二章
二章 人魚の岬
1
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『魔物の子め!』
『引きずり出せ!』
『火をかけろっ!』
『あたしの旦那を返しておくれ!』
『オレの娘もだ!』
言葉に乗せられた、あまりに剥き出しの悪意。
自らの正義を信じて疑わない。目が開きながらなにも見ていない者たちが発する暴力的な雰囲気。濃厚なそれは狂気と言い切ってしまっても良かった。
行動に酔いしれ、罪悪感を置き去りにし、誰一人として自分たちの姿を顧みない。
妄信という名の熱病に冒された愚者の群。愚かであるが故に立ち止まることなく蹂躙し、踏みにじり、すり潰すのみに邁進する。
月明かりもなく、星明かりもない闇夜だった。
手明かりがなければ一寸先も見えない暗さの中、何本もの松明を掲げた幾つもの人影が、粗末に過ぎる小屋の周りを取り囲んでいる。
松明の炎が悪魔のように揺らめき、それに合わせて影達が奇怪な踊りを踊っている。
その不吉な影と周囲を取り囲む悪意から、背後の小屋を守り、男は立っていた。
やや大柄なその身体には力みはなく、不必要な気負いもない。
男はただ大きな岩塊がそこにあるように、泰然と立っていた。
腰には、細かい象眼が施された長剣を下げていたが、殺気立つ影達に囲まれながら、それに手を掛ける気配はない。
やがて、影達の真ん中が割れて、多少の威厳をまとわせた壮年の男が進み出てきた。
中年の男は、精一杯の威厳を保とうとしていたが、どう足掻こうと、逆にあがけばあがくほど長剣の男との格の差は一目瞭然だ。その右手中指には村長の証である指輪が填められている。
『わしは、皆を止めようとしたんだ』
もの言いたげに見つめる男の視線を避けながら、村長が発したのは、言い訳じみた一言。
だが、それでも勢いがついたのかさらに続ける。
『わかるだろう? 皆、もう限界なのだ。飢饉に、嵐。それに疫病……。そして今度は魔物だ。もうわしには皆を止めることはできんよ』
それを最後まで黙って聞いていた長剣の男は怪訝そうに首を傾げると、響きのよい低音でゆっくりと口を開いた。
『ここしばらく続いた災害で、皆の心が荒んでいるのは理解できます。今回の魔物の件は、守人でありながら、被害を出した上にいまだ退治できていない私に責があることも理解できます。ですが……』
言葉を切り、固唾を飲んで二人のやりとりに注目している村人達を見回す。
長剣の男には見知った顔ばかりだった。
ここのところ近隣の村々を脅かしている魔物により、家族を奪われた者達がいた。
彼らの哀しみは、魔物から彼らの生活を守るのが使命である、自分の不甲斐なさが招いたものだ。彼らの憤りを受け止める義務が自分にはある。
だが彼らも、魔物に家族を奪われたわけでない、疫病や嵐で家族を失った村人達も、憎悪に満ち視線を注ぐ相手は長剣の男ではない。
その後ろ。小屋に向かってだ。
『村長、これはどういうことでしょう? 魔物を狩ることもできていない、自らの仕事も満足にできていない私に対する抗議。そう受け取ればよいのでしょうか』
長剣の男の言葉に、村長が苦虫を噛み潰す。
『言わずとも解っているだろう。遠回しにとぼけるのはやめて貰いたいものだ』
『とぼけてなどいません。貴方こそ回りくどい言い方をせず、はっきりと仰ったら如何か?』
鋭く詰問する口調に、村長が眉を吊り上げる。
『だったらはっきり言おう、あの「魔物の子」を出せ! あの子供のせいで災厄が村に降りかかるのだろうからな!』
『殺すのですか?』
村長が僅かに残った良心からか、使わずにいた言葉を男はあっさり口にする。
数に任せて責め立てるような卑劣な真似をしておいて、今更なにを躊躇することがあるのか、村長が言葉に詰まる。
『私の娘を、殺すと、そう言われるのか?』
威圧感があるとは言えない態度だというのに、男が言いながら一歩を踏み出すと、それに押されるように村長が一歩下がる。
『ど、どう考えてもおかしいだろう?! あの子供が生まれてからというもの、悪いことが重なりすぎる! あの子供が原因に決まっている!』
下がってしまったことに羞恥心を刺激されたか、顔を赤黒く染めながら怒鳴る村長。
その内容と言えば、言い訳にしてもお粗末極まりなく、責任転嫁と八つ当たりでしかない。?なぜ娘が原因と言い切れるのですか? 婆様もそれははっきり否定されていたはず。嵐による被害も、食糧難も、流行病も、初めて起こったものではないでしょう。それが偶然に重なったのは娘のせいだと仰るのか??
