諦め切れなかった片想い
「祐二も明後日から大学生か。なんか不思議な気分っすね。」
たまたま居合わせた面々で食堂でお茶をしながら、片岡湊人がそんなことを呟いて、誰かが早いものだなと相槌を打った。
「俺が大学生になれるなんて夢見たいです。去年の今頃じゃ絶対に考えられないことですから。」
「色々あったもんな。」
「奨学金受けようとしたら、家庭の総収入額が多くて落とされたりね。」
「実際には縁を切られてるので親の収入を当てにはできないんですが、書類の上では、俺はまだあの人達の庇護下にいますから。奨学金が望めないって知ったときには、また、ちょっと絶望しかけましたけど。なんとかなって良かったです。」
「AO入試で自分の事情ぶちまけて、金がないし奨学金受けられないけど、どうしても勉強したいんだって必死にアピールしたんだっけ?」
「AO入試で仮合格の結果をもらった後に、学長に直談判しに行きました。このままじゃ自分は合格しても実際に入学できないかもしれないって事情を話して、でもどうしてもここで勉強がしたいって。どうして勉強したいのか、どうしてここじゃなきゃ行けないのか、この大学でどういうことを学びたいのか。思いつく限りのことを話しました。そしたら、今時そんなに必死に勉強したいと言ってくる学生も珍しいって、じゃあ、その気持ちが本当だという証拠を見せて、実際にあなたがそれを成せるという証明をしなさいって、課題を与えてくれたんです。将来の夢について英作文を書いて、まだ日本語訳されていない本を一冊和訳して、センター試験で結果を出して。それで。君の言う通り、君には勉強が必要だって、人生を豊かにし人間として深みを持てるように励みなさいって。特別奨学生枠を与えてもらうことができました。そうやって俺にチャンスをくれた学長先生にはもちろんですが、支えてくれた皆さんに本当に感謝しています。ここを追い出されそうになった時、管理人さんが庇ってくれて、ここに住み続けられるようにしてくれた。自分の将来に絶望して立ち上がれずにいた自分を、花月さんが立たせてくれた。逃げそうになった自分に浩太君が手を差し伸べてくれて、遙君が背中を押してくれた。耀介君がどうにでもなるって励ましてくれて、片岡さんや真田さんがいつも気に掛けてくれた。香坂さんや三島さんには勉強を見てもらって、受験対策に付き合ってもらって。皆さんのおかげで俺今こうして、こうやって。本当にありがとうございました。」
そう言って、風間祐二ははにかんで笑った。そして、ようやくスタート地点に立てたってとこなのにもうゴールみたいになっててどうするとか、良かったねとか頑張ってとか声を掛けられて、祐二は、そうですよね、これからが本番、頑張りますとそれに応えた。
「俺の受験は終わりましたけど、今年は耀介君が受験生ですよね。去年は俺が皆さんに色々支えてもらったので、今年は俺もフォローする方にまわりたいです。」
「耀介の奴はどこ受験するんすかね。前に聞いたときは専門学校とか行ってなんか手に職付けてとは思ってるとか言ってたっすけど。」
「なんか、美大とか芸大のパンフレットを色々もらってきてたな。管理人さん捕まえて、美術の基礎とか美術史なんか教えてもらってるみたいだし。部屋でもよくデッサンの練習してたりするから、そっち系に進むつもりなんじゃないか?」
「そういえば、三島さん達の大学の人に、舞台美術について色々教えてもらってるとか言ってたっけ。新しい趣味でも始めたのかと思ってたっすけど、そっち系に進む気で勉強してたんすかね。でも、耀介が美大生とか芸大生になるって、全然想像つかないっす。」
「藤堂は、前に演劇部の練習に連れていったときに、舞台美術担当の奴にかなり気に入られたみたいでな。そいつに本格的に舞台美術やれって唆されてるみたいだぞ。よく呼び出されてうちの部活に顔出して裏方の手伝いしてるし。その影響でその方面に興味湧いたのかもな。」
「藤堂君はもう、半分うちの部員だよね。」
「なんならうちの大学受験して本入部すればいいのにな。」
「いやいや、耀介の頭で市ヶ谷学園は絶対に無理っすから。耀介は頑張っても精々うちが限界っす。浩太は勉強してこなかっただけで、勉強するようになってからめきめきできるようになってるっすけど、耀介は元々真面目に勉強しててアレっすから。名前書けば入学できるバカ校で、赤点逃れるのがギリギリだったのが、普通にどの教科も七十点以上取れるようになっただけでも凄いくらいなのに、あいつにそれ以上とか求めるのは酷っすから。」
「まぁ、藤堂君がどうしてもうちを受けたいって言うなら応援するけど、積極的に勧めることはできないよね。うちの部を通して舞台美術に興味を持ったんだとしても、うちの大学に舞台美術学べる学科はないし、部活だけしてるわけにもいかないし。平岡から学びたいんだとしても、彼も僕達と同期だから、今年度いっぱいで卒業しちゃうしね。」
「そうっすよね。香坂さん達も四回生か。院に進むつもりじゃないなら今年就活生っすね。お二人はどういうとこ受けるつもりなんすか?」
「俺は舞台俳優志望でずっと来たからな。入りたい劇団もあるし、そこの入団試験は絶対に受けに行く。劇団に所属できなかったら、色々オーディション受けてフリーで活動するつもりだ。まぁ、劇団に所属できたとしても最初のうちは稼げないから、実情フリーターになることは決定だな。」
「卒業前からフリーター宣言とか凄いっすね。劇団に所属できなかったら普通に就職するとかは考えないんすか?」
「企業を受けるつもりはない。俺は夢に妥協はしたくないし、自分に逃げ道も作りたくないからな。」
「健人、それで他の劇団からのスカウトも蹴っちゃったしね。」
「誘いはありがたかったが、入りたいところがあるのに、そこを受ける前から別の所に行くなんて言えるわけがないだろ。」
「そう言い切って行動できる辺り、三島さん、格好いいっすね。俺にはとても真似できないっすよ。俺なら、やりたいって気持ちより、安定してる方に確実に流れちゃうっす。香坂さんは?」
「僕は教員志望だよ。中高の社会科教諭の教員課程を履修してるから、上手くいけば、来年はどこかの学校の社会科の先生かな。」
「あー。学校の先生っすか。香坂さんが学校の先生してるのは、すげー想像つくっす。ぴったりっすね。」
「だな。花月が光、光ってくっついてまわってるみたいに、生徒に香坂先生、香坂先生って囲まれてるのが凄く想像つく。良い先生になりそうですよね。」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう。これから実習行って、試験も受けてだから。実はちょっと、ちゃんと教員になれるのかドキドキしてるところはあるんだけど。いい先生になれるように頑張るよ。」
「香坂さんなら絶対大丈夫っすよ。あー。俺も来年は就活しなきゃなんすよね。俺みたいに普通に生活できるだけの収入得るために働きたいって動機じゃ、まともなとこは取ってくれないっていうし。どうするっすかね。受ける業種絞ろうにも自分が興味ある職業が全く思いつかなくて困るっす。」
「その前に片岡は単位大丈夫なのか?お前、一回生の時はバイト三昧でほとんど講義とってなかっただろ。二回生の時はそこそこ取ってたみたいだが、卒論もあるし、来年に単位残しとくと大変だぞ。」
「大丈夫っすよ。その辺ちゃんと計算してやってるっすから。この調子でいけば三回生の間にほとんどの単位取れるっす。去年はお前にだいぶ助けてもらったし、本当、感謝してるっす。ありがとな。」
「どういたしまして。でも、俺は先輩の助言聞いて、一、二回生のうちに取れるだけの単位を取り終えてるからな。もうそれほどは協力できないぞ。」
「大丈夫っす。無理して金稼がなくても良くなったっすから、今年はちゃんと講義受けて自力でなんとかするっすよ。ところで、真田は希望職種とか決まってるっすか?」
「んー。俺も正直考えてないな。そういうのは四回生になってから考えれば良いかなと。子供の頃は、雑貨屋とかケーキ屋とか、自分の作った物を売るような店やりたいと考えてたこともあったが。趣味は趣味で、職業にする気はな。」
「その子供の頃の夢諦めなくても、お前の作る物なら普通に商売できそうすっけどね。でも、まぁ、自分の店持つなんて中々できることじゃないっすよね。」
「片岡は子供の頃はどんな職業に就きたかったんだ?」
「俺は、ありきたりっすけどサッカー選手になりたかったっすよ。真田の夢と違って、今からじゃ絶対目指せない夢っすけどね。」
そんな会話をしていると、真田一臣のポケットから着信音が響いて、彼はスマートフォンを取り出してその場を離れた。
『あ、もしもし真田君?三丘町で写真館をやっている北村ですが、解るかな?写真コンクールや写真展でちょこちょこ顔合わせてるんだけど。』
電話に出るとそう男性の声が聞こえてきて、一臣は、去年始めて参加した写真コンクールで、自分の撮った写真を見て良い写真だねと笑顔を向けてくれた、還暦を過ぎたかなというくらいの年の頃の男性の姿を思い浮かべた。その時に、部活で使用している名刺に自分の番号を書いて渡した記憶はある。その後も度々顔を合わせては談笑した記憶はあるが、北村から実際に電話がかかってきたことは初めてで、一臣は心の中で首を傾げた。
「最後にお会いしたのは秋の写真展でしたよね。どうかしましたか?」
『真田君、写真館でアルバイトしてみる気ないかい?』
「アルバイト、ですか?」
『いやー。情けない話しなんだが転んで骨折して仕事ができなくなってしまってね。わたしの代わりに写真を撮ってくれる人を探してるんだ。この時期、入学式や入園式の記念写真を撮る予約が入ってるんだけど、同業の人はだいたいどこも皆同じように忙しいしね。もしヒマなら来てくれないかと思って。』
「まだどの講義取るか決めてなくて予定は空いてるので、俺は大丈夫ですが。素人の俺なんかで良いんですか?」
『真田君なら大丈夫だよ。部活で撮影機材の使い方も習ってるでしょ。細かいことは横で指示出すから。不安なら今からうちに来て練習するかい?』
「今からですか?」
『何か予定でもあるのかい?』
「いや、ないですけど。」
『なら、おいで。』
そんなやりとりをして、半ば無理矢理に約束を取り付けられて、一臣は通話を切って遠くを見た。写真館でバイトか。写真館での仕事なんて全く想像がつかない。そもそも、カメラを仕事にするとか考えた事がなかった。そんなことを考えて、カメラマンになるのが夢だと言っていた亡き友人の姿を思い出して、一臣は、写真館でのカメラマンは、あいつがなりたかったのとは違うんだろうなと思って小さく笑った。
