聖水を配っても疫病が止まらない村で、前世が保健所職員だった私は普通の疫学調査で感染源を見つけることにした
聖水を飲んだ子が、また倒れた。
山裾にあるミルダ村の教会前で、母親の悲鳴が上がった。腕に抱かれた男の子は、腹を押さえたまま顔を青くしている。吐き気をこらえる唇が震え、指先は風に揺れる小枝のように細かく震えていた。
「神官さま、さっき飲ませたんです。聖水を、ちゃんと飲ませたんです」
母親は小さな瓶を握りしめていた。
瓶の中には、光を受けて淡く揺れる水が残っている。王都でも見たことがある。神殿で祝福を受けた水だ。実際に軽い傷や疲労を和らげる力はある。
ただし、毒を消す力ではない。傷をふさぎ、疲れを和らげることはできても、汚れた水を飲み続ける限り、体はまた壊れる。
それに、神殿から届く聖水は、村じゅうの病人に行き渡るほど多くない。教会では祝福を受けた水を村の水で薄め、小さな瓶に分けて配っていた。薄める水は、その朝、いちばん近い南井戸から運ばれていた。母親が握っているのも、その一本だった。
けれど、目の前の子どもは倒れていた。
「リョウコ殿」
白い法衣の神官セリオが、私を振り返った。若い神官で、目の下には疲れの影がある。ここ数日、ほとんど眠っていないのだろう。
「どうか、記録を。聖女リュミエラ様の命で来られたのでしょう」
「はい」
私は膝をつき、母親と目線の高さを合わせた。
「この子のお名前を伺ってもいいですか」
母親が一瞬だけ固まった。
この場でまず名前を聞く人間は、たぶん珍しい。普通なら祈る。薬草を探す。治癒師を呼ぶ。原因が分からなければ、魔物の呪いや魔王の残り香のせいにする。
けれど、前世の私は保健所職員だった。
できることは、まず名前を聞くことだった。
「リオです。七つです」
「リオくん。具合が悪くなったのは、いつからですか」
「今朝から腹が痛いって。昼前に吐いて、さっき手がしびれるって……」
「熱は」
「少し温かいくらいです。咳はありません」
私はリオの額に手を当てた。高熱ではない。息も荒いが、咳き込みはない。皮膚に派手な発疹も見えない。
「同じ家で、他に具合の悪い方は」
「夫が昨日から吐いています。でも、私は平気です。ずっと看病しているのに」
母親は、その言葉に自分で気づいたように口を閉じた。
看病している母親は倒れていない。
それだけで断言はできない。だが、少なくとも「触れたらすぐうつる疫病」とは違う顔をしている。
(人から人へすぐ広がる型ではなさそうだ)
もちろん、口には出さない。
分からない段階で言い切ると、現場は必ず混乱する。前世でも異世界でも、そこは変わらない。
「リオくんがここ三日ほどで飲んだ水は、どこの水ですか」
「南井戸です。うちは南井戸しか近くになくて」
「食べたものは」
「黒麦の粥と、干し肉を少し。隣の家と同じです」
私は手帳に書いた。
名前。年齢。家族。発症日。症状。飲んだ水。食べたもの。
羽根ペンの先が紙をかすめる音だけが、広場のざわめきの中で妙にはっきり聞こえた。
その音に紛れて、ふと、あの白い窓口のことを思い出した。
水城涼子が、日本の保健所の机で倒れたあと。
壁も床も天井もない白い場所に、安っぽいカウンターだけがあった。
その向こうに立っていたのは、とんがり帽子に星柄マント、先端に星の飾りがついた杖を持った青年である。マントの胸元には、なぜか『MAGIC』と刺繍されていた。
「転生管理局、窓口担当のツクヨです。この衣装は上層部指定です。私の趣味ではありません」
「まだ何も言っていません」
「目が言っていました」
言っていたかもしれない。
ツクヨは、付箋だらけの書類をめくった。
「水城涼子さん。前世は保健所職員。急な病で死亡。今回の転生区分は、凡人枠です」
「凡人枠」
「特殊能力は付与されません。前世の知識と経験だけを持ち越していただきます」
「言語は」
「読み書きは、現地で覚える必要があります。前世の記憶も、段階的に解凍されます」
「事務処理っぽいですね」
「実際、事務処理です」
