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月と潮騒  作者: しばたや
プロローグ
5/7

四章


       四章・魔物


 


         1


 


 サラサにとって、目覚めはいつも不快感と一緒に来た。


 寝起きが悪いわけではなく、目を覚ますということそのものが、嫌いだった。


 悪夢にうなされることがあっても、目を覚まさない方がマシだと思っていた。


 暗い小屋の中で目覚め、周りを見回せば、孤独がつのるばかり。


 だから、人の温もりに包まれて、それらの気持ちを伴わない目覚めは、初めての経験だった。


 うっすらと目を開けると、見慣れた小屋の中、まだ火を上げている炉の薪が映った。


 頭と地面の間と、背中全体に温もりを感じる。


 その温もりの持ち主を起こさないように、サラサはそっと身体を起こした。


 なめらかな素肌を滑った布が太股の上に落ち、一糸まとわぬ上半身が現れる。


 部屋の中は炉の火に照らされて意外に明るい。薪の燃え方を見ると、寝入ってからさほど時間は経っていないようだ。


 少し身動ぎすると、身体の奥に残った鈍い痛みの残滓を感じる。


 初めて他人を受け入れた痛み。


 痛みなのに、それは不思議と心を満たしてくれた。


 視線を下に向けると、すぐ横で寝息を立てる顎に傷のある青年の顔が目に入る。


 まるで、寝ていてもその腕の中にあったものを守るように、身体をほんの少し丸めていた。


 その寝息は規則正しく静かで、微かにゆっくり動く腹部を見なければ、死んでいると勘違いしてしまいそうだった。


 サラサは相手を起こさないようそっと身体を離して、掛けていた布を青年に掛け直してやる。


 そのまま、すぐ側で青年の身体をつぶさに眺めた。


 傷だらけの身体だ。


 さっきまでサラサの頭が乗っていた腕も、足も、身体も。傷ついていない場所を探す方が簡単だった。


 ほとんどは古傷で、それほど目立つものは少ないが、青年の過ごしてきた時間が過酷なものだったであろうことは、一目でわかる。


 一際目に付く、腕の内側から破裂したような大きな傷を見、青年の顎にある、おそらく一番古い傷にそっと触れる。


 痛かっただろう。


 辛かっただろう。


 怖かっただろう。


 無数の傷は、それでも青年が逃げなかった証拠だ。


 痛くとも、辛くとも、それから逃げなかったのは何故か。


 じわり、と胸の奥が疼く。


 それは、じわりじわりと、ゆっくり広がっていく。


 決まっていた。


 じっと見つめる、青年の幸せそうな寝顔が滲む。


「……謝らなきゃいけないのは、ザンじゃないよね……」


 小さな呟きと一緒に、一粒がこぼれ落ちる。


 不意にザンが小さく唸り、掛けられた布を胸の中に巻き込んで寝返りを打った。


 その拍子に、ザンの背中に赤く引かれた何本かの細い引っ掻き傷が目に入り、瞬時にサラサの顔が深紅に染まった。


 慌てて背中を向け、自分の頬をペチペチ叩いて火照りを冷ます。


 心臓がバカになったように早鐘を打つ。急速に脳裏に戻ってきた少し前の時間を思い出し、サラサは羞恥に悶える。


 もの凄く、もの凄く恥ずかしいことをしたような気になってきた。


 なんでこうなったのか理解できない。


 いや、もちろん嫌だったとかそういうことじゃないけど。


 でも……。


 一通り無言で煩悶してから、なんとか落ち着きを取り戻し、深呼吸する。


 ちらりとザンの背中を振り向くが、起きる気配は無い。


 もう一度深呼吸してから立ち上がり、炉の側で乾かしていた衣服の様子を見て、すっかり乾いているのを確認すると手早く身につける。


 新調したばかりの銛を手に、そっと小屋を出る。


 雨上がりの夜空は綺麗に澄み渡り、一面にきらめく星々がちりばめられていた。


 その時、急に襲ってきた悪寒に、サラサは身を震わせた。


 雨に打たれたせいで風邪でも引いたのだろうかと思ったが、今日はフラムとの約束があった。


 それほど深刻な感じでもないし、なによりフラムとの約束を破るのは気が引ける。


 歩き出すと、どこかバランスが狂っているような身体の感覚に少し苦笑いし、サラサは小走りに急いだ。


 


