃいけない。そう言われ続け、でも、実際に奇跡のような一回でも評価された自信が、ある日一度顔を出し、わたしを彼に反発させた。そして、優しかった彼はいなくなった。

 今思えば、あの時わたしを反発させた自信を失うべきではなかった。自分にはもう彼以外にも居場所があるのだと、評価してくれる人がいるのだと、胸を張って、彼に反発し続けるべきだった。でも、当時のわたしは、彼の態度の急変に、彼はあんなに自分の事を思って色々してくれたのに自分の心ない言葉で彼を傷つけたと後悔し、彼に失望されたとショックを受け、彼にまた自分を受け入れてもらいたいと、彼に縋り付いた。そして、それまで以上に彼に従順になっていった。でも、彼の態度は元には戻らなかった。暴言だけが増えていき、わたしの絵を好きだと言ってくれなくなった。ひたすらに貶されて、堕とされて、自分は価値のない物だと、自分の絵はくだらない物だと言われ続けていた。それでも彼からの評価求め、彼に見捨てられるのを怖れ、彼にしがみついていた。ただ盲目に、彼にしがみついていた。

 解らなくなっていた。何が正しいのか。どうしたら良いのか。何をどう描けば良いのか解らなくなっていた。でも、ただひたすら描き続けていた。ちゃんとしたものが描けるように、描き続けていた。君は基礎がなってないから、こういう所でちゃんと学んだ方がいい。そう言われて美大に進むことを決めた。美大への進学を親が反対すれば説得に協力してくれた。美大受験への勉強を付きっきりで教えてくれた。だから、厳しいことを言うけれど、本当にそれはわたしのためなんだと。わたしのことを想って言ってくれているのだと思っていた。褒めて欲しい。認めて欲しい。ちゃんとできるようになれば、前みたいに好きだって、頑張ったねって言ってもらえるかな。そんなことを考えて必死になっていた自分は本当にバカみたいだ。あんなのは優しさじゃない。あんな人に、あんな言葉に縋り付いていたなんて、本当にバカみたいだ。でも、当時のわたしは必死に勉強して、必死に知識を身につけて、でも、実技となるとどうすれば良いか解らなくなって。指導者から言われた苦言を彼に報告し、彼からほらみろと、君は誰がどう見てもダメなんだよと言われた。彼がこうすれば良いというのを聞いて、その通りにやって。彼から、自分一人では何もできないと、何も成せないと、結局彼がいないとダメなんだと言われ、そうだと思い。自分という物がわからなくなっていった。彼から自分は離れられない。彼がいなくてはどうにもできない。彼だけが自分の全てだと、そんな錯覚さえおこすようになっていた。

 ある日、自分の絵本を出版してくれた出版社から連絡があった。あの一度きりで、それ以降音沙汰がないけどどうしてるのかと。わたしのそれからに期待していたと言われた。もしまた描くつもりがあるのなら描いてみないかと言われ、いつでもいいから描けたら持ってきて欲しいと言われ、わたしはあの時何故か描く気になった。そして描いた。二作目の絵本を、わたしは確かに描いて。そして描き上げた。描き上げて、わたしは言われたとおり出版社に持っていこうとしていた。でも・・・。

 『まだこんなもの描いていたのか。あれほど言ったのに、君は全然解っていないんだね。僕はあんなに君のことを思って、真剣に君と向き合ってきたというのに、僕に隠れてまたこそこそとこんな物描いて。凄く悲しいよ。でも、結局、そうやって僕抜きじゃ、君はこんなものしか描けないんだね。子供の落書きみたいな、幼稚で価値のないくだらない絵だ。あんなに教えてあげたのにいつまでたってもこんな物しか描けないなんて、本当に君には失望したよ。』