私は、その時、不思議と腹は立たなかった。
保健所の仕事に、もともとチートはなかったからだ。
あるのは、名前を聞くこと。日付を並べること。飲んだ水、食べたもの、住んでいる場所を確認すること。地味で、面倒で、魔法の光など一つもない手順である。
視界が白く溶ける直前、ツクヨは言った。
「水城さん。水を見てください」
思い出は、そこで切れた。
母親が息をのむ音で、私は今の広場に戻った。
水を見る。
それは神託というより、目の前の井戸と桶と手帳を見ることだった。
「神官さま」
私は顔を上げた。
「教会の物置をお借りできますか。机と、村の地図が必要です」
「地図、ですか」
「はい。それと、小石をたくさん。赤いものがあれば助かります」
セリオは戸惑った顔をした。
「赤い小石なら、祭壇の飾り石を外してきますか」
「外さないでください。あと、小石です。抱えて運ぶ石ではなく、指でつまめる石でお願いします」
セリオが真顔でうなずいたので、近くの村人が小さく笑った。
ほんの少しだけ、張りつめた空気が緩む。
「それで、病が見えるのですか」
「見えることがあります」
私は立ち上がった。
母親の腕の中で、リオがかすかに目を開ける。
「水……」
「すぐ持ってきます。ただし、南井戸ではない水を」
母親の手から聖水の小瓶が滑り落ちかけた。私はそっと支える。
「聖水ではないと決めたわけではありません。ただ、聖水だけでは止まっていないことは分かっています」
セリオの表情がかすかに歪んだ。
胸元の聖水瓶を握る指が、白くなっている。
責めているわけではない。聖水を配ったことは、今の村でできる最善の一つだったはずだ。
けれど、病人が増え続けているなら、次の手を打つ必要がある。
祈りの隣に記録を置くことはできる。
少なくとも私は、そう思っている。
◇
教会の物置には、古い祭具と壊れた椅子と、収穫祭で使う旗が積まれていた。
私は長机の上を空けてもらい、村の地図を広げた。地図といっても、羊皮紙に道と家と井戸を描いた簡単なものだ。だが、現場ではこれで十分である。
村人たちが、こわごわと戸口に集まっている。
私は赤い小石をつまみ、リオの家に置いた。
「これは、今日倒れたリオくんの家です」
次に、その父親の名前を書いた木札を横に置く。発症日は昨日。
「同じ家で二人。飲み水は南井戸」
神官セリオが、私の横で名簿を読み上げる。
「次は、陶工のマーナ。腹痛、吐き気、手足のしびれ。三日前から」
「水は」
「南水路で洗い物、飲み水は南井戸」
赤い小石を置く。
「羊飼いのデリク。二日前から吐き気。足のしびれ」
「水は」
「南井戸」
また、赤い小石。
こうして一つずつ置いていくと、地図は黙ってものを言い始める。
赤い小石は、南井戸の周囲に寄っていた。村の東側、湧き水を使う家にはほとんどない。北の高台にある家にも赤はない。
赤い小石は、人を追っていない。
家柄も、信仰の深さも、年齢も追っていない。
追っているのは、水路だった。
「リョウコ殿、こちらの家はどうしましょう」
「具合の悪い人がいないなら、白い小石を置いてください」
「病人ではない家も、置くのですか」
「はい。倒れた人だけを見ると、偏りが分かりません。倒れていない人も必要です」
セリオは真剣な顔で白い小石を並べた。
白があるから、赤の偏りが見える。
発症日を書いた木札は、三日前、二日前、昨日、今日と続いていた。大雨の翌々日から増えている。食べ物が原因という線は薄い。隣家で同じ粥を食べても、東の湧き水を使う家は倒れていない。
(異世界に来ても、聞き取り票からは逃げられない)
少しだけ内心で苦笑した。
だが、笑いごとではない。赤い小石の一つひとつには名前がある。腹を押さえ、吐き気に耐え、指先のしびれに怯えている人がいる。
「疫学調査、というものがあります」
私は集まった村人に向けて言った。
難しい言葉に、数人が眉をひそめる。
「えきがく、とは、疫病を楽にする祈りですか」
老婆が真剣な顔で聞いた。
