お世話開始
あの後ご主人様とミシェル様は、美しい人魚を手放しで賞賛した。そして何故か私はその人魚のお世話役に命じられてしまった。
「お前、人魚のお世話係になったんだって?いいなぁ…俺も見てみたいぜ、羨ましい。」
好奇心旺盛な男がやってきた。そんなに羨ましいなら是非とも代わってあげたい。人魚のお世話の仕方なんて、私には皆目見当もつかないのだから。
「ま、俺も人魚のお世話とやらにできるだけ協力するからさ、頑張れよ。人魚が死んじまって、お前が死ぬのは嫌だからな。」
一緒に居ると気楽でいいんだよ、と男はそう言って私の頭に軽く撫でて仕事に戻って行った。
私の生死を案じてくれる人間は、彼くらいだ。
「さて、なにからすればいいのか…。」
人魚は水槽の中でぐったりとしている。身体中を縛られているのだから、身動きが取れないのは当然だけれど。
まずは身体を自由にするべき?もし人魚が酷く凶暴な生き物なら、それは危険だ。でも、こんなにぐったりとしているなら拘束を解いても暫くは動けないような気がする。
「……………。」
人魚はなにも言わない。ただ口をパクパクさせているだけだ。
私は拘束を解くことにした。もし暴れたとしても、どうせ人魚が思い通りになるのは水槽の中だけなのだ。もし水槽からでたらピチピチ跳ねることしかできないのは、人魚自身が分かっているはず。
「大人しくしててね…。」
靴を脱ぎ、下着以外のぼろきれのような服を脱いでから脚立に乗って水槽に入る。
水槽の高さは私と同じくらいで、水はその半分より少し上くらいまで入っているから、私自身が水槽に入らないと人魚に触れることができないのだ。
ザブンと音を立てて水槽に足を踏み入れる。水は生温く濁り、少しねっとりとしていた。気持ち悪さを堪えながら、屈んで人魚に手を伸ばす。すると、ぐったりしていたはずの人魚が突然バシャバシャと暴れ出した。
一体どこにそんな力が残っていたのか、人魚は必死に水槽の隅に逃げて小さくなった。まるで親の仇のように私を睨みつける。美しい顔は恐怖と憎悪に歪んでも、美しく感じられた。
「逃げても無駄なのに。」
いくら大きい水槽とはいえ、縛られた人魚一匹を追い詰めるのに苦労する広さではない。
縛られたまま一生懸命暴れる哀れな人魚にもう1度手を伸ばすと、いよいよ追い詰められたのか、私の手に噛み付いてきた。痛い。本気で噛まれている。
あまりの痛みに堪らず手を引っ込めると、嫌な感触と共に血が飛び散った。
「っ……い…痛い…。」
噛まれた手の甲から血がだくだくと出ている。水槽があっという間に血だらけの大惨事になってしまった。これは不味い。人魚の方を見ると、噛んだ張本人は口をパクパクさせて顔を真っ青にしている。噛まれて怪我をしたのはこっちだというのに、まるで私が加害者のようで気分が悪くなる。一度水槽から上がって仕切り直そうかとも思ったけれど、やっぱりやめた。
私は再び人魚に手を伸ばした。今度はさっきのように片手ではなく両手で。人魚が暴れようが噛み付いてこようが絶対に逃がすものか。全身を使って人魚を押さえつける。予想に反して人魚の抵抗は少なかった。私の傷ついた右手を見て怯えている。どうやらさっきの噛みつきは双方にダメージを与えたみたいだ。
ぐるぐる巻きにされているものだから、解くのはかなり時間がかかった。人魚はしばらく怯えていたし、私が縄を解いていると気付いてからは僅かな抵抗もやめて大人しくしていた。
「さて、これで貴方は自由に動けるようになったのだけれど。」
人魚は動けるようになってからずっと水から顔を出している。まるで水を嫌がっているようだ。やっぱり私の血で汚れてしまったからか。なら早く水を入れ替えないと。
そう思ってびしょ濡れのまま服をきて部屋を出ようとした私は、もっと早く縄を解かなかったことを本気で後悔した。
「…なぜ水槽がこんなに汚れている?」
ご主人様が様子を見にきたのだ。
「な、縄を解こうとした際に暴れたので、それで」
「その血は、どちらのものだ」
ヒヤリと冷たい風が背筋を吹き抜ける。整った顔に怒気が混じり、恐ろしさに体が震え出す。
「早く答えろ。」
「…私のものです。」
必死に絞り出した私の返答。ご主人様はそうか、と呟いた後私を殴り飛ばした。
ガタイの良いご主人様に殴られれば、小柄な私は軽く吹っ飛ぶ。満足に受身も取れないまま私は地面に突っ伏した。追い打ちをかけるように、怪我した右手を足で踏まれる。
視界が真っ赤に染まり、あまりの痛みに悲鳴すら出せなくて、私はひたすらうずくまり耐えることしかできなかった。
「今日の夜までに水槽の水を綺麗にしておけ。」
ご主人様はそう言い残し、扉を乱暴にしめて出て行った。
私は立ち上がることができず、暫くうずくまったままでいた。
散々な目にあったと思う。ようやく立ち上がれるまでに回復できた。早く水を取り替えなければ、次は殺されるかもしれない。
痛む体を叱咤してフラフラと扉に向かう。部屋を出る瞬間、ふと視線を感じて振り向くと、人魚が私を見ていた。そういえば私が暴行されていた時もいたんだったなぁと他人事のように考えて、
「ご主人様は、美しいものには優しいよ。だから貴方は大丈夫。」
にっこり笑って部屋を出た。
美しいものは、私のように痛い思いをすることはない。