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第32話:失恋の紅生姜(べにしょうが)と、愛の隠し味

「……おい、荻中。紅生姜、盛りすぎやろ。牛丼の茶色いとこ、一ミリも見えへんぞ」


 土曜日の昼下がり、学校帰りの駅前にある牛丼屋。カウンターの端に陣取った翔大は、隣で丼を真っ赤な山に染め上げている男に呆れた声をかけた。


 しかし、荻中はうつむいたまま、箸で紅生姜をガツガツと牛丼ごと貪り食っている。その目からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、タレの染みたご飯の上に吸い込まれていた。


 今日の放課後、荻中は他校の女子生徒に意を決して告白し、見事に玉砕したのだ。


 傷心の彼を慰めるため、今日は男4人だけでここに集まっていた。ちなみにモナは、今日に限って翔大の母・佳子と買い物に出かけていて留守だった。


「……うるさいがん、峰川」


 荻中が箸を握りしめたまま、鼻をズズッと派手に鳴らして真っ赤な目で顔を上げた。


「女なんて、星の数ほどいるがん!こんなことで名古屋魂がすたれてたまるか!……でもさ、俺、名古屋からこっちに転校してきて、正直ちょっと寂しかったんだわ。だけど、お前らとバカやってる時が一番楽しくて……だからさ、あの子にも、ちょっとはカッコいいとこ見せたかったんだがや……!」


 紅生姜を突きながら、ついに本音でポロポロと男泣きを始めた荻中。 50代の記憶を持つ翔大から見れば、その涙はあまりにも瑞々しく、若さゆえの真っ直ぐな痛さに満ちていた。大人になれば、こんな風にプライドも格好もすべて捨てて全力で傷つくことも少なくなっていく。


 翔大は何も言わず、荻中の空になったコップに冷水をなみなみと注ぎ足し、自分のセットに付いてきた温かい味噌汁をそっと荻中の前に差し出した。


「……分かっとるよ。温かいもんでも飲め」


「……峰川……サンキューだがや……」


 荻中は不器用につぶやき、味噌汁をズズッとすすった。


「まぁ、元気出しなよ、荻中」


 向かいの席で玉田が、どんぶりを抱えながらしみじみと口を開く。


「俺だってさ、前にいいなと思って告白した子がいたんだけどさー。後日もらった手紙に『これからも仲のいい、親しい友達でいようね!』って書かれてて、めちゃくちゃがっかりした経験があるからさ」


「ケケケケッ!」


 すかさず村上が、腹を抱えて笑い出した。


「完全にキープされてるぴー!哀れな玉ピー」


「村上ぃ〜茶化すなよ、俺だって傷ついたんだからさー!」


 村上は玉田の袖を指先でちょんとつまみながら、「玉プィ〜、わしが慰めてあげるぴー」と甘えた声を出して気持ち悪がられている。


 さらに村上は、ポケットから謎の大量のポケットティッシュや変なアニメのステッカーをごそごそと取り出し「元気出すぴー!」と無理やり荻中に押しつけた。


「いらんわこんなもんっ!」


 荻中がボロボロ涙を流しながらも激しくツッコんだことで、そのバカバカしさに毒気を抜かれ、テーブル全体にふっと明るい笑い声が戻ってきた。


 と、そこで3人の視線が、自然と翔大の元へと集まった。


「……それにしても、いいよなぁ、峰川は」


 荻中が紅生姜まみれの箸を突きつけ、恨めしそうに翔大を睨んだ。


「実際さ、お前とモナちゃんって、今どこまで進んどるわけ?一つ屋根の下で、何もないわけがないがん!」


「そう!俺もそこが知りたい!僕の理論的分析では、すでに相当な段階に達しているとみているんだよね。たとえば……」


 玉田も身を乗り出して両手の指先を合わせ、ニヤリと不敵に目を細める。


「俺も気になるぴー!隠さずにいってよ、峰ピー!」


「はぁ!?」


 いきなり飛び火してきた男同士のド直球な話題に、翔大は激しく狼狽した。


 脳裏に一瞬で浮かんだのは、つい数日前、おばあちゃん姿から元に戻る直前のモナと交わした、あの切なくて愛おしい「キスのシーン」だ。


 唇に残る柔らかな、思い出すだけで心臓が破裂しそうな感触。翔大の顔がカッと一気に熱くなる。


(アカンアカン!何を思い出してんねん俺は!)


