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最終話:青春は終わらない

 激しい純白の光の奔流が、すべてを飲み込んでいく。


 引き裂かれた空間、時空の彼方へと消えゆく愛しい人の絶叫、そして涙の誓いのキス――。それらすべてを優しく包み込むようにして、世界の境界線はゆっくりと閉じ、それぞれの形ある未来へと再構築されていった。


 無限の広がりを持つ時空が、正しい因果の糸で静かに縫い合わされていく。


 自由で、目映いほどに輝かしい二度目の青春の奇跡は、静かに幕を下ろした。


 ――バサッ。


 手から何かが滑り落ちる乾いた音で、峰川翔大はハッと目を覚ました。


「う、ん……」


 重い瞼を持ち上げると、視界に入ってきたのは見慣れた自宅の天井だった。


 ほんのり漂う生活臭と、古びた家具の影。


 そこは17歳の高校生の部屋ではなく、50代の冴えないサラリーマンである、現在の彼の居間だった。


 翔大はゆっくりと上体を起こし、手から落ちたテレビのリモコンを拾い上げた。壁の時計に目をやると、夜の10時をとうに過ぎている。


「……俺、またうたた寝してもうてたんか」


 ぽつりと呟いた自分の声は、低く、少し枯れた、紛れもない50代の大人のものだった。


 頭がひどくぼんやりとしていた。


 まるで、途方もなく長く、そしてあまりにも美しすぎる夢を見ていたかのような感覚。


 けれど、その夢がどんな内容だったのか、具体的に誰がそこにいたのか、肝心な記憶はすっかり砂のように指の間から消え去っている。ただ、胸の奥に、言葉にできないほど切なくて愛おしい、奇妙な残像だけが熱く波打っていた。


 ガチャリ、と静まり返った夜の家に、玄関の鍵が開く音が響いた。


「ただいま。あれ、翔大?帰ってたんだ」


 居間の引き戸を開けて入ってきたのは、妻の清子だった。


「あ、おー、おかえり。うん、ちょっと前に帰ってきてな。ご飯食べたら、そのままここで寝てもうてたわ」


 高校生活の瑞々しい記憶は、彼の脳裏からは綺麗に失われている。ただの、仕事に疲れた日常のひとコマにすぎない。


「そんなところで寝たら体に触るわよ。 風邪ひいちゃうじゃない」


「せやな。……なんか、ものすごく長い、ええ夢を見とった気がするんやけどな。中身はさっぱり思い出せへんわ。とにかく、風呂でも入って頭すっきりさせてくるわ」


「ええ、お湯はすぐ沸くから、ゆっくり入ってきたら?」


「そやな。そうする」


 翔大は立ち上がり、脱衣所へと向かった。


 歩きながら、ふと思う。いつもなら仕事の疲れで鉛のように重い身体が、なぜか不思議なほどに軽い。


 まるで、目に見えない情熱の火が、今も血管の奥をドクドクと巡っているかのような、奇妙な活力が全身に充満しているのだ。


 50年分の倦怠に塗れていたはずの心が、どこか新しい明日へ出発するのを促すように、静かに、けれど力強く脈打っていた。


 洗面所でワイシャツのボタンを外し、ハンガーにかけようとした――その時だった。


 ――コロコロ……。


 ポケットから小さな硬いものが転がり落ち、脱衣所の床を転がった。


「ん……? なんやこれ」


 拾い上げて手のひらに載せると、そこにあったのは、細い針金をいびつに捻って作られた、手作りの不格好な小さなチャームだった。


(なんなんやろ、これ……。買った記憶も、作った記憶もないのに……)


 首を傾げる翔大。けれど、不思議なことに、それを見つめているだけで胸の奥がギュッと締め付けられるような、愛おしくて堪らない感情が溢れてくる。


 翔大は吸い寄せられるように、その不格好なチャームを、宝物のようにズボンのポケットへと大切に仕舞い直した。


 ワイシャツを脱ぎ捨てる。


 バスタオルを手に脱衣所に入ってきた清子が、「あれ?」と小さく声をあげた。


「あなた、胸のところ、どうかした? ずいぶんと赤くなっているけど……」


「え?」


 翔大は言われて、正面の大きな鏡に自分の体を映した。


 驚いたことに、胸の真ん中から右あたりに、小さな何かが深く押し当てられたような、たったひとつの鮮やかな赤みがくっきりと残っていた。怪我をしているわけではない。けれど、そこだけがじんわりと、愛おしいほどの熱温度を持っていた。


