旅行
津々井希夢は会社員だ。冴惠と一希の兄でもある。今日は久々に仕事が休みなので母と弟と共に旅行に来ている。
「にーちゃん、何してんの?」
メールを打っているところへ、一希が声をかけてきた。
「メール打ってる。見りゃ分かるだろ?」
若干面倒くさそうに言うと、
「誰に打ってんの?」
と、聞き返してくる。
「冴惠。俺ら置いてっちゃっただろ?やっぱ可哀想だからさ。」
希夢は冴惠を心配していた。彼女は勉強が大嫌いで今も遊んでいるのではないかと思ったのだ。
素早く画面をフリップして、メールを送信する。一希は
「ふーん、にーちゃん、また嫌な思いしたいんだ。いや、別にいいけどさ。」
といじけたように言った。希夢はそういうつもりで言ったのではなかった。ただ、冴惠の進路が心配だったのだ。
「…」
小生意気な弟を、悟ってやろうと思ったが、一瞬でやめた。言ってもどうせ効き目はない。歯向かってくるだけだ。いつも解決には結びつかない。
一希はそんな兄の気持ちなんて分からず、ただ、自分は強いのだと思い込んでいた。
そのうち、日が暮れてきた。旅館から夕日がよく見える。希夢はそれをじっと少年のように見つめていた。しかし、それは単なる行動に過ぎなくて、頭の中はからっぽで疲れきっていた。早く明日になって欲しい。今は仕事さえ愛しい。そんな感じだった。
「馬鹿だよな、俺。」
呟いてみた。瞬間、彼の目の前でカラスが飛び立った。
彼はふと、自分が姉を困らせていたことを思い出した。その時も、今の一希と同じ感じだったのだろうか。思い出してみる。
「おねーちゃん!それ、違うって。それはおじゃなくてあだよ!」
希夢と明音は平仮名を書く練習をしていた。明音は気にせず、大量のあを、ノートに書き込んでいく。希夢は顔を白黒させながら、手足をばたつかせた。
「いいの!間違えてないもん!あたし、これで出すの!」
明音は一歩も引かなかった。希夢はその態度にいらいらしてしまって、ついに、
「バシッ」
強く引っぱたいてしまった。彼女は大泣きして、しばらくトラウマが残ってしまったのだ。
一希とは違う。と、希夢は思った。自分はもっとまともだ。と思った。夕日が暗闇に溶けていく。ああ、もうすぐ1日が終わる。そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「にいちゃん。」
一希に呼ばれた。希夢は無視してやろうと思ったが、なにやら真剣な眼差しで見つめてくるので、聞いてやることにした。
「…なんだよ」
素っ気なく言う。
「やっぱり、俺って冴惠に嫌われてるよな?」
確かめるように一希は言う。含みがありそうな言い方だ。
「そりゃそうだろうね。お前だけじゃなくて、俺も嫌われてると思うよ。」
突然何を言い出すのかと、希夢は思った。
「やっぱそうだよな。。俺、冴惠嫌いだしな。」
「今更言っても仕方ないじゃん。嫌いなら嫌いで、関わらなきゃいい。」
希夢は笑った。
「ん、まあな。いや、でもよ?2人で家に残されたらどうする?何か関わらなきゃならないだろ?」
一希は戸惑っていた。自分でもよく分かっていないような顔をしながら。希夢はますますおかしくて、いよいよ声をあげて笑った。
「笑うなよ、にいちゃん。このままじゃ、ほんとにやばいかもしれないんだ。冴惠を馬鹿呼ばわりしている場合じゃないかもしれないんだ。」
「どうしたっていうんだよ、まさか、進級が危ないとかか?」
希夢は真顔で言った。一希の額から冷や汗が流れた。
「…ず、図星だよ。」
聞いて希夢はゲラゲラ笑った。一希は苛立ちを覚えた。
「…何だよ、自分が頭いいからって、そんなふうに笑わなくてもいいだろ?」
散々冴惠を馬鹿呼ばわりしてきた一希はいよいよ罰が当たったようだ。希夢はまだ笑っている。
「でもさ、仕方ないよね。五十歩百歩だよ。冴惠が進学校行けなくても、お前は馬鹿に出来ないぞ。お前だって私立行ってて、下の方なんだから。」
そして、一喝された。
一希は悔しかったが、それ以上何も言えなかった。
「…まあ、でも、俺だって決して頭がいいわけじゃない。姉ちゃんの方が上手な時が多いし。ホントの頭の良さは学力関係ないかもな。」
希夢は言った。明音は就職率の高い高校へ行き、そのあと就職したのだ。
「…じゃあ、俺にも見込みある?!」
「どうかな。一希は発言も馬鹿みたいだしな!」
ハハハと、笑う。一希はやっぱりダメかもしれないと、落胆した。
「どうやったって、にいちゃん達には叶わないよな。ずっと大人に思えるし。」
「でも、気を落としすぎることはないよ。冴惠より学んでることは高度なんだし。まずはちゃんと試験突破しとけ。」
希夢は言うと、風呂へ向かった。時刻は6時を少し回ったところだった。