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月と潮騒  作者: しばたや
プロローグ
2/7

一章


       一章・少女と青年


 

           1


 

 初夏の日差しとはいえ、南国ではそれなりに強い。


 夏の初めの太陽は、軽快で純白の光を、海に砂浜に注いでいる。


 やや変化に欠けはするものの、それなりに四季の移り変わりがあり、年間を通じて今が一番過ごしやすい。


 日差しに負けず白い砂浜が広がり、エメラルドグリーンの海は、水平線に近づくにつれて紺碧へと変わっていく。


 カニが波に追い追われしている波打ち際。人影が一つ。


 透明度が高い為、実際よりも波打ち際が遠く見える海に、ボロ布を頭からスッポリと被った小柄な姿が立っていた。


 太股の半ばまで海につかり、銛を構えたまま、じっと海を見つめているようだ。暑いだろうに、執拗なまでに肌を見せないようにボロ布を被っているので、顔どころか性別も窺い知れない。


 見て解るほど小柄であるところからすると、おそらく子供か女性であろう。僅かに水面から確認できる太股が、抜けるように白い。


 砂浜にしてはやや穏やかな波に揺られるように立っていたその人物の手が動く。


 慣れからくる無造作さと正確さを併せ持った銛は、しっかりと大きな魚を捉えていた。引き上げられた銛の先で暴れる魚から弾けた滴が、陽光を反射して輝く。


 大きい。頭から尻尾まで、大人の指先から肩くらいはある。


 その魚が刺さったままの銛を担いで、ボロ布の人物は回れ右して砂浜に上がった。


 水面からあらわになっていく足を、慎重に布で隠しながらである。見る限り、やや白過ぎはするかもしれないが、大きな傷もなく、足に目に見える問題があるとは見えない。


 辺りの見える範囲に他の人影はなく、人目を避ける以外の理由があるようだった。


 そのまま、まっすぐ砂浜を突っ切り木陰までやってくると、魚を地面に置き、無造作に足をかけて銛を引き抜き、魚の首と尾に一撃ずつ入れ、血抜きをする。


「サラサ」


 血抜きが終わるまでの間、ぼうっとした雰囲気で海の方を見ていたボロ布の人物が、不意に背後からかかった声に、警戒した様子で振り返った。


「よう……その、久しぶりだな」


 赤銅色に日焼けした顎の左側に縦の古傷が走った、精悍な顔立ちなのにどこか人の良さそうな青年が、少しぎこちなく笑っていた。


 気弱なわけではないのだろう。青年の引き締まった身体からは、弱気とは無縁の強い精気が感じられた。


「……だれ?」


 青年に返されたのは、愛想も素っ気もない冷ややかな少女の声。相手が嫌いだとか、そういうこと以前に、本当に誰なのか判らないようだった。


 つかの間寂しそうな顔をした青年は、それでも気を取り直して言葉を重ねた。


「しょうがないか、もう何年も会ってないからな。オレも背が伸びたし、多分印象も変わっただろうし。……ザンだ」


「ザン……?」


 訝しげに首を傾げた少女・サラサは、それが誰なのかすぐに思い至ったのだろう、ボロ布の上からでも判るくらい、はっきりと顔を背ける。


「……あんた、生きてたんだ。どっかで野垂れ死んだんだと思ってたわ」


 砂浜の暖かい日差しとは対照的に、肌が泡立ちそうな程、さらに冷たい声だった。


「今日、帰ってきた」


 ここで退いたら、先はないと思ったのか食い下がるザン。


 だが、サラサはまるでザンのことが見えていないように、血抜きの終わった魚のエラに指をひっかけ、銛を肩に担いでくるりとザンに背を向ける。


「サラサ!」


 その背を追って、歩踏み出そうとしたザンに、ぴたりと銛の先端が突きつけられる。


「一つだけ言っておくよ」


 吹き抜ける潮風が、サラサが被ったボロ布を揺らす。


 ほんの一瞬垣間見えたのは、ザンを睨みつける血色の赤い双眸。


「あたしに関わるな」


 斬りつけるような口調で言い捨てて、拒否の意志を漲らせた背中を向け歩き去る。


 ザンは、サラサの小さな背中が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。


 波の音と、濃い潮の香りを含んだ風が吹き抜けた。


 


           2


 


