三章
三章 浜辺に降る雨
1
いつものように、浜辺の木陰で座り込んでいたサラサはこのところの夜更かしが祟ったのか、波の音を子守歌に、木の幹にもたれて居眠りをしていた。
微かに規則正しい寝息が、被った布の奥から漏れている。
手元から転がり落ちた削りかけだった銛の柄が、サラサの膝に乗ったままだった。
「……ん……?」
もそもそと身動きして目を覚ましたサラサは、微妙な距離を置いて座っている人影に気が付いて、ビクッと身を竦めた。その拍子に、膝の上の柄が転がり落ちる。
「あ、すまん。驚かせたか」
横に伸びた枝葉が作る大きな影の端であぐらをかいていた青年は、サラサの方に顔を向けた。
「熟睡してたみたいだから、起こすのも悪いと思ってな。……最近、居眠りばかりしてるみたいだが、どっか悪いのか?」
「……またアンタか」
心配そうに尋ねてくるザンの声を聞きながら、サラサは小さな声で呟いて、質問には答えずに、取り落としていた小刀を手に、柄を削る作業に戻った。
ここのところ、ザンは二日と開けずにやってくる。
何の用事があるのか知らないが、大抵の場合ふらりとやってきては、なにをするわけでもなく、サラサから少し距離を置いて座り、黙って海を見ている。
最初こそ気になったものの、自発的に話しかけてくることも稀なので、サラサから話しかける義理があるわけでもなく、ここのところはザンの存在を極力無視することにしていた。
しばらく黙って作業を続けていたが、視線を感じてザンの方を見ると、さきほどの問いを発したままの姿勢で、まだこちらを見ているので仕方なく口を開く。
「……アンタには関係ないでしょうが」
相変わらず素っ気も何もない返事で、会話の続きようもなく。
あまり居心地の良くない沈黙が降りる。
「あの、な」
ややあって、ザンが控えめに言った。
「今日、ナオの家に行って、結婚の話、断ってきた」
「………………そう」
また長い沈黙。
波の音。
「だから?」
「いや、それだけなんだけどな……」
「ナオ、残念がるだろうね」
ぼそりとサラサが言うと、ザンは小さく呻いて沈黙した。
三度、長い沈黙と波の音が二人の間に流れる。
「アンタさ」
不意に、今度はサラサの方から口を開く。
奇妙な間の後、作業の手を止めず、ザンの方も向かずに口を開く。
「なんのためにここにくるの? 守人ってそんなに暇なわけ? それとも……」
原因不明のいらつきと共に、偽悪的な感情と少しの自嘲、それに揶揄を込めて吐き出す。
「『魔物の子』を見張るのも、守人の仕事の内なの?」
「サラサ!」
それを聞いたザンの反応は予想外に劇的だった。
両肩を激しい感情に強ばらせ、腰から長剣を鞘ごと抜き取ると、その柄をサラサの目の前に突き出した。
「……なによ」
ザンの態度に欠片も怯むことなく、逆に静かな怒りを込めて、ボロ布の奥から深紅の瞳でザンを睨み返す。
ザンはその目をまっすぐに受け止めて、感情を抑えた低い声で言う。
「この剣に触れてみろ」
「は? なにを……」
「いいから」
ザンの意図は読めなかったが、静かな声に抗いがたい物を感じて、サラサは布の下から手を伸ばして長剣の柄に触れた。
よく見ればほのかに燐光を放っているように見えるそれに触れると、日向のような温もりと、心地良いなにかがそこから流れ込んでくる不思議な感覚があった。
柄をしっかり握ると、その感覚が強くなる。
「手が、どうにかなったか?」
しばらくその妙な感覚を味わっていると、ザンが訊いた。
柄を放して、自分の手のひらを見る。
特に何の変化も無いように見えた。強いて言えば、少し血色が良くなったようにも見える。
黙ってザンに手のひらを見せると、ザンは満足そうに頷いた。
「この微かな光は『破魔の光』って言ってな、元を正せば人間なら誰でも持ってる生命の光だ。魔物は人を襲う。なぜかといえば、生き物の生命の力が奴らの糧になるからだ。そして、奴らにとっては生命の力は火と同じだ。適度であるなら身体を暖めるが、強ければその身を焼く」
長剣を引いて腰に戻しつつ、サラサの手のひらに視線を落としながら続ける。
「だが、人間にとっては、命は命。いくら強かろうが、害はほとんどない。逆に、破魔の光は病気や怪我の治療にだって応用できる。今の光に触れて平気なお前は……お前自身がどう思ってようが、確かに人間だよ。冗談でも、そんなこと言わないでくれ」