 サラサが待ち合わせの岩場につくと、それを見計らってフラムが現れる。


「こんばんは」


 にこやかにサラサが言えば、フラムもにこやかに返す。


 いつものようにフラムが水際に腰掛け、サラサもその隣に座る。


「サラサさん、なにか良いことありました?」


 開口一番フラムが口にする。


「え? なんで?」


「なんだか、嬉しそうですもの」


「そう……だね」


 サラサもフラムに負けない笑顔で答えた。


「うん」


「なにがあったんですか?」


「え」


 すうっとサラサの頬に血の色が昇る。


「……内緒」


「意地悪しないで教えて下さいよう!」


「そのうちにね」


 恥ずかしそうに意味ありげな態度を崩さないサラサに、フラムがふくれっ面になる。


「もう、いいです!」


 ごめんごめん、とサラサが笑いながら謝る。


 そんな他愛のない会話がしばらく続く。


「そういえばですね、サラサさん」


 会話が一段落ついたところで、フラムが申し訳なさそうな顔で切り出す。


 ん? とサラサが顔を上げた。


「しばらく、会えなくなりそうなんです」


「どうかしたの?」


「実は……質の悪い魔物がこの辺の海に出没し始めているみたいなんです」


 珍しく真剣な表情で説明するフラムに、サラサも表情を引き締める。


「お父様が、それと戦う準備を始めました。本当は今日もでかけてはいけないと言われたんですが、サラサさんとの約束があったので……」


「魔物が出るかもって話は聞いてたけど、そっか」


「あ、でも、もう会えないってわけではないですし。魔物の件が一段落すれば、またこうして会えるようになります」


「うん、そうだね」


「じゃあ、魔物がいなくなった後、最初の満月の夜、またここで」


「わかった」


 そして、微妙な間。


「……あの、サラサさん」


 フラムが控えめに訊いてくる。


「この間の話、考えていただけましたか?」


「この前の話……」


 人魚の村に身を寄せるという話のこと。


 耳にした時は、それもいいかと思ったが、今のサラサにはその時の気持ちは無くなっていた。


 顎に傷のある顔を思い浮かべながら、フラムには本当に悪いとは思うのだが。


「ごめんね。やっぱり、こっちにいるよ。こっちに大切なものができちゃったから……ね」


「……そうですか」


 残念そうに下唇を噛んでうつむくフラムに罪悪感がこみ上げるが、仕方がない。


 フラムはしばらくそうしてうつむいていたが、やがて顔を上げると笑顔を浮かべてサラサに尋ねた。


「その大切なものって、さっきの話と関係があるんですね?」


「えっ、いや、その」


 いきなり核心を突かれ、あっという間に赤面したサラサは、分かり易すぎるほど動揺した後、蚊の鳴くような声で肯定した。


「……うん」


 その態度で大体の事情を察したのか、フラムはさらに笑みを深めた。


「良かったですね」


「…………ありがとう」


 我がことのように嬉しそうなフラムを、サラサは優しく抱き寄せた。


「本当に、ありがとうねフラム。これからも、よろしくね」


「はい」


 サラサの腕の中で、フラムは恥ずかしそうに、だがしっかりと頷いた。


 その時、波の音ではない水音と人の気配。


 驚いた二人が振り返った。


 なにかが襲いかかってきたのだと理解した瞬間、サラサの頭部に衝撃が走り、その意識は急速に遠のいていった。


 


       2


 


 目を覚ますと、まず見慣れない壁が目に入った。


「?!」


 驚きと共に跳ね起きる。


 身体は起きているが、まだ頭が半分寝ているのか、よく状況が把握できない。


 周りを見回す。


 粗末な小屋の風景。炉の炎はすでにかなり小さくなっているが、その他はさして目に付くものもない。


 一言で表現すれば殺風景だった。


 少しずつ、頭がはっきりしてくる。


 ガシガシと短い髪に手を突っ込んで、ザンは天井を見上げた。


 みるみるうちに顔が真っ赤に染まったかと思うと、頭を掻く手の速度が上がる。


「……いや、まあ、その、あれだ」


 誰もいないのに、なんとなく口にする。


 雨に降られてサラサの小屋まで避難した後。諸々の時間。寝入る前になにがあったのかを思い出して、頭を抱えて転げ回りたくなる衝動に襲われる。


 激烈に恥ずかしい。


 ちゃんとやれたか心配になる。


 央都にはその手の店も多かったし、先輩に誘われたこともあったが、なんとなく罪悪感があって、そういうところに足を運んだことは無かった。


 ただただ必死だっただけで、余裕なんて欠片もなく。そういう経験も少しはしておけば良かったのかと、真剣に悩みそうになったところで、ようやくサラサがいないことに気が付く。


「サラサ?」


 呼びかけながら、改めて小屋の中を見回した。


 その拍子に、背中の引っ掻き傷が少し痛み、また赤面する。


 部屋の中にはザンしかおらず、何度見回そうが殺風景な景色は変わらない。


 サラサと知り合ったのは随分前の話だったが、こうして家の中に入るのは初めてだった。


 そのことに感慨を覚えるよりも先に、この殺風景な小屋で、何年もの間孤独に寝起きを繰り返していたサラサの心情を思うと、ザンは身が縮むような思いがした。


 それにしても、すぐ隣で寝ていた相手がいなくなっているのに気が付かないとは。


 敷布の上であぐらをかき、顔を押さえて反省の溜息をつく。


 厳しい修行の成果で、物音や気配にはかなり敏感になっていたはずなのに、思いっきり寝こけてしまった。


「師匠にばれたら、折檻じゃすまねえな」


 まあ、緊張してたのだろう。なにしろ初めてのことだったのだ。


 あまりに必死すぎて、よく覚えていない部分が多いことに、多少損した気分になりながら立ち上がる。


 服が乾いているのを確認して身につけながら、傍らに置いていた長剣を腰に差す。


 火が消えないように、炉に薪を何本か放り込んでから小屋を出る。


 サラサが下手に遠出して、魔物と出くわしてたりしていれば大変だ。可能性としてはそう高くないと思うが、万が一ということもある。


 探さなければ。


 用を足しに行ったのならばすぐ帰って来るだろうが、炉の薪の様子からすると、遠出をしている可能性がある。


 サラサが夜中に遠出するとなると、心当たりは一つしかない。もちろんそこに行ってない可能性もある。それならばそれでいい。


 まさかサラサとこうなるとは考えていなかったが、最初からサラサに人魚と会わないことを承知させられるとは思っていなかった。


 人魚に対する偏見云々は置いておくとしても、人魚と会うこと自体に危険はないが、その為に夜中の海辺をうろつくのは、いつ魔物が現れてもおかしくない現状では危険極まりなかった。


 だから、何とか説得して護衛について行くことだけでも承知させようと思っていたのだが。


 その話を切り出す前にああなってしまい、機会を逸してしまった。


 心のどこかで、サラサが出かけようとすれば気づけるという過信があったのかも知れない。


 ザンは舌打ちして自分に毒づくと、人魚の岬に向かって足を速めた。


 林を駆け抜け砂浜に出ようというところで、ザンの目の前にふらりと歩み出た人影があった。


 ザンが慌ててたたらを踏み立ち止まると、驚きに目を丸くした。


「ナオ?」


 立木の影から現れたのは、確かにナオだった。


 ただ、その目は泣き腫らしたように赤く、どこか虚ろな印象があった。


「ザン……」


「どうしたんだ、こんな時間に、こんなところで」


「あ、あの……ね、あのね、ザン……」


 なにかを言いたそうに口を開けたり閉じたりするが、意味ある言葉は出てこない。


 焦れたザンは、ナオの両肩に手を置いて言い含めた。


「すまん、ナオ。今、急いでるんだ。それと、もう聞いてるかもしれないが、魔物がこの辺に出る可能性がある。しばらく村から出ないようにした方がいい。悪いな、気をつけて帰れよ」


 早口に言って、走り出す。


「ザン!」


 その背中に、強い響きを持つナオの言葉がぶつかる。


「サラサのところにいくのね?」


 立ち止まったザンに、問いが投げられる。


 ナオの妙な態度に不審を覚えたザンが振り返ると、ナオが俯いたままボソボソと言った。


「……狡いよね。そんなこと一言も言ってなかったのに……。あたししか、あたしだけが友達みたいな顔してさ……。きっと、あたしのこと、こっそり笑ってたんだ」


 綺麗に焼けた小麦色の両肩が細かく震えていた。


「……今日ね、サラサに人魚のこと聞かされてね。その話してる間、サラサとっても楽しそうだった……。すごくね、ショックだった。サラサには、あたししかいないと思ってたのに……。それで、村に戻ったら、ザンがこっちにいったって聞いたから、追っかけてきたんだけど……そしたら…………」