怒りはない。男の言葉にはただ事実を確認しようとする厳然さがあったが、集団心理に正常さを奪われ、はけ口を求める村人達が、今更引き下がるわけもない。
むしろ、正論に対して反論ができないぶん、不満は高まる。
『娘と同じ時期に生まれた子供は他もいるでしょう。……綱元、貴方の娘さんは、私の娘と一月も変わらない生まれでしたね?』
いきなり話を振られた、人垣の前面にいた髭面の男が言葉に詰まる。
『それなのに、私の娘が少し他人と違う見た目をしているだけで、すべての責任は娘にあると、そう言われるのですね?』
ぐるりと周囲を見回す男の視線を、正面から受け止められる人間は、少なくともここには誰一人いなかった。
もしここで男の視線を受け止められたなら、そこに浮かんでいたのは怒りでも侮蔑でもなく、哀しみに満ちた憐れみの色であったことに気が付いただろう。
『だが、現に多くの死人が出たのだ! 流行病もなんとか鳴りを潜め、食糧難も目処が立ったが、まだ魔物はうろつき、死人が出続けているのだ!』
理屈も何もなく、やりどころのない不満と憤りをぶつける。
そこには彼らの信じる正義など、影も形も存在しない。
結局彼らにとっては大義名分など必要なく、ただ自分たちの不満をぶつける先が欲しいだけなのだ。
すべてを見透かしているような男は、ひっそり溜息をついた。
それは周りの誰にも気付かれないようなものだったが、真正面にいた村長だけはそれに気付いてしまった。
『貴様!』
その溜息を侮蔑ととったのだろう、血が上ってドス黒く染まった顔で男に掴みかかり、呪いを掛けるように言った。
『貴様などに、妹をやるのでは無かった……!』
どんな言葉にも揺るがなかった男の表情が、そこで初めて揺らいだ。
『やめてよ!』
甲高い子供の叫びが、弾けそうにまで高まっていた場の緊張感に冷水を浴びせかけた。
その声に驚いた二人が目を向けると、人垣をくぐり抜けて小さな人影が転がり出てきた。
小さな人影は捕まえようとする手をくぐり抜けて、まっすぐ村長の腰の辺りに突っ込む。
必死な様子で村長の腰にしがみついたのは、十歳になるかならないかの少年だった。
全力でぶつかっても、大人を揺るがせもできない少年は、無我夢中で叫んだ。
『やめてよ、おとうさん! あのこがなにをしたっていうんだ! おじさんやおばさんがなにしたっていうんだよ!』
少年──息子の登場は予想外だったのだろう、面食らっていた村長だったが、すぐに怒りの表情に変わると、遠慮会釈無く怒鳴りつけた。
『なんでお前がここにいるのだ! 家にいろと言ったはずだ! 離さんか! 子供が首を突っ込む話ではない!』
怒鳴りつけられようが振り回されようが、村長の服をがっしり掴んで離そうとしない少年に業を煮やし、醜態を衆人環視にさらしている羞恥心に顔を染めた村長は、衝動的に力任せの拳を振るった。
鈍い音が響いて少年が地面に転がり、そのままぐったりと動かなくなった。
場が凍り付いたように静まりかえる。
村長は頭を冷やされたのか、自分の手と息子を交互に見て、どうしたらいいのかわからずに立ちすくんだ。
凍り付いた時間の中、男だけが素早く少年に駆け寄って抱き起こした。
『あ……』
一瞬だけ気を失っていた少年は、男に抱き起こされると薄く目を開けた。
その口の端からは血が筋を引き、指輪に引っかけられたのだろう、顎の左側が大きめに裂けて、血が溢れていた。
男は懐から清潔な布を取り出して少年の顔を拭いてやると、その布を握らせる。
『これで傷口を押さえておきなさい』
まだどこか支店の焦点が合わない感じで布を受け取り、言われるままに顎の傷を押さえる。
やがて、意識がはっきりしてくるにつれ、その瞳に涙が滲んでくる。
『おじさん……。ぼく……ぼくは……』
殴られたからではなく、傷の痛みからでもない。
ただ、己の無力さに対する悔しさから溢れた涙だった。
男は、優しく柔らかい笑顔で、そっと少年の頭に手を置いた。
『お前は、優しくて勇敢だな。……お前はいい男だ』
大きな手のひらから伝わる温もりに緊張が解けたのか、少年は静かにしゃくり上げ始めた。
男は手を貸して少年を立たせると、ゆっくり辺りを見回し、村長の方を向いた。
すでにその顔には少年に見せた表情はなく、代わりにあったのは痛みすら感じられそうな決意の色。
『村長』
『な、なんだ?』
茫然自失の体だった村長が、急に声をかけられてビクリと肩を震わせた。
明らかに先程までとは雰囲気が変わった男に、目に見えて気圧されている。
『魔物を退治すれば、納得していただけますか?』
目の前の村長だけでなく、周りを取り囲んだ者達全員に対する問いだった。
村長は少し落ち着かないで周辺を見回す。一連のやりとりで、すでに気勢を削がれていたらしく、積極的な反対意見はなさそうだった。
『……うむ。今、わしらの生活を脅かしているのは、とりあえず魔物だけだ。それさえなんとかなればな。だが、退治すると言っても、できるのか? 現に、今の今まで……』
『それが守人の使命ならば』
強い口調で、村長の言葉を遮る。
『なんとしてでも』
幼い少女は、小屋の中で母にしっかりと抱かれたまま、泣き続けていた。
押し寄せる圧倒的な悪意に、抗う術を持たない少女が、他に何ができただろう。
小屋を取り巻く大勢の気配が、陰鬱な足音と共に去った後も幼女は泣き続けた。
そうしていれば、にじり寄ってくる不安が消え去るかのように。
その後に待つ、父の運命を知っているかのように。
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ふと、サラサは目を覚ました。