さきほどの激情が嘘のように、どこか悲しそうなザンと目があってしまい、反射的にサラサは目を逸らす。
細く溜息をつき、ザンが付け加える。
「……なにより、お前がそんなことを言えば、叔父さん達が悲しむだろ」
その一言に、劇的な反応が起こった。
「あんたに、なにがわかるってのよ!」
突然立ち上がり、凄まじい剣幕で怒鳴ったサラサは、ボロ布の奥から怒りに燃える深紅の視線をザンに叩きつけた。
「突然いなくなって! またひょっこり現れたと思ったら、なに? いまさらどの面下げて説教なんてしてんのよっ?!」
ザンが今までサラサから聞いたことのない大声と、見たこともない激怒だった。
怒りに満ちて自らを射貫く炎の色をした瞳に、ザンはつかの間傷ついたような表情を見せたが、すぐに目を逸らし、そのままサラサに背を向けて無言でその場を去った。
どこか悄然としたその背中が見えなくなるまで見送ったサラサは、立ち上がる時、無意識に掴んでいた砂を怒りにまかせて砂浜へ投げつけた。
「お前なぁ。飲むのは構わんが、なにも言わんで、ただひたすら溜息だけついてんのは、勘弁してもらえんか。辛気くさくてかなわん」
すっかり陽も落ちて、辺りはすでに暗くなっている。
例によってブギの作業場の片隅で、相変わらず適当にしつらえた場所で、二人はひたすら飲んでいた。
正確に言えば、痛飲しているのはしているのは一人だけだが。
「そういや、ナオにはちゃんと話したのか?」
「……ナオの両親には、今日正式に断りを入れてきた」
台の上に突っ伏したままのザンが、酔いの回った口調で答える。
「本人には?」
沈黙。
「あほぅ」
容赦ない評価に、ザンは踏み潰されたような呻きを漏らし、台の上で平たくなる。
「ま、困るのはオレじゃないがね。それと、実家にもちゃんと顔出せよ。今日の昼過ぎにえらい剣幕で親父さんが怒鳴り込んできたんだからな。なにしに来たかは聞かなかったが、多分縁談関係の話だろうとは思うけど」
「いいんだよ、放っておけば」
「オレが困るっつーの。お前をうちで寝泊まりさせんのは全然構わんが、あの調子で親父さんにちょこちょこ来られると仕事の邪魔なんだよ」
「……わかったよ、明日にでも顔出してくるさ」
面倒臭そうに、杯の縁を指でなぞっているザンに、ブギは溜息混じりで腕を組んだ。
「お前、その調子だと、サラサともなんかあったろ?」
ぐ、とザンが呻く。
今日は早々にザンが酔い始めたせいで、ブギはなんとなく自分が飲むタイミングを逸してしまい、今日は比較的素面に近い。
ぼそっと、ザンは漏らす。
「……オレはどうしたらいいんだろうな」
「そんなんオレは知らん。お前がわからん物を、オレが知るわけ無いだろうよ」
「だよなぁ……」
「まあ飲め」
「ん」
半分溶けたような様子で、手だけ動かして酌を受けるザン。
「しかしまぁ実際のところ、ナオの話は最優先でなんとかした方がいいんじゃ……って」
酌を受けたまま、ザンは寝こけていた。手にした杯が傾き、酒がこぼれ落ちる。
ブギはゆっくり溜息をついて、ヨナを読んで身体を冷やさない為の掛け布を頼み、頬杖をついて友人の寝顔を眺めた。
「頑張れよ」
軽い口調とは裏腹に、その顔には友人に対する優しさが溢れていた。
2
半分に欠けた月が、今日も岬を照らしている。
「魔法、ですか?」
可愛らしく小首を傾げたフラムが問い返す。
「うん。小さい頃に、人魚は魔法を使えるって聞いたから、本当かなぁと思って」
「本当ですよ」
珍しく好奇心剥き出しで訊いてくるサラサに、フラムはあっさりと答える。
フラムと会うまでは人魚の実在すら疑っていたサラサだったが、生きた証拠が目の前にあるとなっては、好奇心が抑えられないようだ。
そういうサラサの様子は大変珍しいのだが、フラムに対して仲良くなってからは、年齢相応な態度しか見せていないので、フラム自身は特に違和感を感じていないらしい。
「でも、魔法……人間は法術って呼ぶんでしたっけ? 人間にも使えるんじゃないですか?」
「ちょっと大きめの集落なんかにいけば、使える人がいると思うんだけどね。わたしの村みたいに小さなところじゃいないみたい。婆様は使えるって聞いたことあるけど、詠人の戒律とかなんとかで、使ったところは見たこと無いわ」
「じゃあ、本当に初歩的なもので良ければ、お見せしましょうか?」
「本当に? すっごく見たいな!」
嬉しそうなサラサの表情に満足したのか、フラムも笑顔で頷く。
