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再帰のエートス  作者: 時桔梗
第一章 巡る月日、移ろわぬもの
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「まあまあ」

 俺は腑に落ちない気持ちを抱えるように両の腕を組み、立ち尽くしていた。

 蒔納さんちの創吾くんは幼馴染に餌付けされてる畜生ボーイだとご近所では専らの評判だ。いやそれは半分冗談としても、連中との関係は俺があいつの家でメシを食うことを言うに憚られるようなものではないわけで。

 珠鳳の奴め、何か企んでるんじゃないかと考えてみるも情報が全く無くて絞り込めない。あいつはアホだが少なくとも料理で悪ふざけをするような度し難いアホではないし、メシを食えるなら他のことは些末事と割り切っておくか……


 ガチャリ、と聞こえた音に顔を上げてみれば、玄関ドアの隙間からそこそこ見慣れた顔が見えて、目が合った。


「……え」

「おっす、邪魔する――」


 ガチャン、とドアが閉まった。え、なにゆえ? 何か嫌われるような事したっけか?

 分からん。分からんけどとりあえずここに放置されるのは色々よろしくない、と俺は内心の動揺を押し殺してドアの奥へと声をかける。


「おい、ちょっと」

『……五分待ってて』

「いや長えわ。待つのはいいからとりあえず中に入れて」

『ダメ。いいからそこで待ってて――ねえお姉ちゃーーん!! 創くん来るって私聞いてないんだけどーー!!』


 ご丁寧に鍵を掛けられ、それからドアの向こうが俄かに騒がしくなる。どうやら応対に出てきた少女にとって俺は予期せぬ客だったようだ。勝手知ったる間柄、塩対応でも別に失礼とかそんなことを思いはしないが……


「人んちの玄関先で男がじっと立ってたら不審者にしか見えないだろうが」


 ……もう何でもいいけどせめて通報されない内に家に上がらせてくれ。俺はちょっとでもご近所の眼から逃れるためにしゃがんで身を潜めておくから。






「――マジで五分待つことになるとは」

「いやーごめんごめん、ちょっとお見せできる格好じゃなかったからさ」

「別に上下スウェットでも何でもいいだろ……こちとらお前の裸だって見たことあるんだぞ」

「……何のことカナ? それに裸って、いつの話してるし。というか! その話絶っっっ対に他所でしないでよね」


 それは当然だ。そんなこと外で言おうものなら俺は社会的に死んでしまいます。たとえ実際のところは俺が小学校低学年でこいつが幼稚園児の頃の話であっても、今や立派な女子高生となった子の裸を見たなんて口が裂けても言えるはずがない。


 無事警察の厄介になることなく鹿波さんちにお邪魔することができた俺は、ただいまリビングのソファーにどっかりと座り込んでくつろぎモードに入っていた。テレビに映る無味乾燥な映像をぼんやりと視界に入れるのもそろそろ飽きてきたので、おもむろに隣に座る膨れっ面へと目線を動かし、天辺からつま先までじっとりと眺め見てみることにした。


 今年高校に上がったばかりの鹿波(かなみ) 華鳳(かほ)、すなわち珠鳳の妹御は肩出しの白いブラウスにデニムのホットパンツとやけに肌色面積の広い恰好をしているが、姉よりも比較的溌剌とした雰囲気には合っているような印象を受ける。ふわっとした黒髪のショートヘアーは日に焼けたのか少し赤みがかった色になっていて、よくよく見てみれば二の腕や太ももの辺りにも薄っすらとだが日焼けのラインが……なんて考えていたら華鳳は俺の視線に気づいたらしく、身を守るように膝を抱え込むとすかさずキッチンに居る姉に向かって俺の行為をチクりやがった。


「お姉ちゃーん。創くんがやらしい目で私のこと見てくるんだけどー」

「頭ひっ叩いときなさーい」

「いやいや! 至って健全に観賞してましたとも。あ、こらやめろ叩こうとすんな」


 物騒な姉に唆された華鳳はソファーから勢いよく立ち上がり両手を握り締め、そのまま襲ってくるかと思えばソファーの後ろに回り込んでポカポカと俺の後頭部を軽く叩いてきた。後ろを取られてしまってはなすすべがない、と俺は両手を上げて降参のポーズを取る。