真夜中。
明かり取りの小さな窓から月の光が差し込む小屋の中は暗く、壁の所々にある隙間からも刃物のような月光が差し込み、真ん中の簡易な炉の灰の中にほんのりと赤い熾火が見えた。
目が腫れぼったい。
手を伸ばすと濡れていた。
ゆっくり身体を起こすと粗末な掛け布が滑り落ち、その上に瞳を濡らしていたものの残りがこぼれ落ちる。
ほんの少しの間だけそのままでいた後、握りしめた拳で目元を乱暴にこすり、弱々しく溜息をつく。
もうあの日から随分経つが、今でもよく夢に見る。
これでも昔に比べれば随分ましになったのだ。
母が生きていた頃には、夜中に跳ね起きて、母が懸命になだめてくれるのにも構わず、延々と泣き続けたことも多かった。
悲しさや辛さ、恐怖が薄れたわけでも癒されたわけでもない。まして、無感覚になったのでもない。
ただ我慢できるようになっただけ。
誰もいない部屋を見回す。
もう一度、ひっそりと溜息をつく。
ささやかだったが、暖かい時間。
ささやかだったからこそ、なによりも大切だった空間。
心の底に沈殿した思い出は、溜息で吹き上げられ、またゆっくりと沈んでいく。
思い出すには辛く、忘れてしまうには哀しい記憶。
胸の奥からこみ上げる感情は無理矢理飲み込んで、荒々しく掛け布を頭から被って横になる。
それからしばらく、遠い潮騒を聞きながら寝返りも打たずにそうしていたサラサは、やがてのろのろと起き上がる。
眠気はもうどこかにいってしまったようだ。
もたもたと簡単に身支度を調え、銛を手に小屋を出る。
夜空の中天には満月が掛かり、その明るさで星がよく見えなかった。
村からかなり離れ、浜からもやや離れた小高い丘に、サラサが暮らす小屋はあった。
昼間であれば、林の隙間から村が少し見えるのだが、こんな真夜中に起きている者はいないようで、村のある方角は夜闇に紛れてよく見えない。
白々とした月は透明な光を地上に投げかけ、控えめな星は夜空の主役を引き立てる立場に甘んじていた。
サラサは顔を晒したまま、ボロ布を胸の前でかき合わせ、村とは反対方向に歩き出した。
しばらく歩き続けると、まばらにごつごつした岩が増え始め、やがて景色は砂浜から岩場に変わっていく。岩と岩へ飛び移りながらさらに進む。
サラサが向かう先は岬になっているが、その岬は近隣では最も風光明媚な場所として知られ、入り組んだ岩場は豊富な海産物を育んでいる。
それにも関わらず、昔から近づく人間はほとんどいない。
「人魚の岬」と人々が呼ぶその岬は、古くから人魚が出没し人を惑わすとされていたからだ。
言い伝えの真偽はともかく、昼間でも人が近づかない場所である為、サラサは好んで足繁く通っていた。
今日のように寝付かれない夜などは、ほぼ必ずやってきている。
海に向かって伸びた岬の突端まで来たサラサは、鯨の背のように海面から姿を見せている岩場に飛び移り、銛を下に置いた。
それから周辺を見回して何もいないことを確認すると、サンダルを脱ぎ、着ているものをすべて脱ぎ始めた。
するりと服を脱ぎ落としたその下から現れたのは、人の形をした月光のような姿だった。
長く緩やかに波打った豊かな髪も。
精緻な彫刻のように整った容貌も。
細く華奢に見えるが、しっかりと引き締まった手足も。
なめらかに曲線を描く、上質な陶器の肌地をした身体も。
すべてが月光を浴びて、蒼みがかったほのかな白銀に輝いていただった。
その身体の中で、月明かりを呼吸する薄赤い可憐な唇と、血の深紅を湛えた瞳だけが、花の咲くようにしてあった。
魔物に呪われた、と人々が噂するサラサの姿。
赤以外のすべての色を無くしたようなその姿を、サラサは生まれながらに授けられた。
世界の淀みから生まれてくると言われる魔物。それを退治する役目を背負った守人を父に持ったサラサのその姿は、魔物の呪いと噂された。
普通の姿をしていれば飛び抜けて美しい容貌も、その魔性を引き立てるものでしかなく、村人達には恐怖の対象でしかない。
だが、今この時。
月光の下に惜しげもなく晒されたその姿は、至高の芸術品のごとく美しかった。
それでも、サラサ自身は自分の身体を見下ろしてひどく悲しい顔をすると、震えるように自らの肩を抱いた。
それがどんな美しさをもっていたとしても、サラサは自分の姿が堪らなく嫌いだった。
自分のこの姿にも関わらす、優しさと愛情を注いでくれた両親を不幸にしたのは、他ならないこの姿だった。
他人が見たら、おそらく奇異に思うだろうこの月光浴は、太陽の光を長く浴びることができない、世界から拒絶されたような存在であると自覚するサラサが、自分は確かにこの世界に存在するのだという確認の儀式だった。
例えそれが気休めでも、意味のないことだったとしても、サラサにとっては、大事な、大事な時間だった。
その時間を邪魔する者は今、誰もいない。
清らかな輝きを投げかける月と、さざめく星々がそれを見つめ、潮騒だけが熱心にその美しさを誉め讃えていた。
どれだけの時間が経った時だろうか。
「……あなたは、誰ですか?」
その小さく可憐な声は、潮騒に紛れることなくサラサの耳に届いた。
突然の声に、サラサは弾かれたように、素早く脱いだ服と銛を手に伸ばし、身体を隠しつつ油断無く銛を構え、声の主を捜した。
「えっ……? あ、あのっ、驚かしてしまったのなら、ごめんなさい……」
サラサの反応は予想外だったのか戸惑いが色濃い声は、妙に礼儀正しい少女のものだった。
声がしてきた方にサラサが目を向けると、岩の縁に手を掛け、海中から顔だけ出しておどおどとこちらを覗き込む少女と目があった。