 そう言われて、何も返せなかった。ただ、怖かった。ただ怖くて。それをどうするのか訊かれ、こんな物必要ないでしょと言われ、そして、頷いてしまっていた。

 『必要ない物なら、僕が捨ててあげるよ。』

 そう言って、彼は嗤った。嗤って、わたしの目の前でそれを破り捨てた。そして、わたしも切り捨てられた。わたしには価値がないから、価値がないわたしはいらないって。


 「管理人さん!」

 そんな湊人の声が聞こえて、和実は引き寄せられ抱きしめられていた。

 「大丈夫。大丈夫っすよ。」

 そう湊人の優しい声が耳に響いて、そして優しく背中を擦られて、和実は訳がわからなくなった。

 「怖くないっすよ。もう怖い事なんてないっす。そんな怖がらなくて大丈夫っすから。ほら、力抜いて。深呼吸して。大丈夫。大丈夫っすから。」

 そう言われて、また涙が溢れ出してくる。湊人の声の優しさに、背中を擦る手の優しさに、抱きしめられたこの暖かさに安心感を覚え、全てを委ねそうになって、でも、委ねてしまうことが怖くて、和実の身体に力が入った。嫌だ。頼りたくない。縋りたくない。こんなところ、こんな姿、晒したくない。見られたくない。嫌だ。怖い。

 「大丈夫。大丈夫っす。今だけなら、お兄ちゃん扱いでも、弟扱いでも、お父さんでもお母さんでも、何でもいいっすよ。何扱いされても良いっす。管理人さんが一番安心できる相手なら、俺のことどんな扱いしてもいいっすよ。だから、大丈夫っす。大丈夫っすから。俺は絶対、管理人さんの事傷つけたりしないっすから。大丈夫。落ち着いて。深呼吸っすよ。ほら、深呼吸っす。大丈夫。怖くない。怖くないっすよ。大丈夫だから。ほら、力抜いて。楽になって。大丈夫。一人じゃないっす。一人で耐えなくていいっすよ。我慢しなくていいっす。我慢しなくていいんすよ。大丈夫だから。」

 言い聞かせるように繰り返される優しい言葉。その声が、響きが、そして温もりが全部優しくて、どうしようもなく安心できて。怖いのに。怖いと思うのに。どうしたら良いか解らなくなって。和実は声を上げて泣いた。言葉にならない声をあげて、子供のように咽び泣いて。怖いから、怖いけど、その温もりに縋り付いて、しがみついて泣いていた。

 「よしよし。もう大丈夫っすからね。もう怖くないっすよ。怖くないっす。怖いことは全部悪い夢っす。皆、管理人さんの事が大好きっすから。管理人さんの事傷つける奴なんて誰もいないっすよ。ほら、皆のこと思い出すっすよ。管理人さんが大切にしてる、大好きな、サクラハイムのことを思い出すっすよ。ね。ほら、大丈夫。皆、管理人さんの味方っす。だから大丈夫っすよ。管理人さんの事傷つける奴がいたら、俺達が許さないっすから。皆傍にいるっすから。ほら、想像するっすよ。花月なんて真っ先に、お姉ちゃんのこと虐めないでって飛んで来るっすよ。遙なんて、俺が言った嫌みよりずっとキツいこと言って絶対相手のことこてんぱんにするっすから。で、あんな奴に言われたことなんて気にする必要ないからって、あいつと俺達、どっちの言うこと信じるの、とか言ってくるっすよ。耀介がカッとなったのだってそう。管理人さんのことが大切だからっすよ。傷つけられて許せなかったからっすよ。浩太がいれば、聞いてる方が恥ずかしくなるような台詞並べて慰めてくれるっす。祐二(ゆうじ)も、一生懸命、管理人さんの良いところ並べて必死にフォローしてくるっすよ。三島さんは、そんな奴の事なんて忘れろって、香坂さんなら、大変でしたねって。ね。想像つくでしょ?真田は最後にいいとこ取りで、甘い物食べれば落ち着くぞとか言って、管理人さんが笑顔になれるように美味しいお菓子作ってくれるっすよ。で、いつもみたいに皆でワイワイ食事囲むでもなんでも。俺も、管理人さんが元気になれるように、美味しいご飯作るっすから。今日の晩ご飯、何が良いっすか?なんでも、管理人さんの好きな物作るっすよ。ね。だから、大丈夫。怖くないっすよ。皆いるっすから。」