一臣は食堂にいる皆に声をかけ、出掛ける支度をした。以前北村からもらった名刺に書かれた地図を確認し、バイクのエンジンをかける。そして走り出して、写真館に向かいながら物思いにふけった。俺がしたい事ってなんだろう。将来の夢とかよく解らない。小さい頃の夢も、あれは元々母親の夢だった。考えてみれば、俺の趣味は全部誰かの受け売りで、自分からなにかっていうものは今まで一つもないような気がする。バイクも夏樹に言われてだったんだよな。あいつがバイク格好いいよな、俺はまだ免許取れないからお前取って俺のこと乗せろとか言ってきて。結局、免許取ってから二年は人乗せられないから、二人乗りする前にあいつも自分で免許取って。二人乗りができるようになる頃にはあいつはもういなくて。大学入って写真部入ったのもあいつの影に誘われてだし。そう考えると俺って流されやすいというか、なんというか。そんなことを考えて、ふと自分が片想い中の相手である篠宮花月の姿が脳裏をよぎって、俺のあいつへの想いも夏樹の影に誘われてなのかもしれないななんて思って胸が苦しくなった。気が付いたら彼女を目で追うようになっていた。気が付けば彼女をファインダーに捕らえてシャッターを押していた。彼女のいる世界が輝いて見えて、それを枠に収めたくなっていた。今なら昔、夏樹が言っていた言葉の意味が解る。あの頃何言ってんだかと聞き流していた言葉の意味が、今なら実感を伴って理解できる。でも、それは、あいつの想いを俺がなぞっているだけなんじゃないか?高校生の頃、自分をどん底から引っ張り上げてくれた同い年の友人に憧れていた。自由気ままで横暴な彼がとても眩しかった。あんな風になれたらと、自分もあんな風に在れたらと、いつだって思っていた。今もきっと、その思いは自分の中にある。だから俺は、あいつが手に入れたかった彼女を、あいつが手に入れられなかった彼女を、自分の物にしたいと思ってるだけなんじゃないか。彼女を手に入れられたら、自分が憧れ続けたあいつを越えられる気がして。そんなことを考えて、真田君と友達は別の人間なんだから同じモノを好きになったってそれは別の想いだよと言った、自分が暮らすシェアハウスの管理人である西口和実の姿が頭によぎった。きっかけがなんだって、今感じる自分の想いは自分の物。引け目を感じる必要も何もない。そのまま受け入れて楽しめば良い。そう自分の背中を押してくれた和実の姿を思い出し、管理人さんは凄いよなと一臣は思った。自分は大した人間じゃないなんて言ってるけど、俺からしたら管理人さんは凄い人で、頼りになる姉のような存在で。片岡が惚れるのも解る気がする。お似合いだと思うし、片岡の片想いが実ると良いと思う。片岡の恋は、あいつがちょっと頑張れば上手くいきそうな気がするけど、あいつは奥手だから。そんなことを考えて、じゃあ自分の片想いはどうだろうなと思って、花月が浩太と肩を並べて楽しそうに勉強している姿が脳裏によぎって、一臣は胸が苦しくなった。見ていれば解る。自分の勝算が低いことぐらい。でも、自分にもまだ勝機はあるんじゃないかなんて期待してしまう自分がいる。あいつが何も考えてないことなんてわかりきってるのに。きっと、サクラハイムの仲間なら、誰の前でもあいつはあんなだって解ってるのに。誘えば普通についてきて、なんの躊躇いもなくバイクの後ろに乗ってくっついてきて。そんなことされて、何も期待しないでいられる訳なんてない。それが例え、あいつが自分を男として認識してないからだって解りきってても、それでも期待せずにはいられない。そんな自分が嫌になる。あいつの想いが別の誰かの所にあるって解ってるなら、きっぱり諦められれば良いのに。さっさとくっついて、諦めさせてくれれば良いのに。そんなことを考えて一臣は、本当俺って女々しいなと思って苦笑した。
そうごちゃごちゃ色々考えているうちに目的地に到着し、一臣は写真館の脇にバイクを駐めてヘルメットを外した。始めて訪れた場所だが、昔ながらの写真館と言ったその風体になんだか懐かしいような思いを感じて、不思議な気分になる。そして、入り口の横のガラス張りになったスペースに飾られた写真を見て、思わずそれに目を留めた。
「いらっしゃい。待ってたよ。そんなところに突っ立ってどうかしたのかい?」
店内から姿を現した北村にそう声をかけられて、一臣は笑って挨拶を返した。
「いや、友人の写真が飾られてたので、つい。」
「友人?」
「この成人式の袴姿で写ってるの、俺の大学の同期で。同じシュアハウスで暮らしてる仲間なんです。」
「へー。真田君、ミナちゃんの友達だったのか。世間は狭いね。」
「ミナちゃん?」
「あー、ごめんごめん。片岡さん家の次男坊の湊人君ね。片岡さんのとことは家も近所だし、昔からの付き合いで、わたしの父の代からずっと、節目節目には必ずここに写真撮りに来てくれててね。あの子の父親のことも小さい頃から知ってるし、あの子のことも生まれた時から知ってるから。あの子にも、いいかげんミナちゃんはやめてくれって言われてるんだけど、つい癖でね。」
「なるほど。」
「最近は貸衣装なんかも揃って、色々サービスが受けられるような写真店なんかが増えてきて、こういう所に節目節目で来てくれるようなお客さんは少なくなったから。片岡さん家みたいに代が変わってもこうして変わらずここを利用して、家族の成長を一緒に見守らせてくれるお客さんの存在がとてもありがたいよ。ミナちゃんのことも、お宮参りから、七五三、入園入学、卒園卒業、ミナちゃんがサッカーの大会で優勝したときとか。節目節目だけじゃなくて、色んな場面でここで記念写真を撮って成長を見守ってきたから、もう孫みたいな感覚だよ。家を出たと聞いていたし色々大変みたいだから、ここにも来なくなるかななんて思ってたんだけど、成人式の日にここで写真撮りたいって言ってきてくれた時は嬉しかったな。」
そう本当に嬉しそうに目を細めて湊人の写真を眺めて話す北村に、一臣は片岡ってサッカーやってたんですかと訊いていた。
「ほら、君らが小学校に上がったくらいの頃にワールドカップやってて盛り上がってたでしょ?それ見て、ミナちゃんも、将来はサッカー選手になってワールドカップ出るんだとか言って、小学生の頃は地元の少年サッカーのクラブチームに入って夢中でサッカーしてたよ。ここら辺じゃ有名なサッカー少年でね。地区の代表選手にも選ばれるくらいだったし、天才サッカー少年なんて言われて、ちょっとした取材なんか受けるくらい実力もあったんだけど。ミナちゃんは中学でサッカーやめちゃったんだよね。でも、クラブチームとか遊ぶ時間少なくなるし入りたくないとか言って、そんなにサッカーに興味なさそうだったハルちゃんの方が、中学あがるくらいからサッカー初めて、今でも部活でサッカーしててインターハイに出場して活躍してて。わからないものだね。あ、ハルちゃんって、ミナちゃんの弟の暖人君の事ね。」
そんな話をしながら北村が中に入るように促してきて、一臣はそれに従った。奥の撮影室に案内され、大学で使ってる機材となんか違うものある?なんて訊かれて、形は違うけどこれはあれだよななんて考えながら、一つ一つ確認をしていく。
「これなら、なんとかなりそうですね。」
「それは良かった。機材がちゃんと使えるなら、君はセンスが良いから安心だよ。」
そう言って微笑む北村に、一臣はふと疑問に思って、ずっと一人でやってるんですかと訊ねた。
「妻がいた頃は二人でやってたんだけどね。一人息子も、今時こんな写真館なんて流行らないって、違う職業に就いたし。実際一人でこなせるくらいの客しか来ないから、わざわざ人を雇うのもねなんて思って、ここ数年は一人でやってたんだ。」
「いくら代役とはいえ、それで俺なんかバイトに入れてここの収入大丈夫なんですか?なんならボランティアでも良いですよ。」
そんな真田の言葉に、北村はおかしそうに笑って、そういう心配はいらないよと言った。
「それに、労働したらそれに見合った報酬を受け取るべきだよ。写真を撮る君に報酬が発生しないのに、お客さんからお金取るわけにはいかないでしょ。わたしの代わりに写真を撮るというなら、君は職業としてお金をもらって写真を撮るんだ。お客さんからしたら経験のあるないは関係ないし、職業として写真を撮るなら君はプロだ。プロの意識を持って撮影しないとお客さんに失礼だよ。」
「すみません。」
そう謝る一臣を見て、北村は笑った。
「打ち明け話をするとね、写真館の他に高校の専属カメラマンの仕事もしてるんだ。どちらかというと、専属カメラマンの方が収入が良いし、わたしも年だから、こっちは畳んでそっち一本に絞ろうかと考えることもあるんだけどね。今時流行らないと言われても、やっぱりわたしは昔ながらの写真館というものが好きだし、ここを続けたいと思う気持ちが大きくてね。今時古いカメラを修理できる所は少ないから、ここを重宝してくれてる人もいるしね。自分もプライベートでは古いカメラを愛用してる人間だから、カメラを修理に持ち込んできたお客さんとおしゃべりするのも楽しい物でね。だから自分が現役を続けていられる間は続けたいと思うのだけど。でも、ちょっとした段差でつまずいてこんな風に骨折するなんて、自分で思っているよりずっと自分は年なのかななんて気弱になってきてね。そろそろ本当にここを畳むことを考えた方が良いのかもとか考えたりしてきて、なかなかに複雑だよ。自分の代で終わりと考えていても、やはり誰か自分の後を継いでくれる人がいないものかなと考えてしまうしね。」
そう言って北村は一つ小さな溜め息を吐いた。
「もし興味があったら、古いカメラの修理の仕方なんかも教えてあげるから真田君もやってみないかい?もう部品が作られてないものもあるから、自分で部品手作りしたりしてね、楽しいものだよ。そういうのは腕が治ってからじゃないと教えてあげられないけど。」
そう言って北村は一臣をまっすぐ見つめた。
「わたしは君が撮った写真を始めて見たときから、君の写真が好きなんだ。君の写真からは、暖かで、日常的で、わたしが今まで写真家として大切に撮り続けてきたものと同じものを感じた。自分と同じ意思を君の写真に感じたんだ。だから、そんな君に継いでもらえたら嬉しいななんて気持ちもあって君に声をかけたんだ。他になりたいものもあるかもしれないし。そうじゃなくても色々ね。だから無理にとは言わないけれど。もし良かったら、わたしの腕が治った後も継続してバイトしてくれないかい。趣味の領域を越えなくてもいい。本当に職業にしなくても。でも、もし、年寄りのわがままをきいてくれるなら、学生の間だけでも、わたしに付き合って、わたしの技術を君に伝えさせてもらえたら嬉しいな。」
そう真剣な眼差しを向けられて、一臣は思わず解りましたと応えていた。そして、それを聞いて嬉しそうに笑う北村を見て、なんだか自分も嬉しくなった。
北村の思い出話しに付き合いながら写真館でのんびり過ごし、一臣は子供の頃を思い出した。幼い頃、まだ母が生きていた頃、いつだって母の話に耳を傾けながら一緒に料理や手芸を楽しんでいた。あの時間が好きだった。こうやって北村さんと過ごす時間はあの時間に似てる気がする。こうやって北村さんの話しを聞きながら色々教えてもらって、一緒に仕事ができたら、楽しいかもしれないな。そんなことを考えて、真田君は日常を切り取るのが巧いから高校の専属カメラマンの方も向いてるんじゃないかなとか色々と、無理強いするつもりはないなんて言ってたのに、ぐいぐい自分を勧誘してくる北村の言葉を耳にして、一臣は小さく笑った。
写真館からの帰り道、サクラハイムへの道のりを歩いている花月を見かけ、一臣はバイクを停めて声を掛けた。
「バイト帰りか?」
「うん。一臣は?どっか出掛けてたの?」
「知り合いにカメラマンの代役頼まれてちょっとな。」
「代役?」
「骨折して撮影できなくなったから、代わりに撮ってもらいたいって。」