「違います。むしろ、聞かれる方はあまり楽ではありません。名前と、水と、食べたものを何度も聞かれます」
「それは、たしかに楽ではないねえ」
誰かが小さく吹き出した。
私はうなずいた。
「でも、楽ではない聞き取りで、楽になる人を増やします」
「同じ症状の人を、一つのまとまりとして見ます。いつから具合が悪いかを聞きます。どこに住んでいるかを地図に落とします。何を食べたか、何を飲んだかを聞きます」
私は赤い小石の集まった場所を指した。
「そうすると、見えないものが少し見えることがあります」
「紙で病が止まるなら苦労はない」
低い声が戸口から投げられた。
振り返ると、広い肩の男が立っていた。革の上着に鉱石の粉がつき、腰には斧を下げている。鉱山監督のグラントだと、セリオが小声で教えてくれた。
グラントは部屋の中を見回し、地図を鼻で笑った。
「紙だの石だの、薄いものと丸いものを並べて、水が言うことを聞くか。神官さまが聖水を配っても止まらんものを、王都の記録係が石遊びで止めるのか」
村人たちが不安そうにざわめいた。
私は羽根ペンを置いた。
「紙に書かなければ、どこから止めればいいか分かりません」
「止める?」
「はい。病にも毒にも、人へ届く道があります。道が見えれば、塞ぐ場所を考えられます」
「まさか、山の仕事まで止める気じゃないだろうな」
早い。
私が決めつける前に、自分から山の話へ来た。
ただし、ここで飛びつくと失敗する。前世でもそうだった。原因らしいものを見つけた瞬間ほど、足場を固めなければならない。
「決めつける前に、見るものを増やします」
「何を」
「南井戸と南水路です」
グラントの目が細くなった。
「水は流れれば清くなる。昔からそうだ」
「昔から同じ流れなら、そうかもしれません」
私は発症日の木札を指した。
「ですが、患者は大雨の二日後から増えています。何かが変わった可能性があります」
セリオが息をのんだ。
「大雨……」
「神官さま。雨の日に、村で変わったことはありませんでしたか」
「南の低地で水があふれました。教会の裏まで泥が来て、鉱山道も少し崩れたと聞いています」
グラントの口元がわずかに動いた。
それを見逃さないように、私は手帳に一行足した。
鉱山道、崩れ。
◇
南井戸の水は、見た目には透明だった。
石組みの井戸の縁は、何人もの手で黒ずんでいた。桶の底にはうっすらと青緑色の粉が残っていた。光の加減によっては、ただの泥にも見える。
井戸の外側、石組みの低いところにも、乾いた青緑の泥が筋になって残っていた。南水路は井戸のすぐ上手をかすめて村へ入っている。大雨の日にあふれれば、泥水が井戸の石組みの隙間まで届いてもおかしくない。
私は桶を傾けた。
「この粉は、いつからありますか」
近くにいた老婆が首をかしげる。
「雨のあとからかねえ。井戸が濁ったから、しばらく汲んでは捨てたんだけど、透明になったから使っていたよ」
「大雨の日、水路の水はここまで来ましたか」
老婆は井戸の外側に残った泥の線を見て、目を細めた。
「ああ、そういえば、井戸のまわりまで泥が来ていたよ。蓋も少しずれていてね」
「飲んだとき、いつもと違う味はしましたか」
「少し、金気のある味がした。でも、山の水はそういうこともある」
私は桶の底を布でぬぐい、包んだ。
確定はできない。私は現代の検査機器を持っていない。青緑の粉が何で、どれほど危険かを、この場で精密に言うことはできない。
ただ、王都中央治療院の記録で読んだ症例に似ていた。輝石鉱の粉が水に混じると、舌に苦みを残し、腹痛や手足のしびれを起こすことがある。小魚が先に死ぬこともある、と。
記録にあった症例では、輝石鉱の粉を含んだ水を飲んだ者は、早ければその日のうちに、遅くとも翌日には腹痛やしびれを訴えていた。
それでも、患者の症状と水源の偏りと発症日の並びは、こちらへ向かっている。
「水路を見ます」
南井戸から少し上ったところに、細い水路があった。畑へ水を引くためのものだ。水面の端に細かな泡が寄り、底に同じ青緑の筋がたまっている。
セリオが裾をまくって、泥の中へ入ろうとした。