 そんな湊人の声に促されて、和実の中にサクラハイムの住人達の姿が蘇り、だんだん気持ちが落ち着いていった。それでもまだ奥の方で何か燻っている。何かがモヤモヤしていて、それがまとわりついてくるようで、不安感が募り、怖くなって、息苦しくなる。でも、大丈夫。皆の姿を思い出すと、大丈夫って思えた。自分の中の何かは消えてはくれないけど、でも、皆を思い出して、皆と過ごす時間を想像して、暖かい気持ちが広がって、その気持ちの方が大きいから。大丈夫。わたしは一人じゃない。わたしには帰る場所がある。暖かで、心地良い、わたしの大切な、大好きな、皆がいる皆の家。


         ○                           ○


 「なに難しい顔してるの。なんか考え事?」

 そう遙に声を掛けられて、湊人は、今日の晩飯何にするか悩んでるっすと答えた。

 「いつも通り、冷蔵庫の中見て何があるかで適当に考えればいいんじゃないの?そんなんで悩むとか珍しい。」

 「ほら、またここんとこ管理人さん、管理人室に引き籠り気味っすから。なんか管理人さんのテンション上がるようなメニューないかなって。あの人、何でも美味しいって食べるし。コレ作ればOKっていうのがないから難しいっすよ。同じ何でも美味しいって食べるでも、耀介や花月はテンション変わるっすから、好きな物わかりやすいし。コレ作ってやれば喜ぶなっていうのがあるんすけど。あの人、そういうのがないっすから。分かんないんすよね。」

 「あっそ。別にそこまで気にしなくて良いんじゃないの。引き籠もり気味って、ただなんか仕事してるだけかもしれないし。あんたは過保護だから、元彼遭遇事件もあったし心配になるのは解るけど。出てきてるときのあの人、顔色も悪くないし、元気そうだし、普通にいつも通りでしょ。何より花月が五号室に戻って、管理人さんにベタベタしなくなったしさ。あいつ野生の勘が働くから。あいつが管理人さんにやたらベタベタして、お姉ちゃんと一緒に寝るとか言って、管理人室に入り浸ってたの、管理人さんがおかしかったからでしょ。それがなくなったって事は、もう大丈夫ってことだと思うけど。」

 そう冷静に遙に指摘され、湊人はそうかもしれないっすけどなんて思いながらも、でも、なんて思って頭を悩まし続けた。それを見て、遙があからさまな溜め息を吐く。

 「ところでさ、元彼遭遇事件って、結局何があったの?耀介、管理人さんが変な男に絡まれて暴言吐かれて泣いちゃったって以外は、わんぱくサンドがうまかったしか言わないから、全然状況分かんないんだよね。世の中には別れた女がいつまでも自分の事好きで待ってるとか思ってる奴いるらしいし。そういう勘違い男の元彼に、デートしてたら遭遇して意味分かんない暴言吐かれたとか、掴みかかられたとか、うちの姉さん怒ってたことあるし。そういう類いの話しなのかなとか思ってたんだけど。うちの姉さん達と違って、管理人さんは強くもないしキツいタイプでもないから、突っぱねられなくて、怖い思いしたのかなってさ。そうじゃないの?」

 そう訊かれて、湊人自身あの時の状況がよく解らなくて、遙の言っている通りな気もするし、そうじゃない気もするし、訳がわからなくなって、考え込むように唸り声を上げた。

 「なんていうか。相手がただの会いたくない元彼じゃなくて、管理人さんがここの管理人さんになる前に、半引き籠もりになってた元凶だったらしいっす。ほら、管理人さんって絵本で受賞して一作出版されてるじゃないっすか。それが相手は気に入らなくて、ちゃんとした絵が描けない癖にとか、こんな物世に出して恥ずかしいと思わないのかとか散々言われた挙げ句、出版社から描くこと勧められて描いた二作目を、幼稚でくだらないってバカにされて目の前で破り捨てられたらしいっす。それで、こないだ遭遇して暴言吐かれたとき、そういうのがフラッシュバックしてパニクっちゃったって。」 

