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再帰のエートス  作者: 時桔梗
第一章 巡る月日、移ろわぬもの
26/47

一寸先は薄暗闇

 噛まれた左前腕には牙が刺さった創痕が赤く、あたかもテクスチャが欠損したように表現され、そこを中心として僅かな熱と痺れが広がっていくのを感じる。

 肉を貫かれるという鋭く強烈な刺激を受けたはずなのに、その痛みは現実であれば不自然な程に小さい。具体的には、少しの間跡が残る程度に軽く爪を立てた時くらいの痛さだろうか。


 医療用は例外として一般向けの全没入型VRギアとして認可され現在流通しているものは、そのどれもが痛覚に対して特に設けられた偏執的なまでの厳密な基準を全てクリアしている。

 新規開発を実質禁止していると揶揄されるほどの審査の厳しさは、感覚伝導システム(クォンタム・クオリア)と呼ばれる全没入型VRシステム基幹パッケージの認可数が片手の指で数えられるほどしか存在しないことからも窺える。

 まあVR黎明期はその辺甘かったらしいが。過剰伝達による痛みで失神したり、肉体やら精神やらに不調をきたしたりといった事例が散発した結果、侃々諤々の議論の末今につながる規制が誕生したそうな。

 結果アバウトに言ってしまえば侵害反射が十分起きないであろうレベルに痛覚刺激は制限され、他の感覚についてもそれを基準に設計されているというのが現代のVR事情なのである。


 人は痛い目に遭わなければ学ばない、などと言うがこの程度の痛みでも気を引き締めて対応を考えるきっかけくらいにはなってくれたようだ。


 俺の体を足場にくるり、ととんぼ返りをした森林狼(カニス・リカオン)は矢継ぎ早に地を蹴りタイミングを見計らうと、再度突撃を仕掛けてきた。

 鈍化した体での剣の対応じゃ間に合わない。狼の攻撃手段は牙か、爪か。

 ――左手の剣を打ち捨てる。


 左寄りに突っ込んでくる森林狼がその鼻先を僅かに持ち上げる。奴の体高はおよそ一メートル足らず。その狙いは左側、上体か!

 俺は反射的に右足を下げ左半身(はんみ)の構え。狼は狙いを変えずその踏み込みは一瞬、深く。


 大口を開け、飛び上がらんとする狼。合わせるように左足を浮かせ前に、左肩は後ろへ。

 狼が睨むのは俺の左肩、追従するようにその顎が迫りくる。

 空中で伸び切る狼の体、俺はそれを避けるように後ろへ倒れ込み……その直前に俺の体は()()()()()()()()()()()()()


 奴の狙いが俺の左肩なら、俺の狙いは奴の左脇腹だ。

 あべこべに動いた左肩と腰はそのエネルギーを余すことなく右脚に奔らせる。まるでジャンピングボレーのように、しかし爪先は鎌のようにもたげさせ、天を目掛けて溜まった力を爆発させて、一直線に蹴り上げる――!


「ゥ――らぁッ!!」

「ギャンッ!?」


 肋骨の下、人体と同様急所たり得る部位へと抉り込んだ一撃は、死神の鎌には程遠かれど狼の攻め気を刈り取るに十分な一撃だった。

 死角から襲った衝撃に狼はたまらず身を竦め、飛び掛かる勢いのまま俺の後方へと流れていく。俺は目だけでそれを見送ると、宙に投げ出されたまま両脚を素早く胸まで引き込み、両肩で着地すると同時に地面に弾かれるように跳ね起きた。


 勢いが足りず、体勢を整えるために後ろへ数歩よろめく。スタイリッシュ欠乏症がこの身を蝕んでおる。

 森林狼の姿を急いで確認してみれば、こちらの様子を窺っているのか前のめりな感じはない。いい、いいぞ。このまま時間を稼がせろ……!