 ぎくりとザンの心臓が跳ねる。


 見られたのか。


「ナオ……」


 どことなく後ろめたい気持ちで呼びかけると、ナオが顔を上げる。


 その顔には引きつった笑みが浮かんでいた。


「ねぇ、嘘だよね? ザンはサラサが好きなわけじゃないよね? ただ……、そう……同情してるだけ、なんだよね?」


 両手を胸の前で絞りながら一歩を踏み出すナオに、思わずザンは一歩下がる。


 静かで縋りつくような声色だったが、なにか違和感があった。


 気圧されてさらに下がりながら、ザンは痛みを我慢するような顔で唇を噛み、ナオの横を走り抜ける。


「すまん!」


「ダメだよ!」


 背中にぶつけられた声の、ナオからは聞いたことのない強烈さに驚き、ザンは思わず立ち止まって再度振り返る。


 両手で薄手のワンピースを握りしめるナオの顔は、悪意で歪んで見えた。


「サラサってば、馬鹿だよね。言わなきゃいいのに……。前にブギから借りた本で読んだことがあるの。人魚って、食べると不老不死になるって迷信があるんだってね? それを信じて、馬鹿みたいな大金を出すお金持ちもいるんだって。……村でぶらついてる連中に話したら、大喜びで飛びついてきたよ」


「ナオ、お前まさか……」


「サラサって馬鹿だからね、きっと死に物狂いで抵抗するわ。……多分、殺されちゃうね。だって、村でサラサのこと人間扱いしてる人なんていないもの。そうするのに、躊躇いなんて無いんじゃないかな」


「ナオッ!!」


 ナオの顔を見ていられず、顔を伏せたザンの怒鳴り声にも、ナオは怯んだ様子は無い。


 ひょっとしたら、ザンの言葉など耳に届いてすらいないのかもしれなかった。


「ねえ、ザン。どうして、あたしじゃダメなの……?」


 歪んだ表情は、いつの間にか媚びるようなものに変わっていた。


 ナオは立ちすくんでいるザンにゆっくり近づくと、身体を預けて寄り添い、伏せられたザンの顔を見上げた。


「あたしを選んでよ、ザン……。サラサなんかと一緒になったって、幸せになんかなれないよ? サラサにできることだったら、あたしにだって……」


 言いながら、服の胸元に手を掛けたナオは、急に支えを失って砂の上に転がった。


「ザ……っ?!」


 自分を見下ろすザンと目があった瞬間、ナオは言葉を失った。


 その目は確かにナオを見ていた。


 浮かんでいるのは、燃えるような怒りではなく。


 凍りつくような蔑みでもなく。


 ましてや、愛情などでもなかった。


 そこにあったのは、夜の海のように孤独で深い哀しみ。


 信じていたものを失った哀しみと、激痛にも似た後悔だった。


 それを見た少女は、ようやく理解した。


 いや、理解していたのにそれを認められず、足掻いていただけだったのだろう。


 もう二度と、自分の望んでいたものは手に入らないこと。


 それどころか、失ってはいけないものを、自分から手放してしまったこと。


 なにも言わず、その場から逃げるように走り去るザンの背中を、なにも出来ずに見送り。


 少女は嗚咽を漏らし始めた。


 手に入らなかったものを想って。


 失ってしまったものを想って。


 少女は、ただ、涙を流し続けた。


 


       3


 