 そこは海の近くにある村だった。


 それなりに村としては大きいものの、取り立てて近隣の村に比べ特産品があるわけでもなく。よくあるような村と言っていいだろう。


 村の近くにある岬にちょっとした伝説があったり、風光明媚な景色も多いが、それとて特別珍しいというほどのものではない。


 ザンの生まれ故郷であるその村は、人口約二百人。やや田舎臭くはあるが、長所がない代わりに、イヤなところもない。


 ザン自身には含むところも思うところもあるが、それでも久しぶりの帰郷ということになれば、感慨もある。


 直接帰ってくるのは実に七年ぶりだ。それだけ時間がたてば、いくら田舎だろうと風景も変わる。変わらないのは、風景だけだ。


 いや、変わっているのだろう。変わらなく感じるのは、多分に感傷がが混じっているからか。


 昔には、あんな連中いなかったはずだしな。


 村のほぼ中心にある、集会場を兼ねた広場にさしかかったザンは、そこでたむろするあからさまに人相の悪い三人組を視界にとらえて溜息をついた。


 ザンに見覚えがないということは、流れ者か随分昔に村を出た出戻りだろう。


 その連中がザンを見つけ、見るからに因縁をつけてくるつもりで近づいて来るのを眺めながら、さらにもう一度深く溜息をついた。


「おうニイちゃん、ここら辺じゃみねェ顔だな?」


 一番先頭の無精髭の男が、陽もまだ高いというのに酒臭い息を吐きながら、柄の悪い態度でザンをじろりと睨めつける。


「まあそうだろうさ、たった今帰ってきたばっかりだからな」


 サラサとのやりとりはついさっきのことだ。ザンは好んで他人に喧嘩を売るほど好戦的な人間ではないが、さすがに多少気分が荒れていたのだろう。


 言ってから、しまったなと思ったが後の祭りだ。


「てめぇ、口の利き方を知らねぇみてぇだなぁ!」


 案の定、一瞬で頭に血を昇らせた無精髭の男が、ザンの胸ぐらに掴みかかる。


 ザンは顔色も変えずに、掴んできた右手首を掴み、同時に強烈な足払いをかけた。


 素早いが、あまり力を入れて蹴ったように見えない足払いは、喰らった男をザンに掴まれた右手を中心にくるりと回転させた。


 重力を無視して、間の抜けた無精髭の顔が上下逆になる。


 そのまま頭から地面に落ちそうになったところを、ザンが男の首につま先を引っかけて、頭から叩きつけられるのだけは回避させる。


 どしゃ! と男の体が地面に落ちる。


 頭から落ちるのだけは逃れたが、結構な勢いで叩きつけられた男は、ひとつ呻いて動かなくなった。


 あまりに鮮やかなザンの手際に、残った二人の男は怒るよりも先に呆然となってしまった。伸びてしまった男に駆け寄ることもせずに、立ちすくむ。


 ちらりとザンが目を向けると、特に睨んだわけでもないのに、エビのように慌てて後ずさる。


 そのみっともない姿に、下らない事へ関わってしまった自己嫌悪も併せて、ひどく虚しい気分になり、ザンは無言で歩き出した。


 男たちはそれを遮りもせず、さらに慌てて道を空ける。


 しばらく歩いたところで、ザンの背中に罵声が浴びせられた。一応振り向いてみると、二人がかりで伸びた男を抱えて、男たちが逃げていくところだった。


 つまらないものを見たとばかりに鼻の頭に皺を寄せ、ザンは広場に面した他の建物とは雰囲気の違う一軒家にむかう。


「婆様、いるか」


 ドア代わりの複雑な柄の織物をくぐり、声をかける。


「いるよ。入っておいで」


 しわがれた声がすぐに返ってきた。


 促されて中に入ると、薄暗い内部は外と隔絶されているかのようにヒンヤリとした空気が満ちていた。


 その中心に据えられた小振りな卓の向こうに、黒い紗のショールを被った老婆が座っていた。その目の前には、琥珀に似た半透明の珠が、青い袱紗の上に鎮座している。


「直接会うのは久しぶりだね。いい男になったじゃないか」


 いくつか歯の欠けた口元を緩めて、老婆は孫を見るような笑顔を浮かべる。


「確かに身長は伸びたけど、中身はどうだかな」


 ザンも笑顔を返しながら卓に近づくと、老婆の正面に座る。


「免状は?」


 尋ねる老婆に、ザンは懐から封蝋をされた封筒を取り出して渡す。


 懐から取り出した小刀で封蝋を破り、中の書類を取り出して一通り眺めた老婆は、ザンに目を戻して、また笑みを浮かべた。


「大したもんだね、あんたは」


 卓の上に封筒と書類を重ねて置き、両手を組んでそこに顎を乗せる。


「あんたの望み通り、アタシの知ってる限りで一番厳しい師匠のところに放り込んでやったってのに、ちゃんと免状もらってきたとはね。結構本気で、すぐに逃げ出すだろうと思ってたんだがね」


「何回か死んだと思ったけどな。逃げたところで、どうなるわけでもなし」


「ちゃんと?守人(もりびと)?の委任状も持ってきたね。よしよし」


 頷いて立ち上がった老婆は、部屋の隅にある行李を開けて、中から一振りの長剣を取り出した。比較的新しい革の鞘に収まった剣の、細かい彫刻が施された鍔には、卓の上の珠と同じ輝きの宝石がはめ込まれている。鞘に比べて、剣本体は随分使い込まれた雰囲気で、歴戦の傷が散見できた。


「この剣は身分証明を兼ねてる。鞘と柄巻きは新しくしといたよ、大事に使いな」


「……ああ」


 神妙な顔で両手を差し出し、大事そうに受け取って感慨深げに目を閉じた。


「さ、これであんたはこの村の守人だ。精進おし」


 よっこらしょ、と声をかけて卓に着いた老婆は卓上の珠に手をかざして訊いた。


「せっかくだ。あんたの運勢でも占ってやろうか?」


「いや、それよりも、オレが村を離れていた間の話を聞きたい」


「……もうサラサには会ってきたのかい?」


「顔も見せてくれなかったし、話もできなかったけどな」


「まあ、そうだろうね。お前さんなら、話くらいできるかと思ったんだがね」


 ふーーっと、長く溜息をついて老婆は天井を見上げる。


「前から大して村の連中と仲が良かったわけではないんだが、母親が死んでから尚のこと頑なになっちまったからねぇ。仕方がないとは思うが。アタシが仲介できれば良かったんだが、アタシら詠人(よみびと)は中立の立場を守らなきゃいけない掟だ。……薄情だとは思うがね」


「オレが血反吐はいていた間も、状況を送ってきて貰ってたからな。オレにとってはそれで十分だったよ」


「あんたに対してはね。あの娘に対しては義理を欠くにも程があるさね」


 自嘲的に肩をすくめた老婆は居住まいを正して、口を開く。


「幸い、ここ何年かは凶作も魔物の襲撃も無かった。あの娘の母親が死んだ流行病の時も、さほど広がらずに済んだからね。さすがに昔の一件は、連中も罪悪感があるんだろうさ。ほとんど騒ぎもしなかったよ」


「…………」


「そんな調子でね。今、村でまともにサラサが相手するのはナオだけさ」


 なんとなく、場が湿っぽくなってきたのを感じたのか、ザンが話を変える。


「さっきすぐそこで、三人組のチンピラに絡まれたんだけど、あいつらは?」


「ああ」


 鼻の頭に皺を寄せて、老婆は嫌悪感をむき出しにする。


「最近村に戻ってきたロクデナシどもさ。ここがイヤで出ていったくせに、都会でなにか失敗したんだか犯罪でも犯していられなくなったんだか。出てったのは十年以上は前の話だから、お前さんには見覚えが無いかもね。村の連中はあんなんでもなにかあったら役に立つんじゃないかと思って放置してるみたいだがね」