深呼吸してから、人の頭ほどの球体を支える形で宙に両手を伸ばし、フラムは目を細める。その途中、熱心に見つめてくるサラサの視線に気付いて、照れた表情で薄く頬を染める。
「上達すれば、精神集中も一瞬で済むんですけど。わたし、最近ようやくお祖母様から習い始めたばかりなので……。では、いきます」
細く息を吸い込み、ゆっくりとサラサの知らない言葉で何事か呟く。
すると、差し出したフラムの両手の上に小さな光点が現れ、それはみるみるうちに握り拳大へと成長する。
熱を感じさせない、白い光を放つ光球は、フラムの両手の上で静止していた。
「どうでしょうか?」
「へえ……」
物珍しそうにポカンと口を開け、まじまじと光球を眺めるサラサに、少し得意げな顔でフラムは笑った。
「海の中でも使える、灯りの魔法です。こんな事もできますよ」
ちょい、とフラムが人差し指でつつくと、光球はゆっくりと沖に向かって移動した。
ほどよく沖合に出たところで、フラムは先程とは違う言葉を口にする。
漂っていた光球が一瞬縮んだかと思うと、音もなく弾けた。
ゆっくりと消えていく光の残滓を眺めながら、サラサは感極まったように呟いた。
「……綺麗」
サラサの無邪気と言ってもいい素朴な反応に、満足げな顔をしていたフラムだったが、急に表情を引き締めて、居住まいを正した。
「サラサさん、お話があるんですが」
雰囲気の変わった少女に、サラサが怪訝そうに振り返る。
「あの、突然でびっくりすると思いますけど……」
なにか彼女にとっては重要なことを言おうとしているのだろう、何度か迷う素振りを見せていたが、一度視線を下に向けた後、決心がついたのかサラサの目をまっすぐ見て言った。
「私達の部族で、暮らすつもりはありませんか?」
「……え?」
一瞬言葉の意味をとりかねて呆然とするサラサに、熱のこもった口調でフラムは説明した。
「この前、ご両親のことを聞いてから、わたし考えてたんです。サラサさんが人間の村でどういう扱いを受けているかも、想像がつきます。だから、考えた結果両親に相談したんです。そうしたら、お父様が、サラサさんのお父様を知っていたんですよ! ……まあ、そのときに無断外出もばれてしまって、こっぴどく怒られもしたんですけど」
そういう割には、さほど答えた様子もなく、フラムは小さく舌を出す。
「お父様が言うには、昔この辺を荒らし回った魔物は、わたし達の村にもかなりの被害が出たそうです。退治するにも、かなり強力な魔物だったらしくて、迂闊に手を出せずに二の足を踏んでいて。そうしている間にも犠牲は増えていったので、もう戦うしかない、となった時に、人間の剣士様が現れて、その魔物を一騎打ちで退治したんだそうです」
「それって……お父さん?」
フラムはサラサの質問に頷くと、表情を曇らせた。
「でも、剣士様も無事では済まなかったんです。お父様達が駆けつけた時には、魔物もろとも潮の速い場所にはまり込んで流されていくところだったそうです。なんとか追いついた時にはもう……。もう少し駆けつけるのが早ければ、剣士様の命を助けられたかもしれなかったのに、とお父様は悔やんでおられました」
思わぬところで聞かされた父の最後にまつわる話に、サラサは言葉を失う。
「……その後、お父さんは?」
「わたし達の習慣では、亡くなった者は海に流されます。海と一つになって、わたし達を見守ってくれるように。特に、勇敢に戦った戦士は最高の礼を持って送られます。剣士様……サラサさんのお父様も最高の尊敬を持って送られたと、そう聞いています」
「そっか……」
ならきっと、お母さんとも会えたはずだよね。
そっと安堵の息をつく。はっきりとした父の最後を知らなかったことで、心の片隅に引っかかっていたことだ。
「お父様は仰ってました。あの勇敢な戦士は我々の恩人でもある。その忘れ形見が一人で生きているなら、部族の掟を曲げてでも受け入れよう、と。サラサさんが望むのであれば、受け入れるとはっきり約束してくれました」
そこまで言って、フラムはサラサの反応をうかがう。
「……如何でしょうか?」
「如何でしょうかって言われても……」
「わたし達人魚と同じ生活をすることに不安がおありですか? それなら、なにも心配いらないとお祖母様が保証してくれましたし」
なにかそういう魔法的な手段があるのかな、とサラサはボンヤリ考えた。