見たところ、サラサより二歳か三歳ほど年下だろうか。この辺りでは珍しい金髪で、そのやや垂れ気味の目はマリンローズの紫がかった青だった。
警戒心剥き出しの視線を向けるサラサの態度に少々の怯えを見せながらも、少女はさらに訊ねてきた。
「あの、いけないとは思いましたが、先程からずっと見てました。話しかけるつもりはなかったのですけれど、あの、……あまりに綺麗なお姿でしたので、つい……」
一向に警戒心を崩さず鋭い目で見つめてくるサラサに、その語尾がしぼんでいく。
「あのう……怒ってます?」
精一杯身を縮めて上目遣いに訊ねる少女から目を離さず、いつも被っているボロ布だけを身体に巻き付けて、サラサは厳しい声で逆に訊いた。
「あなた、この辺の子じゃないね?」
「え? あの、まあ、この辺と言われれば、この辺に住んでるんですけど……」
妙に歯切れの悪い返答に、サラサの警戒がさらに濃くなる。
大体、真夜中だというのに、人が普段近づかないような場所で、こんなに気弱そうな少女がうろついていること自体おかしくはないか。
見たところ、人目を避けなければいけないような要素は見あたらない。確かに地元の人間にしては肌が白いものの、サラサとは違ってごく自然な白さだ。サラサほど日光に気をつけなければいけない理由があるとも思えなかった。
「とにかく、あがってきなさい。いつまでもそうしているわけにもいかないでしょう?」
比較的今日は波が穏やかだが、それでも岩場には小さな波が打ち寄せている。半分海に浸かったままでは、あまり落ち着いて話しもできないだろう。
だが、少女は急にそわそわし始め、きょろきょろと視線を彷徨わせ出した。
「えっと、その、上がらないとダメ、ですか?」
「……人間の振りして、海に引きずり込もうとする魔物もいるそうだけど?」
半眼のサラサが銛の柄を絞り上げると、少女は慌てて両手を振った。
「あ、あの、わたし、魔物じゃないです!」
「自分で、魔物です、って言う魔物もいないような気がするけど」
「あう……それはそうですけどぉ」
少女はなおも躊躇して押し黙ったが、やがて覚悟を決めた様子で口を開いた。
「あの、何を見ても驚かないって、約束してもらえますか?」
「わたしも見ての通りだから、大抵のことには驚かないと思うけど」
「それじゃあ……」
少女は岩の上に両手をかけ、海に浸かっていた下半身を一気に引き抜くようにして、岩の上にお尻を乗せた。
その腰から下が、月の光を反射して虹色に輝いた。
「え……?」
ほっそりとした腰のすぐ下から、見える範囲全体が小さく薄い鱗に覆われていた。その美しい色が、少女の身動ぎとともに微妙な変化を見せる。
少女は二本の足を持ってなかった。
足の代わりに伸びていたのは、魚とイルカを掛け合わせたような造形の下半身。
サラサからは海中残っていて見えないが、その下半身の先にはおそらく大きなヒレがあるのだろう。
「人魚?!」
自分の見たものを信じられずに、サラサは丸く見開いた目を何度も瞬いた。
見た瞬間に人魚だと解ったのは、サラサ自身に目撃経験があったからではなく、おとぎ話で聞いていたからだ。
絵すらみたこともなかったが、上半身が人間で下半身が魚など人魚以外にあり得ない。
村人は実在を信じてる者が多いようだが、人魚の岬近くによく潜るサラサにとって、人魚など迷信の産物で、実際にいるなどと考えもしなかった。
しかし、目の前にいるのは、紛れもなく人魚だった。
サラサは少しパニックになりかけて、顔を押さえて深呼吸を繰り返す。
「やっぱり驚きましたか?」
その反応に否定的なものを感じなかったのか、人魚の少女は悪戯っぽく、クスリと笑った。
「初めまして。虹色鱗の部族、鼻先の一番手リュークの娘、フラムと言います」
姿を見せて開き直ったのか、フラムに先程までのオドオドとしたところが無くなっていた。
身体の構造上、岩の端に腰掛けたままでは正面が向けないので、できるだけ上体をサラサに向けて、丁寧な彼女の部族における正式な名乗りをする。
「よろしければ、あなたのお名前を聞かせていただけますか?」
好奇心に満ちた無邪気な笑顔で小首を傾げる。
言葉遣いは大人のようだが、その見た目や仕草、くるくるとめまぐるしく変化する表情は、逆に幼さを感じさせた。
その態度を見た途端、サラサの中にあった警戒心は煙のように消え、代わりにこの人魚の少女に対する好奇心が湧いてきた。
「わたしはサラサよ」
答えながら銛を左手に持ち替え、フラムの側まで歩いて行くと、その隣に腰を下ろした。
いくら人魚とは言え、明らかに不自然な体勢でいるフラムを考慮して、少しでも相手に楽な姿勢で話を聞こうと思ったのだ。
座る時にフラムの足下を見下ろすと、燐光を発するようにきらめくフラムの尾びれの先が、意外な長さで水中を揺らめいていた。
ふと横顔に視線を感じてフラムの方を向くと、彼女はすぐ隣にやってきたサラサの顔を、穴が空きそうなほど凝視していた。
その視線に悪意の類は感じられず、あまりにまっすぐ純真なものだったので、あまりそういいう視線に慣れていないサラサは戸惑った。
「あの、名乗ったばかりで、不躾な質問をしていいですか?」
前のめりに訊ねてくるフラムの表情は真剣そのもの。
サラサは多少気圧されながらも頷く。
「あのですね……」
ごくり、とフラムの喉が動く。
「サラサさんは人間ですか? それとも、ひょっとして、月の精霊だったりとか!?」
「…………は?」
突拍子もない言葉に、サラサはポカンと口を開けて絶句した。