「なるほど。一臣、写真撮るの凄く上手だもんね。」
「皆そうやって褒めてくれるが、なんか照れくさいな。そりゃ、始めたばっかの頃に比べれば巧くなったとは思うけど、コンテストなんかいくと自分より上手い人が沢山いるし、賞なんかとる人の作品は圧倒されるものがあって。俺は平凡だなって感じるよ。そんなに皆に褒められるような実力はないって思う。」
「そうなのかな?写真のことよく解らないけど、でも、わたしは一臣の写真好きだよ。一臣の写真にはいつも想い出がぎゅって詰まってて、見るだけでその時の気持ちまで思い出せて、その時の情景が溢れだしてくる。自分がいなかった時の写真も、まるで自分もそこにいたみたいに思えて、皆と一緒に自分が楽しんでる気持ちになれる。胸の真ん中が暖かくなって、凄く幸せな気持ちになれる。だから、一臣の写真見てるのわたし大好きだよ。」
そう言って笑う花月を見て、一臣はありがとなと言って小さく笑い返した。そうやって彼女と話をしながらバイクをひいて一緒に帰り道を歩く。
「一臣。去年の暮れお迎えが来て、わたしがサクラハイム出て行かなきゃいけなくなりそうになった時のことなんだけどさ。あの時、わたしが一臣に、写真を撮り続けていつかどこかでわたしがそれを見れるようにして欲しいなってお願いしたの覚えてる?それ言ったら、一臣に、ふざけるなって怒られちゃったけどさ。」
「覚えてるよ。懐かしいな。」
「わたしさ、あの時は結子が言てった通りにするしかないんだと思ってたんだ。本当に何もないわたしには、それ以外の選択はできないんだって。サクラハイムに居たいなんて、皆とずっと一緒にいたいなんて我儘言ったら、皆の迷惑になっちゃうと思ってた。だからね、あの時は、わたしがわたしでなくなっても、皆ともう二度と会えなくなっても、それでも、皆の思い出だけは欲しいって思ったんだ。だから、いつかどこかで、一臣が撮り続けた写真が見たかった。一臣が皆の写真を撮り続けて、それで、それを見ることができたら、わたしは独りぼっちにならないって、ずっと気持ちは皆と居れるって思った。皆が写ってない写真でも、きっと、一臣が撮る写真なら、わたしを一臣が見た世界に連れてってくれるって。心だけはどこにでも行けて、心だけはずっと自由でいられるってそう思った。だから、一臣にあんなお願いしたんだ。そうやって思えるくらい、わたしにとって一臣が撮る写真って特別だよ。そんな写真が撮れる一臣は凄いって思うし、一臣は写真が上手なんだなって思うよ。」
特段何というわけでもなく、何の気なしにその話題になったらその話をしているだけといった調子で発せられた花月のその言葉を聞いて、一臣は胸が熱くなって足を止め、彼女を眺めた。自分から遅れて足を止め、どうかした?と不思議そうに首を傾げて見上げてくる彼女を見て目を細め、自分の口元が緩んでいるのが解って手で隠す。
「わたし、何か変なこと言った?」
不安そうにそう訊いてくる彼女に、いやと言って笑う。彼女が思ったままに発した言葉が嬉しくて、彼女の中にその他大勢ではない確かな存在として自分があることが嬉しくてニヤつくのが止められなかった。
「言ってないならなんで笑うの?やっぱ、わたしなんか変なこと言ってたの?」
更に不安そうにそう言う彼女を見て、一臣は声を立てて笑った。
「え?やっぱ、わたしおかしい?どこら辺?今のどこら辺がおかしかったのかな?」
「おかしいことは何も言ってないから安心しろ。」
「おかしくないなら、なんでそんなに笑うの?」
「お前との会話が楽しいからだろ。」
そう伝えると、一瞬不思議そうな顔をしてから、花月がホッとした様な顔をして、そっか楽しいからかと言って笑うのを見て、一臣は何かあったのかと訊ねた。
「なんかっていうか。よく解らない。何かある訳じゃないんだ。でも、周りの人がわたしを見る目が、なんかひっかかってモヤモヤする。バイトするようになって、色んな人と関わるようになって、前よりずっと自分は変なんだなって思うようになった。頑張っても、やっぱりわたしは皆と同じにはなれないんだって、最近凄く実感してる。皆の当たり前や普通がわたしにはなくて。それで、それは凄くおかしいことなんだなって。それを受け入れてもらえるって本当は凄く特別なことだったんだって、最近解った。湊人が勉強よりまず常識覚えろって言ってた意味も、遙が事実なんだろうけどあまりそういうこと他で言わないほうがいいよって言ってた意味も、今なら解る。解るけど、でも。十七歳までずっと、外の世界を知らないで過ごしてきたのも、外の世界を知った後もずっと閉じ込められてたのも事実で、わたしは普通が解らない。学校も行ったことがない。友達は夏樹が初めてで。ここに来る前の友達は夏樹と一臣だけで。ここに来る前のわたしの思い出は、山の中でお婆ちゃんとお兄ちゃんと暮らしてた事と、夏樹と一臣と一緒に遊んだあの日々しかない。後はずっと、冷たい人達に世話を焼かれるまま、毎日ただ窓の外を眺めてた。楽しかった想い出を辿りながら、夏樹に会いに行きたいなって窓の外眺めてただけだった。それが事実なのに、普通を過ごした事がないのをおかしいって言われても、笑われても、どうしたら良いのか解らない。サクラハイムの皆とは普通に話ができるのに、皆が学校の話しとか、小さい頃の話ししててもわたしも楽しく参加できるのに。他の人達とはそれができない。させてもらえない。皆と話してるときと違って、なんだろう、なんか変な空気になったり、笑われるでもなんか皆に笑われるときと違う感じがする。なんて言うかちゃんと同じ輪には入れてない感じがする。だから、人と違うって事はあまり知られない方が良いんだって、そうじゃないとダメなんだって。そう思って、他の所では言わないようにしてるけど。でも、元々がわたし解ってないからやっぱりおかしいこと言っちゃうみたいで。なんだろう、なんか、難しいね、人間関係って。」
そう言って困ったような顔をする花月を見て、一臣は気にしなくて良いんじゃないかと言った。
「知り合った全員と仲良くなるなんて不可能だしな。お前はお前らしく、ごちゃごちゃ考えないでそのままでいろよ。無理に合わせるのは本当にキツいぞ。」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。なんかあってモヤモヤしたって、サクラハイムに帰って皆と一緒にいれば楽しくて、全然気にならなくなるから。それに、わたし、ちゃんと普通に人と仲良くなれるようになりたい。自分の何がおかしいのか、どういうことをしちゃいけないのかちゃんと覚えたい。距離感がおかしいとか、何でもかんでもなんでどうしてって掘り下げるものじゃないとか、そういうのはちゃんと直さないといけないことでしょ?今のままじゃ、やっぱダメなんだよ。解らないことが多すぎてモヤモヤするけど、でも、無理はしないし、無理に人に合わせたりなんかしない。わたしはわたしのままでいるためにここに残ったんだから。わたしはわたしのまま、でも、ちゃんと成長したいんだ。」
そう言って、花月は満面の笑みを浮かべた。
「それに、モヤモヤが治まらなくて嫌な気持ちがずっと残っちゃうときは、思いっきり遊んで忘れちゃうんだ。例えば、公園に行ってスケボーしたりとか。スマホで動画見ながら技の練習したりして。この技できるようになったら浩太驚くかなって、今度一緒に遊ぶとき見せて浩太に凄いって言わせたいなとか考えながら練習してると、凄く楽しいんだよ。あと、ジャグリングとか。健人達の文化祭に遊びに行ったときに初めて見て感動して、自分もやりたくなって嵌まっちゃったんだ。浩太、ジャグリング凄く上手で、文化祭遊びに行ったときも、パフォーマンスしてた人達がビックリするくらいに技決めてて、本当凄いんだよ。何でも自由自在にひょいひょい投げて回しちゃうの。こないだは食堂で盛り上がってフォークとかスプーンでやって湊人に怒られちゃったんだけど。本当、どんなものでもできて、最後には浩太の手の中に吸い込まれるように収まって、魔法みたい。わたしもあんな風にできるようになりたいな。」
そんな風に楽しそうに目をキラキラさせながら浩太の話しをする花月を見て、一臣は少し胸が苦しくなった。多分、すっかり話題が浩太の話しに変わってるのに本人は気が付いてないんだろうな、なんて考えてなんとも言えない気持ちになる。スケボーもジャグリングも、それ自体やるのも本当に好きなんだろうけど、でも、それらが何よりの気分転換になるのは浩太の存在が大きいんだろう。そう思って気が塞ぐ。
「お前、身体動かすの好きだから、そういうの気分転換にうってつけなのかもな。今度、一緒に複合型のアミューズメント施設にでもいくか?色々スポーツもできるし、ゲーセンにあるようなゲームもあるぞ。ほら、お前体感系のゲーム好きだったろ。俺達が高校生の頃より種類が色々増えてるし、お前が好きだったダンスゲームもバージョンアップされてて楽曲増えたりしてるぞ。」
そう気分転換という所に主軸を置いて話しを返すと、なにそれ楽しそう行ってみたいと花月が目を輝かせて、一臣は、予定が空いてればいつでも付き合うから声をかけてくれと言って笑った。
「あと、そうだな。食べ放題でどか食いするとかどうだ?主食系からデザートまで、食べ放題にも色々あるからな。色んな店行って、メニューを制覇するのも楽しいかもな。あと、好きなもの沢山作って、食堂のテーブルにずらっと並べてどか食いするとか、結構発散できそうだよな。それは、あとが大変そうだが。」
「サクラハイムで食べ放題。皆でわいわい楽しそうだね。」
「皆でワイワイか。それじゃ、なんか新年会とかと変わらない気もするが。アレもある意味食べ放題だからな。でも、ちょっと趣向を変えて、パスタならパスタだけとかテーマを決めて、実際に皆で食べ放題するのは楽しいかもな。皆でするなら、量作っても処理できるし。」
「それ、楽しそう。」
「じゃあ、やってみるか?一つのテーマで色んな種類を作るのも、作りがいがあって楽しそうだしな。食費で食べ放題なんか開催したら片岡に怒られるだろうから、有志募ってお金出し合って今度やるか。お前の気分転換の話ししてたんだから、食べ放題してみたいもの、リクエストあるなら言ってくれ。腕によりを掛けて作ってやるぞ。」
「一臣が全部作るの?えっと。じゃあ、わたし、シフォンケーキの食べ放題してみたいな。」
「シフォンケーキか。ノーマルなタイプと、あとオレンジとか抹茶とか紅茶とかか?この季節だと、桜のシフォンなんかも良いかもな。俺は作ったことはないんだが、最近はほうじ茶なんかも流行ってるらしいから、挑戦してみるのもありかもな。チョコやコーヒーなんかもできるし。作れる種類が豊富すぎて悩むな。」
「えっと。今言ったの全部作れば良いと思う。」
「全部か。それはオーブンが大変なことになりそうだな。一つの大きさを小さくするとどうしてもふわふわ感が減るし、あのオーブンで一度に作れるのは二個が限界だから、八種類作るとなると、四時間くらいか。おやつの時間には間に合いそうだな。」
「わたしも手伝う。」
「じゃあ、今度一緒に材料買いに行って、当日は作り方教えるから一緒に作ろうな。俺は普段ミキサー使わないんだが、初心者にはメレンゲやクリームを手動で大量生産するのかなりキツいからな。サクラハイムにハンドミキサーなかったら、ついでに一つ購入するか。」