「いやあっ! 放してっ! 放して下さい!」


 フラムの悲鳴が、消えかかっていたサラサの意識を引き戻す。


「おとなしくしやがれっ!」


 粗野な男の濁声が耳に飛び込んでくる。


 痛む頭を押さえる。ぬるりとした感触があった。


 ゆらゆらと揺れる視界の中でなんとか上体を起こすと、無精髭の大男が暴れるフラムの腕と首を押さえて動きを封じているのが目に入る。


 視界の隅で、麻袋やロープを手に岩場の影からさらに二人の男が出てくるのが見えた。


 ふらつきながら、手に当たった銛を杖代わりに立ち上がる。頭の傷は今のところ灼熱感だけで、激しい痛みはまだ来ていない。それよりも、揺れる視界の方が問題だった。


「……やめなっ!」


 サラサが怒鳴りつけると、フラムを押さえていた大男が、無精髭にまみれた顔に下卑た笑いを浮かべて振り向く。


「なんでぇ、案外丈夫じゃねえか。手加減なしでぶん殴ったのによ」


「サラサさん! 血が……!」


 こちらをみたフラムの顔が、いまにも泣き出しそうに歪む。


 こめかみをつたう生暖かい感触が頬を通り、顎の先から地面に落ちていくのを感じる。


「お。魔物の子っていうのは、生意気に赤い血をしてんだなあ」


「……なんだって?」


「知らねえのか? 魔物ってのは黒い血をしてるそうだぜ。なあ?」


 本気で言ってるのか冗談のつもりなのか分からない態度で、隣にやってきた細身の男に問い掛ける。


 細身の男は特にそれに答えず、足下に落ちていた棍棒を拾い上げる。どうやら、サラサはそれで殴られたようだ。


 一番送れてきた小男が、手にしたロープでフラムを縛り始める。


 三人ともサラサの知らない顔だ。なんでここにいるのかも解らないが、今はそんなことを気にしている余裕はない。


「あんたら……いったいなんのつもり?!」


 怒気の含まれたサラサの言葉にも男達のニヤニヤ笑いは崩れず、逆に小馬鹿にした笑い声を上げて言ってくる。


「なんのつもりだってよ」


 細身の男が棍棒を構えながら仲間を振り返る。


「決まってんじゃねえか、なあ?」


「役にたたねえ守人サマに代わって、魔物退治に来たんだよ」


 自らの言葉を微塵も信じていないのが丸わかりの口調。


「お前らあれだろ? 村を襲う算段でもしてたんだろ、なあ?」


 いかにもたったいま考えましたという態度だった。


「……その子を放しなさい」


 怒りを抑えたサラサの言葉に、男達はさらなる嘲笑を浴びせる。


「必死だなぁ、さすがによ」


 今にも倒れそうになりながらも、なんとか立っているサラサの震える膝を見ながら、細身の男が言う。


「そりゃそうだろ。同じ重さの金と引き替えにできるとなりゃ、必死にもなろうってもんだ」


「しかしいけねぇなあ、魔物の子のくせに同じ魔物仲間を売ろうなんてよ」


「そういう邪悪なことを考えてるから魔物なんじゃねえか?」


 暴力に酔っているのか、勝手なことを言いながら耳障りな爆笑を上げる男達に眉をしかめるサラサ。


「…………なんの話よ?」


 訝しげに聞くサラサに、男達はさも面白そうに言う。


「おやおや、とぼけるんじゃねえよ。確かに俺たちゃこんな田舎の出だが、これでも央都暮らしはそれなりに長かったんだぜ?」


「あの娘とも、おおかた取り分ででも揉めたんじゃねえのか」


「だから、なんの話よ!」


 自分勝手に言葉を垂れ流す連中にいらつきながら、怒鳴る。


「とぼけてんだか、本当に知らねえんだかな。じゃあ教えてやるよ」


 大男が、二人がかりで取り押さえられているフラムを親指で指し示す。


「人魚ってのはな、不老不死をもたらすんだよ」


「偉そうに。あの娘に聞くまで知らなかったくせによ」


「うるせえよ!」


 茶化してくる小男に笑いながら返し、話を続ける。


「まあ、、魔物退治ついでに、余録に預かろうってわけだ」


「不老不死?」


 ぞっとしないな、とその単語を聞いた瞬間サラサは思った。


 終わりのない生など、苦痛の終わらない拷問のようなものではないか。


 そう思うと同時に、そんなものに興味を持つ人間がいること自体に純粋な驚きを感じる。


「そうよ。人魚の肉を食った奴ぁ、不老不死になるんだとよ!」


「食う……?!」


 あまりのことに、サラサは絶句する。


「魔物を食うなんてぞっとしねぇがな。金持ち連中の考えることはわかんねぇよな」


 ニヤニヤ笑いを深めながら肩を竦め、また示し合わせたようにゲラゲラと男達が爆笑する。


「いてぇ!」


 突然小男が悲鳴を上げる。その親指から血が流れていた。


 猿ぐつわをしようとしたところで油断していたのか、フラムに噛みつかれたのだ。


 両手を縛られたまま地面に転がされたフラムは、気丈にも男達を睨みつけた。


 海の色をした双眸には怒りの色が宿っている。


「サラサさんもわたしも、魔物などではありません! わたしたちが魔物だというのなら、貴方たちのような汚らわしい人たちはなんだというのですか!」


 毅然として言い放つが、それは男達の怒りを呼ぶことしか出来なかった。


「このガキがっ!」


 力任せに震われた小男の拳が、フラムの顔をとらえた。


 鈍い音が響き、くぐもった悲鳴を漏らして岩場に叩きつけられたフラムは、鼻血を流してぐったりと動かなくなった。


 それを見た瞬間、サラサのうなじの毛が逆立つ。


 頭が赤熱してなにも考えられなくなった。


「おい、あんまり手荒く扱うんじゃねえぞ。死んじまって値が下がっちまったらどうすんだ」


「お、おう。すまねえ」


 さすがにやり過ぎたとでも思ったのか、小男が身を引く。


 叫びと打撃音が上がった。


 驚いた大男達が振り向くと、細身の男がサラサの銛で横殴りにされて転がったところだった。


 腹中のすべてを吐き出すような叫びの元はサラサ。


 叫びの尾を引きながら獣のような素早さで大男へ肉薄するサラサの深紅の両目は、冷たい殺意にぎらついていた。


「うおあっ!」


 喉元めがけて突き出された銛を、大男はみっともなく転がりなら避けた。


 空振りした銛を引き戻し、流れた体勢を整えながら振り返ったサラサが、もう一撃を狙う。


「この野郎っ!」


 サラサの二撃目よりも、寝転がったまま突き出された男の足の方が僅かに早かった。


 自分から飛び込むような形で腹を蹴られたサラサは、身体をくの字に折り、再度岩場に勢いよく転がった。


 腹を押さえて呻くサラサを、駆け寄ってきた小男と細身の男が何度も蹴りつけた。


 頭を蹴られて意識が飛びそうになり、腹を蹴られて中身を吐き出す。背中も手足も全身くまなく蹴られた。


 すぐに大男もそれに加わり、やがて男達が息を切らせる頃には、サラサに立ち上がる気力も体力も無くなっていた。


「まったく、魔物の子のくせによぉ!」


 ボロ雑巾のようになってしまったサラサに唾を吐きかけながら、大男はその背中をさらに踏みつける。


 苦鳴を漏らす体力も残っていないサラサの喉からくぐもった音が漏れるが、そのまま動く気配は無い。


「さっき話してみて、なんとなく状況が飲み込めたぜ。おい、良いことを教えてやるよ」


 乗せた足を揺すってみるが、やはりサラサは無反応だ。すでに気を失っているのかもしれないが、大男は構わずに続けた。


「俺達にな、お前らのことを教えたのは、詠人のババァのところに出入りしてる、網元のところの小娘なんだよ」


 サラサの背中がぴくりと震えた。


 朦朧とする意識の中で、サラサは今の話を反芻する。


 拒絶反応のように意識が拒否するのを感じながら、言葉の意味を理解しようとする。


 ナオが……? なんで……?