 降伏は受理され、両肩に乗せられた華鳳の手のひらからじんわりと熱が伝わってくる。そのまま体を左右に揺らされるに任せていると、耳元で発せられた声に思わずびくっと身を震わせてしまった。


「反省した?」

「したした。したからそのまま肩揉んでくれ」

「……どうしてこんなふてぶてしいんだろこの人。別にいいけど」


 むぅ、と不満げに唸りながらも華鳳は言われた通り指に力を込めてくれる。丁度いい力加減で強張っていた筋肉がほぐされていく気持ちよさに自然と声が出てしまう。

 このまま一眠りしてしまおうかなんて思い始めたところで、俺の首の付け根辺りに手を置いた華鳳がぽつりと呟くのが耳に届いた。


「……結構凝ってるね」

「あー、そうだなぁ。やっぱ動かずにじっとしてるとどうしてもな」

「……ふぅん」


 華鳳は素っ気ない反応を返すと、その手を俺の胸元までするすると滑らせてしなだれかかってきた。何て言ったか……あ、アストロ抱き? とにかく後ろから抱き竦められるような形になる。こいつがこんな露骨に甘えた態度を取るなんて珍しいなと思うと同時に、昔のことが思い起こされて懐かしくなった。昔は外で遊んだ帰りなんかによくおんぶしてやったもんだ。綾麗はおんぶが嫌いだったみたいであまりしてやってないし、俺が一番負ぶったのは華鳳だろうな。

 しみじみと懐かしみながらも、肩に感じる柔らかさとか耳にかかる吐息とか、昔と違ってすっかり女らしく成長したことへの一抹の寂しさが俺の胸を去来する。

 首に回された右腕は放したくないと訴えているかのようで、華鳳は真っ直ぐ下ろした自らの左上腕を右手で掴むと更にきつく抱きしめてきた。


「私、ね。創くんが――」


 熱を帯びた囁きが耳朶を舐めるような感覚に俺はぞくりと身を震わせる。言葉を切った華鳳の腕を二度ぽんぽんと軽く打つと、それで華鳳は心が決まったのか俺の頭を左手で撫でながら、続く言葉を口にした。


「運動せずにもやしになっていくとこ、見たくないなぁ……」

「話し合おう」


 頭に添えられていた左手から圧が伝わってきて、ぎりぎりと首が絞められていく。

 ぽんぽんぽんぽん! と強めにタップするもレフェリーはキッチンに居て気付いてくれない。こいつはこいつで口で言わないと通じないのか。


「ぎぶぎぶぎぶ!」

「もっと欲しいの? 仕方ないなぁ」

「ちがう!」


 こやつめ完全に分かったうえで降参を無視してやがる。そもそも後ろに回られた時に一度降参してるのに何故また戦闘行為が開始されたのか。いやこれはただの蹂躙だ。ジュネーブ条約何するものぞと言わんばかりに俺の意識を刈り取ろうとしてきている。


「ね、私と一緒に運動しよっか」


 一旦絞めるのを止めたことから、おそらくは譲歩の誘い。これに一つ頷くだけで俺はこの息苦しさから解放されるのだろう。俺は内心頷く気満々でありつつも真剣に答えるべく脳みそをぶん回して暇な時間を探す。

 平日、華鳳は部活だし俺はバイトかゲーム。無理。

 土日、華鳳の部活は自由参加だから空いてるが俺はゲームかゲーム。無理。

 ……あれ?


「そんな時間ねえな」

「ッ、信っじらんない! 馬鹿!」


 いかん、ついぽろっと。完全に機嫌を損ねてしまったのか今まで以上のきつい締め上げで普通に息できなくなってきた。あぁ、だんだん意識がふわっと……


「華鳳ー? どうしたの大声出して……え、何、そんなにくっついて。ご飯もう出来るから、じゃれるのはそろそろ終わりにしなね」

「うぅー……はーい」


 様子を見に来た珠鳳にストップをかけられ、渋々といった様子で華鳳は俺を解放した。いやあ助かった。危うく酸欠で落ちるかと思った。十全に呼吸ができることの喜びを味わうように、俺は思いっきり鼻から息を吸い上げ……眉を顰める。