「神官さま、肌を水につけないでください。毒かもしれません」
「では、石の上を行きます」
セリオは法衣の裾を縛り、杖で水底を探りながら進んだ。白い法衣の裾が、すぐに灰色になった。
「無理をしなくても」
「いいえ。私が配った聖水を飲んだ子が倒れました。ならば、私も水を見ます」
声は震えていたが、足は止まらなかった。
しばらく上流へ歩くと、水路の脇に小魚が浮いていた。腹を上に向け、流れの弱い場所に引っかかっている。
セリオが顔をこわばらせた。
「魚まで死ぬのですか」
「魚は、聖水を飲みません」
その場にいた村人たちが黙った。
水路は鉱山道の下をくぐり、さらに上へ続いていた。道の先では、岩肌が削られ、輝石鉱山の入口が黒く口を開けている。
坑口の近くに、仮の洗い場があった。
木の樋を組み、掘り出した石を水で洗っている。本来なら、鉱石の粉を沈める沈め池へ受けるはずの洗い水が、溝を伝い、斜面を下って南水路へ落ちていた。
水は青緑に濁っていた。
鉱夫が私たちに気づき、手を止める。すぐにグラントがやって来た。
「勝手に入るな。ここは鉱山だ」
「雨で沈め池が壊れましたか」
私は聞いた。
グラントの眉が動く。
「……応急の洗い場だ。納期がある。王都の工房が輝石を待っている」
「洗い水は、南水路へ流れています」
「一時的だ」
「いつからですか」
「大雨の翌日からだ」
セリオが地図を抱えた手に力を入れた。
大雨の翌日から洗い水が流れ、大雨の二日後から患者が増えた。
まだ、ただの一致だと言うこともできる。
だが、一致が重なりすぎている。
「鉱山を止めろと言うのか」
グラントの声が荒くなった。
「鉱山が止まれば、村の仕事も止まる。鉱夫だけじゃない。荷運び、飯炊き、鍛冶屋、馬屋。みんな食えなくなる」
「鉱山を潰せとは言っていません」
「同じことだ。洗えなければ石は出せん」
「村の水路へ流すことを止めてください」
グラントは笑った。
「色が同じだけで鉱山のせいにするのか」
「色だけではありません」
私は手帳を開いた。
「患者は南井戸か南水路の水を使った人に集中しています。看病した人には広がっていません。東の湧き水を使う家は倒れていません。大雨の二日後から増えています。そして、大雨の翌日から、この洗い水が南水路へ入っています」
グラントの後ろで、若い鉱夫が目を伏せた。
「俺の妹も倒れた。南井戸だ」
別の鉱夫が言った。
「うちの親父もだ。手がしびれるって、飯椀を落とした」
グラントは振り返った。
その顔に浮かんだのは、怒りだけではなかった。計算と、焦りと、見たくなかったものを見た人間の表情だった。
私はセリオに目で合図した。
セリオが胸元の聖水瓶から手を離し、抱えていた地図を広げる。
「赤い小石は、水路に沿っています。祟りでも、信仰の深さでもありません」
「これは、人から人へうつる疫病として扱うべきではありません」
私は言った。
探していたのは、うつる病の感染源ではなかった。
村の水に入り込んだ、汚染源だった。
風が鉱山の匂いを運び、喉の奥に苦みを思い出させた。
「毒の名はまだ分かりません。ですが、水の毒として止めるだけの根拠はあります」
「根拠?」
「今止めれば、これ以上倒れる人を減らせます。止めなければ、鉱夫の家族も、村の子も、同じ水を飲み続けます」
グラントの拳が震えた。
「礼を言えという顔をするな」
「していません」
「俺は負けたわけじゃない」
「勝ち負けではありません。水の流れを変える話です」
グラントはしばらく黙った。
やがて、肩から斧を下ろすように、重く息を吐いた。
「半日だ。半日止める。その間に、こっちで作る」
「仮の沈め池を?」
「土嚢と板で受ける。あと、別の溝だ。村の水路に落とさず、採掘場内の窪地へ逃がす。沈んだ粉は、あとでさらって鉱石置き場へ戻す。だが、半日で足りなければ、文句は王都に言え」
「王都には、私が書きます」
私は手帳を閉じた。
「ただし、点検簿も作ります。雨の後に壊れていないか、誰がいつ見たか、記録してください」
