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月と潮騒  作者: しばたや
プロローグ
6/7

終章


       終章・月と潮騒


 


 暗闇の中で、ザンは目を覚ました。


 ゆっくり起き上がり、周りを見回す。


 すでに一月以上を過ごした粗末な小屋の中は、相変わらすめぼしい家具は何もなく、小屋の真ん中にある炉の中にくすぶる薪の燃えさしだけが、ここで人が生活していることの証だった。


 その寒々とした雰囲気は、すでに秋に向かいつつある季節が見せる錯覚ではないだろう。


 いまだに慣れることのできない、絶望的な孤独感に身を震わせる。


 ザンがすべてを失ったあの夜から、一ヶ月以上が経っていた。


 あの日、魔物が海に飛び込んだ時の波にのまれて意識を失い、気がついた時には朝日が降り注ぐ岬の岩場で倒れていた。


 すぐさま跳ね起きて辺りを見回したが、朝日の照らす岬は、そこで起こったことの片鱗も見せず静まり返っていた。


 誰も、何もなかった。


 そこでザンは、魔物との戦いで瀕死になってもおかしくない負傷が、ほとんどふさがっていることに気がついた。


 傷が無いわけではない。新しい傷は増えている。


 傷に残る軽い引きつれだけが、負傷していたのが現実だと物語っている。それがなければ、すべて夢だったのではないかと思うほどだ。


 そう、現実だったのだ。


 蒼白な顔で辺りを見回す。


 見つかるはずがない、と頭のどこかで解っていた。


 それでも、認めることなど出来なかった。


 探した。


 探して、探して。


 太陽が中天を過ぎ、空を明るく染めて沈んでいっても。


 いくら探そうが、見つかりはしない。


 救えなかったのだから。


 守れなかったのだから。


 満天の星空の下で呆然と星を見上げる。


 それから二度目の朝日が昇るの見て、小屋に足を向けた。


 ひょっとしたら、戻っているかも知れない。


 だが、そんな淡い希望を打ち砕くように、ザンを迎えたのは無人の空間だった。


 次にすべき行動を見つけられずに立ち尽くし、そこで初めて長剣を失ったことに気がついた。


 顔を見せないことを不審に思ったブギが尋ねてきたが、ザンの様子を一目見ただけて何があったのか大体のことを察した。


 ブギはザンに掛けるべき言葉もなく、黙って立ち去っていった。


 その日の夜は嵐だった。


 嵐が過ぎ去った村近くの浜辺に、魔物の死体が打ち上げられた。ザンと戦った魔物だ。


 だが、失った長剣はもちろん、そんなものよりも遙かに大切なものは、見つからなかった。


 長剣は守人の身分を証明するもので、それがない限りザンは守人とは認められない。不注意からの紛失は処罰の対象になるが、魔物との戦闘で失ったということで罰はなく、新しいものが届くまで、ザンは休養ということになったと、ブギがしばらくして伝言に来た。


 それから今までのことを、ザンはよく覚えていない。


 色々あったような気もするし、何もなかったような気もする。


 ブギ夫婦は、放っておくと捜索に出て食事もろくに摂らないザンを心配してよく顔を見せてくれていたし、婆様からの伝言もよく伝えに来てくれていた。


 ナオは、あの夜以来姿を見ていない。


 しばらく経って、ブギからナオは勉強の為に村を出たとだけ聞かされた。


 ザンの家族には、魔物との戦いで怪我をしているから、療養しているとブギが伝えてくれたらしい。


 だが、それもこれも、ザンにとっては覚えている価値などない。


 起きて、探して、寝る。


 たまにブギなりヨナなりが持ってきてくれた食料を、勧められるままに口にすることはあったが、それ以外は食事もろくにしなかった。


 単調な繰り返し。


 いっそのこと、終わらせてしまってもよかった。


 それをしなかったのは、僅かな可能性でも、あの少女が帰ってくるという希望に縋っていたからだ。


 可能性など、無いに等しいのは解っている。


 もし無事なら必ず小屋に帰ってくるだろうし、どこかで怪我をして移動できなかったのだとしても、もう戻ってこなければおかしい時間が経っている。


 光のない瞳で小屋の中を見回したザンは、ふと虚空を見上げ、寝床から立ち上がった。


 小屋から出ると、夜気を含んだ風が吹いていた。


 夏はすでに過ぎかけ、虫の音が響く夜はひんやりとした感触をザンの肌に残す。


 真円を描く月が夜に掛かっていた。


 白く濁りのない光が、夜道を照らしている。


 ボンヤリと、子供の頃、夏の終わりの満月が見える夜は外に出てはいけない、と村の大人に言われたことを思い出す。


 その夜に外に出たものは、死者の魂に連れ去られる、というのだった。


 ザンの心にさざ波が立つ。


 なにかに呼ばれるような、そんな感覚があった。


 ザンはゆっくりと足を踏み出した。


 