 「そういうこと。そりゃ、長引くわけだ。怖い思いしただけにしては立ち直るの遅いなとは思ってたんだ。ただ、そういうのって個人差あるし、そこまで気にすることでもないのかなって。今はもうすかっかり元通りだし。それより、あんたの方がおかしくなってたから、そっちの方が俺は気になってたんだよね。なんかあったのかなって。あんた、バカみたいにお人好しだし、お節介だし。そんなとこに遭遇しちゃって、そんな事情知っちゃって、管理人さんにどう接せれば良いか解らなくなってたってことでしょ。それで、晩ご飯どうするかでそんな深刻に悩む事になるとか、バカじゃないの。」

 「お前な・・・。」

 「おかんに求められてるのは包容力と安心感だから。特別な何かなんて求めてないから。そういうときこそ、どんと構えていつも通りにしてなよ。余計なこと考えて変な気を遣うより、いつも通りが一番安心するに決まってるでしょ。ってか、あんたがそんなんだと皆の調子が出なくなるから。ほら、お節介なのがおかんの売りなんだから、引き籠もり気味になってるのが気になるなら、いつも通り様子見に行って声かけてくる。」

 そう遙に背中を押され、食堂を追い出されて、湊人は一つ溜め息を吐いた。いつも通りが一番か。それは、わかるんすけどね。そんなことを考えて、少し気が塞ぐ。正直、管理人さんにいつも通りができないのは俺の問題だしななんて思う。あの時、涙を溢れさせて走り出した和実を見たとき、湊人は何も考えずに追いかけていた。そして、捕まえて、抱きしめて。パニックになって暴れる和実を、離さないように、逃がさないように、絶対に一人になんてさせないように、ただ強く、強く抱きしめていた。なんとか落ち着かせないと、安心させないと。そんなことしか考えていなかった。そんなことしか考えてなかったから、あんなことができた。だけど、落ち着いてから思い出すと・・・・。湊人は顔が熱くなって、深く長い溜め息を吐き出した。一臣には、そこまでいって何も進展しなかったのかと言われてしまった。自分を主張するんじゃなくて皆を主張する辺りが片岡らしいと。そもそもあの場に遭遇することになったのも、一臣に、口実作ってやったから管理人さんのとこ行ってこいと言われたからで。その時も、和実じゃなくて耀介に電話しているのを見られて、お前らしいなと笑われた。そこまでいったなら後一押しなんじゃないのか?なんて言われたが、んな訳あるかと思う。だって、あの時の管理人さんは。パニックが落ち着いて俺に縋り付いて泣いていたときの管理人さんは。俺のこと絶対、布団とか枕とかそんな扱いしてたっすよ。一番安心できる相手扱いしろって言った結果がそれっすよ。あれは、俺に心許して全部委ねてくれたんじゃなくて、結奈がなんかあって部屋に引き籠って布団頭から被って枕抱えて泣いてるときの、布団とか枕とか、そういうのと同じ扱いっすから。俺はしがみつく対象にされただけで、一人で泣いてるのと一緒だったっすから。結局、ずっと力入ったままで、縮こまって、しがみついて咽び泣いてて。あれじゃ、勘違いもできないっすから。だけど、抱きしめたときの感触とか、そういうが自分の中にはしっかり残ってるわけで。思い返すとどうしようもなくなる。わざわざ思い出さなくても、ふとした瞬間に思い出されて、それで・・・。そんなことを考えて、湊人はまた溜め息を吐いた。

 これで様子見に行かなかったら遙がうるさいっすからね、なんて言い訳をして、湊人は管理人室に向かい、ドアをノックした。片岡っすけどちょっといいっすか?と声を掛けると、中からどうぞと声がして、ドアを開け、机に向かっている和実を見て、湊人は、やっぱ遙の言う通り仕事してただけなんすかねなんて思った。