戸惑いを隠せないサラサに対して、フラムは情熱的に言い募る。おそらく、誰よりも話に乗り気なのはフラム自身なのだろう。
ナオのことが少し気にかかったが、自分がいなくなれば、ナオにあれこれと面倒をかけることもなくなる。迷惑をかけずに済む。
断る理由はないはずだった。ほんの少し前までは。
「……ゴメンね。少し……考えさせてもらえるかな?」
口から出た言葉に、誰より驚いたのはサラサ自身だった。
胸をよぎったのは「お前は人間だ」と言った、顎に傷のある浅黒い青年の顔。
自分でもはっきりとは言えない、心の奥の引っかかり。
怒りか、それとも、もっと他のなにかか。
サラサの答えにフラムは多少不満そうだったが、ここは引くことにしたようだった。
「サラサさんにとっても大事なことでしょうから、お待ちします。お心が決まりましたら、いつでも言って下さいね」
そう言って笑顔を浮かべるフラムの前を、蛍のように小さな燐光が横切った。
「あ、迎えが来たみたいですね」
「迎え?」
「ええ。さっきも言いましたが、わたしここへは人目を盗んで来てましたので……。お父様にお願いして、サラサさんと会うことは赦していただけたんですが、送り迎えをつけられてしまいまして」
ということは、今の燐光はその迎えの人魚が飛ばしたものだろうか。
夜の海に目を向けたサラサだったが、暗い波間にはそれらしい影も見えなかった。
そしてまた二人は、会う約束を交わしてその夜も別れたのだった。
3
「あのね、ザンがね、あたしとの縁談断りに来たって……」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、つっかえつっかえナオが言う。
太陽は中天にかかり、夏も本番に入ったことを示す、強い陽光が白い砂浜を焼いている。
気温は高いが、海を渡ってくる風が間断ないので、それほど暑さは感じない。
いつもの場所で、銛の柄を磨く作業をしていたサラサを訪ねてきたナオは、その正面に正座している。
両膝の上に置いた握りこぶしの上にぽつぽつと涙が落ちて、こぶしを逸れた涙がワンピースの上に染みを作っている。
サラサは作業の手を休めてナオの話を聞いているが、どう慰めたものか困っている様子が見て取れた。
「……あたし、なんか嫌われること、したのかな……?」
正直に言って、サラサは困り果てていた。
ザンから破談の話を聞いた時から、おそらくなにかしらの話をしに、ナオが訪ねてくるだろうとは予想していたが。
ナオから相談を受けるのが嫌なわけではまったくないが、相談の内容が内容だけに、どう答えたらいいものか想像がつかない。
「あいつには会ったの?」
サラサの問いに、ナオが首を横に振る。
「……なんか、最近出歩いてばっかりいるみたいで、全然会えないの……。誰にも行き先、言ってないみたいだし……」
「そっか……」
まさかしょっちゅうここに来てるとも言えず、サラサは口を濁してしまう。
そう言えば、今日はまだ姿を見せない。ナオと鉢合わせされると困るので、有り難いと言えなくもないが。
なんでこんなこと考えないといけないのかと、この場にいない青年に腹を立てつつ、どこか後ろめたい気持ちでサラサはナオに向かって言った。
「とりあえずは、あいつと直接はなしてからじゃないかな? 色々悩んでたところで、本人に聞かないと判らないだろうし」
「うん……、そう、だよね」
ナオが一度盛大に鼻をすすり、多少は落ち着いたようなのを確認してから、サラサは柄を磨く作業を再開する。
濡れた革の切れ端に砂をつけ、ごしごしと木肌を磨く。
ようやく泣きの発作を引っ込めたナオが、なにかに気が付いたのか、サラサを少し泣き腫らした目で不思議そうに見つめた。
その視線に気が付いて、サラサがまた手を止める。
「どうかした?」
なるべく優しくサラサが訊くと、ナオは少し首を傾げながら逆に訊いた。
「サラサ、なにか変わった?」
「え?」
「なんだか、雰囲気が少し変わったみたい」
サラサは言葉に詰まった。
ここのところ色々とあったせいで、知らないうちにそれが表に出ているのかもしれない。
ナオが不思議そうな顔で、サラサを見つめる。
ふとナオにならフラムのことを話しても大丈夫か、と思った。
妙に言葉を濁して心配をさせるより、ある程度本当のことを話した方がいいのかも知れない。
余計な心配を増やさないように、フラムの誘いのことだけ伏せておいて。
意を決して、サラサは切り出した。
「ナオ、実はね……」