 焦ってモヤモヤとした邪念を頭の中で必死に打ち消しながら、翔大は逃げるように牛丼を口に力任せにかき込んだ。


「ま、まあ、うまくいってはいるけどな!変なことは一切してへんで!ほんまや!神に誓って健全や!」

 

「ちぇー、つまらんじゃん」


 玉田がつまらなそうに口を尖らせる。そこからは、若者らしい妄想全開のトークへと発展していった。


 店を出て、駅へと向かう帰り道。 少し先を、すっかり元気を取り戻した荻中と村上が「タイムセールだぴー!」などと騒ぎながら歩いている。


 その少し後ろを、翔大と玉田は自転車を押しながらゆっくりと歩いていた。すると、玉田がふと前を見つめたまま、目を少し細めてボソッと呟いた。


「……峰川さ」


「ん?どうしたんや、玉田」


「いや。お前がモナちゃんを大切にしてることとか、変なことをしてないのは信じるよ。……でもさ、もし何か、俺たちの想像もつかないような大きなことを二人で背負い込んでるならさ、俺らにも少しは分けなよな」


 玉田はチラリと翔大を見て、照れくさそうにすぐに視線を前に戻した。


「俺たち、友達じゃん。理論や科学じゃ説明できなくてもさ、お前の力になりたいって気持ちに理由なんていらないからさー。……まあ、なんだ。モナちゃんみたいな素敵な子を泣かせたら、全国の男たちを敵に回すから覚悟しとけよな!」


(玉田は、やっぱり気づいている。だけど、それは決して俺たちを暴くためではなく、純粋に俺たちを心配してくれている)


 翔大は胸が熱くなるのを感じながらも、男同士の気恥ずかしさを隠すように、ニヤリと不敵に笑って玉田の肩を軽く小突いた。


「ハハッ、なんや玉田、急に熱いこと言い出して。惚れてまうやろ」


「なっ、バカ言うなよ!俺はいたって真面目に……!」


「分かっとるよ。……ありがとな、玉田」


 翔大が冗談交じりに、けれど最後はしっかりと深く頷くと、玉田は「全く、これだからお前はさー」と、少し嬉そうに口元を緩めた。


★ ★ ★


 時を同じくして――。 その頃、翔大が留守にしている家の近くのスーパーでは、母・佳子とモナが並んで買い出しをしていた。


「モナちゃん、見て。こういう根菜類はね、じっくり煮込むと美味しいのよ」


「へぇ~っ、お母様、すごいっちゃ!」


 カゴを押し合う二人の間には、まるで本物の母娘のような温かい空気が流れていた。佳子はふと優しく微笑みながら、モナにそっと耳打ちする。


「翔大ね、昔から関西の薄味の煮物が大好きなのよ。もともと好き嫌いのない子だけど、特に煮物はね」


「そうだったっちゃ……!じゃあ、今日の晩ご飯は、ダーリンがびっくりするくらい美味しいのを作ってあげるっちゃ!」


 モナはそう言うと、うふっと嬉しそうに目を細めて可愛らしく笑ってみせた。モナの胸には、愛する翔大を喜ばせたいという一途で真っ直ぐな想いがあふれていた。


★ ★ ★


「ただいまー」


 その日の夜、翔大が家の玄関を開けると、居間の方から出汁のいい、どこか懐かしい香りが漂ってきた。


「あ、オニイロー、おかえり!」


 13歳の弟・彰宏が、食卓から振り返って優しそうな笑顔を見せた。


「今日の晩ご飯、めっちゃおいしいでー!箸が止まらんわ!」


 中学生らしく、翔大のことをおどけたあだ名で呼びながら、彰宏は嬉しそうに箸を動かしている。


「モナちゃんとお母さんが、二人で一緒に作ったんやって」


 上座では、厳格で怒りっぽい父親の文司郎も満足げに料理を口に運び、「……うむ、美味いな」と短く一言、ボソッと呟いていた。あの頑固親父が素直に料理を褒めるなど、滅多にないことだ。


「ダーリン!おかえりなさいだっちゃ!」


 キッチンから白いエプロン姿のモナがパタパタと駆け寄ってきた。


「うち、ダーリンのために一生懸命作ったっちゃ!早く食べてほしいっちゃ!」


 モナは翔大の手をきゅっと握って、嬉しそうに引き椅子へと座らせた。


 あの一件以来、モナはどこかいつも以上に嬉しそうで、何かと言っては翔大の体にペタペタと触れてきたり、あからさまに距離を詰めたりしてくる。翔大は顔を赤くしながらも、「やれやれ」と小さく苦笑して、目の前に並んだ煮物に箸を伸ばした。