「わたし、手動でいい。いつも一臣がお菓子作ってるの見て、手動でシャカシャカするのちょっと楽しそうって思ってた。」
「そうか。なら、手動で頑張ってみるか。あれ意外と本当にキツいぞ。クリーム大量生産したら、お前も腕がムキムキになったりしてな、俺みたいに。」
「え?お菓子作りするとムキムキになるの?一臣みたいに?」
そう本気の様子で問い返してくる花月を見て、一臣は冗談だと言って笑った。
「菓子作りが重労働なのは確かだが、それだけでこんなに筋肉はつかないよ。俺のこの体格は、昔親父の趣味に付き合って異種格闘技するのに身体鍛えてた頃の名残というか。高校時代はほら、荒れてて喧嘩三昧してたしな。大学入ってからも、なんだかんだ写真部で機材担いであっちこっち回ってたりすると、結構筋力も体力も必要で、衰えるヒマがなかったんだ。それに俺は元々筋肉つきやすい体質みたいだしな。そんなに運動しなくても、なんでかこの体格が維持されてるんだよな。」
そんな会話をしていると、遠くにサクラハイムが見えてきて、一臣は残念な気持ちになった。もう少し、こうして二人で他愛のないやりとりをしていたかったなと思う。もう少しだけ、彼女を独り占めしていたかった。帰ったら皆がいて、自分達も皆の輪の中に入って、独り占めはできないから。
「なぁ、花月。気分転換も良いけど、もし悩み事があったら一人で悩まないで話せよ。力になれることなら何でもするし、力にはなれなくても話しならいくらでも聞くから。俺も、色々あったとき管理人さんに話しい聞いてもらってだいぶ楽になれたんだ。人に話すことで自分の中のものを整理できたり、楽になるってこともあるからな。」
そう言うと、花月がありがとうと言って綺麗に笑って、一臣は胸が高鳴り、そして苦しくなった。バイトの時間ほとんど被らないけど湊人が色々気付いて間入ってくれたり、おかしいとこ教えてくれるからとか、遙がバカじゃないのとか言いながらこうしたらとか色々教えてくれるんだとか、お姉ちゃんが、光が、健人が・・・。そうやって彼女の口から次々と普段周囲にいる人間にどれだけ助けられているのか、どれだけ支えられているのか、そして自分も含めての皆への感謝の気持ちが紡がれて、一臣は、結局俺は皆の中の一人でしかないんだよなと思った。その他大勢ではない。でも、特別でもない。彼女にとって大切な友達の、一緒に暮らす仲間の、その中の一人。それ以上でも以下でもない。それが俺。解ってる。解ってるから、もしかしたらなんて期待しないですめばいいのに。誰かに嫉妬したりせず、ダメなんだってきっぱり諦めがつけばいいのに。どうして彼女を見ていると、彼女との時間を重ねると、諦めるどころかどんどん想いが強くなるんだろう。想いが募れば募るほど、彼女の表情一つ、言葉の一つに、自分じゃダメなんだって思い知らされて苦しさが増していく。彼女の想いが別の誰かにあるのなら、自分は諦めるべきだと思う。自分の想いを押しつけるべきじゃないって、そう思うのに、嫉妬して、邪魔をして、彼女の特別になりたくて色々と言葉を重ね、行動して。でもそれが後ろめたくて。人前では中途半端に主張しては中途半端に相手に譲ってなんて、そんな意味の解らないことばかり繰り返してる。
「あ、二人ともお帰り。一緒だったの?」
そんな楠城浩太の明るい声がして、一臣はハッとした。気が付けばもうサクラハイムについていた。
「うん。バイトから帰る途中で会って、一緒に帰ってきたんだ。」
そう返しながら、花月が何やってるの?と庭にいた浩太の所に向かって行って、一臣はバイクを定位置に駐めて、その後を追った。
「ゴールデンウィークに、新しくできた室内競技場でイベント的なフットサルの大会があるみたいでさ。友達にメンバー足りないってヘルプ頼まれて、参加することになったんだ。だから、練習。」
「フットサル?」
「サッカーの小さい番みたいなやつ?俺もよく解らない。やったことないし。」
「やったことないのにヘルプ頼まれたのか。それは凄いな。」
「サッカーなら小学生の頃よくやってたし、ドリブルもパスもちゃんとできるから。後はルール教えてもらえば大丈夫。友達とも練習するけど、個人でもちょっと練習しようかなって、リフティングとかしてたんだ。」
そう言って、ボールを蹴り上げて額に乗せてバランスを取る浩太を見て、一臣はそれはリフティングと言うより曲芸みたいだなと呟いた。
「いやー。もともとジャグリング得意だったけど、三島さん達の大学の文化祭でストリートパフォーマンス研究会の出し物見て、大道芸ってカッケーなって思ってさ。正直、ジャグリングの技術は負けてないって思ったけど。観客への見せ方とかそういうのがあの人達の方がずっと凄くて、本当スゲーって思って。ああいうの良いなって。あれ以来、なんかやってるとついついこれストリートパフォーマンスにできないかなって考えちゃって、身体が動いちゃうんだよね。リフティングも、見せ方考えればパフォーマンスになりそうじゃない?」
そう言って、額に乗せていたボールを軽く弾ませて足下に落とし、足先や膝で弾ませてボールを高く上げて背中の方へ回して、それを受けそこね、変な方向へ飛んでいってしまい、浩太は失敗しちゃったと言って笑った。
「そんなとり方してたら変な方に飛んでくの当たり前っすよ。当てる位置やタイミングもっすけど、コントロール鍛えたいならもっと面を利用しないと。」
食堂に続くガラス戸から湊人がそんなことを言って出てきて、浩太が飛ばしてしまったボールを足ですくって軽くリフティングをして見せた。
「こんな感じっすか?おっと。久しぶりだがらやっぱ感覚鈍ってるっすね。」
浩太と同じようにボールを背後に回して背中で受けて、それをまた蹴り上げて正面に戻し、そんなことを言いながらボールを胸で受けて足下に転がし止めて、湊人は庭にいた面々に、もうすぐご飯になるからそろそろ中入るっすよと笑いかけた。
「もうそんな時間か。」
「だいぶ日が伸びてきたから、まだそんな時間に感じないっすよね。でも、定時に食事は用意するっすから、できたて食べたきゃ戻ってくるっすよ。」
「今日の晩ご飯何?」
「タケノコもらったから、炊き込みご飯にしたっすよ。あとお吸い物と天ぷら。」
「豪華だな。」
「材料のほとんどが貰い物と、ここに雑草のように生えてる色々すっけどね。そのうち紫蘇とか蕗とかまたどんどん増えてくるっすよ。あっちにはパセリの軍勢がいるし。パクチーとかミントとか、あいつら雑草なんだなってここ来てしみじみと感じてるっす。なんていうか、薬味香草系は何もしなくてもほぼ庭で賄えるって凄いっすよね。」
「何故かイチゴも自生してるんだよな。去年、庭で見付けたときに驚いた。イチゴって放置しといてなるんだな。」
「花月に教えられるまで知らなかったけど、このやたら生えてる細長い葉っぱも食えるし、他にも色々知らないだけで食えるものがあるんすよね。ここって結構な食材の宝庫っすよ。」
「うん。だから、去年野宿してたとき、よくここに来てだべられる葉っぱもらってた。他にも、あれとかこれとかも食べれるよ。あ、天ぷらするならこれ美味しいよ。これから揚げるんでしょ?これも採ってこうよ。」
そんな花月の言葉に、湊人がこれっすか?と確認しながら、言われた葉っぱを採取しはじめた。
「管理人さんが、去年桜が咲いてる頃お前がよくここに桜見に来てたって言ってたのは、桜見に来てたんじゃなくて食料確保しに来てたのか。」
そんな一臣の言葉に花月が頷く。
「健人に拾われてここに住むようになるまでほぼ毎日来てた。桜が満開に咲いてた頃は、桜見てるとなんか嬉しくなって、気が向くとここに来て遊んでた。」
「そんなしょっちゅうここに来てたとか、全然気付かなかったっす。」
「だな。」
「俺も全然気が付かなかったな。いつも何時頃来てたの?管理人さんしか目撃情報無いって事はやっぱ昼間?俺達が学校行ってる時間くらい?」
「昼間より朝の方が多かったかな。毎日健人とランニング行ってるくらいの時間。」
「それって、時期によってはまだ真っ暗なくらいの早朝じゃん。」
「それは見かけるわけがないな。」
「その時間、三島さん以外はみんなまだ寝てるっすもんね。」
「よく三島さんと鉢合わせなかったな。」
「鉢合わせてたらどうなってたっすかね。とりあえず、おい、そこで何してるとか言って花月に詰め寄る三島さんの姿がありありと目に浮かぶっす。」
「当時の花月ちゃんなら、きょとんとして、お腹減ったからご飯だけど、とか返しそう。」
「あー、それ凄く想像つくな。それを聞いて、頭かかえる三島さんの姿も目に浮かぶ。」
「で、結局、頭抱えた三島さんが、あのまま放置しとくのも危ないかと思ってなとか言って、連れてくるんすかね。」
「そしたら、お姉ちゃんがお家見つかるまでここにいる?って言ってくれて、今と同じだね。わたし、どう転んでもここに来れたんだ。嬉しいな。」
「いや、それは三島さんと遭遇してたらって話しなだけで、お前が無事にここで過ごせてるのは全部お前の強運のおかげだと思うっすよ。っと、これくらいあればもう充分っしょ。そろそろ本当に中に戻るっすよ。」
そんな話をして、湊人がまたガラス戸から中に戻っていった。
「片岡さん、このサンダルでリフティングとか凄いな。感覚鈍ってるって言ってたけど、これでアレだけできるって、もともとどれだけできたんだろ。」
ガラス戸の前に置かれたサンダルを眺めてそう言う浩太の言葉を受けて、花月が湊人凄いのと訊いた。
「凄いよ。サッカー選手の人が簡単そうにやってるのテレビで見るけどさ、実際やってみると結構変なとこ飛んでっちゃうし。あんな風に綺麗にボールコントロールするのは難しいよ。俺、今ぐらいできるようになるまででもかなり練習したもん。花月ちゃんもやってみる?」
「うん、やる。」
浩太の言葉に花月が笑顔で返して、二人がリフティングの練習を始めようとするのを見て、一臣は戻らないと飯になるぞと声を掛けた。
「あ、そうか。戻らないとだね。残念。」
「じゃあ、ご飯食べてからやる?」
「やる。」
そんな風に楽しそうに話す二人を見て、一臣は今日はやめといた方が良いんじゃないかと声を掛けた。
「飯食ってからじゃ暗くなるし、風呂の時間遅くなるとまた遙に文句言われるぞ。」
「あ、そうか。じゃあ、今日はやめとく。」
「遙ちゃん、そこら辺うるさいもんね。花月は夜早いんだからいつもの時間に入ってくれないと迷惑。こっちの時間もずれるし、ずらさないと待ってる間にそこら辺で寝落ちしてるし、本当やめてほしいんだけど、とか言ってたっけ。」
「うん。遙は優しいからね。」
「その言い様は優しいのか?」
「優しいよ。いつもの時間に入り損ねちゃうと、お前は夜更かしできない体質なんだからさっさと入ればって、俺は別にどうにでもできるし男同士なら一緒に入れるからって順番譲ってくれるし。わたしがそこら辺で寝落ちしちゃうと、ちゃんと部屋行って寝なよって起こしてくれるし。」
「あー、そういえば。花月が起きないから部屋に運んでくれる?って遙に呼ばれたことあったな。まったく、こいつ気抜きすぎでしょとか言って、運んだ後は管理人さんに、合い鍵で鍵かけといてとか言ってたっけな。」