天幕の中に入ると、老婆が珠の前に難しい顔で座っていた。
「用事だって?」
「ああ」
その側までザンが歩み寄ると、老婆は片眉を吊り上げてその顔だけ確認すると、すぐに目を珠の方に戻す。
夏の日差しに炙られているはずなのに、黒い天幕の中はヒンヤリとして心地よく澄み、何らかの力が作用しているのは明らかだった。
ここのところの深酒が祟って、少し二日酔い気味なザンの頭に心地良いい。
折りたたみ式の椅子を勝手に出してきて、老婆の横に座る。その手元を覗くと、琥珀色の珠の奥で微妙な色彩が揺らめいていた。見るものが見ればメッセージとして読み取れるらしいが、ザンにはちんぷんかんぷんだ。
頭が痛くなってきそうだったので、老婆の方に目を向ける。
真面目な表情で皺だらけの目もとを珠に注ぐ横顔を見つつ、ザンは昔、師匠と一緒に行った仕事でみた古いミイラを思い出した。
「……なにか、いま失礼なことを考えなかったかい?」
「いや、別に」
急に振り向いて睨んでくる老婆に、明後日の方を向きながら誤魔化すザン。
老婆は、ふんと鼻を鳴らしてから、上体を少し起こして目もとを揉んだ。
「で、用事なんだろ。なんだって?」
「ああ……って、あんた、なんだか酒臭いね。暇だからって飲んでばっかりいるんじゃないよ。まったく」
ぶつぶつ言いながら、珠に手をかざすと、その中の色彩が消える。
「朝一番で届いた『伝言』でね……どうやら、働いて貰うことになりそうだよ」
「魔物か?」
老婆が頷く。
「立った今二つ目の『伝言』が届いたんだがね。西の村の守人がやられたらしい」
一瞬でザンの表情が引き締まった。
「死にはしなかったらしいが、しばらくは起き上がれないとさ。とりあえず追い払うのには成功したらしいが、魔物はそのまま姿を消したそうだよ。潮の道から言って、この辺りにくる可能性は高いね。やられたって守人は、坊やが来る前はこの村にも何度か来て貰ったが、若い がそれなりに腕の立つ男だったはずさ。坊やの腕じゃちょっと手に余るかもね。坊や、『水上歩行』はできたかい?」
「無理だって。こんな田舎に派遣されるような下っ端で、そんな高等技術使えるやつはほとんどいないよ。知ってるだろ? 叔父さんが特別だったんだよ」
「アレも、ここに来た当初はぺーぺーだったんだがね。まあいいさ。とりあえず、協会には応援を要請しておいたけど、それまでに被害が出ないといいが……。そういうわけだから、覚悟だけはしておいとくれ」
「……解った」
ザンは緊張した面持ちで頷く。
「それと、もう一つ」
老婆は身体ごとザンに向き直り、難しい顔で言った。
「サラサのことさ」
「サラサ?」
「真夜中にね、サラサを見かけたってのがいるんだ」
「真夜中? どこで?」
「人魚の岬さ。沖で夜釣りをしていた奴が、人魚の岬の辺りで変な光が見えたってんで、好奇心に負けて近づいて見たんだとさ。そしたら、あの娘と人魚の子供が一緒にいるのを見つけたそうだ」
「へえ、どんな経緯で知り合ったんだ? ここらの部族は人間嫌いで有名なのに」
「……坊や、事の重大さを理解してないね?」
脳天気とも言えるザンの答えに、皺だらけの眉間にさらに皺を増やして老婆が溜息をつく。
「坊やは央都暮らしが長くて忘れてるみたいだけどね、ここらみたいに辺鄙な田舎じゃあ、人魚は魔物の同類みたいに思われてるんだ。特に、昔から人魚との交流が皆無に等しいここいらじゃあ、そういう迷信は根深いんだ」
現在、央都のように大きな都市部や、公益の盛んな港町など、異種族との交流がある程度ある場所では、人魚も世界に多数存在する人類の一つとして認識されている。
だが、学問水準のあまり高くない地域では、今でも老婆の言うような迷信の類が、驚く程広く信じられている。
平均的に他種族との交流が少なめの人魚達に関しては、その傾向は特に顕著で、様々な流言飛語の結果起きた悲劇は枚挙に暇がない。
「まあ、人魚の件だけなら、それほど焦る必要も無かったんだがね。今までだって、あの娘に関するその類の噂は絶えたことがないんだ。今朝の『伝言』を見るまでね」
珠の上に手を乗せて、ザンを見やる。
「……どういう意味か、解るね?」
老婆の確認に、ようやく理解したザンの顔色が、さっと青くなる。
「時期が悪すぎる。その話を持ってきた奴には、きつく口止めして帰したけど、噂が広まるのは時間の問題だろうね。そこに。魔物が出たなんて話が出れば、連中はすぐに二つの話を結びつける。そうなったら……」