 ……来た時から気になってたんだけど、カレーにしたって強烈な、刺激臭一歩手前のこの匂いの坩堝は一体何ぞ。






「創くんはさ、いつまで経ってもデリカシーが身に着かないよね。だからモテないんだよ」

「俺がモテないのはデリカシーがないからかもしれんが、あったところでモテるわけでもないと思う」


 不満たらたらに文句垂れる華鳳に俺はそんな答えを返す。俺にデリカシーを装着してイケメンにして身長を伸ばして爽やかにして挙句に優しい奴がすぐ近くにいるからな。太陽のそばで光る豆電球が高輝度LEDに変わったところで誰も気にしないというかむしろ一瞬で蒸発して何も残らない。世の不平等さを嘆く、なんて今更すぎるくらいに今更なことをするでもなく、俺は目の前に置かれた皿をじっと見つめる。

 ずっと漂っていた匂いの原因が目の前の()()なのは疑うべくもない。色味やらメールの内容からしてカレー、なんだとは思うんだが。


「……カレー?」

「見たまんまじゃん」


 華鳳はダイニングテーブルに肘を突き、顎を手に乗せながら俺の疑問を一蹴した。だよな、カレーだよな。カレー……俺の知ってるカレーと比べて甘味と酸味の香りが強い気がするが、きっとカレーなんだろう。心なしか生臭さもあるような……食欲は確かにそそられないわけじゃないんだが、失敗したわけじゃないよな? 珠鳳の失敗料理なんて長いこと食ってないから油断していたが、まさか今日に限ってなんてことはないよな?

 微動だにせず皿の上を凝視していると、カレー(仮)の横にサラダと漬物が入った皿をそれぞれ置いた珠鳳が、呆れたような声で俺の不安を言い当ててきた。


「何考えてるか丸わかりだけど、ばっちりちゃんと出来てるから安心なさい」

「……うす。いや、別に疑ってないし」

「はいはい。じゃあ食べよっか。ほら、華鳳も膨れてないで腕下ろして」

「はぁい」


 華鳳の隣、俺の斜向かいの席に珠鳳が座るのを待ってから、俺たちは三人の食事を始めるのだった。




「そういえば、今日おじさんとおばさんは?」

「二人は昨日から温泉旅行。今夜帰るって言ってたんだけど、晩も食べて帰るからって連絡来てね」

「あぁ、それで余ってるって……いやメッセ送ったときはまだ余ってなくね? っつーかメッセじゃなくて直接言ってくれりゃよかったのに」

「材料使い切っちゃいたかったの。せっかくなら出来たて食べて欲しいから取っておくのも気が乗らなかったし。それに余るって言われるより余ってるって言われた方が創吾も来やすかったでしょ?」

「なるほど……なるほど? で、なんでメッセにしたの」

「それは秘密」


 秘密にするような何かがあるのか……

 おいしいおいしいとすっかり上機嫌になってカレー(仮)をぱくつく華鳳に向けて二人揃って視線を送り、その様子に釣られるように俺と珠鳳も最初の一匙を口に運ぶ。

 ビリッ、と痺れを錯覚するくらいに、口の中で複雑な味が一気にはじけた。柑橘類なんかの果物的な甘酸っぱさの後に、胡椒やら唐辛子やらを始め香辛料がこれでもかと主張しようとするところを、ミルクのような甘みとコクが優しく包み込んで深い味わいを感じさせてくる。スパイスが落ち着く頃に乳の諄さが残るかと思えば、ハーブのような爽やかな香りがすっと後味を浚っていく。うん……なるほど。


「んーっ! 我ながらいい出来! でもココナッツがここまで角を取っちゃうなら、もうちょっとスパイス尖らせてもよかったかなあ。どう?」

「私はこれくらいがちょうどいいかな。いくらでも食べられそー!」


 きゃっきゃと盛り上がる二人を余所に、俺は二口、三口と食べ進めてから、珠鳳に向けて素朴な疑問を向けてみることにした。


「ところでこの、カレー? 何?」

「えっ?」


 あ、これは失敗したな。珠鳳の表情から語りたい欲が溢れ出しているのが目に見えて分かる。思わず隣の妹の方へ目線を逸らすと、華鳳は我関せずといった風に黙々と食べ続けている。俺一人で相手しなきゃいけないのか……食いながらでいいかなぁ。