 翔大は無意識に、その赤い跡へそっと右手を重ねた。


 指先がその赤みに触れた、その瞬間だった。


 ドクン――! と心臓が激しく跳ね上がった。


 脳裏に記憶の映像は戻らない。彼女の顔も、その名前も、一緒に笑い合った仲間たちの姿も、何一つ具体的には思い出せない。


 それなのに――なぜだろう。言葉にできない、どうしようもなく愛おしくて、切なくて、狂おしいほどに懐かしい感情が、大洪水のようになって胸の奥から急激に込み上げてきたのだ。


(痛い……。でもな!これが俺たちの愛の証や!)


(何千光年離れたって、うちの愛は、この角の傷と一緒にずっとダーリンの胸の奥で生き続けるっちゃ!)


 忘れたはずの「愛おしい声」が、胸の熱い痛みとともに、魂の最深部で確かに木霊した気がした。


 それは、最後に愛しい少女を力いっぱい抱きしめた時に、彼女の一本の角が深く、深く押し当てられた、生涯消えることのない愛の誓い。時空の法則がどれだけ記憶を奪い去ろうとも、肉体と魂に直接刻み込まれた絆の楔だけは、絶対に消すことができなかったのだ。


「あなた……? どうしたの、本当に」


 清子が心配そうに覗き込んでくる。


 翔大の目からは、自分でも理由の分からない温かい涙が、止めどなく溢れ落ちていた。胸が熱くて、痛くて、けれどこれ以上ないほどの幸福感と誇りで満たされている。


「あ、いや……なんでもない。ちょっと、会社のどこかで強くぶつけたんかもしれん。……なんか、へんや!急に涙が出てきてわ」


 翔大は、込み上げる涙を拭い、ぐっと胸の赤みを慈しむように手で包み込んだ。


 記憶はなくても、身体が覚えている。魂が知っている。


 自分はもう、過去を嘆くだけの冴えないおっさんじゃない。この世界のどこかで、あるいは満天の星空の彼方で、自分の生き様をずっと信じて、愛し続けてくれている、かけがえのない存在が確かにいる。そして自分もまた、その思いに応えるように、胸を張って今日を、未来を生きていくのだと。


 その絆の温もりが、50代の諦めかけていた翔大の背中を、力強く、力強く後押ししていた。


(ふぅ~~よし! まだまだ頑張るぞ!これからやな、俺の人生も、生涯青春!ここからまた新しく始まるんや――!)