ザンが生唾を苦労して飲み込む。
口の中が乾いていた。
過去に起きたあの一件は、ザンの中にも暗い影を落としている。
老婆は溜息をつく。
「あの娘のことは、坊やに任せるからね。頼んだよ」
「…………解った」
決意の表情で再度頷く。
「言っておくけどね、坊や」
厳しかった老婆の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「命は粗末にするんじゃないよ? アレだって、なにも一人でいく必要は無かったんだ。あと二日も待てば応援が着いたっていうのにね。……危なくなったら逃げたっていいんだよ。焦って自分で自分を追い詰めないようにね」
「……ああ、ありがとう婆様」
強ばってはいたが、老婆に笑顔を見せて、ザンは天幕を出て行った。
老婆もまた大きな溜息をついて、村長に現状の説明をしに行く為に天幕を後にした。
4
雲行きが怪しくなってきた。
いつの間にか水平線から湧き出た黒雲が、怪物の唸り声のような雷鳴を響かせて、驚く程の速度で空を覆い始めている。
雨が近い。
この時期、取り立てて珍しいことでもないので、サラサは大して慌てもせず、手早く小物をまとめて帰り支度を終えると、仕上げ中の柄を持って立ち上がった。
歩き出したサラサの心に、様々な事が浮かぶ。
ナオのこと。
フラムのこと。
そして……。
少し前までは、取り立てて深く考える機会もなかった諸々。
一人になってから今までずっと。
なにも変わらない平坦な日々がただ黙々と、いつか自分が死んで消えて無くなる時まで続いていくものだと思っていた。
そう決めつけていたことに気付く。
不思議だな、とサラサは思う。
自分が他人との関係で思い悩むのも、今の生活を振り返る自分も。
少しだけ、そんな自分を笑う。
「サラサ!」
唐突に背後からかけられた声に、浮かびかけていた笑みはすぐに消え、代わりに苦々しい表情が浮かぶ。
ゆっくり振り返ると、随分遠くから声をかけられたような気がしたのに、もうすぐそこまでザンが来ていた。どうやら走ってきたようだが、その息はほとんど乱れていなかった。
口を開こうとするザンの機先を制して、サラサが相変わらずの無愛想で言った。
「わたしはもう帰るから、好きなだけここにいれば? すぐに雨が降ってくると思うけど。濡れるのが嫌なら、とっとと帰った方がいいんじゃないの?」
にべもない言葉に、ザンは目に見えて怯むが、引き下がるつもりは無いようだった。
「……お前に話があってきたんだ」
「わたしには無いよ」
真剣な声色のザンを簡潔に一蹴して、歩き出そうと背を向けたサラサの背中に、ザンの言葉がぶつかる。
「真夜中に、人魚と会ってるんだって?」
ぴたり、とサラサの足が止まった。警戒心剥き出しで振り返る。
「……なんでアンタが知ってんのよ」
「本当なんだな」
「だったら、なに?」
もともと隠すつもりもないサラサは、あっさりザンに問い返しながら、少し考える。
フラムとあっていることを話したのはナオしかないが、それはついさっきのことだ。ザンの耳に入るには早すぎる。
もしかしたら、村の誰かに見られていたのだろうか。
人魚が魔物と同じように見られているのは知っていたし、サラサ自身も割と最近まで同じ感覚でいた。
だが、それほど長い付き合いとは言えないが、フラムが珍しいほど素直で優しい心の持ち主だと実感した今では、例え魔物だろうとなんだろうと、彼女を庇うつもりだった。
彼女が魔物だというのなら、父を死地に追いやり、母を見殺しにした連中は何だというのか。
サラサの警戒心が判らないわけがないが、それでもザンは決意の顔で言う。
「人魚とは、もう、会うな。いや、会わないでくれ」
サラサの爆発を覚悟していたザンだったが、予想外なことにサラサたっぷりと沈黙した後、静かに口を開く。
「……アンタは守人サマだもんね。そう言うと思ったけど。でも、それをわたしが聞かなきゃならない義理はないよ。……もし、あの娘に手を出すつもりなら、わたしはどんなことをしても止めるからね」
静かな迫力を込めて宣言するサラサに、ザンは一瞬訝しげな顔をしたが、すぐにその勘違いに気付いて慌てて言い訳する。
「い、いや、違うんだ。その人魚をどうこうしようって話じゃない。守人の修行に魔物の勉強も入ってる。魔物と人魚の間に何の関わりも無いって事は知ってるよ。そうじゃないんだ」