 人魚の岬。


 足の赴くまま歩いて、ザンはあの日の場所へと向かっていた。


「?!」


 岬の突端。


 ザンは自分の目を疑った。


 だが、頭がそう思うのとは裏腹に、身体は即座に反応する。あの日以来、腑抜けていた身体へ急速に活力が満ちていく。


 走った。


 あの夜、戦いのあった岩場。その波打ち際に、月光が形を取ったような姿はあった。


 星色の髪を持ち、背中を向けて座っている月の光は、紅玉の瞳を持っているはずだった。


 ここしばらくの不摂生がたたったのか、目的の場所に着いた時には、すぐに言葉が出ないほど息が乱れていた。荒い息をつきながら言葉を探す。


 言葉が口から出る前に、月の光が振り向かずに口を開く。


「……来たんだね」


「サラサ……」


 サラサは満月の光が降り注ぐ下、一糸まとわぬ姿で精緻な螺鈿(らでん)細工の鞘に入った長剣を抱き、海の方を向いて岩に腰掛けていた。


「…………生きて、いたんだな……」


 掠れた声で、なんとか言葉を絞り出す。語尾が湿った。


「……ちょうど良かった、始まるよ」


 ザンの言葉に応えるでもなく、不思議なほど静かな声で言って、サラサが海を指さす。


「始まるって……?」


 なにが、そう言いかけた時だった。


 波の少ない静かな海に、小さな光がぽつんと現れる。


 それは見る間に爆発的に広がり、あっという間に海面を覆っていく。


 まるで光の草原が広がっているような光景だった。


 やがて、光の粒が一つ海面から浮き上がった。


 それを追うように、一つ、また一つと天へ舞い上がっていく。


 海に向かって吹く風が、その光を海の方へと流す。


 その光が見せる景色は、暖かく、どこか哀しみを感じさせた。


 唐突に訪れた荘厳な光景に、ザンは惚けたように天を仰いでいた。


「昔の人は、この光を死んだ人の魂だと思ったらしいね」


 相変わらず海の方を向いたまま、ぽつりとサラサが呟いた。


「天に昇れなかった光は、海に落ちて真珠になるって。ザンはその話、知ってるか」


 村に伝わる昔話の一つだ。村の人間ならみんな知っているだろう。


 サラサの表情は、ザンからはよく見えない。声にも感情が感じられなかった。


「でも、これって、そんな不思議なものじゃなくて、海の生き物の産卵なんだってさ。フラムが言ってた」


 魂と卵の違いはあるが、先人はそこに同じく生命を見出していたのだろう。


 正体を知ったところで、その光景の価値は減じることはなく、むしろザンの感慨を深くした。


 言葉が途切れ、波の音だけが流れ、光の河はゆるゆると流れていく。


「……ナオは、元気にしてる?」


 突然の質問に、ザンは言葉に詰まった。


 サラサはナオが何をしたのか知っているのだろうか。相変わらず感情が見えない声で判断がつかず、慎重に言葉を選んで答える。


「少し前に、央都に行ったよ。本格的に詠人の勉強をするんだってさ」


 結局ザンはナオとは直接顔を合わせていなかったが、直接聞いた風を装う。


「そう……」


 短く言って、サラサは再び黙り込む。


 光と風の舞は、一切の音を発することなく、波の音だけを背景に繰り広げられている。


 そのあまりにも幻想的で現実感の希薄な雰囲気は、少しの雑音だけでもすべてが消え去ってしまいそうだった。


 いつまでも魅入ってしまいそうな状景から、サラサに目を移したザンは、その細い肩が震えているのに気がついた。


「サラサ?」


「…………なんで、なんできたのよ…………?」


 途切れ途切れの言葉は涙に濡れていた。


「……今日、会えなければ、諦めるつもりだったのに。……会っても、辛くなるだけだって、もっと辛い思いさせるだけだって、……解ってるのに……。わたしは……馬鹿だ」


 漏れる嗚咽に喉を詰まらせながら虚空へと言葉を紡ぐ少女に、ザンは正面にしゃがみ込んでその細くひんやりとしたサラサの両肩にそっと両手で触れる。


 華奢なその感触は、ザンにとってははっきりとした実感、また触れたいと願った感触だ。