「たった今、人目のあるところで伸してきたばっかりだから、役に立たないって話はすぐに広まると思うな」


 さらりと口にしたザンに、老婆は声を上げて笑った。


「そりゃ良い薬だね。周りが黙ってるのを良いことに、かなり好き勝手してたからね」


「戻ってきた早々、買わなくてもいい恨みを買った気もするけどな」


「なに、連中は根っからのチンピラさ。ガツンとやられたからって、やり返そうってほどの根性は無いだろうさ。魔物と戦うのが仕事の守人相手に喧嘩売ろうなんて、多少はまともな頭があれば考えないだろうよ」


「だといいけどな」


「じゃ、話のついでだ。坊やの修行の成果を見せてもらおうかね」


 楽しそうに言って老婆が卓上の珠に手をかざすと、室内の闇が濃くなった。


 一瞬バツの悪そうな顔をしたものの、ザンは立ったまま黙って両手を宙に差し出す。


 ふーーとザンが息を吐くのと同期して、両手のひらに陽色をした燐光がうっすらと見え始めた。


「以上」


 ザンが早口に言って両手を広げると、あっという間に両手の燐光がかき消える。


「なんだい、そんなもんかね?」


 拍子抜けした口調の老婆に、子供のように口を尖らせてザンは言い訳する。


「無茶言うなよ。十年修行したって、キラとも破魔の光が出ない奴だっているんだ。師匠みたいに、部屋中照らすみたいな真似が、先はともかく免状貰ったばかりのぺーぺーにできるわけないだろ」


「ま、そりゃそうかね」


 あっさり言って、再び老婆が珠に手をかざすと、部屋に明かりが戻る。


「その程度でも武器に通すに十分だろうから、問題は無いかね。そういや、家には顔を出したのかい?」


「……出さなきゃ、駄目かな?」


「そりゃね。あんたが村を出たときには、村長には散々文句を言われたからね。あんたも少しは言われてきな」


「ザンが帰ってきてるって?!」


 意地悪く老婆が笑ったところで、勢いよく入り口の織物を跳ね上げて、小柄な人影が飛び込んできた。


「なんだい、はしたない!」


 間髪入れず老婆に一喝されて首を竦めたのは、ザンと同じくらいか少し下の年頃で、小麦色の肌が健康的な少女だった。


「あう。ごめんなさい、ババ様。ザンを見かけたって話を聞いて、ここにいるんじゃないかって……」


「相変わらず元気みたいだな、ナオ」


「ザン!」


 しおらしくしていたのはほんの一瞬で、ザンの姿を視界に納めたナオは、跳ねるようにザンの胸に飛び込んだ。


「帰ってきたのね!」


「おう、でっかくなったなぁ。オレが村を出た頃は、あんなチビッコかったのに」


 微動だにせずナオを受け止めたザンは、片手でナオを支え、もう片手で小さな頭を撫でた。


「あたしだって、もう十六なんですからね! いつまでも子供じゃないんだから!」


「あっはっは。そりゃ悪かったな」


 頭を撫でる手を軽くのけて、可愛らしく頬をふくらませるナオに、親しみ深い笑みを見せながらザンは老婆に顔を向けた。


「んじゃまあ、親父のところに顔出してくるよ。多分大喧嘩になるとは思うけど」


「そこら辺は、あんたの家の事情だからね。好きにするといいさ」


 意地の悪い笑みを浮かべて頷く老婆。


「じゃあ、あたしが案内するね」


「終わったら、一度こっちに戻ってきなよ」


 村出身のザンに案内などいらないだろう、というような野暮も言わない老婆に見送られて、ザンとナオは老婆の小屋を後にした。


「オレがいない間、サラサの面倒をよく見てくれてたみたいだな。ありがとう」


 並んで歩きながらザンが礼を言うと、ナオが不思議そうに首を傾げた。


「サラサは友達だもの。なんで、ザンがお礼を言うの?」


「いや……」


 心底不思議そうなナオに奇妙な違和感を覚えたものの、そのはっきりしない感覚を問いただせるほどの確信が無かったザンは適当に言葉を濁して、話題を変える。


「婆様の手紙に書いてあったけど、詠人の勉強してるんだって?」


「うん。そのうち、王都へ留学することになるんじゃないかな。えへへ、詠人になったら、ザンと一緒に仕事できるかもね」


「この村には、婆様がいるだろ」


 冷静なザンの言葉に、ナオが口を尖らせる。


「婆様もお年だし、引退もそう遠くないと思うわ。そうなったら、あたしがなってもいいじゃない」


「あの婆様が簡単に引退するか? あの人、オレらが子供の頃から変わらないけど、ちゃんと年取ってるのかね」


 そんな他愛のない会話を交わしながら歩いていると、すぐに周辺では一番大きな屋敷へと辿り着く。


「じゃあ、また後で来るから、おじさんと仲直りしておいてね」


「簡単にいうなぁ……つか、多分仲直りなんかできねぇと思うけど」


 顔をしかめた言葉の後半は、踵を返して走り出したナオには届かなかったようだ。


 多分、改めて言い渡されそうな気がするが、そうなると寝泊まりするアテが無いことに今更ながら気がつく。村長の意向に背いてまで、手を差し伸べる者はいないだろうし、


 ザン自身もその程度の事で他人に迷惑をかけたくない。


「まあ、野宿でなんとかしのぐか」     


 重い足取りで、ザンは屋敷の門をくぐった。


 


「今更どの面下げて帰ってきた」


 六年ぶりに再会した、村長でもある父親からの第一声はそれだった。


 はっきり言って、郷愁に駆られて帰ってきたわけではないので、特別怒りも失望も湧かなかった。


 久し振りに見た父親は、少し老けて見えたが、その中身は別れた時から何も変わっていないように感じた。指導者というのは安定感も求められるのだろうから、変わらないというのも役割的美徳なのかも知れないな、と顔を背けて怒りを見せる父の顔を、冷めた頭でぼんやり眺めた。