 グルグルと回る視界と同じく、疑問が頭の中を回る。


「なんだかしらねえが、よっぽどあの娘の恨みを買ったみてえだな?」


 蔑みのたっぷり含まれた大男の声は、サラサに届いてはいなかった。


 どうして。


 それだけがサラサの胸中を支配していた。


 直感でも、理性でも、男の言葉が真実だと判った。


 ほんの少し前まで体中に満ちていた怒りなど、どこかへ霧散してしまった。


 痛みでも、悲しみからでもない涙が、知らずに滲んでいく。


「なあ、で、こいつどうする?」


「頼まれたとおりに、楽しんだ後で殺すか」


「げ、俺はイヤだぜ。魔物の子なんかと」


「なに言ってやがる臆病もんが。土産話どころか武勇伝だぜ」


 男達の身の毛のよだつ会話も、サラサの耳には届いていない。


 今サラサの胸を満たすのは悔しさだ。


 悔しくて、悔しくて、堪らなかった。


 父が死んだことも。


 母が死んだことも。


 自分が魔物の子と呼ばれることも。


 フラムが魔物と呼ばれて、下らない事の犠牲になってしまうことも。


 ナオのことも。


 すべてが悔しかった。


 抗いきれなかった。


 もう身体も動かない。ただこうして転がっているだけ。


 涙が一筋流れる。


 男達に気取られないように、嗚咽を噛み殺す。


 だが、噛み殺しきれなかった言葉が、涙と一緒に微かに溢れる。


 生まれて初めて、他人に求めた。


「……………ザン…………助けて……」


 誰にも届くはずのない、小さな小さな声だった。


「おい」


 それは、静かだが聞く者を竦ませずにはおかない、焼けた鉄のような怒りの声だった。


 肉と骨を打つ鈍い音と、カエルが潰れるような悲鳴が続けて三つ。


 そして、不意にサラサの背中が軽くなる。


「あ……」


 痛む全身を無理に無理に起こして見上げたサラサの目に映ったのは、顎に傷のある浅黒い青年の顔。


 みるみるうちにその姿が滲んだ。


「ひでえな……無理に起きるな」


 優しい声。


 しゃがみ込んだ青年が手を差し出し、サラサの身体に触れる。そこから、日向のような温もりが体中に広がっていく。


 その温もりが届いた場所の痛みが次々に薄れていく。


 不思議に思ったサラサがザンを見ると、月明かりの下でその身体がボンヤリと発光しているのが判る。


 その光はよく見れば、サラサの身体も包んでいた。目を落とすと、腕の内出血が見る間に薄れていくところだった。


「骨がやられて無かったのが幸いだな……」 


 あらかたの傷が薄れたところで、ザンはサラサの肩を抱いて囁いた。


「すまん。遅くなった」


 その申し訳なさそうな顔を見つめるサラサの目から、今度は大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。それを隠す為に、ザンの胸に顔を押しつける。


「まだ、どっか痛むのか?」


 心配そうに問い掛けてくるザンに、サラサは顔を押しつけたままかぶりを振る。


「起きたらいなかったから、心配したんだぞ」


「……うん」


 目元をこすりつつザンから身体を離し、差し出される手を借りて立ち上がる。


「てめえ、どっから湧いて出やがった?!」


 殴られて吹っ飛んだとは思えないほど離れた場所で、顔面を押さえてのたくっていた大男が、ようやく立ち上がって怒鳴る。よく見ると前歯が三本無くなっていた。


 同じく倒れていた二人も、頭を振りながら立ち上がり、無残に変形した顔面でザンを睨みつける。まるで、得物を横取りされた野良犬の風情だ。


「うるせえ」


 ザンの低い恫喝に、男達がピタリと黙り込む。


「……てめえらこそ、覚悟はできてるんだろうな?」


 髪が逆立つような怒りの形相と怒気、それにも関わらず静かすぎる口調に、それを向けられてるわけでもないサラサまで竦み上がりそうになる。


 男達も目に見えて怯んでいるが、数の有利で気が大きくなっているのか、無謀にも踏みとどまっていた。


「けっ! 魔物を殺すのが仕事の守人サマが、その魔物にたらし込まれてたら世話ねえぜ!」


 べっ、と血の混じった唾を吐き出しながら、侮蔑と悪意を込めた台詞も吐きつける。


 かっと頭に血が上って飛び出そうとするサラサを、ザンはそっと押しとどめる。


「てめえらの勘違いを正してやる」


 言いながら、ザンは少し強い力でサラサの肩を抱き寄せる。


「まあ、オレも勘違いしてた時期があったからな。……いいか、守人の役目はな、魔物を殺すことじゃねえ」


 険の強い視線で男達を睨めつけながら淡々と口にする。


「守人の役目は、その名の通り守ることだ。魔物と戦うのは守るべき人間の為で、目的じゃねえんだよ。こいつは……」


 サラサの肩を抱いた手の力が少し強くなる。


「オレが、すべての力を使っても守るべき女だ。魔物なんかじゃねえ。守るべき、この世で一番、大切な人間だ」


 乾いた砂が水を吸い込むように、言葉がサラサの心に吸い込んでいく。


 素直に胸の奥に入っていく。


 また涙がにじむ。


 ただ、ただ、嬉しかった。


 だが、それを聞いた男達は、泥の塊を口に押し込まれたように顔を歪める。


「けえっ! 胸くそ悪ぃ! てめえこそ、人魚が目当てじゃねえのかよ?!」


「てめえら下衆(ゲス)と一緒にするんじゃねえよ」


 言葉に乗った本物の殺気に、男達の顔色が一瞬で変わった。


 待てをさせられている闘犬に似た表情のザンが言い捨てる。


「ここで叩きのめして魚の餌にしてやりてえのは山々なんだがな。今なら見逃してやる。とっとと失せろ」


 問答無用で叩きのめされると思っていたのだろうが、ザンの言葉にかえって余裕ができたのか、男達は目配せをしあっているものの、立ち去る気配は無い。


 金属が革をこする独特の音が波の音に混じって響く。ザンが長剣を半分程鞘から抜いた音だ。


 無言だが明確な意思表示に、男達の間に同様が広がる。


 所詮は自分より弱い人間にしか強く出れないゴロツキである。正規の訓練を積んだ守人相手に敵うはずがない。


 なにしろつい最近素手であっさりとあしらわれたばかりだ。しかも今は武装している。怪我では済まないだろうし、いざやるとなればザン自身も済ますつもりはないだろう。


 しかし、目の前にぶら下がっている一攫千金に判断力を狂わされているのか、躊躇する素振りはあっても、やはり逃げる気配がない。


 ザンは呆れと諦めの溜息を吐いて、一歩を踏み出そうとした。


「う、うわああぁぁっ!」


 突如、小男が宙を飛んだ。


 いや、飛んだのではなく、持ち上げられたのだ。


 その腰に、ぬめる太いツタのような触手が巻き付いていた。ザンの腕と同じくらいの太さのそれはよほどその力が強いのか、小男の腰は半分の太さになっている。


 その正体をいち早く悟ったザンは、鞘を払い、サラサを庇いながら素早く後退するが、男達は自分の頭よりも高く持ち上げられた仲間に気を取られ、呆然と立ちすくんでいた。


「下がれ!」


 ザンの忠告に、間の抜けた表情で二人が振り返る。


「なにしてんだ! 早く逃げろ、死ぬぞ!」


 そこでようやく二人は我に帰って逃げようとするが、すでに手遅れだった。


 次々と海中から現れる触手に絡め取られ、男達は空中に持ち上げられた。


 続いて海から現れようとするそれを睨みつけ、ザンが舌打ちする。


 サラサが、ひゅっと息を飲んだ。


 


        4


 


 奥歯が、勝手にカチカチと鳴る。


「なに……? なんなの……?」


 得体の知れない恐怖に襲われながら、サラサは海から上がってくるそれを見た。


 岩棚に掛かった巨大な足はヤシガニに似た分厚い甲羅に覆われ、その表面にはフジツボが張り付いており、先端には三日月型のかぎ爪がのび、岩をガリガリと削りながら突き立った。