話してもいいのかどうか少し迷ってから、慎重に言う。
「婆様の話だと、この辺に魔物が出る可能性が高いんだと。もちろんそいつと鉢合わせしないように、夜はなるべく出歩くなってのもある。実は……お前が、夜中に人魚と会ってるところを見たって奴がいる。一応婆様が口止めしてくれたらしいが、どうしたって噂は広まる。どういうことか解るだろ?」
「……解らないわ」
サラサが険悪な態度を崩そうとしないので、ザンにはとぼけているのか本当に思いつかないのか判断がつかない。
「オレは人魚が魔物じゃないことを知ってるが、村の連中はそうじゃないってことだ。噂が広まって、その上に魔物が出て被害が出たりしたら、それがお前せいにされちまうかもしれない。そうなったら……」
言い淀んで、ザンは足下に視線を落とした。
「あの時と、同じことが起こるかもしれないんだぞ……」
サラサの肩がぴくりと動く。被った布がずれて、その表情が完全にその奥へ隠れる。
背を向けながら発せられたサラサの声は、ザンの不安を煽るほどに静かで落ち着いていた。
「……おなじじゃないよ」
「なに?」
「おなじじゃないよ。もう、お父さんもお母さんもいない。誰もわたしの為に犠牲にならない。……わたしが消えれば、それで済むよ」
「サラサ!」
「うるさいっ!」
思わず声を荒げたザンに負けない声で、サラサが噛みつくような勢いで振り返りって怒鳴る。
その勢いでボロ布が頭から外れ、真珠色の髪と白磁の肌、深紅の瞳が現れる。
怖いほどに整った顔には、激情が揺らめいていた。
「前にも言ったでしょうが! アンタになにが解るの! わたしに関わるな! わたしを放っておいてよ!」
「放っておけないんだよっ!」
どこか悲痛な色を滲ませたサラサの態度に耐えきれず、ザンも怒鳴り返す。
明らかにそれまでとは違う言葉の響きに、サラサも口をつぐむ。
ザンは感情を爆発させたことに恥じ入ったのか、少し赤面しつつ一転して静かに続ける。
「……お前は、もう忘れちまったかもしれんけど……。昔、お前と約束したんだよ。守ってやるって。なにがあっても、お前を守るって……だから……」
口にしているうちにいたたまれなくなってきたのか、語尾が消えていく。
サラサはそれを耳にした途端、ひどく傷ついたような表情で背中を向けた。
それは、ずっと昔に交わされた約束。
子供の頃の約束だ。
サラサにとっては破られてしまった約束。
忘れるはずなどない。
忘れられなかったからこそ────。
「……いまさら、なによ……」
サラサの背中が頼りなく震えた。
「…………ひとりに、したくせに」
その言葉は、怒りと拒絶という名前の堤防から漏れたひとしずく。
「……お父さんがいなくなった時も」
忘れられなかったから。怒って見せて拒絶しなければ、閉じ込めておけなかったもの。
「……お母さんがいなくなった時だって」
サラサの足下、乾いた砂の上に、ポツリと黒い染みができる。
次々に増えていく。
雨はまだ降り始めてはいない。
「……寂しくて、悲しくて、苦しくて……どうしようもなかったのに……」
最初のひとしずくが漏れてしまえば、後は崩れていくだけ。
「…………いなかったくせに!」
怒りも、拒絶も、その上に乗せていた物は、すべて崩れて流されていく。
「わたしのことおいて、いなくなったくせに!」
後に残るのは、哀しみと孤独に満ちた、幼い魂だけ。
塗り固めて、押し込めて、遠ざけることでしか守れなかった心。
気持ちは溢れ出し。
溢れ出した気持ちは、しずくになって落ちていく。
「そんなの、しんじられるわけ……ないじゃない……!」
それは初めて晒された本当の気持ち。言葉にできなかった言葉。
サラサの哀切に満ちた背中を眺めるザンの顔は、蒼白に近かった。
頭の中を、ブギの言葉がぐるぐると回っている。
──大きな失敗を一つ……いや二つか? してるんだ──。
ようやくその意味を理解した。
自分が知らずに犯していた過ちに、ようやく気が付いた。
この少女を守るために必要だったのは、戦う力などではなかった。
必要だったのは、ただ側にいてやること。ただ、よりそって温もりを与えてやることだけ。
戦う力を必要としたのは、自分だ。
少女のためなどではない。
逃げていた。
逃げたのだ。
無力な自分から。
無力であることに耐えられない、自分自身の心から。
村を出るなら、なぜ少女を連れて行かなかった?