 母親が一歩下がり、時折取りなし口を挟むが、大して効果を上げてはいないようだ。 一通り言いたいことは言ってしまったのか、父親は最後の一言を発した。


「この家にお前の居場所などないぞ!」


「別に構わねぇよ。オレは守人としてこの村に戻ってきたんだ。最初からこの家に戻ってきたわけじゃない。新しい守人として、村長サマに挨拶に来ただけだ」


 思ってもいなかった発言だったのか、父親は鼻白んだ表情で一瞬黙り込み、ザンの傍らに置かれた長剣に初めて気がついて顔色を変えた。


「お前……」


「そういうことだよ。お互い顔を合わせて楽しいわけじゃねえだろ。なんかあったら、婆様を通してくれ。じゃあな」


 絶句している父親をおいて、さっさと立ち上がるザン。目の端でオロオロしている母親も見えないふりをして、そのまま家を出る。


「さて、今晩からどうするかなー……」


 頭を掻きながら、ぶらりとザンは歩き出した。


 


         3


 


 その頃、サラサは浜辺まで戻ってきていた。 


 間の抜けた話だが、先ほどは思わぬ再会をしてしまったせいで、待ち合わせの約束があったのを忘れて立ち去ってしまったのだ。


 一応、まだザンが居残ってないのを確認しつつ、どこか慎重な野生動物のような雰囲気で、日陰を選びながら大きな木の下までやってくると、ボロ布の裾を払って腰を下ろす。


 陽の高さを確認すると、約束の時間を多少過ぎているようだが、辺りには約束相手の姿は見えない。相手の性格からして、先に来てしまい、サラサがいないからといってすぐに帰ってしまうとは考えにくいので、おそらく遅刻しているのだろう。


 別に急ぎの用があるわけでもないサラサは、木の幹に背を預けて海を眺めつつ待った。


 白く青く姿を変える波は、飽くことなく、絶えることもなく繰り返し寄せている。


 眼を閉じれば、潮騒だけが耳の奥をくすぐる。


 優しいその音に身を任せていると、そのまま世界に溶け、薄れて消えていくような感覚に陥っていく。


 そのまま身体が溶けて、消えてしまえればいいのに。


 優しい感覚とは裏腹に、思い浮かべるのはそんなこと。


 意識を他に移そうとしても、辛いことしか思いつかない。


 楽しい思い出もあるが、それを塗り込めてしまうほどの、哀しい思い出ばかり。


 潮の香りを含んだ柔らかい風が、目先の布を揺らす。


 なぜ、生きているんだろう。


 泡のように意識に昇ってくる思い。


 自分を愛してくれた両親は、もうこの世にはいないのに。


 辛いのに、哀しいのに、なんで今ここにいるんだろう。


 取り留めのない思いは、堂々巡りを繰り返し、霞のように消えていく。


 やがて、新たに浮かんできたのは、顎に古傷のある浅黒い若者の顔。少年の頃の面影を色濃く残していた顔。


 布の下で、サラサは顔を歪めた。


 何で今更。


 全部、心の中に押し込めて忘れたつもりだったのに、思い出してしまった。


 その顔は、サラサがどんなに努力しても、脳裏から離れてはくれなかった。


 薄汚れた布の下でサラサがどんな顔をしているのか。


 辺りに人影はなく、物言わぬ木々ときらめく太陽の光だけが浜辺に踊り、潮騒が辺りを満たすのみ。


 休み無く波が打ち寄せる。


「ゴメンね、遅れちゃって。待ったでしょ?」


 どれだけ時間が経ったのか、サラサには聞き慣れた声が黙想を破る。


 顔を上げると、健康的に日に焼けた可愛らしい顔が笑いかけていた。


「急な用事ができてね。ちょっとバタバタしちゃった」


「別に急ぎでもないから、気にしないでいいよ」


 ザン相手の時とは全く違い、親しみの深い声で返し、サラサは居住まいを正す。


「じゃあこれ、今回の品物ね」  


 サラサに笑顔を向けて、ナオは肩に担いだ背嚢を砂の上に下ろした。


「……いつもありがとうね、ナオ」


「なに言ってるの、あたしたち友達じゃない。遠慮なんてしないでよ。それより、荷物の中身確認しなよ」


「うん」


 サラサは素直に頷いて背嚢を引き寄せると、中身を一つずつ取り出していく。次々と油紙の包みや紙束、丸めた布などの雑貨が取り出される。


 それらは、どうしても自給自足の利かない諸々の生活必需品だった。


 一つ一つ丁寧に吟味して、また元通りに詰め込む。


「確かに。それじゃあ、これね」


 隣に座り込んで作業を眺めていたナオに、サラサは小さな革袋を差し出した。


 黙ってそれを受け取ったナオは、袋の口を開けて中から一つを摘み出した。


「うわ〜〜、今回のもかなり質がいいねぇ」


 日の光を淡く照り返すそれは、大粒の真珠だった。袋の膨らみを見る限り、同じ程度のものがもっと詰め込まれているようだ。


 摘んだ真珠をかざしてみながら、ナオは感嘆の吐息を漏らす。


「よくこんなの見つけられるよね。村で腕のいい人でも、こんな立派なやつ採ってくることなんて滅多にないよ?」


「人魚岬の辺りには誰も潜らないから。わたし一人が採るくらいなら、いくらだってあるよ」


「そういえばさ、昔からあそこには人魚が出るって聞かされてきたけど、見た事ってある?」


「はっきりと見たことはないけど、ひょっとしたらあれがそうかな? っていうのなら、何度か見かけたことはあるよ」


「ほんとうに?!」


「気のせいかもしれないけどね」


 この辺りの子供なら、必ず聞かされるおとぎ話について一通りの雑談を交わしたところで、ナオがはたと膝を打った。


「あ、そうだ。前から言おうと思ってたんだけど、真珠の代金、毎回随分余るよ? もっと他に何か欲しいものあるなら、色々買えるけど。いつも手数料とかいってあたしにくれてばっかりじゃなくて、貯めるとか」


 ナオの提案に、サラサは黙って首を横に振った。


「いいよべつに。自分ではお金に換えられないし、貯めたところで使い道もないし。それより、ナオの方が勉強の為に本を買ったりしないといけないから、物いりでしょ。ナオが役に立ててくれれば、わたしも嬉しいからさ」