 「あとちょっとだから。少しだけ待っててくれる?」

 そんなことを言われ、湊人はその場で待ちながら、机に向かう和実の背中を眺めていた。一度も振り返らず、こっちの事なんて気にする様子もなく何かに取り組んでいる無防備なその背中に、本当、人の気も知らないでと思う。そして、できたと声を上げ、振り返り、いつも通りの調子で、お待たせ、どうかした?なんて言ってくる姿に、溜め息が出そうになる。あんなことがあったのに、本当、全然意識されてないと思う。ドア開いてるけど、まだ部屋にすら入ってないけど、でも、二人きりで対面しているこの状況に、俺ばっかドキドキして、なんか落ち着かない気分になって。少しくらい自分を見て気恥ずかしそうな様子でも見せてくれれば、多少は男として見られてるのかなとか思えるのに。まったく。そんなことを考えて、湊人は心の中で溜め息を吐いた。

 「いや。最近、よく管理人室に籠もってるっすけど、仕事忙しいのかなと思って。ムリしてないっすか?」

 そう言うと和実がばつが悪そうな顔で笑って、湊人は疑問符を浮かべた。

 「いやー。心配掛けちゃってごめんね。なんて言うか。コレは。仕事ではなくてですね・・・。」

 そう言って、和実が椅子を移動し机の前を空け、少し気恥ずかしそうに、片岡君も見る?と言ってきて、湊人は部屋に入り机の前に向かった。

 「これって・・・。」

 「絵本。描いてみたんだ、また。」

 そう言って恥ずかしそうに笑う和実を見て、湊人は胸が熱くなった。

 「あれからだいぶ落ち着いてきて。それで。なんか描けそうな気がしてきてさ。まだちょっとモヤモヤすると言うか。変な感じはするんだけど。でも、皆のこと考えてれば大丈夫だなって。描いてる途中で、やっぱ辛くなっちゃうこと多かっただけど。だから、凄く時間はかかっちゃったんだけど。でもね。描いてるとき皆の顔が浮かんできて、コレを渡したときの、読んだときの、花月ちゃんの笑顔が浮かんできて。大丈夫だった。少しずつでも前に進んで、それで、ちゃんと、最後まで描けた。」

 そう言って、少し目を伏せてはにかむように笑う和実を見て、そこに喜びと不安と少しの恐怖が混在しているのをを見て取って、湊人は小さく笑って、中見てもいいっすか?と訊いた。

 「どうぞ。どうぞ。」

 「では。作者の了承も得ましたので、記念すべき最初の読者にならせてもらうっすよ。」

 「なんか、改めてそう言われると、恥ずかしいな。」

 「今から、やっぱ見ないではなしっすよ。」

 「じゃあ、見ないでって言わないから、目隠しさせて。」

 「なんすかそれ。目隠しされたら見えないっしょ。」

 そんなやりとりをして、笑い合って。湊人は、管理人さんがこうやってふざけるのは、色々自分の中の物をごまかしてるんだろうなと思った。自分の中の不安とか、恐怖とか、そういうものをごまかして、やり過ごすためのツール。ごまかして前に進めたり、やり過ごして停滞したり、でも下を向かないで、顔を上げて、そこから先をちゃんと見るための大切なツール。そう考えると、管理人さんもたいがい不器用だなと思う。そして、そんなものを見せてもらえる自分は、少しくらい彼女にとって特別な存在になれてるのかななんて思う。他人と言うには近すぎて、恋人になるには遠すぎる。この距離がもどかしくて、苦しくて、辛かった。でも、もし彼女がふざけるのがそういうことならば。そういうことだったとしたら。自分の前でふざけてばかりいる彼女は、自分とのことを少しくらい考えてくれているのかな。前に進むのを躊躇ってるだけで、少しはなんて。そんな風に期待してもいいっすか。そんなことを考えて、湊人は、いや、期待しない方がいいすね。期待するにはちょっと、あまりにも意識されてなさ過ぎる気がする。でも、ちょっとだけ、ちょっとだけ勘違いするくらいなら。勘違いくらいならさせてもらっても良いっすよね。そんなことを考えて、湊人は絵本のページをめくった。


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