 続いて波を割って立ち上がってきたその姿を見た瞬間、サラサは気を失いそうになる。


 それは、悪夢にも出てこないような異形だった。


 海水を滴らせる三角形の陰影を見せる巨躯は小山のような質量を湛え、六本の足に支えられた身体の表面は汚泥のような粘膜でいやらしくぬめっている。


 その身体の下から伸びる触手は二十本以上が宙に躍り、捕らえた男達を弄ぶようにゆらゆらと揺れている。


 まるで犬とワニを掛け合わせたような異常に大きな頭部には目が無く、巨躯の天辺からぶら下がるようにくっついていた。


 そのぞろりとナイフじみた牙が並ぶ口もまた巨大で、人間など一飲みにできるだろう。


 魔物。


 サラサはそれを形容するのに、他の言葉を思いつけなかった。


 村人は自分を魔物と呼ぶが、おそらく本物の魔物をみたことなどないに違いない。


 それは「違う」存在だった。


 そこに存在するだけで、周囲すべてを否定してしまうものだ。


 一目見れば恐れない者などいない。


 それゆえにこそ魔物なのだと、サラサは心の底から理解した。


 身体がガタガタ震え出すが、あまりの恐怖に声を上げることすら出来ない。


 自分をしっかりと抱き留めるザンの腕から伝わる温もりだけが、サラサの正気を支えていた。


 …………………っ!!!!


 突如、脳の中を直接引っかき回されるような、甲高く不快な高音を魔物が発する。


 驚いたサラサが両耳を押さえ、ザンの顔を見上げると、ザンは多少顔をしかめていたいたが厳しい表情を崩さずに、眼光鋭く魔物を睨んでいた。


「うわぁぁぁっっっ!」


 最初に吊り上げられた小男が悲鳴を上げた。


「!」


 すぐになにが起きるか察したザンが、サラサの顔を自分の胸に押しつけてその視界を塞ぐ。


 小男は絶叫を上げたまま、内部にもびっしりと牙の生えた魔物の口の中に放り込まれる。


 悲鳴が湿ったものに変わり、骨と肉をかみ砕きすり潰すおぞましい音が響き渡った。


 悲鳴が途切れ、鳥肌が立ちそうな嚥下の音。


 そのけしてけして短くはない時間、吊り上げられた残りの二人は、痴呆のようにポカンと口を開けて間抜け面を晒していた。


 だが、魔物に血生臭いおくびを吐きかけられ、ようやく正気に戻って喚き散らし始めたものの、それもすぐにくぐもって止む。


 歯が砕けるのではないかと思うほど奥歯を噛みしめて、惨状を見つめるザンの視線を辿ったサラサの顔が一気に蒼白に変わる


 ゆらゆらと揺れる触手の一本一本の先に、本体に比べれば小さい、サメのものに似た口が開いている。


 喉元にそれががっぷりと食い付いた男二人の身体が、屠殺された家畜のように、数本の触手に支えられてぶら下がっていた。


「まさかこんなに早く現れるなんてな……」


 一瞬で流血の現場に変わった状況に絶句しているサラサの耳に、ザンの呟きが届く。


 独り言なのか、サラサに話してるのか、どちらともいえないザンの声には悔しさが滲んでいた。益体もないチンピラ連中とはいえ、目の前で人の命が魔物に奪われたことが許せないのだろう。


「……サラサ」


 魔物の注意を引かないように、できるだけ小さく絞られた小声でザンがサラサに話しかける。


 惨劇から目を離せないでいたサラサは、その声で我に返り、ザンに目を向ける。


 絡み合った視線の先、ザンのその瞳には強い決意が浮かんでいた。


 何故か例えようもない悪い予感がサラサの胸に広がる。不安を押し殺しながら問い返す。


「……どうしたの?」


「……お前は逃げろ。オレがあいつの相手をする」


「っ?!」


「……声を出すな。あいつの注意を引いちまう」


 驚きの声を上げようとするサラサの口を素早く押さえ、魔物の動きをうかがう。


 魔物は新鮮な血の臭いに酔っているのか、微かに身を震わせて喉を鳴らしているだけで、今は動きを止めている。


「……どうもあいつは音でものを判断してるみてえだ。幸いというか、人魚の子は気絶したままで、今のところあいつの注意を引いてない」


 そうだ、あの子、フラムは?!


 口を押さえるザンの手を振り払って、辺りを見回す。


 いた。


 魔物を挟んで向こう側と言っていい位置。最初に殴り倒されて気絶したままのようで、立ち回っているうちに随分離れてしまっていた。


 魔物とサラサ達にフラム。この三者の距離はほとんど変わらないが、フラムに近づくには魔物の目の前を横切らなければいけない。


 まさか死んではいないと思うが、今すぐにも駆け寄りたい衝動を抑えて、サラサはザンの顔を見る。


「……すまん、あの子を連れて下がる余裕が無かった」


 魔物が出てきたタイミングから言っても、その位置にしても、ザン達がフラムの方に近寄ることは不可能だった。フラムは三者の中で一番海に近いところにいたのだ。無理して近づけば、海を背にして魔物と退治するはめになっていただろうが、ザンはサラサに頭を下げた。


 サラサにしても、ザンの行動が間違っていたとは思わないが、だからといって今の危険が消えて無くなるわけではない。


 今にも飛び出しそうな様子で、泣きそうな視線を倒れたままのフラムに注ぐ。


「……サラサ、お前は逃げろ。これはオレの判断間違いだ。オレが責任を持ってなんとかする。だから……」


「なんとか……って?!」


 声が高ぶりそうになったサラサは、ザンの身体が震えていることに気付く。


「……ザン……?」


「……やっぱバレたか」


 無理に戯けて浮かべたザンの笑いは、はっきりと引きつっていた。


 その顔をよく見れば、蒼白とまでは言えないまでも、かなり血の気が引いている。


 問い掛けるサラサの視線に、ザンの笑いが苦いものになる。


「……押さえようとしたんだが、やっぱり無理だな。……正直に言おう。オレは一人で魔物と戦うのは初めてなんだ」


「……初めて?!」


「……魔物と戦うのが初めてってわけじゃない。師匠の支援で実戦をしたことは何度もある。師匠のお墨付きももらった。ただ、一人で実戦ってのが初めてなんだ。……ついでに言えば、あんなでかい奴を見るのもな」


「……じゃあ、なんで戦うなんていうのよ? あの娘を助けて逃げれば……」


「……わかってくれ、サラサ。あの人魚を助けようとすれば、絶対にあの魔物の注意を引く。戦わないわけにはいかないだろう。それに、ここであいつを逃すと村に被害が出るかもしれない。見た目より、ずっと移動速度は速いみたいだしな」