 他の誰にも見せない優しい表情で、ナオの提案をやんわりと断る。


「ん〜〜……。でも、なにか欲しい物があったら、いつでも言ってね。こっちでお金貯めとくから」


 納得いかない様子ながらもナオがそう返すと、サラサは笑って頷いた。それを見たナオが、不意に何かを思い出した様子で両手を叩いた。


「あ! そうそう、そういえば! 聞いてよサラサ、ザンがね帰ってきたの!」


「……ふぅん」


 一瞬判断に迷った感じで間を開けて返事を返す。だが、その間の意味にナオは気がつかなかったようで、気のないサラサの返事に頬をふくらませた。


「ふぅんって、それだけ?」


「それだけ? って言われてもね……」


「だって、ザンだよ? 八年も村にいなかったザンが帰ってきたんだよ。新しい守人になって!」


 今度こそ、見て解るほどサラサが動揺を見せたが、それでも興奮しているナオは気がつかない。サラサはすぐに動揺を引っ込めると、また冷たく淡泊な反応を返す。


「……へぇ」


「へぇって、あのねぇ」


「だって、わたしは村に行く用事ないから顔を合わせることもないだろうし。関係ないもの」


「なんで村にこないって断言するのよぅ」


 ますます頬をふくらませるナオに、笑いを含んだ声でサラサは言った。


「ナオに、迷惑かけたくないから」


 あっさりと返す言葉に、頑固な意志を感じて感じて、ナオは言葉に詰まる。


 しばらく、むずがる子供のように握り拳をバタバタ振っていたナオは、ややあって右手を砂の上についた。


「う〜〜、でも、あたしの結婚式の時には、ちゃんと村まできてね!」


「結婚? ナオ、結婚するの?」


 突然振られた話題に、サラサが驚きの声を上げる。


 それほど頻繁とは言えないものの、それなりの頻度で顔を合わせているが、そんな話は一度も話題になったことは無かったからだ。


 サラサの驚きに満足したのか、ナオは恥じらいに染まった頬に手を当てて頷いた。


「うん。まだ正式に決まったわけじゃないんだけどね」


「そうなんだ。おめでとう。それで、相手は?」


「あのね、ザンとなんだ」


「え……?」


 予想もしなかった名前に、サラサはボロ布の内側で硬直するが、やはりナオは気がつかず嬉しそうに続ける。


「何年か前に、ザンの消息がわかった頃から、話があったんだって。お父さんたちの間ではほとんど決定みたいなもので、後はザンに話をするだけだって。あたしも、つい最近聞いたばっかりで驚いたんだけど」


「……そう」


 見事なまでに感情の消された声だった。それをサラサの感心の無さと感じたのか、ナオは膝を寄せてサラサの手を取った。


「だから、ね? お願いだから、そうなったらサラサもちゃんと来て欲しいの」


「……考えとく」


 やはりというか、あまり色のいい返事ではないことに、ナオはやや不満そうだったが、今はそれでいいと思ったのか、本当にお願いね、と念を押して立ち上がった。


「そんなわけで、今日はちょっと忙しいから、これで帰るね」


「うん……」


「またね」


 手を振って去っていくナオに、サラサは軽く手を挙げて答える。


 ナオの背中が見えなくなるまで見送り、溜息を一つついて立ち上がる。


 しばらくぼうっと水平線を見つめたまま、サラサは波の音を聞いていた。


 別に隠すほどの事ではなかったはずだが、ザンがサラサに会いに来ていたのを、ナオに伝えそびれてしまった。


 なんとなく居心地の悪い罪悪感があったが、いましがたに聞いた話と一緒に腹の奥に押し込めて、それ以上考えないことに決める。


 歩き出したサラサが踏みしめる熱砂は、革のサンダル越しでも酷く暑かった。   


 


         4


 


 勢いで実家を後にしたものの、特に行く当てを決めていたわけではないザンは、村の中を適当に歩き回っていた。


 特にあてもなくぶらぶらと歩きながら、ふと父親の事を思い出す。


 久し振りにあった父親は、記憶にあるよりも随分小さかったような気がする。


 考えてみれば八年前に村を飛び出してから、ザン自身がもっとも心と身体の成長著しい期間を離れて過ごしたのだ。身心共に、変化を感じて当たり前だ。


 覚えている昔の父は見上げるように大きかったし、村長という責任ある立場にあるせいか、威厳があったと思う。


 だが、今日見た父親は、身長そのものはザンより頭半分低かったし、白髪も増えて年寄りめいていた。


 ザンが成長した分、父親が年をとった。 それだけのことだ。


 正直に言って、ザンは父親が好きではなかったが、それでも記憶の中にいるのとは違う父の姿に、言いようのない寂寥感を感じたのも事実だった。


 昼をいくらか過ぎたぐらいの時間である。


 日差しの強い時間帯には、村人は屋内で仕事をしているか、夜の漁に備えて休んでいるかのどちらかで、嵐避けの石垣に沿って踏み固められた道に人影は無い。


 もう少し話してきても良かったかな。


 ほんの少し後悔しないでもないが、やはりすぐに切り上げて良かっただろうと思い直す。どうせ、多少長く話したとしても最後には喧嘩になるだろう。


 いろんなものが変わったのに、変わらないものもある。


 変わらなければいけないものほど変わらず、変わって欲しくないものほど駆け足で変わっていく。


 父は後悔していないのだろうか。


 いや、例えしていたとしても、認めはしないだろう。


 立場もある、守らなければならないものもある。罪悪感など持っている余裕などないのかもしれない。


 責めるつもりは不思議なほどザンには無い。だからといって、積極的に認めるつもりも無い。


 昔、村を飛び出した時は父親に対して怒りしか持っていなかった。


 怒りはもちろんいまだにあるが、それよりも深くザンの心を支配しているのは、哀しみと寂寥感だった。


 つらつらと考えながら坂を上ったザンの眼に、屋根だけがある作業場から立ち上る仕事の煙が見えた。


 そこで作業している人物を目にとめたザンの顔が明るい表情に変わり、ザンはその作業場に向けて足を速める。


 やがて見えてきた作業場は、突き固められた黒い土が剥き出しで、ぱっと見で粗末な印象を一瞬受けた。


 だが、使い込まれた火床(ほど)にフイゴ、年季の入った金床。必要なものが必要なところにある、洗練された仕事場だというのは部外漢のザンでも見て取れる。


その中心、横座と呼ばれる浅い穴の縁に腰掛けて一心不乱にヤスリを使っているのは、ザンと同じ年頃の丸顔に無精髭が生えた中肉中背の男だ。


 余程作業に熱中しているのだろう、見通しのいい作業場だというのに、ザンがすぐ側までやってきても顔を上げない。


「忙しそうだな、ブギ」


「ん?」


 ザンが親しげに声をかけて、ようやく顔を上げる。


「おお。なんだ、ザンか。ちょっと待ってろ、一段落つけちまうから」


 村を出て以来、手紙のやりとりはしていたが、直接顔を合わせるのも八年ぶり。今日戻ってくるのも伝えてなかったはずだが、まるで昨日別れたばかりのように平然とした対応でザンは苦笑いする。