グラントは心底嫌そうな顔をした。
「また紙か」
「はい」
「紙で鉱山が動くか」
「紙は動きません。人が動くための約束を残すだけです。紙がないと、次にまた同じことが起きます」
鉱夫たちの間から、小さな笑いが漏れた。
グラントはその笑いをにらんだが、怒鳴りはしなかった。
◇
村に戻ると、教会の鐘が鳴らされた。
疫病を知らせる鐘ではない。水を分けるために人を集める鐘である。
私は地図の前に立ち、村長、神官セリオ、鉱山監督グラント、村人たちへ説明した。
「南井戸は一時使用禁止にします。飲み水にも、粥にも、聖水を薄める水にも使いません」
「透明に戻ってもか」
村長が聞いた。
「透明でも、今は使いません。南井戸の水は、煮沸しても飲まないでください」
煮沸は大事だ。だが、何でも解決する魔法ではない。少なくとも、鉱石粉の混じった水を安全にする保証はない。
「東の湧き水を配ります。遠い家から先に。病人のいる家には多めに。桶は一度洗い、粉が残るものは使わない。古い桶は湯で洗って乾かしてください」
セリオがうなずいた。
「教会の器も洗います。聖水を配る器もです」
村人の一人が不安そうに手を上げた。
「じゃあ、聖水はもう効かないってことですか」
セリオの肩が強張った。
私は答えようとして、やめた。
これは私の言葉では足りない。聖水を信じてきた村人には、神官の言葉が必要だ。
セリオは聖水の瓶を両手で持った。
「聖水も配ります。ただし、清い器で、清い水とともに配ります。汚れた水を飲ませながら祈っても、神はお喜びにならないでしょう」
セリオは一度だけ聖水瓶を見下ろし、続けた。
「祈りを止める必要はありません。毒水を止める必要があります」
広場が静かになった。
母親たちが、瓶ではなく桶を見た。若い男たちが東の湧き水へ向かう支度を始めた。老婆が古い桶を裏返し、底に残った青緑の粉を見て顔をしかめた。
南井戸へ向かう前、私は村長に頼み、神殿の伝令符で王都へ短い報告を飛ばしていた。
水源汚染の疑い。神殿の給水協力を請う。
そこへ、伝令符が淡く光り、封蝋のついた小さな紙片を吐き出した。
王都からの返書だった。聖女リュミエラの印が押されている。
封を開ける手が、少し震えた。王都中央治療院で、私は彼女の治癒魔法を何度も見ている。折れた骨をつなぎ、熱にうなされる子を眠らせる光だ。奇跡という言葉が、大げさではない人である。
手紙には、短くこうあった。
『病を治すことと、病を増やさないことは別の仕事です。
調査を続けてください。神殿は水の配布と病人の保護に協力します。
聖水は、人を責めるためのものではありません。
追伸。リョウコさんも、ちゃんと水を飲んでください。調査係が倒れると、記録欄が一つ増えます』
セリオが目を伏せた。
「リュミエラ様らしいお言葉です」
「はい」
私は手帳の端に、小さく「自分も飲水」と書き足した。
「今、書きましたね」
「書けば忘れにくくなります」
「リュミエラ様に報告しておきます」
「そこは記録しなくていいです」
セリオが、この村へ来てから初めて、少しだけ声を出して笑った。
そして、何も言わずに湧き水の入った杯を差し出してきた。
「今ですか」
「今です。記録に書いたばかりですから」
村長までこちらを見ている。
私は観念して、杯を受け取った。冷たい水が喉を通る。
「……確認しました。調査係、生存中です」
「よかったです」
セリオは真面目な顔で言ったので、今度は私の方が少し笑ってしまった。
私は手紙を村長に渡した。
「神殿の協力が得られます。水の運搬と病人の見守りを分担しましょう」
そこからは、地味な仕事だった。
南井戸には縄を張った。子どもでも分かるように、赤い布を結んだ。字が読める人向けには「飲み水に使わない」と札を書いた。
東の湧き水には列ができた。誰が何桶持っていくか、名簿にした。病人の家へ運ぶ分を先に分け、元気な家は後に回した。
母親たちは、余った布を細く裂いて、桶の持ち手に家ごとの印を結び始めた。青い花柄はリオの家。黄色い縞は陶工のマーナの家。小さな布きれが風に揺れると、ただの配布列が、少しだけ市の日の屋台みたいに見えた。