「遙ちゃんは口は悪いけど根は本当に優しいからね。なんだかんだ悪態つきながらいつも助けてくれるって言うか、正義感が強いのかな?見て見ぬふりができないんだよね。それでトラブル起こしたりするけど、遙ちゃん強いから基本負けないし。小さい頃からずっとあんな感じ。遙ちゃん、背も高いし美人で、モデルとかしてそうなくらい見た目整ってるしさ。見た目も中身も本当格好いいよね。」
そんな会話をしながら、三人で玄関に向かい中に入る。踊り場でそれぞれが荷物を置いたり手洗いをしにバラける状況になった時、自然と花月と浩太が会話を続けながら自分から離れて行って、一臣はまた胸が苦しくなった。ご飯食べたら今日はいつも通り勉強しようとか、じゃあリフティングは今度昼間にしようねとか、浩太は中間試験対策始めるの?花月ちゃんは高認試験の勉強だよね、試験十一月だっけ?とか、仲良さげに楽しそうに話す二人の背中を眺め、一臣は視線を逸らし自分の部屋に向かった。
部屋に入り、荷物を置いて、溜め息を吐く。花月がここに来てもうすぐ一年経つ。一年も一緒にいれば、人の仲も変わる。花月に一目惚れして、最初は普通に声を掛けるのだってドギマギしてしどろもどろになっていた浩太だって、今は普通に会話し普通に遊びに誘い、用事がなくても一緒にいるようになった。今でもまだ、彼がふとしたときに花月に見惚れてぼうっとしている姿を見るが、今はもうただ遠くから眺めてるだけじゃない。二人は同じ立ち位置で、肩を並べて、そして誰より近くで一緒に過ごしている。二人の距離は誰より近い。物理的なものじゃなくて、心の距離が。そう思う。
一臣は自分のカメラを手にして、自分が撮りためた画像を眺めた。画面に映る花月の姿を見て、胸が苦しくなる。本人はまだ自覚してないんだと思う。自覚してない想いはこれから本人が自覚する前に変わることもあるかもしれない。でも、画面に映る彼女の浩太に向けた表情を見て、敵うはずがないと思う。彼女はこんな顔を自分には向けない。他の誰にも。他の誰かでも、姿を見付けて嬉しそうに駆け寄ることはある。でも、彼女がこんな顔を向けるのは彼にだけだ。彼女がいつから彼をそう想うようになったのかは解らない。気が付けば、彼に向けてこんな顔をするようになっていた。凄く嬉しそうに、幸せそうに彼の顔を眺めるようになっていた。視線に気が付いた彼と目が合うと彼女は普通に笑うから、心底嬉しそうに笑うから、彼の方がそれにドギマギしてしまって彼も彼女の想いに気が付かない。端から見ていると、もどかしいぐらいの両想い。自分からしたら見せつけられているようで、酷く胸が苦しく痛くなって、辛くなる両想い。敵うはずがない。諦めるしかない。さっさと諦めさせてくれれば良いのに。いや、自分でちゃんと諦めないとな。俺が告白したって、困らせるだけだ。気まずくなるだけだ。だから、無駄に足掻かないできっぱり諦めろ。なんならさっさと告白するように浩太の背中を押して、二人の仲を取り持って・・・。そんなことを考えて、一臣は胸が押しつぶされそうな思いがした。やっぱり俺には浩太の背中を押すのは無理だ。まして、花月に自覚を促すなんてもっとできない。そう思う。でも、二人の背中を押せなくても、彼女への想いは諦めよう。諦められるように努力しよう。片岡は応援してくれるって、だいぶ協力もしてくれてるけど、でも、俺には無理だ。これ以上は自分を押せない。押しつけられない。あいつの気持ちが俺に向いてくれないなら、もう、虚しくなるだけのアピールはやめよう。やめて、二人のこれからを静かに見守ろう。そう考えて、一臣は心を決めるように目をぐっと閉じた。
○ ○
シフォンケーキの材料を買い出しに一緒に出掛ける約束をしていた日。階段を降りてきた花月を見て一臣は目が釘付けになった。黒地に白の花柄のワンピースに淡いイエローのロングカーディガン。普段と違って落ち着いた女性らしい装いに、心なしか化粧もどこか普段と違って、しかも自分がプレゼントした髪飾りをつけていて、一臣は胸が高鳴りこれはヤバいなと心の中で呟いた。
「おまたせ。って、どうかした?」
そう不思議そうに首を傾げられて、一臣は胸の内を押し隠して、いやと答えた。
「ただの買い出しなのに、まるでデートでも行くみたいな格好してるなと思ってな。」
そう言うと、そうなの?と自分の全身を見回す花月を見て、一臣は、やっぱ何もあるわけないよなと思って笑った。
「それ、姉さん達が誕生日プレゼントに送ってきたコーデでしょ。花月の事だから届いたらすぐ着るだろうから、捕まえて写メ撮って即送れって指令がきてるから、ちょっと撮らせて。」
そう柏木遙の声がして、続いてパシャリと音がする。
「こんな適当に撮ったのじゃあいつら怒るかな?面倒くさいけど、もう少しちゃんと撮るか、あいつらうるさいし。ってか、一臣代わりに撮ってよ、俺が撮るより本業が撮った方が綺麗に撮れるでしょ。」
そう独りごちりながら近付いてきた遙にスマートフォンを渡されて、一臣はスマホじゃ普段撮影しないんだがと言って苦笑した。そして、スマホの画面を確認しながら花月に声を掛け光の当たり具合や角度を考えて自分も移動して。画面越しに見える彼女の姿に一臣は胸がざわついた。綺麗だなと思う。諦めようと決めたのに、彼女の姿に見惚れてそれが揺らぎそうになる自分を自覚して、安いなと思う。こういう格好をしてると普段の天真爛漫さが抑えられて、淑やかな女性に見え、そして、そういうのが自分の好みなんだと自覚しているから、苦しくなった。普段の格好ならまだ、きっとこんなに目が奪われないで済むのに。どうしてよりによって遙の姉さん達はこんな格好を花月に送ったんだろ。そう、彼女に自分好みの格好をさせた遙の姉達に心の中で恨み言を言ってみる。
「姉さん達に、花月ちゃん遙ちゃんと同い年だと思ってたら年上だったの?成人してるなんて知らなかったし、今まで中高生向けのブランドばっか勧めちゃったじゃん、早く言ってよって怒られたんだけど、お前言ってなかったの?」
「訊かれなかったから。こないだ電話で話してるときに誕生日の話しになって、過ぎてるって知って、なんで教えてくれなかったのって怒られたんだけど。その時、花月ちゃんも十七歳か、心も身体もぐっと大人に近づく年頃だし、今年は去年より大人なファッションに挑戦しましょうって言われて。わたし二十一だよってそこで教えたんだ。そしたら、なんか色々怒られた。」
「あー。あいつら年相応に拘るとこあるからね。特に普段着は。今日の格好は女子大生っぽいよ。文系女子な感じが花月っぽくないけど、似合ってる。俺があげたリップも合ってるし、良いんじゃない。」
遙にそう言われた花月がありがとうと綺麗に笑って、一臣は自然とシャッターを押していた。そして、二人の会話を聞き流しながら、画面を確認し、良く撮れてると思ってそれに見惚れ、苦しくなった。
「やっぱ、その色良いよね。春の新色、似合うと思ったんだ。お前、普段お洒落と言うより紫外線対策のほぼスッピンナチュラルメイクしかしないから。一応年頃の女子だし、もう少しお洒落した方が良いんじゃないって思っててさ。普段の格好やメイクに合わせても浮かないで女子力上がるようなアイテム探したんだ。贈って正解。普段から使いなよ。」
「うーん。せっかく遙が誕生日プレゼントでくれたのに、普段から使ってたらすぐなくなっちゃいそうでもったいないなって。今日は、陽葵達がくれた服着たから、せっかくだからつけてみようかなってつけたんだけど、毎日つけるのはな。」
「そういうのは使わないほうがもったいないでしょ。使ってもらうために贈ったのに使われない方が嫌だから。言っとくけど、化粧品にも使用期限があるから。使わないで使えなくしたら怒るからね。」
「そうなんだ。じゃあ、普段から使う。無くなったら、ケース取っといて想い出にする。」
「まったく、物を大切にするのは良いことだけど、いらなくなった物はちゃんと捨てないとそのうち置き場がなくなるよ。想い出は心の中に仕舞っといて、物はちゃんと整理しな。」
「うーん。置き場がなくなったら考える。わたし、今まで誰かからこうやって何かもらうとかなかったから、みんなからのプレゼントが凄く嬉しくて、全部大切で、全部とっときたいなって。こんなに物に溢れた生活もしたことなかったし、さすがに履けなくなった履き物とかは捨ててるけど、今はまだ、色々手放す心の整理がつかなくて。もらったもののラッピングとかもついつい溜めちゃったり。遙の言ってることも解るよ。ちゃんと捨てる物は捨てて整理しなきゃいけないって事は解ってる。でも・・・。」
「別に、無理に捨てなくても良いんじゃないか。思い入れがあるものを手放すのは辛いからな。心の整理がついたときに手放せば良いと思うぞ。」
そう二人の会話に入って、一臣は花月に微笑んだ。
「ものが溢れて困るなら、そうだな。写真に撮っておくって手もあるぞ。想い出の品を撮って纏めたアルバムに、想い出の品で飾りをつけるとかどうだ?あとは、着なくなった衣類使って、パッチワークでクッション作ったりとかな。鞄や小物入れ作ったりとか。アクセサリーなんかも作れるし。捨てずに再利用して、違う形でとっておくって手もあるんじゃないか。」
そう提案すると、花月の顔がぱっと明るくなって、それが良いとキラキラした目を自分に向けてきて、一臣は胸が詰まった。あー。本当、困ったな。本当に困る。
「じゃあ、今度そういうのの作り方も教えるよ。そうだな、買い出しのついでに早速、手芸品店も見てくるか。」
「うん。行く。ありがとう、一臣。」
そう言って嬉しそうに笑う姿にまた、一臣は胸が締め付けられた。あー。本当、この笑顔はずるい。諦めようと思っているのに、こんなに手放しに心底嬉しそうな笑顔を向けてきて。本当、キツい。誰に対してもこんなんだって解ってるのに、それが自分だけに向けられていると勘違いしたくなる。これを独り占めしたいと思ってしまう。そんなことはできないと解っているのに。これが辛いからって、突き放すこともできない。彼女が悩んでいるのをほっておくこともできない。自分にできる事ならなんでもしてあげたいと思ってしまう。つい口を出してしまう。彼女へのアピールではなくて、単純に、純粋に、彼女に笑っていて欲しいから。彼女に元気でいてもらいたいから。
「そういう使わなくなった物再利用しての小物作りとか。俺も前からちょっと興味あったんだよね。俺も一緒に教えてもらってもいい?」
そう遙に訊かれて、一臣はもちろんだと答えた。
「遙はどういうのがやりたいんだ?もし良かったら一緒に買い出し行って、お前も色々見てみるか?」
「それはパス。」
「遙、行かないの?」
「ついてって荷物持ちするの嫌だし。お菓子作りには興味ない。それに、手芸用品なら自分のそれなりに持ってるから。俺、リビリア高校被服科デザインコース。服飾手芸部。」
「そういえば、遙。去年の文化祭シーズン、食堂の机に布広げてなんか作ってたな。」
「あー。部活の出品ノルマと、学年課題ね。普段は持ち帰ってきても部屋でやるんだけど。あの時は学校で裁断済ませられなくて、さすがにスペース足りなくてさ。一年の時は基礎学習で決まった物しか作れなかったけど、今年はテーマに沿って自分でデザインあげるとこからだから、今からちょっと楽しみなんだよね。」