 しばらく黙ってブギが作業を待つ。


 金属が金属を削る音だけが少しの間続き、やがて手を止め、削っていた銛にまとわりつく鉄粉を吹き飛ばし、角度を変えて何度か確認してようやく満足したのか、地面に敷いた革の上にポンと銛とヤスリを置いたブギが横座から立ち上がる。


「待たせたな」


「もちっと感動してもらえると思ったんだがな」


「うわぁ、久し振りだなザン! 元気で何よりだ! 感動した!」


 あからさまな棒読みで、大げさな身振りをつけて言うブギに、ザンはさらに苦笑いを深める。


「変わらんな、お前は」


「まるっきり音信不通で、完全に行方不明だったってんならともかく、この前守人の資格をもらったって手紙寄越したじゃないか。だったら、すぐにでも帰ってくるって予測ぐらいつくさ。ま、とりあえず」


 親愛の笑みを浮かべたブギが鍛冶仕事で鍛えられた手をザンに差し出した。


 ザンがその手をとる。


「おかえり」


「ただいま」


 誰よりも会いたかった相手に、両親にも言ってもらえなかった言葉に、ザンは少し複雑な表情を浮かべる。


 ブギが空いた方の手で、ザンの肩を優しく叩いた。


 


「しかし、本当に守人になって帰って来るとはなぁ」


 村名産のクセの強い果実酒が満ちた杯を傾けて、ブギがしみじみと口にする。


 陽はかなり傾いてきたものの、まだ暗くなるには間がある。


 作業場の片隅に、小さな作業台と、長方形の板を使ってでっち上げたテーブルの上には何種類かの料理が並べられている。


 酒を飲むにはやや早い時間ではあるが、ブギは暗くなってから火入れの作業がある為、早い時間からの酒宴になった。


「昔っから、妙に頑固なところのある奴だと思ってたけど」


 やや赤みの差した顔で、腕組みをしながら何度も頷く。


 もともと人懐こい達だが、適度に酔いが回ってきたおかげで、さらに陽気になってくる友人を微笑ましく思いながら、ザンが訊ねる。


「そういや、親父さんはどうしたんだ?」


「オレに鍛冶仕事を譲って、村の反対側に家建てて、魚採ったり畑耕したりでのんびりやってるよ。別にオレは同居でも良かったんだがな」


「新婚だから気を遣ってくれたんだろ。手紙で聞いてはいたが、どれくらいたつんだっけ?」


「三ヶ月かな」


 酒の肴をもう一品持ってやってきた、やや地味だが健康的に日焼けし、育ちの良さそうな妻から肴を受け取るブギ。夫婦共に幸せそうな雰囲気に溢れていた。


 母屋に戻っていく妻の背中を眺めて、ブギはザンに目を戻した。


「で、お前さんの修行ってどんなもんだったんだ? 噂じゃとんでもなく厳しいらしいじゃないか、守人の修行っていうのは」


「何度か死にかけたけどな」


 修行の日々を思い出し、ザンはうんざりと溜息を吐いた。


「陽が昇る前に起き出して、朝飯まで延々と走り込みから始まるだろ。一応三食は出るんだけど、それ以外の時間は大げさでなく全部基礎鍛錬。それがまず四年続いたな。同じ時期に弟子入りした連中は、大半ここで挫折したよ」


「基礎鍛錬ってのは?」


「まあ体力作りと、剣術の基本、素振りってとこかな。そればっかりやらされた」


 ブギから杯を受けて、話を続ける。


「何回やったら終わりってんじゃなくて、できる限りやらないといけないんだ。楽しようとするとあっさり師匠にバレるんだけど、別に怒りもしないで『出て行け』って言うだけなんだよな。それが怒られるより恐ろしくて、夢中でやったなぁ。でも面白いもんで、調子が悪くて数がこなせない時には何も言わないし、怪我したり体調を崩した時には、しっかりと治療をしてくれたんだ。こっちが必死にやってる限り、決して雑に扱ったり見放したりはしない人だった。取りあえずの修行が終わったから言えるのかもしれないけど、いい師匠だったんだと思うよ」


 くっと杯を傾け、ブギの杯にも酒を足してやる。


「それから、基礎鍛錬が充分と判断された奴から『破魔の光』を練る為の修行に入るんだ」


「守人になる為の最低限の条件だったっけ?」


「ああ。守人の総数がそれほど多くないのは、『破魔の光』を身につけるのに多少の素質が関係するのと、その修行の過程で命を落とす確率が少なくないからなんだ」


 ブギが料理を小皿に取り分けて差し出すのを受け取り、ザンは料理を一口放り込む。


「ハナから手加減を母親の腹に置き忘れてきたんじゃないかと思うような人だったけど、師匠の指導はさらに激烈なものに変わってなぁ。……オレ、本当によく生きてたな……」


 なにやら遠い目になってしまうザンだった。


「確か婆様の紹介で弟子入りしたんだよな。どこもそんな厳しいもんなのか?」


「いや、俺が頼んだんだよ。一日でも早く村に戻ってこれるようにさ。……まあ、後悔しなかったかというと、微妙だよな」


 苦笑いして空になった杯を手の中で転がす。   


「でも、オレはやり遂げた。やり遂げて、帰ってきたんだ。今度は、あいつをあんな目に遭わせない。オレがあの人の代わりに、あいつを守るんだ。絶対に。……もう、泣くだけだったガキじゃないんだ」