 少しでも攻撃をためらわせようと先ほどと同様左半身(はんみ)になってみせ、ついでにシャドーボクシングなぞしてみる。シュッシュッと息を吐きながら拳を振るうたびに森林狼は微かに身じろぎをする。


 先ほどの蹴り、ゲームシステム的には会心打(クリティカル)でも致命打(フェイタル)でもない普通の攻撃であったが、「弱点部位への一撃」という判定だったのは確実だ。ゲームによってはそれをクリティカルと呼ぶこともあるか。

 エートスにおいては、弱点への攻撃は通常よりも与ダメージが高くなることに加えて何らかの追加効果を発生させることがある。それは部位、攻撃種、ダメージ量なんかの条件が絡み合って異なる結果を齎すことから一概にこうと言えるものではないのだが、例えば単純に出血や骨折といった状態異常であったりAIの思考ルーチンを変化させたりと様々である。

 今回の場合は後者のパターンであろうか。奴の様子を見た感じ、攻撃性の減少及び上昇阻害? マスクデータ過ぎて想像でしかないけど。


「大丈夫? 耐えられそう?」


 森林狼を注視しつつ俺のそばまで駆け寄り、イリスはそう問うてきた。俺は状況を総合的に判断して、努めて平静に答えを返す。


「よゆーっしょ」

「言葉が軽い時は余裕がない時……」


 何を言うか。その通りだよ。

 残りHPは三分の二のままWPは半分近くまで回復し、順調に行っているようにも見えるが正直牙による攻撃はそんなに問題ではないのだ。今の状況で何が厄介かと言えば……


 森林狼は睨み合いに焦れたのか喉元過ぎればなんとやらなのか、シャドーボクシングを完全に無視して真っ直ぐこちらへ突っ込んできた。狙いが読めないが、つまりは噛みつきではないと見る。

 俺は警戒レベルを一段上げ、回避は捨てて迎撃態勢に。迫る狼はなおも攻撃のそぶりを見せない。あと一歩でぶつかるところまで来た瞬間その体が不意に傾き、俺は咄嗟に左膝を跳ね上げた。


 一瞬の邂逅。狼は俺の左を駆け抜け、膝に残る衝撃の余韻と確かに減じたHPバーに俺は盛大に舌を鳴らす。減りを見るに4か5か、最大値の実に一割近いダメージ。それがすれ違いざまに奴の爪の一撃で削られた俺のHP量だ。

 振り向きざま、まだ狼とは距離があると思っていたところから腿への爪撃。同時に俺のHPバーは黄色く染まる。


「ヤロウ、噛みつきじゃなく引っ掻きに味を占めやがった」


 森林狼の引っ掻き攻撃、その威力は全くもって高いわけではない。客観的に見れば獣においては噛みつきに次いでありふれた攻撃であり、獣人(ウェアビースト)骨格でもなければさほど注意を払うような攻撃ではない。

 噛みつきに比べれば出が早く、攻撃の起こりが分かりづらい。その特徴が、噛みつきの対応はぎりぎり且つ耐久面が涙ちょちょぎれる貧弱さな俺にとってどれだけ厄介なことか。


 円を描くように方向を変え、樹々の隙間を縫うように狼は迫る。正面から右前脚で引っ掻いてくるなら左に流れつつ右回りに受け流し、左前脚ならその逆で、という対応策は頭にある。ただでさえサイズ差があるせいで下半身を狙われるととにかくやりづらくてしょうがないが、分が悪かろうが試さなきゃどうにもならない。

 俺は重心を落とし上体を倒すように前傾姿勢になる。レスリング選手が確かこんな感じの構えだったなと頭をよぎった。

 腕を正面でだらりと下ろし、突っ込んでくる狼を睨むと、ピリッと脳に電気が走るような錯覚。


 ――あれ、もしかして本当に止めてしまえばいいのでは?


 脳内で別の経路がこじ開けられていく。もう幾分もない衝突までの時間、俺は衝動の命ずるがままに自らのアバターへと行動を入力した。

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