一瞬、自分には理解できない冗談の類なのかと思ったが、フラムの真剣な様子を見る限り迂遠な冗談の類ではないらしい。
どうも本気で訊いているらしいことが理解できたサラサは、苦笑いを浮かべながら答えた。
「……違うよ。わたしは人間。月の精なんかじゃない。そう……」
どこか複雑に、色々な感情が見え隠れする目をフラムに向ける。
透明な微笑み。
「わたしは、ただの、人間だよ……」
2
「よう」
目の前に広がる砂浜と海を望む木陰に座り込み、ボロ布を被ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいたサラサは、ふいに掛けられた声で目を覚ました。
わざわざ確認しなくても、誰なのかはすぐに判った。
「……なんの用?」
寝起きという理由だけではなく、聞いた者がどれだけ鈍かろうと即座に気付くだろう不機嫌な声で、相手の顔も見ずに言い捨てる。
「確か、わたしは関わるなって言ったような気がするけど」
どこをどうとっても友好的とは言い難い態度に怯みながらも、ザンはサラサの目の前に細長い包みを差し出す。
「あーー……これ、頼まれたんで、届けに来たんだ」
サラサはボロ布の奥から包みを確認し、黙って受け取るとすぐに包みをといて中を確認する。
「ナオに頼んでたやつ……なんでアンタが持ってくるの?」
「昨日ブギのところに厄介になってな。その時にブギから頼まれた」
「……ふうん。一応、礼は言っておくわ」
丁寧に銛先を包み直して膝の上に乗せたサラサは、そのまま海を眺めて動かなくなる。
だが、ザンは所在なさげにはしているが、その場に突っ立ったままだ。
「まだなにかあるの?」
立ち去る気配のないザンに、やはり視線を向けずに言う。
しばし逡巡してからザンは口を開く。
「……座らせてもらっていいか?」
「…………好きにすれば」
少し長めに沈黙してから帰ってきた返事は素っ気のないものだったが、とりあえずは拒絶では無かったことに安堵したザンは、サラサと微妙な距離を置いて、海の方を向いて座る。
その一連の動作の間、サラサの視線が腰の長剣に注がれていることにザンは気付いたが、サラサの方を見るとすぐに視線を逸らされたので、慎重にそこは触れないようにした。
しばらく並んで海を眺めていたが、やがてザンが思い出したように言った。
「叔母さん……亡くなったんだってな」
サラサは無言。
「叔父さん達の、墓は建てたのか?」
「……そんなこと聞いてどうすんの?」
やはり固い声にザンは迷ったものの、素直に答えた。
「叔父さんと叔母さんには世話になったから、墓参りさせてもらいたいなと思って……」
「無いわ」
ザンが喋っているのをスッパリ断ち切るように、サラサははっきりと答えた。
「アンタは、お父さんが行方不明になってすぐどっか消えちゃったから知らないだろうけど。結局あの後見つかったのはお父さんの剣だけで、お父さん自身はもちろん、形見になりそうなものも何一つ見つからなかった。強いて言えば」
ボロ布の下で、サラサの視線がザンの長剣に向くのが判った。
「それが形見ってことになるのかもしれないけど、守人の証だからとかいう理由で取り上げられたから。本当に死んだかどうかも判らないお父さんのお墓を、わたしもお母さんも建てる気にならなかった」
淡々と言いながら、視線を海に戻す。
「どう考えたって生きてるはずなかったけど。……だから、お母さんが死んだ時は、少しでもお父さんの側に行けるように、わたしが自分の手で海に流した」
ただ事実を口にしているだけの口調。ザンは黙って聞いていた。
「お墓っていうんなら、この海が、お父さんとお母さんのお墓って言えるのかもね」
ザンには、サラサにかける言葉を思いつけなかった。
重い沈黙。二人の間を潮騒だけが流れる。
しばらくして、先に沈黙を破ったのは、以外にもサラサからだった。
「そういえば、アンタ結婚するんだって?」
いきなり予想外の方向から浴びせられた話題に、ザンは言葉を失った。
サラサは不自然なくらい落ち着いた声色でさらに言う。
「ナオから聞いた。喜んでたよ、あの娘」
「い、いや、それはその……」
しどろもどろに、なにか言い訳めいたことを口にしようとしたザンを無視して、サラサは村の方に顔を向けた。
「噂をすれば影っていうけど」
その言葉にサラサが見ている方向に顔を向けると、ナオが小走りにこっちへ向かってくるのが見えた。
「じゃあね」
そちらにザンが気をとられた瞬間に、戦いの訓練を受けたザンが驚く程の絶妙な間で立ち上がったサラサは、そのままあっという間に早足で立ち去った。
ザンは狐に摘まれたような顔でそれを見送ってしまったあと、我に帰って自分の顔に張り手を一発入れ、溜息と共に大きく肩を落とした。
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『かくれちゃダメだろ、ほら!』
少年は自分の背後に回って前に出ようとしない小さな女の子の腕を掴み、半ば強引に引きずり出して前に立たせる。
しかし、女の子はまたすぐに小動物の素早さで少年の後ろに戻ってしまう。
『おい、怒るぞ!』
苛ついた少年の大声に、少年の脇からはみ出した小さな肩が小さく震える。
『べつにいいよ? こわがってるじゃない』
少年の目の前に立つ、ボロを被った小さな人物が、遠慮がちに言う。
声からすると女の子のようで、少年の後ろに隠れる女の子と体格からするとほとんど年齢に差はないだろう。
『怖がってるわけじゃないって。だって、こいつが来たいって言ったんだもん。はずかしがってるだけだよ』