 無意識に力がこもった手の中で、焼き物の杯が微かに悲鳴を上げた。


「あんまり力を入れるなよ? 杯が砕けちまう」


「お、ああ、と。すまん」


 慌てて手から力を抜く幼なじみを優しい目で眺めつつ、酒を注ごうとしたところで、酒瓶が空になっていることに気付く。


 母屋に追加を取りに行こうとブギが腰を上げると、ちょうど妻が新しい酒瓶を持ってくるところだった。


「今日は気前がよくて、なんだか後が怖いな」


 ブギが立ち上がって笑顔で酒瓶を受け取り、戯けて言うと。


「失礼ね、なんだかいつもは気前が悪いみたいじゃない。久し振りの、お友達との再会でしょう。野暮なことは言わないから、今日は楽しむといいわ」


「ありがとう、ヨナ、愛してるよ」


「調子いいわね」


 片手で腰を抱いてささやくと、浅黒く日焼けした顔に微笑みを浮かべ、ザンにも黙礼を送ってまた母屋へ戻っていく。


「お前、よく恥ずかしくないな」


「なにを。愛し合って結婚したんだ。愛をささやくことに、なんの抵抗があるか」


 多少呆れた調子でザンが言うと、そろそろいい具合に酔いが回ってきたか、ブギは笑いながら大仰に両手を広げた。


「ま、実際いい女だよ。俺の道楽に文句一つ言わないし、料理もこの通り美味いしな」


「そりゃわかるけどな。どうやって知り合ったんだ? 見覚えがないけど、この村の出身じゃないだろ」


 卓上の料理に手を伸ばしながらザンが訊ねる。


「見合いだよ。隣村の出身さ。そういや」


 ブギはストンと席に座り直して正面からザンを見据え、酒を注いでやりながら真顔で切り出した。


「お前、ナオと結婚するって本当か?」


「は?!」


 驚いた拍子に手元が狂い、杯から酒が溢れる。


「なんのことだ、それ?」


「ああ、やっぱりお前は知らない話なんだな。なんかお前の親父とナオの親父が、少し前から準備を始めたとか聞いたんだが、おかしいと思ったよ。一応、実家には寄ったんだろ? 何も話を聞かなかったのか?」


「寄ったは寄ったけどな、あっという間にケンカになって、話らしい話なんかしなかったよ」


「そっくりだな、お前ら親子


「ほっとけ」


「で、どうなんだ?」


「なにが」


「ナオと一緒になるつもりがあるのかって話だよ」


「わかってて訊いてるだろう、お前……」


 低く唸りつつ半眼でブギを睨むと、ガシガシと乱暴に頭を掻く。


「あいつはオレにとっちゃ妹分なんだ。そうとしかみれないし、結婚なんざ論外だよ」


「そうだろうなぁ。一応本人の口から聞いておこうと思ってな。悪く思うな。しかしまあ、ナオはガッカリするだろうなぁ」


「……ナオは乗り気なのか?」


「昔からお前の後ろばっかりついて歩いてたからな。そういう気持ちもあったんじゃないか」


 深々と溜息を吐いて天を仰ぎ、動かなくなるザン。


「お前にゃ昔から麗しの姫君がいるんだものな。命を捨てても悔いのないって相手がさ。惚れてるんだろ?」


「……そんなんじゃねえよ」


「違うのか?」


 問い返されて、しばし顎の傷へ無意識に手を伸ばしながら黙り込む。


「…………わかんねぇ。わかんねぇけど、な。オレ、おじさんみたいに、何かを守れる力が欲しかったんだ。自分が無力で、泣くしかないのは、嫌だったんだ」


「そうか」


 ボソボソと途切れ途切れの告白。ブギは頷いて、酒瓶を差し出す。


「ま、飲め」


「ん」


 しばらくお互い黙って食を進めていたが、頃合いをみてブギが口を開いた。


「サラサには会ってきたのか」


 一瞬だけザンの手が止まるが、すぐに食事と酒の消費に戻りつつ答える。


「ああ」


「なにか言ってたか?」


「自分に関わるなってさ」


「ん〜〜、もともと人付き合いが多いわけじゃなかったが、おっかさんが亡くなってからは、ほぼ皆無に近いしな。ナオくらいしか村との接点が無いんじゃないか? 人間嫌いもひどくなってるみたいだし。わからんでもないけどな」


「婆様も同じことを言ってたよ」


「サラサのおっかさんが無くなった時、お前のところにも連絡はいったよな? もしかしたら帰って来るかと思ったんだがなぁ」


 片足を組んで頬杖をついたブギが、ほんの微かな非難が混じった口調で言った。


「まあ、お前が帰ってきたところで、なんかの役に立ったわけじゃなかったかもしれんがね」


「……なんだか言葉に刺があるな」


「気のせいだろ。ま、これからが大変なのは間違いないとこだな」


「そうだな……」


 また溜息を吐くザンに、ブギは黙って酒瓶を差し出す。


「気長にやるしかないだろうさ」


 その後は、お互い湿っぽい話題は避けて、土産話や思い出話にしばし華が咲く。


 やがて、夜もふけていい加減に二人とも酔いが回った頃、ザンが席を立った。


「長居しちまったな、そろそろお暇するよ」


 大分酒が入ったはずだが、意外としっかりした足取りのザンに比べ、明らかにベロベロ寸前といった風情のブギが、立ち上がりかけたザンの手を掴んで引き留めた。


「お暇するってオメー、家には戻れねぇだろうし、こんな小さな村に宿なんかねぇし、泊まる当てなんてねぇだろうよ」


「今日は風もないし、雨も降らなさそうだからな。町外れで野宿でもするさ。明日からは……婆様にテントを借りようかと思ってるが」


「遠慮すんな。泊まってけ」


「いや、そりゃさすがに悪いだろ」


 結婚したばかりと言っていい家に飛び込みで泊まるのはさすがに不躾だと思い、ザンは遠慮するが、それを察したブギが眉をしかめる。


「余計な気を使うなよ。そうは見えないかもしれんが、オレはお前とこうしてまた顔を合わせられたのが、嬉しいんだよ。多分お前が思ってる以上にな。それを追い出して野宿させたなんてなったら、寝覚めが悪くて敵わん」