 一口、口に運ぶ。


「……っ!?」


 翔大は目を見開いた。絶妙な味付け、芯まで柔らかく染み込んだタレ。関西出身の翔大の舌に、驚くほどピタリと合う見事な味だった。


「う、うまい!これ、うますぎるわ!」


 翔大の素直な大絶賛を聞いて、台所に立つ母・佳子がふふっと楽しそうに目を細めた。


「あら、よかったわねぇ~モナちゃん。モナちゃんね、翔大が『関西の薄味が恋しいなぁ』って前にボソッと言ってたのを、ずーっと覚えてたのよ。お醤油の量、何度も何度も味見して、付きっきりで一生懸命作ってくれたの。本当に、モナちゃんはいいお嫁さんになるねぇ」


 佳子が何気なく放った、その温かい舞台裏の事実と、一言「お嫁さん」という響きが、翔大の脳細胞を直撃した。


(お、およめ……!?)


 翔大の手が完全にフリーズする。口元へ次の料理を運ぼうとしていた箸が、空中でピタリと静止した。


 50代の理性と17歳の肉体が同時に大パニックを起こし、心臓が跳ね上がる。自分のためにそこまでしてくれたモナへの愛おしさが、胸の中で一気に爆発しそうだった。


 すると、隣で聞いていた弟の彰宏が、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて茶化すように声を上げた。


「オニイロー、耳まで真っ赤やで!そんなにモナちゃんがお嫁さんに来たら嬉しいのー?」


「なっ、彰宏、余計なこと言うなや!」


 弟からの鋭いツッコミに、翔大の顔の赤さは限界突破をむかえた。


 一方のモナは、佳子の言葉を聞いた瞬間、


「――っ!!」


 と歓喜の声を上げて椅子から立ち上がった。


「お、お嫁さんだっちゃ……!?うち、ダーリンの良いお嫁さんになるっちゃ……!」


 モナは両手を胸の前で合わせ、感動でうるうる全開になった瞳で、じっと翔大を見つめている。その瞳の奥には、どこまでも純粋で、そして一途に翔大だけを想う深い愛が満ちあふれている。


 完全に固まったまま、真っ赤になって動くことすらできなくなった翔大。 そんな二人の初々しい様子を、母の佳子と弟の彰宏はクスクスと楽しそうに笑いながら見守っていた。


 すると、それまで黙ってやり取りを聞いていた、あの頑固親父の文司郎が、フッと鼻で小さく笑って湯呑みをコトッと食卓に置いた。そして、翔大をジロリと睨んでボソッと言い放った。


「……翔大。お前には、もったいなさすぎる娘(こ)だな。しっかりしろ」


「なっ、オヤジまで何言うてんねん!」


 思わぬ父親からの手厳しい援護射撃(?)に、翔大はさらに顔を真っ赤にしてうろたえる。


 そんな翔大の横で、モナは文司郎の言葉が嬉しかったのか、「はいっちゃ!うち、しっかりダーリンを支えるっちゃ!」と満面の笑みで敬礼のポーズをとっていた。 すでに峰川家の中で、モナは完全に未来の家族として温かく受け入れられている。


★ ★ ★


 そして、夜遅く。家族みんなが寝静まったあとの二階の子ども部屋。 静まり返った部屋の中で、翔大とモナは二人きりで向き合っていた。


「ふふっ、ダーリン、今日の晩ご飯すごく喜んでくれて嬉しかったっちゃ」


 モナはベッドの上で、恥ずかしそうに指をもじもじさせながら、とろけるような甘い瞳で翔大を見上げた。


「そ、そら美味しかったからな……。お前、あんなに頑張ってくれて、ほんまにありがとな、モナ」


「ううん、当然のことだっちゃ!それにね……お母さんが言ってくれた『お嫁さん』って言葉、うち、なんだかすごく胸がドキドキしたっちゃ。……練習ってわけじゃないけれど、これからはうちが、ダーリンのことをいーっぱいお世話するっちゃね♡」


 そう言って、モナはさらにトコトコと翔大に近づき、ふんわりと優しい甘い香りを漂わせながら腕にしがみついてきた。


(アカン……家族の前とはまた違って、この距離感は本気で心臓に悪すぎる……!)


 50代のオヤジの理性をもってしても耐えられないほどの破壊力に、翔大は頭を抱えつつも、愛おしさが溢れて仕方がなかった。


 冬の冷たい寒風を吹き飛ばすような、家族の温かさと、二人だけの甘い秘密に包まれた幸せな夜が、静かに更けていくのだった。

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