 それに、と眉根を寄せる。


「……情けないと思われても構わん。あいつと戦いながら、お前を守る自信が無いんだ」


「…………」


 ザンの言葉に、サラサは一瞬驚いた顔をして、すぐに顔を伏せて肩を落とした。


「……だから、頼む。お前だけでも先に……」


「……ったのよ」


「なに?」


 聞き取りにくく、ぼそりと聞こえた声に、ザンはサラサの顔を覗き込む。


 瞬間、サラサはその細腕からは想像もつかない強い力でザンの襟元を捻り上げると、無理矢理ザンの顔を自分の目の高さまで引きずり下ろした。


 同じ高さで、ザンの黒瞳がサラサの赤い瞳と絡み合う。


「……わたしは、ザンに守ってくれなんて、頼んでない!」


 瞳にある怒りの色と裏腹に、どこか泣きそうな声色だった。


「……ひとりにしないって、一緒にいてくれるって、約束してくれたじゃない……」


 サラサの口から溢れる膨大な想いに、ザンの口が塞がれる。


「……わたしのことなんて、背負ってくれなくていい。だから……」


 サラサが続けようとした言葉は、突然上がった悲鳴に掻き消された。


 ザンが弾かれたように顔を上げると、目を覚ましたフラムが、縛られたままで悲鳴を上げながらなんとかもがいているのが見えた。


 一目魔物を見た瞬間恐慌状態に陥ったのだろう、自らの悲鳴が魔物の注意を引く可能性に気付いていない。


 魔物の巨大な頭が、ゆっくりとフラムの方を向く。


「フラムッ!」


 いち早く反応したのはサラサだった。


 ザンの脇をすり抜け、稲妻のような速さで駆け出す。


 魔物に恐怖を感じていないはずはないのに、その動きに迷いは無かった。


 魔物の注意をフラムから逸らす為、大声を上げながら落ちていた銛を拾い上げ、両手に構えて突撃する。


「サラサ?!」


 その思い切りの良すぎるサラサの行動に、ザンが慌てて後に続いた。


 声に反応してサラサに触手が殺到する。


 ザンはサラサの前に飛び出し、気合いと共に淡い光を放つ長剣を一閃。


 数本の触手がまとめて数本宙に舞い、どす黒い闇色の血液が飛沫く。


 そこに生じた僅かな隙間にサラサが滑り込む。


「いやああぁぁぁあああ!」


 一際高い悲鳴が上がる。


 触手の群の一部がフラムに巻き付き、枯れ木でも扱うかのように軽々と宙に持ち上げる。再び気を失ったフラムの身体から力が抜ける。


 サラサは疾走の勢いを殺さず、全身の力と体重を乗せて魔物の胴体に銛を打ち込む。ブギが鍛えた銛は、柔らかいとは見えない魔物の表皮を貫き、しっかりと握った手元まで突き立った。


 魔物が甲高い怒りの声を上げる。


 その隙に回り込んだザンが、フラムを捕らえた触手の根元を切り飛ばした。


 宙に放り出されたフラムは、放物線を描いて運良く岩場から離れた海へと落ちる。


 気を失っていたようだが、まさか人魚が溺れることはあるまい。


 こちらを敵と認識したのか、それもと苦痛からか、魔物が手放した男達の身体も、湿った音を立てて岩場に落ちる。


 返しが付いている為、抜くことが出来ない銛を手放して魔物から離れつつ、フラムが海に落ちるのを見届けたサラサは、安堵から一瞬気を逸らしてしまった。


「サラサッ!」


 ザンの呼びかけは遅かった。


 サラサが、あ、と思った時には、暴れる触手の一本がその足を払っていた。


 そして、動きの止まったサラサの太股に、横殴りに襲った触手の牙が深々と打ち込まれる。


 そのまま宙に吊り上げられながら、灼熱の激痛にサラサが声にならない悲鳴を上げた。


 頭の中が白熱して、サラサの意識が遠くなる。


 突然、獣のような雄叫びが轟いた。


 ザンだ。


 サラサの姿を見たザンは、まるで竜巻のような勢いで魔物へ突進した。


 凄まじい形相を浮かべるザンの動きには、一切の防御も、洗練された動きもない、死に物狂いの突進だ。


 その目にはサラサしか映っていない。


 無数の触手がザンに向かって殺到する。


 ザンは力任せになぎ払うが、触手の数が多すぎる。払いきれなかった触手が、ザンの身体にも次々と牙を打ち込んでいく。


 それでも、ザンの目は魔物すら見ていなかった。


 ただ、サラサだけに向けられていた。


 右肩と左足に食い付く触手を切り飛ばし、顔面を狙ってきた触手は首を逸らして避けようとするが、避けきれずに血飛沫が舞う。


 額から流れる血が左目を真っ赤に染める。


 ザンの身体に傷が増えていく。


 それでも、ザンは引く気配を見せない。それどころか、その手にした長剣は眩しいほどに輝きを増していく。


 まるで、生命そのものを燃やし尽くすように。


 サラサは激痛に朦朧となりながら、自らの血と、魔物の返り血で赤黒くまだらに染まるザンを見た。


 ……どうして?


 どうして、そんなに傷つくの?


 あんなに震えてたくせに。


 あんなに怖がってたくせに。


 怖いなら、逃げればいいのに。


 わたしがいるから。


 わたしのため?


 逃げたって、わたしは、もう恨んだりしない。


 もういい。


 もういいから。


 お願いだから逃げて。


 掠れた声は、魔物と守人の怒号に掻き消される。


 お願いだから……。


 溢れた滴が宙に舞った。


 わたしのために傷つかないで……!