『……そうなの?』
『そうだよ!』
少年の力強い保証に勇気づけられたボロ布の女の子は、頭まですっぽりと被った布を肩まで下ろした。
布の下から現れたのは、真珠よりも美しい純白の髪。整った容貌の中に据えられた深紅の瞳。
少年の後ろからそれを伺っていた女の子が慌てて顔を引っ込める。
ボロ布の女の子がゆっくり少年の背後に回ると、相手は少年の背中に顔を押しつけてしがみついていた。
その肩を優しく叩く。
相手の女の子は、びっくりして飛び上がり、慌てて振り返る。
そこで初めて二人の女の子はお互いを見つめ合った。
磨き込んだ黒曜石のような黒瞳とお揃いな、艶のある黒髪は短く整えられていて、美しいとは言えないが、日焼けした肌と共に生命力が満ちて愛嬌があり、充分に可愛らしい。
見た目に関していえば、あつらえたように好対照の二人。
黒髪の女の子の方は、不思議な美しさを持つ真珠のような女の子に魅入ったように無言。
『はじめまして。よろしく、ね?』
『あ……うん、よろしく……』
首を傾げて笑顔を浮かべると、黒髪の女の子は顔を赤く染めてうつむく。
相手に判るように、右手を差し出しつつ言う。
『わたしのおともだちに、なってくれる?』
黒髪の女の子は驚きに目を瞬き、差し出されたその手を見て、先刻から黙って二人のやりとりを黙ってみている少年を見て、最後に真珠色の女の子を見た。
少し長めの時間その視線は、差し出された手とその持ち主の顔との間を彷徨っていたが、やがて黒髪の女の子はその手を握った。
『……ともだち?』
『うん、ともだち』
ようやく黒髪の女の子が、本来の魅力的な笑顔を浮かべる。
二人が仲良くなるのに、さほどの時間はかからなかった。
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3
鎚打つ響きが作業場に満ちる。
こぢんまりと、だが機能的に考えられて整えられた横座に腰を下ろして、ブギは鍋の修理をしていた。
溶けた銀色の鉄を、鍋の底に空いた小さな穴に擦りつけ、金床の丸い部分を使って叩き馴染ませて塞いでいく。
鍛冶屋というと道具を作るイメージが強いが、ブギのように野鍛冶に分類される小さな鍛冶屋は、作るよりも修理作業の割合が圧倒的だ。
新しく作ることも無くはないが、新しい鉄材で作ることは少なく、多くは古鉄を作り替えることが多かった。
道具の修理にせよ、作り替えにせよ、人が使ったという時間が染みついた道具が、火の中で新しく生まれ変わったり、元の能力を取り戻していく行程がブギは好きだった。
今日は特に調子が良いのか、昨日の深酒の影響もほとんどないようで、鼻歌交じりに作業を進めていく。
「ほい、一丁上がり」
粗熱を取る為に砂の上に鍋を置くと、作業場の外から声がかかった。
「ブギ、いる〜〜?」
「ナオか、いらっしゃい」
横座の中で腰を伸ばしたがブギが答えると、勝手知ったるなんとやらで、ナオが作業場の中に入ってくる。
「頼んでた物を取りに来たんだけど」
「は? ああ、銛のことか。ナオ、今日はザンに会ってないのか?」
「さっき会ったけど」
「じゃあ言い忘れたかな? あいつ昨日はうちに泊まったんで、その時ついでだから届けてくれって頼んだんだが」
「ザンに?」
「聞いてないか?」
ナオは首を横に振った。
「会ったことは会ったけど、なんか考え事してたみたいで生返事だったし……。あ、そっか」 不意に納得して手を叩く。
「だからさっき浜の方にいたんだ」
「浜?」
「うん、サラサがいつも海見てる辺り。あ、そうそう、借りてた本も返しに来たの。はい」
肩から提げた袋の中から革の装丁で、かなり専門的なごつい本を取り出し、礼を言いながら差し出した。
「もう読み終わったのか。どんどん早くなるな」
「勉強するの、面白いもの。いつも仕事中に邪魔しちゃってゴメンね」
「いや、こんな田舎じゃ好きこのんで読書しようなんて変人はオレしかいないからな。他にも読んでくれる人間がいるなら、本も喜ぶさ。ちょっと待ってろ、次の本持ってきてやるから」
本を受け取って横座から出たブギは母屋に姿を消して、しばらくすると、やはり分厚い本を持って戻ってくる。
「さすが、詠人になろうって人間は勉強家だな。そういや、央都に留学するって話があったよな。どうなったんだ?」
「その話? うん、しばらくは延期になるのかな」
ナオは小麦色の頬を少し赤く染める。
「ほら、これから、少し忙しくなるじゃない?」
ナオの態度に、ブギはほんの少し眉根を寄せた。
「なあナオ、ザンの奴、何も言ってなかったか?」
妙に漠然とした質問だったが、ナオは首を横に振る。
「何って、別に……? さっきも言ったけど、なんかぼけっとしてて、ほとんどこっちの話なんて聞いてなかったみたいだったよ。なんで?」
「んーー、いや、心当たりがなければいいんだけどな」
「変なの。じゃあ、用事も終わったし、帰るね。本、ありがと」
「ああ」
手を振って作業場を後にするナオに手を振り返し、その背中が見えなくなるのを確認してから、ブギは唸りつつ頭を掻いた。
「後に回せば回すほど面倒臭くなるだろうに、なにやってるんだあいつ」
「そう簡単じゃないんでしょ。幼なじみなんだから、ザン君にも色々あるんじゃない?」
「うおっ!」
独り言のつもりで呟いたことに返事が帰ってきて、ブギは驚きに声を上げる。焦って振り向くとヨナが二人分の茶を用意して立っていた。
「ナオちゃん帰っちゃったのね。お茶の用意してきたんだけど」
夫の様子に、くすりと笑顔を浮かべ、近くにある手頃な台にお盆ごと茶を置いて自分も座る。