「これなら、うちの桶が迷子になりませんね」
誰かがそう言うと、別の母親が「桶まで看病されたら困るもの」と笑った。
笑い声は小さかった。けれど、村に戻ってきた最初の温度だった。
(水の配布表は地味だ。だが、地味な表ほど現場では強い)
前世で何度も思ったことを、異世界の教会前でも思うことになるとは。
水の配布が動き始めたのを見届けてから、私は鉱山へ戻った。
鉱山では、グラントが鉱夫たちを怒鳴りながら動かしていた。
仮の沈め池を掘る。といっても、完全な池ではない。土嚢と板で洗い水をいったん受け、沈んだ粉をあとでさらい、村側の流れへ入れないための応急処置だ。水があふれる時の逃がし道も、採掘場内の窪地へ変える。
完全ではない。
現代の基準なら足りないところだらけだ。検査もない。設計図も粗い。雨が続けばまた崩れるかもしれない。
だからこそ、点検簿を作る。
「雨が降った翌朝、誰が見たか。土手が崩れていないか。水がどこへ流れているか。青緑の粉が水路に出ていないか。書いてください」
私は板に項目を書いた。
日付。天気。点検者。沈め池。排水溝。異常。対応。
グラントは板を見て、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「鉱夫に字を書かせる気か」
「書ける人が書けばいいです。読めない人は、点検して口で伝える。書く役を決めてください」
「面倒だ」
「はい」
「面倒だと分かっていて言うのか」
「面倒だから、次に忘れないために書きます」
グラントはしばらく黙り、そばにいた若い鉱夫を顎で指した。
「おい、ニル。お前、帳面を読めたな」
「少しなら」
「少しでいい。今日からお前が書け」
「俺がですか」
「俺に読ませろ」
ニルは驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。
グラントは私を見た。
「礼は言わん」
「まだ終わっていません」
「そういうところが、腹立つ」
「よく言われます」
前世でも、苦情対応の窓口で似たような顔をされた。井戸水や排水の苦情対応。保健所でも、だいたい胃が痛くなる案件だった。
ただ、胃が痛いからといって、紙を置かない理由にはならない。
◇
対策を始めて三日目の朝、新しく倒れた人はいなかった。
もちろん、すでに具合の悪い人が急に全員立ち上がったわけではない。リオの父親はまだ起き上がれず、陶工のマーナは指先のしびれが残っていた。吐き気の強い者には、湧き水を少しずつ飲ませ、治癒師が腹の痛みを和らげた。
聖水も配られた。
ただし、南井戸の水で薄められることはなかった。教会の器は洗われ、湧き水を入れた桶には布のふたがかけられた。
対策を始めて四日目、新しい患者は一人だけだった。
その家は、山番から戻ったばかりで周知を受けておらず、夜明け前に古い桶の底に残っていた水で粥を作っていた。私はそのことを患者発生記録に書いた。
責めるためではない。
どこで手順が漏れたかを見るためだ。
対策を始めて五日目、新しい患者はゼロだった。
村人たちは、ようやく息を吐き始めた。
教会の裏で、リオが母親に支えられて座っていた。顔色はまだ悪いが、目は開いている。
私は椀を差し出した。
「東の湧き水です。少しだけ」
リオは両手で椀を持ち、こくりと飲んだ。
そして、不思議そうに言った。
「苦くない」
母親が口元を押さえた。
リオは膝の上で、何かをもぞもぞと握っていた。
「これ、リョウコさんに」
差し出されたのは、丸い白い小石だった。川で拾ったのだろう。まだ少し湿っていて、親指の腹ほどの大きさしかない。
「赤い石じゃないやつです」
「白い石ですね」
「うん。もう、うちに赤い石を置かなくていいように」
母親が、泣き笑いの顔でリオの髪を撫でた。髪はまだ汗で額に貼りついていたが、その手つきはひどく優しかった。
聖水の小瓶を握っていた手は、今は椀を包んでいる。指はまだ震えていたが、離さなかった。