「これはゲーン・マッサマン・ガイって言うんだけど、チキンのマッサマンカレーって言った方が分かりやすいのかな。それでね、最近バリ料理にハマってる友達からホームデーンと南姜と、手作りのアチャールをおすそ分けでもらってね、最初はバソ・グデにしてジュクッ・アレスを作ってみようと思ったんだけどね、あれってバナナの茎がないと片手落ちというか、大根なんかで代用してもいいんだろうけどどうしてもね。それならいっそのことタイ料理の方で使ってみようかと思ってね、タイ料理ならゲーン・マッサマンかなーって」

「うん」


 こいつが何言ってるのか全く分からん。とりあえずカレーではあるということでいいのか。


「でね、バイマックルーとかタマリンドペーストがないなーと思って今朝買いに行ってね、そういえば生ココナッツ売ってるお店があったなって思い出してそのお店に行ってみたらちゃんと搾るところまでやってくれるらしくてね、一番と二番搾りをその場で作ってくれたの。缶でもいいんだけど風味はちょっと飛んじゃってるからせっかくならね。搾りたてのココナッツミルクが手に入ってやる気が出ちゃって、帰る前にカーオ・ホーム・マリも買っちゃって」

「うんうん」


 生、一番、搾り……ビールの話になったのかな? 缶じゃだめって、瓶なんだろうか。


「帰ってきたらうちの親は帰りが遅くなるから家で食べないっていうし、分量計算してみたら二人で食べるには結構量が多くなりそうだったし、じゃあ創吾に食べてもらおっかなーって。ということで、今晩のメニューはゲーン・マッサマン・ガイとヤムウンセンとアチャールでタイ風にしてみました! タイ風ならアーチャートかな? あ、デザートもあるよ」

「そう……」


 とりあえずタイ風ということしか分からなかった。台風の如く怒涛の勢いで捲し立てられたが、食べ進めながら上の空で聞いてたせいでもう既にほぼ中身を覚えてない。

 話し終えて満足したのか、珠鳳は達成感を漂わせつつ静かに食事を再開する。食卓に沈黙が落ち、しばし食器が鳴る音と、点けっぱなしのテレビの音だけが場に揺蕩っていた。


 そろそろ()()かな、と顔を上げてみれば、案の定。珠鳳はじっとこちらを見つめ、ひどく真剣な表情で


「ねぇ創吾、おいしい?」


 ()()()のように、そう答えを乞うてきた。

 どうせ聞かれると思っていたから、回答は当然最初から考えていたし、とっくに決まってもいる。多分に珠鳳の趣味が混ざっていようが、がっつり拘って作られたカレーは辛さが控えめにしてあってこれくらいで丁度いいかなと感じる。であれば、やっぱり答えはこうだな。


「まあまあ」


 珠鳳は諦めたように、華鳳は信じられないと言いたげに、二人はどうしようもない奴を見るような目を俺に向けてきた。いつもの事なんだからそんな目で見ないでほしい。


「創くん、素直になりなよ」

「素直に『まあまあ』って答えてるだろ?」

「……はぁ、ほんと頑なだなあ。こんなにおいしいのに」


 華鳳は呆れたようにそう言うが、「まあまあ」は「まあまあ」なのだから仕方がない。

 よっぽど会心の作だったのか、珠鳳は珍しく諦めの様子のまま食い下がってきた。


「やっぱり、「まあまあ」?」

「ああ。「まあまあ」だな」

「そう……うぅ、いつか絶対「おいしい」って言わせてやるから」

「精進したまえよ。あ、このアチャール? っていうのは美味いな。作ってくれた人にちゃんと伝えといてくれ」

「うあー! 絶対言わせてやるからぁー!」


 珠鳳は自棄気味にそう決意を叫ぶ。試しに言ってみようなんてつもりはこれっぽっちもないけど、この調子だと「おいしい」なんて言おうものなら一体どんな反応が返ってくるのか。

 俺は体を微かに震わせて、頭に浮かんだ考えを振り払う。俺は何も考えなかったのだ、と心中省みることなく目の前の食事を平らげることに専念する。


 ――やっぱり、「まあまあ」だな。


 心をちくちくと苛む何かから目を背けながら、俺は幼馴染の手料理を堪能するのだった。

何を言ってるのか作者にも分からない

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