 その時、小山のような魔物の身体が動いた。


 後ろにだ。


 ザンの気迫と、眩しく輝く破魔の光に魔物が引いた。


 再び雄叫びが上がる。


 それを迎え撃つため、すでに半分以下に数を減らしていた魔物の触手が、雪崩を打ってザンへと向かう。


 ザンは光り輝く剣を大きく振りかぶり、裂帛の気合いと共に触手の群に叩きつけた。


 光が炸裂し、爆音が響き渡る。


 触手の群の半分が吹き飛んでいる。そのすぐ向こうに、魔物の身体がある。


 だが、ザンの両手もまた、内側から破裂したような傷で真っ赤に染まっていた。


 自らの血で滑る柄を握りしめたザンは、振り絞るような動きで間合いを詰め、渾身の斬撃を魔物の胴体に見舞う。


 破魔の光をまとった剣はその身体を易々と切り裂き、魔物の喉からはっきりとした苦鳴が吐き出される。


 魔物は身体を震わせ、身体を支える凶悪な足をザンに振り下ろす。


 ザンが返した刃は、それをも簡単に切り払った。


 魔物は怒号と苦鳴をまき散らしながら、さらにザンを頭から飲み込もうと、その強大な顎を開いて襲いかかる。


 振り切った剣を引き戻し、腰溜めに刺突の構えをとったザンは、津波のように襲いかかってくる魔物の口を睨みつけた。


 流れ込む血で半分赤く染まった視界の中。


 虚空のような魔物の口の奥、そこに血走り澱んだ巨大な眼球をザンは見た。


 一際高く、両者が吠える。


 交錯。


 すべての音が、波の音すら止まったかに見えた。


 ザンの長剣は、その顎がザンの身体をかみ砕く前に、喉の奥の眼球を貫いていた。


 魔物の絶叫。


 そして、断末魔の暴走。


 すべての力を使い果たしたザンは、為す術無く吹き飛ばされた。


 長剣が手から離れる。


 魔物は海に逃げようとしていた。


 魔物は、まだサラサを放していなかった。


 ザンの目が、サラサを捉える。


 サラサは、ザンを見つめていた。


 青年の眼は、血で霞んでいた。


 少女の眼は、涙で濡れていた。


 手を伸ばせば届く距離。


 二人の視線が絡む。


 青年は最後の力で、手を伸ばした。


 少女もそれに答えるように、手を伸ばした。


 青年の手は、限界まで伸ばされる。


 


 少女の手は、限界まで伸ばされなかった。


 


 二つの手が、その先だけを搦めて、離れる。


 青年は、少女の名を呼んだ。


 少女は、それを聞いた。


 


 怒濤がすべてを飲み込んだ。


 




 


       **********


 


『ちぇっ、なんだってんだよ』


 少年は、十歳になるかならないかくらいだろうか。肩を怒らせて、木々の間の小道を一人で歩いていた。


『いいこぶりっこのブギはともかく、ナオまでなんだってんだよ』


 子供のくせに妙に分別臭い幼馴染みと、二つ年下の、自分がいくところにはどこにでもついて来たがる女の子の顔を思い浮かべる。


 元々は自分が言い出したことだ。


 村から少し離れた小屋に、魔物の子がいる。だから近づいてはいけない。


 それは、村の子供が大人達に必ず言い含められることだったが、少年は年相応の好奇心を発揮して、だったら肝試しをしようと言い出した。


 なんでそんなことを思いついたのかはわからない。


 強いて言えば、大人達が「やるな」と言っているからだと思う。


 そんな大して意味のない思いつきを二人の幼馴染みに話したのだが、返ってきたのは否定的な態度だった。


 ブギがそういう態度をとることはある程度予想していたが、ナオまで強硬に嫌がったのは、少年にとって意外だった。


 意地を張って、だったら自分一人でいくと歩き出しても、二人はついてこなかった。


 こっそり後ろをうかがうと、ブギは呆れたような顔をしていたし、ナオは迷っているようだったが、結局ついてこなかった。


 少年は、やけくそと見栄だけで歩いた。


 しばらく林の中の緩い坂道を歩くと、粗末な作りの小屋が見えてくる。


 少年のまだ細い喉がゴクリと動く。


 正直に言えば怖い。


 このまま帰っても二人は見てないわけだし、どうとでも誤魔化せるのではないか。


 少しだけそんなことを考えたが、それはひどく卑怯な真似に思えた。


 しかし、やはりというか、怖いものは怖い。


 小屋の手前で木の陰に隠れて様子をうかがう。


『ねえ』


 しばらくそんなふうにマゴマゴしていた少年の背後から、不意に声がかかった。


 あまりの驚きに、悲鳴を上げて少年は飛び上がった。漏らさなかったのが不思議に思えるほど驚いた。


 びくびくしながら振り向くと、布を頭からすっぽり被った、少年より小柄な人影が立っていた。


『なにか、よう?』


 女の子の声だ。


 感じからすると、ナオと同じくらいかな、と少年は思った。


 そして、どう答えたらいいか悩んでいるうちに、どんどん少年の思考は煮詰まっていく。


 答えない少年を訝しく思ったのか、布の少女は首を傾げたようだった。


『おとうさんも、おかあさんも、いま、でかけてるよ?』


 言いながら、ずれた布を不器用な手つきで直そうとする。


『あ……』


 するり、と被った布が地面に落ちた。


 少年は今度こそ心臓が止まりそうになった。


 布の下から現れたのは、月光を固めたような白銀の髪と、血よりも紅い瞳をした女の子。


 この子がそうなんだ!


 驚きに目を見開く少年の前で、女の子は慌てて布を拾い上げて被り直し、ゆっくりと少年の方を振り向いた。


『……あなたは、にげないんだね?』


 心底意外そうな声だった。


『え?』


 思ってもいないことを言われて、今度は逆に少年の方が首を傾げる。


 確かに見た時には驚いたが、怖いとか思うよりも、むしろその美しさの方に少年は目を引かれたし、その女の子のどこか奥の方に、引かれるなにかを感じていたのだ。


 ただ、やはりそれは言葉にするには難しすぎて、悩みつつまた黙り込んでしまう。


 しばしそのまま二人で突っ立っていた。


 やがて、女の子は被っていた布を肩まで下ろして、少年に言った。


『あたし、サラサ。あなたは?』


『へ……?』


『あなたの、なまえ』


 無表情な深紅の瞳が少年を見つめる。


 少年は慌てて答えた。


『あ、ぼ、ぼくのなまえはザン。ザンだよ』


 無表情だった女の子の顔に、表情のようなものが浮かぶ。


『かっこいい、なまえだね』


 自分の名前が褒められたことに、少年はしばらく気がつかなかった。


 小首を傾げる女の子を見て、ようやく何を言われたのか理解して、いっそう慌てて返す。


『え、あ、ありがとう。……あの、き、きみのなまえ、サラサだっけ、……すごく、きれいななまえだとおもう、よ』


 真っ赤になりながらザンが言った言葉に、サラサはちょっとびっくりした顔をすると、その白い頬を赤く染めて、はっきりと微笑みを浮かべた。


『……ありがとう』


 ザンは一目でその笑顔に魅せられた。


 そして、その笑顔を守りたいと心から思った。


 本当に、心から思った。


 


 波の音が、遠くに聞こえた。



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