「そうなのか、それは良かったな。思ったんだが、そういう所に通っていたら学校に専門家がいっぱいいるだろうし、わざわざ俺から教わる必要はないんじゃないか?俺はそういう勉強をちゃんとしたことがないし、完全趣味で、独学だぞ。」
「なんていうか、色々思うこともあってさ。デザイナーになりたいって被服科に進んだけど、進んだからこそ自分は何も解ってないなって凄く実感してて。正直、一年の時は自分がやりたいのはデザインなのにってちょっと学習内容不服だったんだけど。でも、実際布の性質や特徴を理解してないと思った通りの物は作れなかったり、縫い方一つ、繕いかた一つでも全然違ってきて。服って身につける物で飾っておく物じゃないじゃん。だから、やっぱり着る人のこと考えて作らないとって、デザインも。そう考えたとき、俺が知らなきゃいけないのは、学校で教えてくれることだけじゃないって思ってさ。色々経験したいというか、知らないことをもっと知りたいっていうか。独学の奴等って、結構独自の技術持ってたりするし、一臣のやり方も知りたいと思ってさ。」
「なるほどな。そういうことなら、俺に教えられることは何でも教えるよ。」
「ありがとう。」
そんなやりとりをして、遙にスマホを返して、一臣はさすがにそろそろ出るかと花月に声を掛けた。うん、と元気よく返事をして靴を履く花月に、遙がその格好でスニーカーとかありえないでしょと呟く。
「お前、そろそろ自分でスタイリングできるようになった方が良いんじゃない。いいかげんおかしい組み合わせとか解るようになりなよ。いまだに一番好きな服装がジャージって言ってる時点で、自力でお洒落しろって言うのが難しいのかもしれないけど。まぁ、健人とランニング行くとき以外ジャージで外出なくなっただけマシか。とりあえず、そのスニーカー気に入ってるの知ってるけどそれはやめな。買い出しに行くから歩ける靴がいいっていうのは解るけど。ローヒールのストライプつきパンプス持ってたでしょ、そっちにしなよ。スニーカーよりはマシだから。」
そう言われて、花月は素直に解ったと言って自室に置いてある靴をとりに階段を上がっていき、それを見送って遙が溜め息を吐いた。
「遙はあいつの持ち物詳しいんだな。」
そんな一臣の素朴な疑問に、遙はうんざりした様子でまあねと答えた。
「あいつの持ち物、ほとんどうちの姉さん達からの貢ぎ物だから。花月に渡される前に、こんなのどうかな、こっちの方がいいと思わない、花月ちゃんにはこっちの方が似合うって遙ちゃんも思うでしょとか、大抵双子の言い争いに巻き込まれるし。俺、多分あいつよりあいつの持ち物詳しいよ。姉さん達のおもちゃが花月に移ったおかげで女装させられずに済んでるのはありがたいけど、あいつら無駄に金持ってるから、すぐ花月にじゃんじゃん色々買い与えようとするし。姉さん達と違って花月は飽きっぽくないし、一つのモノ大切にして長く使う質だから、そんなことされても困るだろうし、抑えるの大変。これはこれで本当疲れる。」
そう愚痴る遙を見て、一臣は心底同情し、お前も気苦労が絶えないんだなと呟いた。
そして花月が戻ってきて、遙に行ってくると声を掛けて、二人で連れ立って出掛けた。
二人並んで歩いて、一臣はなんとも言えない気持ちになった。意識しないようにしようとしても、どうしても意識してしまう。本当、無意識に気を持たせるような事しやがってと心の中で悪態を吐いてみる。二人で出掛ける約束をしていた日に、普段着ないような自分好みの装いをして、普段しないような化粧をして、自分がプレゼントした物を身につけて。それが全部偶然だと解っていても、心のどこかで期待してしまう。本当は自分に気があるんじゃないかって、自分を意識してくれてるんじゃないかって、ありえないって解ってるのに。
「お洒落って難しいね。スニーカーってそんなにダメなのかな?光がくれたスニーカー、動きやすいだけじゃなくてかわいいと思うんだけどな。」
真剣な顔をしてそう言う花月を見て、一臣は笑う。
「お前が良いなら別に良いんじゃないか。俺は遙と違ってファッションに疎いからな、そこまで気にならないというか。その格好にスニーカーもお前らしくて良いと思うぞ。」
本当にそう思う。そして、それを聞いて、そうなの?じゃあ気にしなくても大丈夫かなと呑気に笑う花月を見て、人の気も知らないでと思う。勘違いしたくなるような事があっても、自分に対する反応を見ればそこに特別な想いはないのは一目瞭然で。まして比較できる誰かが目に映る所にいるから、自分は無理だって理解できるのは当然で。彼女からは友達としか思われていないから、だから自分の想いも友達という枠の中に押し込められたら良いのに。友達として彼女を大切にできれば良いのに。それ以上を求めないでいられれば良いのに。そう思う。諦めるって決めたんだから、いいかげんにしろよ自分。いいかげん悪あがきしてないで受け入れろ。自分で決めたんだ、この想いを断ち切るのは自分自身だ。そう自分に言い聞かせて、一臣は自分の想いが外に出てこないように強く強く心に蓋をした。
出るのが遅くなったからどこかで昼食にするかと、二人で適当な店に入って食事をして。他愛のない会話をしながら一緒の時を過ごして。手芸屋を覗いてから、予定通りの買い物をして。その全てがまるで実感の伴わない夢のように、曖昧な感覚で一臣の中を通り過ぎた。買い物袋を下げながら二人並んで帰路につく。普段通り笑っているのに、普段通り話しているのに、彼女の声が耳を通り抜け内容は入ってこない。受け答えしているのに、自分が何を話しているのか解らない。なんだろう。この感覚。前もあったなこんなこと。漠然とそんなことが頭をよぎる。いつだっけ。思い出せない。でも、前もこんなこと・・・。
「一臣君?」
そう女性の声がして、一臣は足を止めた。声の方に顔を向け、そこに立っていた女性を認識して、そして固まった。
「やっぱり、一臣君だった。えっと、元気にしてた?」
どこか恐る恐ると言った様子で、何かを気遣うようにどこか躊躇うように話しかけてくる女性に、一臣はしどろもどろに、えぇ、まぁ、元気にしてますと答えた。
「誰?」
花月の声がして、ハッとする。
「えっと、そちらは一臣君の彼女さん?」
女性からのその問いに、一臣は違いますと答えた。
「彼女は、友達です。高校生の時からの。」
なんでそんなことを付け加えたのか解らない。でも、高校生の時からというその言葉に女性が反応しどこか苦しそうに顔が歪むのを見て、一臣は視線を逸らした。
「えっと、篠宮花月です。」
状況について行けず少し戸惑った様子で自己紹介をし頭を下げる花月に、一臣は、この人は新田忍さんっていって親父の彼女だと紹介した。
「俺のせいで再婚話がなくなって。だから、元をつけた方が正しいのかもしれないけど。」
そう言って、一臣は挨拶をし花月を促してその場を去ろうとして、新田に呼び止められた。
「一臣君、ごめんなさい。あの頃は、わたし・・・。」
震える声でそう言う新田の声を聞いて一臣は振り返って笑顔を向けた。
「忍さんは何も悪くないですよ。あの頃は俺も弟も思春期まっただ中で、バリバリ反抗期でしたから。いきなりそんな息子二人も持つなんて、抱えきれないの当たり前だと思います。俺の方こそ、大荒れして、怖い思いさせて、迷惑かけて。そのせいで。すみませんでした。」
そう言って踵を返す。自分の手が震えているのに気が付いて苦しくなる。あの頃のことは思い出したくない。思い出したくない。
「一臣君。わたし、あなたのお父さんと・・・。」
そう新田の声がして、拳を握る。色々とこみ上げてきそうな思いをぐっと堪えて、笑顔を作る。いつも通りの、普段皆に見せている自分を作る。そして一臣は振り返った。
「別れてないの、知ってましたよ。俺が荒れてる間も家のことやりに来てくれてたでしょ。親父も政文も何もできないくせに、俺がいなくても妙に家の中綺麗で、冷蔵庫に俺が作ってない総菜があったりとかしてましたから。だから、あんなことがあったのに、変わらず気に掛けてくれて、親父達の面倒見てくれてたの知ってました。今もそれ続けてくれてるって、解ってました。ずっと、ありがとうございます。」
そう言っていて辛くなる。あの頃、それにむしゃくしゃした。苛ついてたわけじゃない。怒りがこみ上げてきたわけじゃ。姿は見せない新田の、あからさまな存在の影に、形跡に、むしゃくしゃして、苦しくて、胸が押しつぶされそうで、それで。それを見なかったことにして、いつも通り家事をこなした。本当はもう自分がする必要はないと、誰も自分にそれを求めていないと解っていたのに。毎日必ず一回は家に帰って、家事を続けていた。家をメチャクチャにして、弟を殴って、大荒れして喧嘩三昧するようになって、家にほとんど寄りつかなくなってたくせに、毎日必ず一回は帰って、ずっと、ずっとそんなことを続けていた。
「そう、知ってたんだ。」
どこかホッとした様に新田が呟く。
「わたし達、改めて再婚しようと思ってるの。それで、一臣君にも・・・。」
そう言葉が続いて、やっぱりかと思う。
「良いんじゃないですか。俺もこの通り落ち着いて、家も出ましたし。政文だってあなたのこと受け入れてる。良いタイミングだと思います。親父の事、家のこと、これからもよろしくお願いします。」
そう言って頭を下げる。親父と忍さんが再婚すれば良いと本当に思ってる。親父の幸せを願ってる。なのに、どうしてこんなにモヤモヤするんだろう。自分が荒れて破談になったその話しが、破談ではなく延期していただけだと解っていた。自分の荒れかたがあまりのも酷くて、距離を置いていただけだと。自分がいないところで忍さんが親父や弟と親睦を深め絆を深めっていっていたと知っていた。自分が実家を出たあと、自分がたまに帰省するくらいしか家に帰らなくなった後、忍さんがほとんど同居してるのと変わらないくらいの頻度で実家に来ていたことも、自分のいないところで話しが進んでいることも気が付いていた。俺に打ち明けるタイミングを皆が計っていたと気が付いていた。また何かのきっかけで俺がキレるんじゃないかとびくつきながら。皆、あの時俺がキレた理由が解らないから。アレのせいで俺と家族の間には決定的な溝ができた。普通に会話をするように戻っても、元には戻れなかった。いつまたキレるのか警戒されて、表面上のやりとりするだけの関係のまま、ちゃんとした家族に戻ることはできなかった。
「わたし、あの頃のこと後悔してるの。男所帯で大変だろうなって、ずかずか入りすぎたって思ってる。一臣君しかできる人がいないからって一臣君が全部一人で家事やってたけど、そんな風に無理して頑張らせるのは良くないって思ってた。男の子だし、もっと友達と外に遊びに行きたいだろうし、他にも色々やりたいことあるだろうし。いつまでも一臣君にお母さんの代わりをさせとくのはいけないってあの時は思ったの。でも、一臣君はお母さんの場所がいきなりわたしに侵食されて嫌だったのよね。自分が続けて来たことをわたしに取り上げられて嫌だったのよね。わたしが家に入るの本当は快く思ってなかったのをずっと気を遣って我慢してくれてたのよね。わたし、それに全然気が付かなくて。一臣君がキレたのはわたしのせい。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。なのにあの頃、それに向き合わないで逃げちゃって。わたしにあなたのお母さんになりたいなんて言う資格ないって解ってる。でも、わたしは一臣君にもちゃんと認めてもらいたいの。一臣君にもあなたたちの家族としてちゃんと認めて欲しい。」
