【第1話 詰まらない声】
カリフォルニアの冬は、思ったより冷える。
中村海──英語名Kai Nakamuraは、コンビニのレジに立っていた。
二十三歳。日系アメリカ人。両親は日本人移民で、家では日本語、外では英語。
名前は「海」だが、誰もそう呼んでくれない。
学校ではKai。バイト先では「Hey, Kai」。
それでいいと思っていた。呼びやすい名前でよかった、と。
「お釣り、4ドル75セントです」
言おうとした。
でも、喉の奥で言葉が引っかかった。
「お……お釣りが……4……」
客は中年男性で、スーツ姿。スマホを片手にイラついた顔で待っている。
カイは額に汗が浮くのを感じた。ゆっくり、ゆっくり言えば出るはずだ。
でも急かされると、余計に詰まる。
「……す、すみません」
結局、黙ってお釣りをトレイに置いた。
男はため息をついて出て行った。
カイはレジの下で拳を握りしめた。
またやった。また、普通に言えなかった。
シフトが終わると、外はもう暗い。
アパートまでの道を歩きながら、スマホでオンラインゲームのフレンドからメッセージが来ているのを見た。
「今日ボイチャでやろうぜ! Kaiの声聞きたいわ」
カイは立ち止まり、画面を見つめた。
返事はすぐに打てた。
「ごめん、今日は喉の調子悪い」
嘘だった。
喉は悪くない。ただ、マイクをオンにすれば、きっと詰まる。
みんなの笑い声が聞こえる中で、「あ……あの……」ってなるのが怖い。
テキストなら饒舌になれるのに。
本当の自分は、声じゃなくて文字の中にしかいない。
家に着くと、母親が日本語で迎えた。
「海、おかえり。ご飯温めとく?」
「……う、うん」
本当は言いたかった。
仕事が決まらないこと。
面接でまた詰まって落ちたこと。
毎日、言葉が出ない自分が嫌でたまらないこと。
でも、詰まるのが怖くて、
「……だ、大丈夫。自分でやる」
そう答えるのが精一杯だった。
母親は優しく笑った。
「無理しないでね、海」
その笑顔が、胸を締め付けた。
夜、ベッドに倒れ込む。
枕に顔を埋めて、声を殺して呟く。
「なんで……俺は、普通に話せないんだ……」
涙がにじんだ。
いつか、詰まらずに全部言える日が来るのか。
誰かに、本当の気持ちをちゃんと伝えられる日が。
そんな日が来るなら、どんな代償でも払うのに。
──翌朝。
いつものように横断歩道を渡ろうとした瞬間だった。
トラックが、猛スピードで突っ込んできた。
ブレーキの音。
悲鳴。
そして、衝撃。
視界が白く染まった。
次に目を開けたとき、そこは見慣れない場所だった。
大理石のような床。
周囲を囲む光の柱。
中央に、浮かぶ一人の女性。
美しい。
長い銀髪が光を反射し、瞳は星のように深い。
白いドレスを纏い、背後には淡い光の輪が浮かんでいる。
女神、だろう。
彼女が口を開いた。
美しい声が響いた。
でも、意味がわからない。
ただ、耳に心地よい響きだけが残る。
まるで──遠い記憶の中の、子守唄のような。
女神は微笑み、手を差し伸べた。
カイの胸に、温かいものが流れ込んだ。
【言語理解の欠片】
そんな言葉が、頭の中に直接浮かんだ。
女神はもう一度、何かを語りかけた。
また、意味はわからない。
でも、優しい感情だけは伝わってきた。
──頑張って。
──この世界で、あなたの声が必要だから。
カイは、初めて口を開いた。
「……ありがとう」
言葉が出た。
詰まらない。
スラスラと、喉から自然に。
カイは目を見開いた。
自分の声が、信じられない。
「俺……今、普通に……話せた?」
声が震える。
喉に手を当て、繰り返す。
「俺は……中村海。Kai Nakamura……」
詰まらない。
本当に、詰まらない。
涙が溢れた。
膝をつき、床に額を押しつける。
「やっと……やっと、話せた……!」
どれだけ待っていただろう。
この瞬間を。
詰まらずに、自分の声を聞ける瞬間を。
女神は優しく微笑み、光が強くなった。
次の瞬間、カイは草原に立っていた。
青い空。
遠くに街が見える。
中世風の建物。
明らかに、異世界。
近くにいた人間らしい男性が、驚いた顔で近づいてきた。
「おい、大丈夫か? 急に空から落ちてきて……」
カイは反射的に答えた。
「え、あ……はい、大丈夫です!」
また、詰まらなかった。
流暢に、言葉が出た。
男性が安堵の笑みを浮かべる。
「よかった。名前は?」
「カイ……です」
男性が手を差し出した。
「俺は冒険者ギルドの者だ。街まで案内するよ」
カイは握手を返しながら、胸が熱くなった。
やっと、話せた。
やっと、誰かと普通に会話できた。
でも──
そのとき、遠くから別の声が聞こえた。
美しい歌のような響き。
振り返ると、森の縁に銀髪の女性が立っていた。
尖った耳。
エルフ、だ。
彼女がこちらを見て、何かを話しかけてきた。
美しい。
まるで音楽だ。
でも、意味がわからない。
ただ、優しい感情だけが、ぼんやりと伝わってくる。
カイは息を飲んだ。
人間とは話せた。
でも、これは……通じてない。
やっと自由になったと思ったのに。
また、伝わらない世界が始まるのか。
カイは唇を噛んだ。
でも、今度は違う。
逃げない。
もう、伝えられないまま後悔するのは、嫌だから。
第1話 終わり
(次回、第2話 美しい音楽の意味)