 そう言って、掴んだ腕を引っぱりザンを座らせる。


 抵抗しようと思えばできたが、なんだかそれをするのは悪い気がして、ザンは大人しく座り直した。


「おーーい、ちょっといいか〜〜?」


 酔いでヨレた声をかけると、すぐに母屋からヨナがやってくる。


「こいつ、今日は泊まっていくから、準備頼む」


「もう準備してあるわ。眠くなったら、いつでもどうぞ」


「手間を掛けさせて、申し訳ない」


 笑顔で言うヨナに、ザンが頭を下げる。


 ヨナは笑みを深めて、空いた皿と酒瓶を持参した盆に乗せた。


「いいえ、この人がこんなに楽しそうなのは、久し振りに見るから。よければ、またいつでも遊びにきてね」


「おぉい、ザン。ちょっとこい」


 ヨナの言葉に恐縮したザンが、さらに頭を下げていると、作業場の隅に移動していたブギが手招いた。


「なんだ?」


「ほいこれ。忘れないうちに渡しとくよ」


 ブギが差しだして来たのは、布に包まれた細長い包みだ。重さからすると鉄製のなにかだろう。包みの形からすると、おそらく銛の先かなにかだろう。


「ナオに頼まれたもんだが、サラサが使うんだろう。お前から渡してやってくれ」


「ナオに渡せばいいのか?」


「……お前はアホか」


「へ?」


「サラサに直接渡すんだよ。少しでも接触できる機会を逃してどうする」


 半眼で言い含めるブギに、ザンの視線が泳いだ。


「お前な……悠長にしてて、取り返しのつかないことになっても知らんぞ」


 思いの外重い響きの言葉に、ザンは驚いて視線を戻す。


「お前はもう、大きな失敗を一つ……いや、二つか? してるんだ。もっと必死になれよ」


 怒ったようにそう言って、ザンの手に包みを押しつける。


「失敗?」


 まったく不意打ちの言葉にザンは目を瞬かせたが、ブギにはそれを説明するつもりは無いようだった。いまいちおぼつかない手元で、酒瓶や食器をまとめ始める。


「さすがに飲み過ぎたな、今日はこれでお開きにしよう」


 やろうと思ってた仕事を忘れてたな、と笑いながら席を立つブギの手から食器を受け取り、ザンも母屋に向かった。


 母屋に入る寸前に何気なく見上げた夜空は、満天の星空だった。


 ふと、厳しい修行の間に、普段は無骨な師匠が教えてくれた、古い古い歌を思い出した。


 それは、もの悲しく、優しい歌だった。


 


         **********


 


 まだ幼いといえる少年は、丘の上に立っていた。


 早朝、まだ明け切らない空は、薄く夜の色を残している。


 海から吹いてくる潮の香を乗せた風が、まだ真新しい少年の顎に刻まれた傷を撫で、吹き抜けていった。


 その眼下には小さな村があった。


 生まれてから、ずっと過ごしてきた場所。


 そこだけが世界の全てだと、無意識に思い込んでいた場所。


 大切なものがある場所。


 いまから、すべてを置いていく場所。


 生まれて初めて、泣きながら懇願した。


 地面に額を擦りつけ、願いを口にした。


 深夜に訊ねてきた少年に驚きもせず自宅に招き入れた老婆は、みたこともない厳しい表情で、根気強く少年の言葉を聞いていた。


 やがて話を聞き終えた老婆は、部屋の隅にあった琥珀色の珠のところまで歩み寄った。


 かざされた老婆の手に反応して柔らかく発光し始める。


『たった今、あんたが口にした覚悟に、嘘は無いね?』


 振り向いた老婆の厳しい表情。大きくはないが、鞭に似た鋭い声。


 だが、少年は怯むことなく、涙を拭ってはっきりと頷いた。


『そうかい。じゃあ、いますぐ家に帰って支度してきな』


 頼みを聞いてくれそうなのはともかく、あまりに急な話に少年は一瞬戸惑った。


『なんだいその顔は。聞こえなかったかい? いますぐ用意して、夜が明けないうちに村を出るんだよ。それともなにかい、両親に挨拶してからとでも思ってたかい。言っておくけど、自分の子供が守人になりたいなんて言い出したのを、はいそうですかと送り出す親なんかいやしないよ。守人の仕事も、その修行ですら死と隣り合わせなんだよ? 止められるに決まってるだろ』


 覚悟をしていると言っても、まだ子供だ。言葉の中に混じった「死」という響きに、少年は身を固めて唾を飲み込んだ。


 老婆は半眼で少年を見据え、ふんと鼻を鳴らした。


『覚悟だなんだと言っておいて、そんなことも考えもしなかったかい? 半端な気持ちなら、止めちまった方がいい。その程度の気持ちで修行に入れば、遠からず死ぬことになる。いまここで止めちまえば、少なくとも死ぬことはないよ』


 淡々としているが、それゆえに冷酷さを漂わせる老婆の言葉に、少年は激しく首を横に振って立ち上がった。


 その目には、不安と怯えが色濃くあった。


 だが、それらを押さえつけ、乗り越えようとする強い意志も、そこに確かな存在を見せた。 老婆はそれ以上無駄な言葉を重ねなかった。


『いいかい、準備が終わったらそのまま村を出て、街道沿いに東へ向かいな。道なりに行けば宿場町につくからね。今から出発すれば、子供の足でもギリギリ明日の夜までにはつけるはずさ。着いたら、ここと同じ天幕を探しな。そこの詠人には、あたしから伝言を出しておく。その後はそこで聞きな』


 少年は大きく頷いて老婆に礼を言うと、老婆の自宅である天幕から走り出た。


 そして、少年は今丘の上に立っていた。


 視線をゆっくり動かすと、村外れのさらに向こう。村人が近づかない岬の方に、半ば木々に隠れた粗末な小屋が見えた。


 不意に視界がぼやける。


 ぐい、と顎を持ち上げて空を見上げる。


 細い顎を震わせて、耐える。


 少年はしばらくそうしていたが、やがて背を向けて歩き出す。


 そして、振り向くことは無かった。


 


 守人の剣が深々と打ち込まれた魔物の死体が、浜辺に打ち上げられた翌日のことだった。


 


        **********



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