「よかった」
私はそれだけ言った。
本当は、よかったで済む話ではない。倒れた人はいる。苦しんだ子どももいる。鉱山の洗い水が村に流れた事実は消えない。
それでも、今日の水が苦くないことには意味がある。
意味があるものを、積み上げていくしかない。
◇
七日目に、村長の家で最後の話し合いが開かれた。
机の上には、三冊の帳面が並んでいた。
井戸使用簿。
患者発生記録。
鉱山排水点検簿。
どれも立派なものではない。余った羊皮紙を綴じ、表紙に木の板をつけただけだ。だが、誰が見ても分かる名前がついている。
「南井戸は、いつ戻せる」
村長が聞いた。
「少なくとも、青緑の粉が出ないことを確認し、しばらく新しい患者が出ないことを見てからです。できれば王都から検水官を呼んでください。井戸や水路の水を調べる役人です」
「また王都か」
グラントが腕を組んだ。
「王都の連中は遅い」
「だから、それまで使わない判断が必要です」
「鉱山は動かしている。洗い水は沈め池へ入れている。点検もしている」
グラントは不満そうに言いながら、帳面を押し出した。
そこには、ニルの少し曲がった字で、毎朝の点検結果が書かれていた。
日付。晴れ。沈め池、異常なし。排水溝、村側への流入なし。点検者、ニル。確認者、グラント。
私はその最後の行を見た。
「確認者も書いたんですね」
「書けと言ったのはあんただ」
「いい記録です」
「ほめるな。気味が悪い」
グラントはそっぽを向いた。
だが、帳面を取り返す手つきは乱暴ではなかった。
セリオが、井戸使用簿を手に取った。
胸元の聖水瓶ではなく、帳面の背を両手で支えている。
「これは教会で預かります。南井戸をいつ止め、どこの水を配ったか、誰でも見られるようにします」
「神殿が井戸の帳面を?」
村長が目を丸くした。
セリオは静かにうなずいた。
「聖水の隣に置きます。清い水を守る記録ですから」
誰も笑わなかった。
聖水の隣に井戸使用簿。
前世の私が聞いたら、少しだけ首をかしげたかもしれない。だが、今の私には、それがとても自然に思えた。
人は、信じるもののそばに大事なものを置く。
この村では、これから水の記録も大事なものになる。
「リョウコ殿」
セリオが言った。
「私は、聖水が足りなかったのだと思っていました。祈りが足りないのか、私の力が足りないのかと」
「神官さまは、病人を放っておきませんでした」
「でも、止められなかった」
「止める仕事は、別にあります」
私はリュミエラの手紙の一文を思い出した。
病を治すことと、病を増やさないことは別の仕事。
「治す人がいて、運ぶ人がいて、記録する人がいて、井戸に縄を張る人がいます。全部あって、ようやく止まります」
セリオは少しだけ笑った。
「では、私は聖水と井戸使用簿の番をします」
「とても大事な仕事です」
グラントが鼻を鳴らした。
「俺は排水点検簿の番か」
「はい」
「まったく、鉱山監督が水路の番人とはな」
戸口の方で、子どもが小さく「水路の番人グラント」とつぶやいた。
母親が慌ててその口を押さえる。
グラントはぎろりとそちらを見た。
「聞こえているぞ」
子どもは母親の手の下から、もごもごと答えた。
「ごめんなさい、番人さま」
村長が咳払いをし、セリオが必死に真顔を保った。私は手帳で口元を隠した。記録係にも、隠すべき表情はある。
「鉱山を続けるために必要です」
その言葉に、グラントは黙った。
鉱山を止めるためではない。
続けるために、水を守る。
そこを間違えなければ、村は鉱山と一緒に生きていけるかもしれない。少なくとも、毒を流しながら「昔からそうだ」と言い続けるよりは、ずっといい。
◇
王都へ戻る朝、ミルダ村には薄い霧がかかっていた。
南井戸にはまだ縄が張られている。赤い布は朝露を吸って重そうだった。東の湧き水へ向かう道には、桶を担ぐ人の足跡が続いている。
教会に挨拶へ行くと、セリオが棚の前に立っていた。
上の段には聖水の瓶が並んでいる。淡く光る水が、朝の光を受けて揺れていた。