 そんな熱い想いが自然と胸の底からあふれ出し、翔大の表情をパッと輝かせる。


 ちょうどその時、玄関のドアが勢いよく開き、妻より少し遅れて家に帰ってきた一人娘の元気な声が家中に響き渡った。


「パパぁ〜! ただいま!」


 その声に、翔大は胸の愛おしい痛みをそっと抱きしめながら、いつもの、いや――これまでで一番輝くような、最高にカッコいい笑顔で振り返った。


「おう、心音! おかえり!」


 玄関から顔を出した心音は、パッと満面の笑みを浮かべた翔大の顔を見て、一瞬目を丸くした。


「あれ……?パパ、なんか今日すっごくイキイキしてない?なんか……制服着せたら、そのまま高校生に見えちゃいそう!」


「アホなこと言うたらあかんで、50のおっさん捕まえて」


「ううん、ほんとやって!なんかパパ、若返ったみたいで……すっごくカッコいい!」


 その親子のやり取りを見ていた清子が、クスッと声をあげて笑う。


「うまいこと言うなぁ~、心音。でも小遣いの値上げはせーへんでー」


「えぇー! パパ厳しい~!」


 居間に弾ける明るい笑い声。50代のどこにでもある、けれどこれ以上なくかけがえのない日常のぬくもり。


★ ★ ★


 風呂から上がり、自室へ戻った深夜。


 翔大は部屋の引き出しから、古いオカリナを静かに取り出した。世界にひとつだけの素朴な楽器。


 息を吹き込むことはせず、そっと大切に両手で包み込み、ゆっくりと部屋の窓を開けた。


 吸い込まれそうな夜の空気に触れながら、オカリナを窓の外の満天の星空にかざしてみる。


 すると奇跡のように、オカリナの丸い表面が夜空の星屑の光を反射して、まるでエメラルドグリーンの光の粒子の束のように、淡く神聖に輝いた。


 その輝きを見た瞬間、翔大の胸の奥に、言葉にはできないけれど温かく優しい『確信』がこぼれ落ちた。


 やっぱり自分は一人じゃない。この空のどこかで、何かが、誰かが、ずっと自分を見守ってくれているのだと。


 ふと、翔大は若い頃のように、夜空に輝く星と星とを指先で結んでみた。かつて、頭の中で異星の少女の顔を思い描いたように、満天の星空の中に一つの輪郭を描いていく。


 ……その星の結びの向こうに浮かび上がったのは、名前も思い出せないけれど、胸の引き裂かれるような切なさと、どうしようもない愛おしさがこみ上げてくる、不思議なほど懐かしい少女の笑顔だった。


「――っ」


 脳裏の記憶は霧の向こうに隠れたままだというのに、心だけがその面影を完璧に知っていた。溢れ出した熱い涙が、すうっと頬を伝って夜の闇へと落ちていく。それは悲しみの涙ではない。宇宙の果てから自分の心を温め続けてくれる、あまりにも優しすぎる絆のぬくもりだった。


 理由のわからない愛おしさに包まれながら、翔大はオカリナをそっと胸の熱い赤みの上に重ね合わせ、穏やかな眠りについた。


★ ★ ★


 そして、新しい朝が訪れる。


 翌朝。身支度を整え、家を出る直前の翔大の姿があった。これまではスーツを着てどこか猫背で、重いため息をつきながら出勤していた彼が、いまは違う。


 胸の奥に灯る熱い赤みの温もりと、ポケットに忍ばせたオカリナの記憶を胸に秘め、翔大は背筋をまっすぐに伸ばして、玄関のドアに手をかけた。


「いってきます!」


「いってらっしゃい。……あなた、今日なんだかすごく頼もしい顔してるわね」


 玄関で送り出す清子が、ふと目を丸くして微笑む。そばにいた心音も「ほんとだ、パパかっこいい!」と声を弾ませる。


 翔大は眩しいほどの笑みを返し、力強く家をあとにする。


 電車を待ちながら、ふと、翔大はスーツの内ポケットに手を入れた。そこにあったのは、今朝出がけに見つけた、古い財布の奥底から出てきた一枚の写真だった。


 そこには、高校時代の制服姿の翔大と、仲間たちが満面の笑みで写っている。


 ……しかし、奇妙なことに、真ん中にいる翔大のすぐ隣には、誰かがすっぽりと抜け落ちたような、ぽっかりと大きな空白のスペースが空いていた。


 不思議なのはそれだけではない。 右隣には誰もいないというのに、写真の中の翔大は、まるですぐ傍に愛しい誰かがいるかのように、腕を優しく大きく回し、誰もいない空間を愛おしそうにしっかりと抱き寄せるようなポーズをとっていたのだ。


「……なんやこれ。なんで俺、こんな不自然な写真なんて持ってんねやろ」


 首をかしげながらも、翔大はその誰もいない空間――自分の腕にすっぽりと包まれた空白のスペースを、なぜかじっと見つめてしまう。


 記憶の糸はプツリと途切れたままだ。その空白に誰がいたのか、名前も、顔も、声すら思い出せない。 それなのに、胸の奥の赤みが熱を持ち、どうしようもないほどの愛おしさと切なさが、波のように押し寄せてきた。


「……また、会おうな」


 口をついて出たその言葉が誰宛てのものなのかも分からないまま、翔大は微笑み、ゆっくりと写真の空白のスペースを指先で優しくなぞった。


 電車がホームに滑り込む。風が吹き抜け、彼の髪を揺らした。


 空の向こうで、何かが小さく瞬いた気がした。


(『青春の星空』 完)

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