「無理に喋らなくていい。後でいくらでも話せる。お前が生きててくれたってだけで、オレには十分だよ。とにかく、そんな格好じゃ身体が冷える。一度小屋に戻ろう」


 なぜか胸を差し始めた嫌な感覚を押し込めつつ、サラサの肩を抱いて立たせる。


「ザン」


 名前を呼ばれただけだというのに、その刃物のような真剣さにザンは動けなくなった。


 サラサは俯いたまま、螺鈿の鞘ごと長剣をザンの胸に押しつけ、そっと身体を離した。


「わたしは、いけないよ」


 言葉がザンの心臓を掴む。


 半ば予想していたような、あらかじめ決まっていたような、まったく予想もしない言葉を聞いたような、名状しがたい感覚がザンの心に広がる。


「…………え?」


 口の中が乾いていくのを感じながら、なんとか問い返す。


 不安に耐えきれず、すがるように、長剣を押しつけるサラサの手に自分の手を重ねる。


「あの夜」


 ぽつりとサラサが呟く。


 光の河は、いつの間にかその尾を海から放していた。


「怖い魔物と戦ったね……。傷だらけになっても、戦ってくれたね……。わたしの……ためだったんだよね。わたしがいなければ、逃げてたよね」


 そうだ、とも、違う、とも言えずに、ザンは言葉に詰まる。


「魔物……怖かった。でも、ザンが傷ついて、いっぱい血を流して、死んじゃうんじゃないかって……。その方がずっと怖かった……。でもね」


 その時の恐怖を思い出したのか、サラサの身体が少し震えた。


「わたし……その時、どう思ったか判る……? ……嬉しいって思ったんだよ」


 罪人がその罪を告白するかのように、悲痛な響き。


「……ザンがあの時死んじゃったとしても、わたしはそう思ったのかもしれない。……この先、同じようなことがあって、そうなったとしても……多分、きっと、わたし、そう思う」


 ぽろぽろと、光る粒がいくつも俯いたサラサの顔から地面に落ちる。哀しく乾いた笑いが、その小さな唇から漏れる。


「ザンが、わたしを置いていくことになるのに……きっと、そう思っちゃう……。…………わたしは、本当に魔物なのかもね……?」


「そんなことっ……!」


 かける言葉を思いつけない。想いはザンの胸に溢れているのに、言葉という形になってくれない。


 重ねた手に力を込めても、その感触はひどく頼りなかった。


 そっと、サラサは自分の手に重ねられたザンの手に、さらに自分の手を重ねる。


 傷だらけの青年の手。


 過日の夜、あんなにも愛しかったそれが、今はひどく哀しかった。


「あの夜から、ずっと、ずっと、言いたかった……」


 顔を上げたサラサと、ザンの視線が絡む。


 少女の顔に浮かんでいたのは、涙に濡れた笑顔。


 再会を果たしてから、ザンが初めて見る笑顔だった。


 だが、それはザンが見たいと願い、守ろうとした笑顔ではなく。


「……ごめんね。それと……」


 なにかを諦めてしまった者の笑顔。


 す、とザンに近づき、動けないザンの唇にそっと自分の唇を重ね、すぐに離れた。


「ありがとう」


 なにかと捨てようとしている者の笑顔。


 手のひらからこぼれ落ちる砂を受け止めるように、反射的に動いたザンの腕をするりと抜けて、サラサは光の残滓が残る夜の海に身を躍らせた。


「サラサっ!」


 それを追おうとしたザンの目の前で、突然光が弾けた。


「……くっ?!」


 不意のことに怯み、眩む目をこすって少女の姿を探す。


 そして、見た。


 満月を背景に、虹色にきらめく尾ヒレを持った月の光が、高く高く海から飛び上がるのを。


 それは、あまりに冷たく、あまりに哀しい線を宙に描き、海へと落ちた。


 まるで、月がこぼした涙のように。


 ザンは、ただ呆然とそれを見送った。


 やがて、光の河が流れゆき、光の残滓も消え去って。


 月光だけが照らす、いつもの海に戻っても。


 残された長剣を胸に抱いて、青年はそこに立ち続けていた。


 ずっと。


 ……ずっと。


 


 月は輝き、潮騒は(うた)う。


 いままでも。


 そして────これからも。



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