できたはずだ。
やらなかったのだ。
少女を連れていき、その先で少女を守り抜けないことが、恐ろしかった。
臆病者だったのだ。それはおそらく、今も。
少女の為だと言い訳をして、最悪の卑怯と逃亡を犯したことにも無意識で。
守ると口にしながらそこから逃げだし、他の何よりも少女の心を傷つけていたのは自分だ。
足下が揺れる。グルグルと景色が回っていた。
少しでも力を抜けば、砂浜の上に倒れてしまいそうだ。
手を伸ばせば届く距離に、少女の背中はあった。
その背中には、孤独と寂寥だけがあった。
簡単に届きそうな距離が、とてつもなく遠く感じる。
恐怖がこみ上げてくる。
やはり、自分は臆病者だ、とザンは骨身に染みて理解する。
だからといって、このまま卑怯者の臆病者でいて良いはずがない。
もう、手遅れなのかも知れない。
無駄な足掻きなのかも知れない。
なにかをする資格すら、すでに自分にはないかも知れなかった。
それでも、いまここで出来ることをやらなければ、最悪のまま終わってしまう。
指一本動かすのも、足を一歩踏み進めるのも。
今まで経験してきたどんなことよりも、力と勇気を必要とした。
雨が、ぽつぽつと降り始める。
驚く程思い通りにならない両手を差し伸べ、地面に張り付く足を進め、少女の両肩に触れる。
その肩は弱々しく震えるが、そのまま逃げもせず、かといって振り向きもしない。
意を決し、可能な限りの優しさと、細心の注意を持って。
乾いた砂で出来ているかのように、そっとその背中を抱きしめた。
なにを口にしても、言い訳にしかならないような気がした。
想いは次々と浮かび消えていく。
だが、本当に言わなければいけないことは一つしかなかった。
たった一言だけ、全身全霊で絞り出す。
「……………」
少女にしか聞こえない声で呟かれたのは、短く不器用な謝罪の言葉。
真にその罪を自覚した者の、懺悔の言葉だった。
それは、少女の心に残っていた僅かな強がりを、綺麗に吹き飛ばした。
サラサは泣いた。
長い間、我慢し続けていたすべてを吐き出すように。
大きな声で、幼い子供のように。
それでも、青年にすがることなく、両の拳を力一杯握りしめて。
すがってしまえば、もう二度と立ち上がることができなくなってしまいそうだったから。
雨が勢いを強くする。
急速に強まっていく雨は、流れるものを、二人の間にあったささやかで強固ななにかを、まとめて洗い流し、掻き消していく。
そして。
誰かが走り去る、小さな足音もまた、掻き消してしまった。
**********
『あなたは、わたしのことこわがらないんだね?』
重なり合う木々の枝葉が作り出す日陰の下、ボロ布を被った幼い女の子が言った。
『みんな、わたしのことこわがるのに……』
下を向いているので表情は伺えないが、女の子が寂しげな顔をしているのは簡単に予想がついた。
『なんで、こわがるんだよ』
少年はあぐらをかいて、身体を前後に揺らしながら言う。
『こわくないじゃん』
半分が嘘で、半分が本当。
少年も自分の目で見るまでは、この村はずれに住む少女を怖がっていた。
無責任な大人達が口にする、悪意ある噂話を信じていたからだ。
でも、今は。
『だって、そのかみも、めも、ぼくはきれいだとおもうよ』
『そう……かな?』
『そうだよ!』
被った布越しでも、女の子が恥じらう雰囲気が伝わってくる。
『……ありがとう』
少年からは見えないが、きっと花が開くように可憐な笑顔を浮かべているだろう。
少年はそれが見たかった。
『ねえ、そのぬのをとってみてよ』
『え?』
『おねがい』
『……じゃあ、少しだけね』
女の子は少し迷ってから、布を肩まで下げた。
現れたのは、満月を削りだして作ったように可憐で美しい容貌。
しかし、その深紅の瞳を湛えた目もとに、やや困ったような雰囲気があったのが少年には少し残念だった。
『こんなにきれいなんだから、かくさなきゃいいのに』
『でも、ずっとおひさまにあたってると、まっかにはれていたいんだもん……』
そう言って、悲しそうに目を伏せる。
少年はそんな顔が見たいわけでなはないのだ。
『それに……かくしてないと、みんなこわがるから……』
『ぼくは怖がらないよ!』
女の子の語尾に被せた大きな声に、少女は顔を上げる。
『ぼくは、ぜったいぜったいこわがらない!』
『……ほんとうに?』
『うん!』
取れてしまいそうな勢いで、首を縦に振る。
『ぼくがきみのこと、まもってあげる! ずっといっしょにいるよ!』
少年の顔を見つめていた女の子の顔が、ゆっくりとはにかんだ笑顔を浮かべる。
『……ありがとう』
それこそが、少年が見たいと思った笑顔だった。
遠い日の約束。
幼いからこそ、簡単に口にできた言葉。
幼いからこそ、純粋に口にできた言葉。
木々の間から垣間見える海が、きらきらと輝いていた。
遠い日の出来事。




