水槽と汚泥
人魚部屋を出てから、私とすれ違った人達は皆ギョッとしたように振り返り、面倒事はごめんだとでも言うように去って行く。皆自分のことで精一杯なのだからしょうがない。私だって、びしょ濡れで生臭い上に血塗れの奴隷を見たら無視する。
結論から言うと、水の入れ替えは夜の間までになんとか間に合った。人魚部屋から井戸までの距離と水槽の大きさから、絶対に間に合わないだろうと自分でも思っていたけれど、あの無駄に生命力溢れる男が助けてくれたのだ。というかほぼあの男が部屋まで水を運び、私は水槽の水を入れ替える作業をしただけだった。
そして水槽の水が綺麗になった後、彼は私の右手を布でぐるぐる巻きにして急いで自分の仕事に戻って行った。傷口はもう血が固まって塞がっていたし、巻かれた布は薄汚れていてお世辞にも清潔とは言い難い。だけど何故か嫌な気分ではなかった。
なにはともあれ、これでご主人様に殴られはしても少なくとも殺される心配はなくなったのが、本当に嬉しい。
人魚が屋敷に来てから5日経った。初日以来、人魚はずっと大人しい。
朝と晩に水を少しずつ入れ替えて、昼間はご主人様と時々ミシェル様が人魚を見に来る。2人とも、なにを話すでもなく人魚をじっと見ているだけ。なんだか気味が悪い。
2人がいなくなった後、水を入れ替えるために部屋に入る。扉を開けると、人魚がチラリとこちらを見た。
「綺麗だとは思うけれど。」
確かに顔は美しい。肌も白く透き通るようで傷一つない。瞳は海の碧をそのまま写し取ったかのように煌めいて、同じ色の髪は腰まで艶やかに伸びている。 だけどこれは上半身だけを見た感想。
「下半身はただの魚じゃない。」
ヒレも鱗も、まさしく魚のソレだ。いつも料理人が捌くまな板に乗せられた魚と同じもの。
ご主人様の好物は魚で、昨日の夕食にも魚料理は出された。それはそれは美味しそうに食べたと、料理人が自慢気に話していた。
なんとも思わないのだろうか?上半身が人間と同じだけで、ああも態度が変わるの?
ソテーにされた魚には唾液を垂らし舌鼓を打つくせに、目の前の人魚には飢えた獣のような眼で見つめることしかしない。ご主人様は食欲とはまた違った感情で人魚を渇望している。
ギラギラ、ギラギラ。あの欲望に満ちた目が、本当にどうしようもなく。
「気持ち悪いのか?」
井戸のある広場の隅で、珍しく心配そうな声で男は私に問いかけた。蹲ったまま襲いくる吐き気を堪える。問いを無視された彼は、それでも去ることはなく、その場で私の背中をさすり始めた。背中から伝わる温度に少し安堵を覚えて、吐き気が収まっても暫くの間それを享受していた。
「おい、もう動けんのか?」
「…うん。ごめんね。」
「気にすんなって。お前が体調崩すなんて珍しいな。奴隷は体が資本なんだから、気をつけろよ?」
「もう大丈夫。」
振り返って、男の顔を見つめる。そばかすだらけだし日焼けで皮膚はカサついている。目だけが異様に輝いていた。この男がどんなことを思っているのか私にはわからないけれど、この輝きに汚泥のようなおぞましい何かが混ざっていることはないような気がした。
少し反吐がでそうになっただけだ。美しくない私達奴隷には、縁のないこと。忘れよう。