その隣に、井戸使用簿が置かれていた。
セリオの手は、聖水瓶ではなく、井戸使用簿の背をそっと支えていた。
表紙には、セリオの字でこう書かれている。
清い水を守る記録。
表紙の右下には、小さな水滴の絵が描かれていた。たぶん子どもの手だ。丸が少しゆがんでいて、しっぽのような線までついている。
「これは」
「リオくんです。どうしても描きたいと」
セリオは困ったように笑った。
「水の帳面だから、水の絵が必要だそうです」
「少し大げさでしょうか」
セリオが照れたように言った。
「いいえ。分かりやすいです」
「聖水の隣でよいのか、少し迷いました」
「同じ棚でいいと思います」
棚の端には、小さな白い陶器の杯も置かれていた。縁に青い線が一本だけ入っていて、底には小さな花の模様がある。
「こちらは?」
「マーナさんが、前に焼いておいた杯を持ってきてくれました。井戸を戻す前に、水の色と匂いを見るための検水杯にしてほしいそうです」
「かわいいですね」
「はい。ですが、本人は『飲むための杯ではありません』と何度も念を押していました」
「大事な区別です」
「色と匂いを見る。味は見ない。そこまで書いておきましょう」
神殿の棚に、聖水と、井戸使用簿と、検水杯。
奇妙で、少し頼もしい並びだった。
私は棚を見た。
祈りと、記録。
奇跡と、手順。
どちらか一つで全部を背負わせるから、無理が出る。並べて置けばいい。必要な時に、必要なものを手に取ればいい。
教会の外では、リオが母親と一緒に手を振っていた。まだ走れないが、立っている。母親は空の桶を抱え、深く頭を下げた。
私は手を振り返した。
「リョウコ殿」
背後からセリオの声がした。
「また、村で分からないことが起きたら、手紙を書いてもよいでしょうか」
「もちろんです」
「その時は、まず何を書けばよいですか」
「名前です」
私は即答した。
「誰が、いつから、どこで、何に困っているか。まず、それを書いてください」
セリオは真面目な顔でうなずいた。
「分かりました。名前から」
私は少しだけ笑った。
保健所の仕事に、もともとチートはなかった。
魔法の光もない。剣で悪を断つこともない。あるのは、聞き取り票と、地図と、名簿と、何度も確認する面倒くさい手順である。
けれど、赤い小石が南井戸に集まるのを見れば、水を止められる。
発症日を並べれば、大雨のあとに何が起きたか考えられる。
誰がどの水を飲んだかを書けば、苦い水を子どもの椀に注がずに済む。
ただの水が、ちゃんとただの水であること。
それを守るのは、奇跡ではない。
記録と、手順と、面倒くさい確認だ。
その時、東の湧き水へ向かう足音にまぎれて、聞き覚えのある声がした気がした。
『水を見ましたね、水城さん』
たぶん疲れているのだろう。
けれど、声の主は分かる。
ツクヨだ。
私は、反射的に心の中で言い返した。
(見ましたよ。見たのは私ですけどね)
とんがり帽子。星柄マント。胸元の『MAGIC』の刺繍。
(何もやっていないくせに、最後だけいい声で出てこないでください)
返事はない。
代わりに、ポケットの中で、リオにもらった白い小石が指先に当たった。
私は少しだけ笑い、手帳を閉じた。
ミルダ村の水は、今日も流れている。
ただし、もう誰も「透明だから安全」とは言わない。
それだけで、村は一つ強くなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
凡人枠シリーズ、今回は前世が保健所職員だったリョウコの話です。
聖水や治癒魔法を否定する話ではなく、「治すこと」と「増やさないこと」は別の仕事、という話として書きました。祈りの隣に、井戸使用簿や検水杯が置かれていてもいい。そんな着地になっていれば嬉しいです。
派手なチートも大魔法もありませんが、名前を聞く、日付を並べる、水を見る、記録を残す。そういう地味な手順で守れるものもあると思っています。
評価、ブックマーク、感想などいただけると、とても励みになります。




