4.芽
稽古、といってすぐに浮かんだのは殴り合いだ。生まれてこの方殴りあいなんて数えるほどしかないが、顔に似合わず筋骨隆々な信長に殴られるのかもしれない、と思うと足がすくむ。
本当の信行の記憶だと、こういう稽古は頻度は少ないが今までにもあったようだ。
そう、思考に没頭していると馬小屋についた。鐙も鞍もついていない馬に軽々しく乗るさまを魅せつけられつつ、顎ではやくしろとばかりに急かされる。
「ままよ!」
掛け声に気勢を込めるが、僕自身はもちろん馬に乗ったことなんてない。この体が乗り方を覚えていたのかヒラリと乗ることが出来た。
「行くぞっ! 坊丸!」
いつの間にか持っていた鞭のようなもので、信長は乱暴に馬の首をはたくと、グンッと速度を上げ走りだしていった。
遅れないように、真似をするが幾分信長のほうが早い。
数十分程度、いつの間にかついてきた信長の供回りと一緒に駆けると川にでた。現在で言うと庄内川という場所だ。
「相撲を取るぞ!」
信長の号令に「おう」と供回りが上裸になり、各々が相撲をとり始める。半分くらいの面々はたくましい体をしているが、残りはやせ細っていて、栄養が足りないように見える。
奇妙な感覚だが名前はわかる。後年での名前はわからない人が多いが、元服していなさそうだし聞けばわかるだろう。
「坊丸! やるぞ!」
その掛け声とともに信長は両手を大きく広げ襲いかかってきた。身長差もあり美少年な顔が野卑に歪んでいるように見える。
「――っ」
手加減をしてくれていたのか、そこまで大きな衝撃はなかった。できるかぎり全身に力を込めて信長の体を押し返す!
「ふっ」
信長の微笑が聞こえた頃に僕は前のめりになり倒れた。いきなり力を抜いたのだ。
「坊丸! 駆け引きが重要ぞ! もう一度だ!」
その言葉に、“まだ”信長と信行の仲は悪くない時代だったのだろう。相撲という枠組みの中で物事の本質を教えようとしているらしい。
そこからは胸を借りる気持ちで信長とひたすら相撲をした。
相撲も終わって、城に戻ると城門前に立っていたのはカンカンに起こった爺さんだった。
ちなみに相撲は勝てなかったけど、大切なことを教えてもらった気がする。
「爺! 何をしておる!」
信長の言葉に一層眉間にしわを寄せて、
「何をしているではございませぬぞ吉法師様、日頃から――」
「いい。わかった。湯漬けだ。腹が減った!」
そのままずかずかと城の中へ入った。回りにいたとも周りの面々も後に続くが、皆深々と礼をしてから入っていったので、僕もそれに倣う。
「坊丸様、少し――」
城に入った直後、そう声をかけてのは守役の林光貞だ。いつも林殿、と本当の信行は呼んでいたらしい。
この人は謀反後にいろいろあって許されるけど、その二十年、三十年後に織田家から追放されるかわいそうな人なんだな、と思いつつ、案内された部屋にはいる。
最初の内は近頃の武芸の話、学問教養の話など記憶に頼らないといけない質問ばかりだったが、一度あたりを見回してから、真剣な目で見つめてきた。
「近頃の吉法師様、信長様をどう思いますかな。最近になって“うつけ”が酷くなっていると聞きますの」
言い方に侮蔑、というよりは気に入らないものをみるような雰囲気が感じられた。
「林殿。どう返していただきたいので? 織田家嫡男、次期当主の事を“うつけ”呼ばわりなど聞き逃せませんな」
じろり、と睨むように見据えると、ブワっと汗が噴き出しているのが見て取れた。しどろもどろになりながらも返答をしていたが、冷たい眼差しを向けるとこれにて失礼といって部屋を出て行った。
出て行った方向を見つつ、今もし致命的に間違った答えを言っていたらどうなったか考えると、
「この時期から謀反の芽が出ようとしていた――?」
仮にここで僕のほうがふさわしいとか返答していたら、筆頭家老林光貞の名の下で織田家二つの争いになっていたのだろうか。
「こういうこともこれからありえるし、気をつけるか……」
気を引き締めつつ、僕は部屋をでた。