懇願するようにそう言う新田を見て、一臣は苦しくなって握っていた拳を更に強く握りしめ視線を落とした。そして、
「一臣を虐めないで!」
そんな花月の怒声が響いて、一臣はハッとした。新田も酷く驚いたような顔をして頭を上げる。
「一臣、行こう。」
憤慨した様子の花月に手を引かれ、一臣は引っ張られるままに足を進めた。
「待って、わたしは・・・。」
縋るようにそう言う新田の声が聞こえ、花月が振り返る。
「不意打ちは卑怯だよ。帰って。これ以上一臣のこと虐めるなら、わたし許さない。」
新田を睨み付けそう告げると、花月は踵を返し、ぐいぐい一臣を引っ張ってその場を離れて行った。
暫く呆然と憤慨した様子で自分の手を引き歩き続ける花月の背中を眺め、引っ張られるままに歩き続け、そのうち一臣はなんだかおかしくなって声を立てて笑った。
「なんで笑うの?」
そうふて腐れたような顔をして振り向く顔を見て余計笑いがこみ上げてくる。
「お前がそんなに怒るとこ初めて見た。」
「だって、わたし初めてだもん。こんなに腹が立つの。」
そう憮然とした様子で呟く花月に一臣は、なんでそんなに怒ってるんだと訊いた。
「解んない。でも、あの人と話してる一臣、辛そうだったから。それに、あの人の言ってることなんか違うって思う。なんか嫌だ。わたし、あの人嫌い。」
そう言って、自分の中のよく解らない感情を整理するように考え込む花月を見て、一臣はちょっとそこ寄るかと、近くの公園に入り、ベンチに促した。自販機で飲み物を買って、一つ彼女に渡し、自分もベンチに座って自分の分の飲み物の栓を開ける。隣で一口飲み物を飲んだ彼女が空を見上げるのを見て、一臣もその視線を追って空を仰いだ。
「一臣は優しい。そして凄く不器用。人のことよく見て、よく考えて、我慢して。我慢しすぎて自分のことが解らなくなって。もっとわがままになれば良いのにって、夏樹が言ってた。我慢しすぎるからあいつ爆発するんだぜ。で、訳わかんなくなって、罪悪感でまた引き籠るの。面倒くせー。マジうぜー。」
「夏樹のマネ、無駄に似てるな。」
「でも、夏樹、一臣のこと好きだったんだよね。面倒くさいだの、うざいだの言ってたけど。夏樹は一臣のことが好きだった。面倒くさいのもうざいのも好きじゃないって言ってたのに、一臣のことは好きだった。あの頃はそれがよく解らなかった。夏樹が言ってること、意味が解らないことだらけだった。」
「俺は正直、今でも意味分からないけどな、あいつのこと。」
「わたしは、なんとなく解る気がする。今なら夏樹が言ってたこと解る気がする。あの頃解らなかった色んな事が、今なら解る気がする。」
そう言って、花月は一臣を見た。
「夏樹、かわいそうって思われるのが嫌いだった。同情されるのも、傷の舐め合いするのもまっぴらだって。そういうのはいらないって。境遇とか色々、変えられない物は変えられないし、それで辛いとかしんどいとかそれも確かにあるけど、違うんだって。俺が求めてるのはさ、そういうのじゃなくて。全く同情するなとか共感すんなとか、何か求めてくんじゃねーって言ってるわけじゃなくて。なんつーの、普通に等身大で一緒にいたいだけ。だから、お前といるとスゲー気が楽。余計なこと何も考えなくてすむし、笑わせてくれるしなって。でもそうやってわたしに話してくるときの夏樹はだいたい一臣のこと考えてた。一臣は面倒くさい、見てて苛々する、でもあいつは俺のこと色眼鏡で見ないんだって、ここにいる俺をちゃんと見てくれるんだって言って、寂しそうにしてた。あいつのは違うんだ、あいつは臆病なだけなんだ。あいつは優しすぎるんだよ。バカみたいに、お人好しすぎんだよ。バカじゃねーの。本当、バカみてー。」
そう夏樹のマネを織り交ぜながら想い出を語り、花月は考えるように視線を下げた。
「一臣。家族って何?血が繋がってたら家族なの?書類の上で家族なら家族なの?わたしは、実のお父さんもお兄さんも家族だって思えなかった。家族だと思ってたお兄ちゃんとお婆ちゃんは本当の家族じゃなかった。それで今では書類の上では独りぼっち。祐二も、本当の家族にいらないって言われて追い出されて、家族の絆はもうそこにはない。なのに書類の上ではまだその人達と家族だから、それに縛られて色々大変なことがあって。家族ってよく解らない。」
そう言って花月はまた考えるように黙り込んで、気持ちを整理するように飲み物を口にした。
「あの人が一臣に求めてる家族は書類の上の話しじゃないって解る。でも、あの人が一臣に求めてるのが、一臣の気持ち無視して自分のして欲しいを押しつけてるだけな気がして嫌だった。一臣は優しいから、何か思うところがあって辛くても我慢してあの人のして欲しいを叶えてあげちゃうんじゃないかなって。そしたらあの人はそれに安心して、一臣に沢山我慢させてってなるんじゃないかなって。あの人後悔してるって、ごめんって謝ってたけど、なんか謝ってるって言うより一臣のこと責めてるみたいに見えた。許して欲しいって言うより、言うこときけって言ってるみたいだった。わたし、あの人の話し聞いてて、なんで一臣のこと決めつけて本当に一臣がどう思ってるのか、どう思ってたのかきいてあげないのって。なんで一臣に考える時間あげないのって。気持ちを整理する時間あげないのって。もっと、一臣のこと解ってあげようとしないのって、凄く腹が立った。一臣がグッて拳握っていつも通り笑ってるの見て、なんか凄く胸が痛くなった。一臣の苦しいに全然気付かないで話し続けるあの人に腹が立ってしかたがなかった。あの人のわがままに無理して付き合ってる一臣を見たくなかった。一臣のことちゃんと見てあげない人のために、一臣が沢山我慢するのが嫌だった。わたしの大切な友達を傷つけるあの人が許せないって思った。生まれて始めて、そんなこと思った。凄く嫌だった。凄く腹が立った。なんか胸の痛いがカーって頭にのぼってきて、カッてなって、それで、怒鳴ってた。怒鳴ったらなんかムカムカして、それで一臣の手を引っ張ってた。こんな感情、わたし今まで知らなかった。これってわがままかな。一臣の家族の話なのに、わたしが怒るのっておかしいこと?いけないことだったのかな。わたし余計な事して迷惑かけた?」
そう言って不安そうな申し訳なさそうな顔で自分を見上げる花月を見て、一臣は、いやと言って笑った。
「全然迷惑じゃない。むしろ、お前がいてくれて助かった。それに、凄く嬉しかった。凄く、嬉しい。」
そう言って涙がこみ上げてきそうになって、一臣はそれをぐっと堪えた。
「大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ。なぁ、花月。」
「ん?」
「ちょっと、俺の話聞いてくれるか?色々、自分の中のもの整理したいんだ。」
そう言うと、花月がいいよと返してきて、一臣はとりとめもなく言葉を紡いだ。
「ずっと、思い出さないようにしてた。色々。昔のこと。サクラハイムでお前と再会したとき、色々押し込めてた物が一気に自分の中に蘇って、それで、なんだろうな頭の中がパニックみたいになった。お前と仲直りして、昔の事とも上手く折り合いがつけられるようになったと思ってた。受け入れられなかった昔の自分を受け入れて、否定されて押し込めた好きだった物も表に出して、昔のこと全部と向き合えるようになったんだと思ってたんだ。でも、まだ思い出してないことがあった。まだ向き合えてないことが俺にはあった。久しぶりにあの人に会って、それを思い出した。」
そう言って、一臣は残っていた缶の中身を一気に飲み干した。
「母さんが死んだとき、俺、泣かなかったんだ。泣けなかった。なんか現実感がなくて、親父や弟が泣いてるの呆然と眺めながら、洗濯しなきゃとか、あそこの片付けしないとなとか、飯何作ろうとか、なんでかそんなことばっか考えてた。二人がずっと沈んでるのを横目に、俺だけは普通にそれまで通りの日常を送ってた。不思議と、母さんがいないから俺が買い物も行かないととか考えてて、母さんがいないことに合わせて動いてて。母さんはいつもこうしてたなって、母さんの形跡たどって、家事こなして。一年ぐらい経った頃だったかな。いつも通り家事してたら急に、母さんがいない事が俺の中に入って来て涙が溢れてきた。溢れて、止まらなくなった。そしたら親父に今までお前一人に負担掛けて無理させて悪かったなって言われた。違うのに、俺が泣いたのはそんな理由じゃなかったのに。でも、母さんが居なくなったのが今更辛くなったんだって、母さんがいない事に今更耐えられなくなったんだって言えなくて、違うってちゃんと伝えられなかった。親父は俺が泣いた理由を勘違いしたまま、やっぱ母親は必要だよなって言い出して、新しい母さん迎えることとかそういうことについてどう思うかとか話すようになった。俺は、無理に相手見付けなくてもいいって、でも親父に好きな相手ができた時はそれはそれでいいって話しした。それで、親父が連れてきた相手が忍さんだった。親父からそういう相手ができたって話があって、顔合わせして、家族で出掛けるときにあの人も一緒に来るようになって、家に来るようになって。忍さんが家のことをやるようになって、手伝おうとしても、いいのよって断られて、じゃあ自分は違うことって思うと、そういうのもわたしがやるからって言われて。菓子作ってたら、お母さんがよく作ってたって聞いたわって、わたしもこういうの得意なのよって、気付いたらあの人が俺に代わって作ってた。忍さんが来てくれるようになって、親父は喜んでたし、弟も色々言ってたけど悪くないみたいだった。俺だけがなんか、モヤモヤして、それに慣れなくて。輪に入れなかった。わたしが来た時にやるから溜めといてって、一臣君は遊びに行ったり好きな事してて良いのよって。無理しなくて良いって、もっと頼りにしてくれていいって。そう言われるのがなんか辛かった。俺が手伝ったり、母さんとしてたようなことしてると気を遣わせるみたいだったから、忍さんがいるときは家のこと任せるようにした。何もしないようにしてた。いないときだけやるようにしてた。でも忍さんはそのこと気にして、俺に良く思われてないのかなって親父に相談して、親父にどうなんだって訊かれて俺は、別にって、いい人だと思うし感謝してるよって言った。忍さんはああ言ってくれてるけど、一人でやるの大変だろって。いないときの分までやらせるのは申し訳ないしって俺は言ってた。親父は、一臣はそうやって母さんの手伝いも良くしてたもんなって納得したみたいだった。忍さんは、そんなこと気にしないで良いのよって、全部わたしに任せてくれればって。そう言われるのが辛かった。でも、辛いって言えなかった。親父は元々男がそんなことするもんじゃないって思ってるタイプだったし、俺が料理とか裁縫とか菓子作りしてたのは母さんに付き合ってただけって本気で思ってたから。本当に俺がしたくてしてたって、母さんが生きてたときから信じてもらえなかった。