「二人のこと……いえ、三人ね、心配なのはわかるけど。男女の仲は、外から見てるとバカバカしいくらいに単純に見えることもあるわ。本人達には見えないことだらけでしょうけど」
バツが悪そうに正面に座る夫を優しい目で眺めながら、ヨナは茶に口をつける。
「オレはさ……あいつの友達なんだよな。でも、ザンがサラサと知り合ってからも、昔の一件の時も、あいつになにもやってやれてないんだよなぁ」
ぽつぽつとこぼすブギの言葉を、妻は黙って聞く。
耳学問ではあるが、ブギはかなり早い時期に、サラサのような容貌の持ち主が稀に世の中に存在していて、央都最新の学説で魔物との関連性についてはっきりと否定されていることを知っている。
元々他の村人達と違って、あまりサラサに対して先入観をもっていなかったが、物心つく前からの付き合いであるザンとサラサの交流が始まった頃から、すでにサラサに対する悪意など欠片もなかった。
当時はザンと遊ぶ時間が少なくなったことに寂しさは感じたが、それ以上に嬉しそうな友人の顔を見るのは嬉しかった。
サラサが今ほど態度が硬化する前に、本来の性格を見知っていた為、村人のサラサに対する扱いには忸怩たる思いもあるが、自分一人が騒いでも何も変わらないだろうし、下手に問題にすると、逆に風当たりが強くなってサラサからの仕事を受けるのに支障が出る可能性もある。
元々他村の出身のヨナには、ブギの影響で先入観を持たせないで済んだのだが。
「多分、余計なことをしないのが一番良かったんだとは思うけどな。それでも、もっとなんかやってやれたんじゃないかって、今でも思うんだよ……」
「なにもないと思うわよ」
スッパリとブギの愚痴を切り捨てるヨナ。
「色々と状況は面倒臭かったのかもしれないけど、あなたが心配してるのは、ザン君とサラサちゃんのことでしょ? そこだけに限るなら、結局は男と女の話じゃない。少なくともこれからのことは、本人達がなんとかする話よ。周りは見守るしかないわ」
「……大したもんだよ、お前は」
盛大に苦笑いするブギ。
「まあそういうところに惚れたんだけどな」
「褒めても今日はお酒、出ないわよ。昨日あれだけ飲んだんだから」
そう言いながら、まんざらでも無さそうにクスクスと笑うが、すぐに表情を曇らせる。
「でも……本当になにもできないわよ。ザン君が帰ってきたから、多分一番最悪なことは避けられるでしょうけど。二人の間のことばっかりはね……。唯一できることって言うなら、ザン君が弱音を吐きたがってる時には、一緒にお酒でも飲んであげることくらいかしら? そういう時くらいなら、好きに飲んで構わないから」
ザンとは昨日初めて会ったし、サラサとはほとんど交流がなく、ナオとも顔見知り以上の仲ではない。だが、自分の夫が彼らのことを大切に考えているのはよく解っていた。
正直に言えば、あまり面倒なことに首を突っ込んで欲しくないが、ブギの気持ちを考えれば、自分にできるくらいのことなら協力したいと思っているヨナだった。
「ありがとうな、ヨナ。さ、仕事するか」
ぐいっと残りの茶を干して、ブギは立ち上がった。
4
満月からいくらか欠けた月が、それでも充分明るく地上を照らしていた。
「ごめんね、待たせた?」
普段の言動を知っている人間が聞いたら耳を疑うような優しい声で、サラサは岩棚に腰掛けたフラムに声をかけつつ、自分もその横に座って波打ち際に足を入れた。
「いいえ。わたし、星を見るのが好きなので、待つのは苦になりません」
太陽の下で見れば、さぞかし輝いて見えるであろう笑顔でフラムは答える。
満月の夜の不思議な出会い以来、二人はこうして真夜中の待ち合わせを重ねていた。
最初の出会いの時に、サラサは人魚が種族として実際に存在し、しかも地上と海中の違いはあるが、人間と大差のない生活をしているということを知った。
フラムから聞いたところによると、人魚という種族は出生率がやや低いらしく、同年代がほとんどいないそうで、その為一人で遊んでいることが多いそうだ。
出会った夜も、一人で星を見に出てきたところで、偶然にサラサの姿を見つけたらしい。
両親には内緒で出てきている為、バレたらきっと怒られます、とフラムは笑っていた。
その後しばし話し込み、どちらともなくまた会う約束をして別れたのだが、他に解ったことと言えば、フラムがいわゆる族長の一人娘で、今年十三歳になるということ。
それと人魚の部族が岬の沖合に広がる珊瑚礁の辺りだということだった。
本来人付き合いを避けがちのサラサだったが、それは本来の性格というわけではなく、相手に迷惑を掛けたくないというのが根本にある。
それは特にナオに対して顕著だったが、ナオが自分を友達と呼んで、今でも親しげな態度で接してくれるのは心底嬉しいし、感謝もしている。ナオがいなければ、生活雑貨の類を手に入れることすら今より遙かに苦労するだろう。
だが、そうであればなおさら、自分と関わることでナオも白眼視されるのではないかと、サラサは恐れているのだ。
その点だけでいえば、フラムに対してはそんな心配はなく、何も臆することなく接することができる。フラムが人魚であることなど、サラサにとっては極々些細なことだった。
「それに、こちらこそこんな夜更けに度々呼び出して申し訳ないです。私達人魚は少し肌が弱くて。あまり長い間太陽の下にいると、後が大変なもので……」
育ちが良いせいか、幼さの残る見た目に反して、フラムの言葉遣いは丁寧なものだ。
「それはわたしも同じ。それこそ気にしないで。で、今日は何の話しようか?」
二人が真夜中に待ち合わせて何をやっているのかといえば、何のことはない世間話である。
どうやら、陸と海という生活環境の違いから来る文化の違いがお互いに面白いらしい。
あまり話題がないサラサだが、大して面白いわけでもない話でも、フラムは興味津々な態度で聞いてくれるからか、今のところ話すネタがなくて困る心配はしなくてよさそうだった。
「この前わたしの家族の話をしましたから、今日はサラサさんのご家族の話が聞きたいです」
「わたしの、家族……?」
フラムにしてみれば、何の含みもない提案だったし、話の流れでいっても聞かれて当然のことだが、それでもサラサは自らの表情が曇るのを抑えられなかった。
すぐにそれを敏感に感じ取ったフラムが、不安げにサラサの顔を覗き込む。
「あの、わたしなにか悪いことを言ってしまったでしょうか?」
「そういうわけじゃないけど……」
眉根を寄せるフラムの頭を撫でてやりながら、やや困った笑顔を浮かべる。
「あんまり楽しい話じゃないけど、いいかな?」
フラムが神妙な顔で頷くのを見て、サラサは話始めた。
自分が、守人の父と普通の村娘だった母の間に生まれたこと。
父が一人で魔物を倒しに出かけ、そのまま帰らなかったこと。
その後、母が長年の心労から病を患い、あっという間に亡くなってしまったこと。
「お母さんは、急に血を吐いて倒れたの。前の日までそんな感じ全然無くて、元気に見えたのに。それから何度も血を吐いて、血を吐く度に痩せていった。それでも、一度もお母さん苦しいって言わなかった。……そして、七日目の朝、泣きながらわたしに、ごめんねって。それが最後」
いつの間にかうつむき、黙ってサラサの話を聞いていたフラムは、話が終わっても口を開く気配がない。
やはり話さない方が良かったかな、と少しサラサは後悔する。適当にお茶を濁すこともできたが、フラムに対してはそうしたくなかったと思ったのだが、考えが浅かったのかも知れない。
しばらくそのまま波の音だけを聞いていたが、先に沈黙に耐えられなくなったのはサラサの方だった。
思いつくままに口を開く。
「時々ね、ふっと思うの。わたしは何の為に生まれてきたんだろうって。なんで今もこうして生きてるんだろうって」
口にしてから、あれ、と思う。
こんなことを話したいわけじゃないのに。
視界の隅でフラムが顔を上げるのが見えた。
なにかどこかのタガが外れた感触、複雑に凝り固まった感情がこみ上げて、言葉が止まらない。止められない。
「わたしね、お父さんとお母さんの、本当に笑った顔って覚えてない。見たことないの。覚えているのは、わたしの為に無理して笑ってる顔だけ。お父さんはわたしの為にたった一人で魔物と戦って、お母さんはわたしの為に無理して働いて……二人とも、死んじゃった。お父さんも、お母さんも、最後までわたしのこと心配してた。でも、わたしにそんな価値あるのかな?二人ともいなくなっちゃったのに、わたしか生きてる意味ってあるのかな……?」
「やめて下さいっ!」
とりとめなく吐き出される、誰に対してのものでもないサラサの疑問を、フラムは強い語調で断ち切った。
歯止めのきかない状態に陥りかけてたサラサは、それで我に帰る。
「サラサさんがそんなこと言ったら、ご両親が気の毒です。……なにより、そんな言葉で一番傷つくのは、サラサさん自身じゃないんですか?」
はっとしてフラムの方を向くと、その大きな瞳が今にもこぼれ落ちそうなほど潤んでいた。
気持ちの悪い情動はあっという間に収まり、すぐに罪悪感に取って代わる。
サラサは気まずそうに目をそらしながら小さく謝った。
「……ごめんなさい」
「……いいえ。わたしからお訊きしたのに、大きな声を出したりして、こちらこそすいません。でも、やっぱり、そういうことって口にしない方がいいと思います」
多少ぎこちないものの、優しい笑顔でフラムは出来るだけ明るく言う。
「でも、あの、矛盾してるかもしれませんが、そんなふうに感情を見せてくれるのは、ちょっぴり嬉しいです。……だって、わたしを信用してくれてるってことですよね、それって」
フラムの精一杯の心遣いに、サラサの胸は熱くなる。こみ上げる愛しさにまかせて、隣に座る少女を両手で抱きしめる。
きめの細かいむき卵のような少女の肌から、ほんのりとした温もりが伝わってくる。
その温もりが、サラサの心と身体に染み渡った。
「…………ありがとう」
つむじに向かって囁かれた本心からの感謝に、フラムは頬を染めてくすぐったそうに身動ぎした。
やがて時間が過ぎ、二人はまた会う約束をしてその夜も別れた。
いつものように、千切れんばかりに手を振りながら波間に消えるフラムを見送った後も、サラサはしばらくそこに立っていた。
波の音を聞きながら、サラサは深い自己嫌悪に襲われていた。
何年も前の話だと、自分の中ではそれなりに心の整理がついていたつもりだった。
それが、いくら他人に話すのが初めてとはいえ、あっさりと自分を失いそうになった。
しかも、あんなにも素直で優しい少女に気を使わせてしまった。
この前の夢といい、今日のことといい、このところ心が弱ってる気がする。
そう思った瞬間、サラサの脳裏によぎったのは、顎に傷のある青年の顔が浮かぶ。
激しいいらだちが心を占める。
あいつのせいだ。
なんで今更戻ってきたんだろう。やっと忘れかけてたのに。
あいつのせいで、思い出してしまった。
哀しみと、怒りと、孤独と、寂しさと。
破られてしまった約束を。
キリっと歯を鳴らして、サラサは家路につく。
月がまだ残る空は、薄い青を取り戻し始めていた。