やってると、キツく言われるわけじゃななかったけど、男がそんなことするのは恥ずかしいみたいなこと言われて、ずっとやらない方向に持ってかせようとされてたから。やりたいって言えなくなってた。言い訳しないと好きなことができなくなってた。母さんが生きてた頃は、母さんが悪者になってフォローして一緒にやってくれたけど、そんな母さんがいなくなったから。俺がそういうことをするのは、父さんにとって、違和感しかなくて。母さんがいなくなって俺が全部するようになったのはしかたがないからやってるだけだと本気で思ってた。俺が本当はやりたくないのに我慢してやり続けてるって本気で思ってた。弟も父さんと同じようなタイプだから。だから、二人からしたら、俺がしてたことは完全に忍さんに対しての当てつけだと思われてた。いつまでも俺が全部を任せてくれないって、やっぱりわたしじゃダメなのかなって、お母さんになれないのかなって、忍さんがこぼす度、親父や弟から色々言われた。特に弟からは、気遣ってるフリして当てつけとか本当性格悪いなとか、そんな嫌がらせみたいな事してないで言いたい事があるならハッキリ言えよなんて、直球でバカスカ言われまくった。俺は、そんなことはないよって、ただずっとやって来たからやらないっていうのが落ち着かなくてなとか、そんなこと言って笑って流してた。しない方がいいって解ってた。誰も俺にそれを求めてないって。むしろやめて欲しいと思ってるって解ってた。だから、止めようと思った。俺がこういうこと続けて皆が嫌な思いするなら、やめなきゃダメだって。やめないとって。そう思えば思うほど、辛くて、苦しくて。胸が押しつぶされそうになって。母さんとの楽しかった想い出が溢れてきて、俺はそれに蓋をした。好きだったこと、楽しかったことに蓋をして、出てこないようにして、したいなんて思わないように、ぐっと押し込めて。押し殺して。そしたら何も感じなくなった。辛いとか苦しいって事も感じなくなったけど、楽しいとか嬉しいとか、そういうことも、全く、なにも感じなくなった。皆と同じ所で、同じ輪に入って、同じように過ごしてるのに、自分が何話してるのか、相手が何話してたのか、どんな会話して、何食って、どうしてたのか、そういうのが全然解らなくなった。身体は勝手に動いて、ちゃんといつも通りの日常を送ってるのに、ちゃんと笑って冗談言ってしてるのに、何も自分の中に入ってこなくなった。でも、それで丸く収まったみたいだから、これが一番なんだって。今の状態が一番良いんだって。そんなことだけ頭に浮かんでた。でも、そんな毎日を送ってたある日、リビングに置いてあった母さんが使ってた手芸セットが目に入ったんだ。こんなとこに置きっ放しだったっけって思って、いつでもすぐできるからってそういえばここに置いてたっけなとか思い出して、それを手にとってた。蓋を開けて、中に入ってるもの見て、作りかけのテーブルクロス見付けて。そうだったって、母さんとこれ作ってる途中だったって思い出した。母さんと二人でどんな柄が良いか話して、布買いに行って、それに飾り付けるモチーフを編んで。完成する前に母さんが倒れて、そのまま帰らぬ人になって。それからずっとこのままだったっなって思い出して。それで、そしたら勝手に身体が動いてて、自然と続きを作ってた。そしたら母さんとの想い出が蘇ってきてな。そうだったって、俺はこういうのが好きだったなって。母さんと色々話ししながらもの作るのが楽しかったなって思い出して、なんかホッとした。手芸するのが楽しくて、久しぶりに、本当に久しぶりに没頭してたらそこに弟が帰ってきて、何してんだよって、母さんのもの掘り出してきてそんなことしてるとかいい加減にしろよって怒鳴られた。本当、兄貴は主根の腐った姑みたいな奴だな。ハッキリ言わないくせにこれ見よがしにそんなことしてとか、なんか、詳しくは良く覚えてないけど、そんなようなこと色々言われて。頭の中がごちゃごちゃになって、悲しんだかなんだか自分の中で感情がこんがらがって、辛くて、苦しくて。なんか訳がわからなくなって。で、そもそも、男のくせに昔からそんなことばっかやってて気持ち悪いんだよって、弟が放ったその言葉がやたら鮮明に耳に入ってきた。それ聞いた瞬間、頭にカッて血が上って。気が付いたら家の中はメチャクチャ、弟は顔腫らして俺のこと怯えきった目で見てた。そっからは、お前も知っての通りだ。訳わかんなくなって、喧嘩に明け暮れるようになって。バカみたいだろ。」
そう語って、一臣は立ち上がり、缶をゴミ箱に捨てた。
「ずっと思い出さないようにしてたから解らなかったが、こうやって話して整理してみると、俺も本当ガキだったな。母さんが死んだのが小学生の時で、父さんが忍さん連れてきたのが中学生の時だからな、ガキで当たり前か。今考えると、あの頃の俺はきっと忍さんに母親を求めてたんだよな。でも俺の求めてる母親像は、やっぱ母さんで。母さんと忍さんの違いにモヤモヤしてたんだと思う。俺はきっと母さんとしてたみたいに、忍さんと一緒に色々したかっただけだったんだ。でもそれを素直に言えなかった。俺も一緒にやりたいなんて、言わなきゃ解るはずないのにな。男がそんなことって小さい頃からずっと言われてたし、そういうのが恥ずかしいとかもあって、あの頃はそれが言えなかった。きっと自分が思ってる以上につんけんしてたんだろうな。こう考えると、荒れる前から普通に反抗期だったな俺。男のくせに気持ち悪いんだよって怒鳴られた印象ばっか残ってたけど、ちゃんと思い出してみると、弟が一番言いたかったのはそっちじゃなかったかもな。あいつも思春期まっただ中で、親の再婚話やなんやで気も遣ってただろうし、本当に俺に苛々してしょうがなかったんだろうな。」
そう言って、一臣は花月に向かって笑った。
「夏樹の言う通りだったな。俺、マジダセーわ。本当バカみたいだ。さっきは今でもあいつの言ってたこと俺には意味分かんないって言ったけど、俺もようやく解ってきた気がする。俺、無駄に我慢するのやめて、もう少し自分に素直になることに決めたよ。長話しに付き合ってくれてありがとな。」
そう、俺がしなきゃいけなかったのは我慢じゃなくて素直になることだった。色々ごちゃごちゃ考えて自分を押し殺すんじゃなくて、開き直ることだった。いつだって。そう考えて、脳裏に夏樹の姿が、そして目の前にいる花月の姿が、二人との想い出が、それぞれとの想い出が溢れてきて、一臣は胸が暖かくなった。お前がいてくれて良かった。俺の前にまた現れてくれて良かった。そう思う。
「俺は恵まれてるな。夏樹がいて、お前がいて、サクラハイムの仲間がいて。こんなにも俺を肯定してくれる人がいる。夏樹はもういないけどな。でも、お前等に解っててもらえるなら、他の誰になんて思われようがどうでもいい。俺、今度実家に帰って家族に喧嘩売ってくる。」
「喧嘩するの?喧嘩やめたんじゃなかったの?」
「殴り合いはしねーよ。ただちょっとな、色々ぶちまけてくる。ちゃんと。」
そう言って一臣は遠くを見た。
「忍さん、死んだ母さんに似てるんだ。見た目の雰囲気とか、家庭的で少女趣味なところとか。でも、中身が違いすぎて俺はあの人が苦手だ。というか、繕わずに言うと嫌いなんだ。親父はああいうのがタイプみたいで、泣きつかれたりするのも悪くないみたいだし。親父が忍さんと再婚したいと思ってるの解ってたから、あの人に対して否定的なこと言うのが言い辛かったんだ、昔は。でも、今はもうどうでもいい。再婚したいなら勝手にすれば良いと思うし、好きにしろよって感じだ。俺はあの人の理想的な家族像に合わせる気は無いし、自分を殺して思い描くような息子演じてやるつもりもない。あの人が泣こうが、親父が困ろうが怒ろうがどうでもいい。いちいち俺を巻き込むなって。包み隠さず言ってやるんだ。俺はもう我慢するのやめることにしたからな。」
そう言ってニッと笑う。
「花月。お前はずっとそのままでいろよ。他人にあれこれ言われたって気にするな。誰がなんて言ったって、俺はずっとお前のことを肯定してやる。俺はずっとお前の味方でいる。俺はそのままのお前が好きなんだ。そのままのお前と、ずっと一緒にいたいんだ。」
そう伝え、それを聞いてきょとんとする花月を見て苦笑する。
「お前が言ったんだろ。取り繕わないそのままの俺と友達になりたいって。夏樹が言ってた、等身大で一緒にいたいってのもそういうことだろ。無理してごまかさない、繕わない、等身大の俺達で、これからも一緒にいたいんだ。そのまま、ありのままのお前に俺は一緒にいて欲しい。これからもずっと。」
そう言い直すと、心底嬉しそうに花月がうんと頷いて笑って、一臣は胸が熱くなった。まったく、全然解ってないと思う。でも、それでもいい。俺は花月が好きだ。その想いをもうごまかさない。無理矢理押し込めたり諦めようとなんてしない。俺は花月が好きだ。たとえいつかこの想いが恋でいられなくなったとしても。いつか彼女を諦めなきゃいけない時が来たとしても。この想いのその形がどんな風に変化し、俺達の関係がどんな風に変わっても。いつか互いが違う道を行き、遠く離れ、隣に寄り添う人が違う誰かになっていたとしても、ずっと。花月は俺にとって特別で、かけがえのない大切な、大切な・・・。
「一臣どうかした?」
そう声を掛けられて、いや別に、と答える。
「先月、命日にお前と行ったばっかだけど、また夏樹の墓参り行ってくるかな。色々報告しに。」
そう言って目を伏せる。そう、色々報告することがある。お前に話したいことが、俺は沢山できたんだ。今更だけど、伝えたいことが沢山あるんだ。そう思って、遅―よと言って笑う友人の顔が頭に浮かんで、本当遅いよなと思って胸が苦しくなる。
「お前も付き合ってくれるか?あいつの追悼式。昔三人で遊び回ったところ回って、あいつの想い出辿って。もうあいつがいないってことをお前と分かち合いたいんだ。もうあいつはいないって事を、一緒に悲しんで欲しいんだ。お前に。」
そう伝えると、花月がうん、わかったと答え、故人を偲ぶように目を細めた。
「一臣。ありがとう。」
「ん?何がだ?」
そう疑問符を浮かべると、なんでもないと花月が笑う。
「帰ろ。」
そう言って、花月は立ち上がり飲み物を一気に飲み干して缶を捨てた。
「そうだな。」
そう返して一臣はベンチに置いていた買い物袋を手に取る。
「わたしも持つよ。」
そう花月が買い物袋に手を掛けてきて、一臣は自分が全部持つから良いと断ろうとし、やめて、じゃあこれよろしくなと手芸用品の入った軽い袋を渡した。
「わたしが持ってたの一つじゃなかったよ?」
「食料品と手芸品で分けたんだ。さっきは俺が会計してる間にお前が詰めてもう持ってたからな。」
そんな会話をし、二人並んで帰路につく。二人で他愛のない会話をしながら歩いて、一臣はこういうの良いなとしみじみと感じた。大切な人と同じ歩調で並んで歩く。その幸せが心に染みる。我慢するのをやめる、それだけでこんなに心が華やぐんだな。そう思って頬が緩む。俺はもう我慢しない、そう決めたから。これからは好きなようにする。誰彼構わず大切にするんじゃなくて、大切にしたいモノを大切にする。相手のして欲しいや叶えて欲しいではなくて、自分のしたいや叶えたいを優先する。そう心に決めて、一臣は隣を歩く花月を見つめながら、心の中で愛してると呟いた。