1日目(前)
肌寒いと表現するにはまだまだ寒い3月の末。
エアコンのない体育館でパイプ椅子に腰を下ろして、長々と続く校長先生の有難いお言葉に耳を傾ける。……傾けているようなふりをしながら、僕は熱を失った指先を擦り合わせた。
しがない県立高校の体育館は寒い。琴乃ほどではないけれども、僕も結構寒がりだ。末端冷え性とは言わないまで、長時間、素肌を晒しているとやはり冷える。
それでも真冬に比べると幾分もマシだけれど。
冬休みから今を経て、僕と琴乃の異質な関係性は一定の落ち着きを得た。
琴乃の「お兄ちゃんの事大好きだから絶対落としてやるんだからっ!!(意訳)」宣言から、冬休みの時の危なっかしい琴乃は完全にいなくなり、出来のいい完璧妹へと戻っていった。
相変わらず表情で語らない可愛らしい鉄仮面と、何事にも動じないジト目を携えて、鮮美透涼な佇まいで我が家で天使として降臨なさっている。
冬休みから大きく変わったところとなると、やはり琴乃とヴァイス関係性についても言及すべきだろう。
年明け前に初めて会話をした二人だったけれど、『琴乃からの一方的な敵視』によってコミュ力お化けのヴァイスでもかなり琴乃の攻略には苦労しているようだった。
だが、琴乃の好物がハーゲンダッツと分かるや否や、僕の家に遊びに来るたびにハーゲンダッツを持ってくるようになり、見事に琴乃を陥落させた。
ここまでくると最早、琴乃が単純すぎるだけな気もするが、あれほど拒絶していた琴乃を懐柔させるために何度も何度も絡みにいったヴァイスの執念勝ちなのだろう。
とはいえ、未だ琴乃からは警戒されているようで、僕がヴァイスの話をすると、やや不機嫌になる。
せっかくだから仲良くなってもらいたいものだが、どうなることやら。
琴乃と翔真くんの恋人関係は今も継続している。
それなりに仲良くやっているらしい。……琴乃が翔真くんの事をあまり僕に話さない為、そのあたりはかなりあやふやなのだけれど、僕には琴乃の友達である琴野ちゃんという琴乃専属のスパイがいる。
琴乃の学校生活の様子は琴野ちゃんからの報告で、ある程度把握できる。
そのおかげで琴乃と翔真くんの関係性については、一定の把握が可能なわけである。
だがまぁ、その代償として月に一度は琴野ちゃんと遊びに行かなければならないわけだけれど、琴乃の学校生活を知ることが出来ることを考えれば安い出費である。
出費といえば、3日後のバーベキューについてもそろそろヴァイスと話を詰めないといけない時期だろうか。
数週間前にヴァイスからの提案で僕たちは近場の山でバーベキューをすることとなっていた。
参加者は僕と琴乃と翔真くんと翔真くんのお兄さん、そしてヴァイスの5人だ。
事の発端は冬休みにヴァイスの車の後部座席に積まれた無残なバーベキューの器具たちを目にした僕がバーベキューの話をしてしまったことに起因するのだけれど、まさかこんな早いタイミングで行くことになるとは思わなかった。
流石は行動力の化身ヴァイスである。
準備とかはヴァイスの方で全てしてくれるらしいが、せめてお肉くらいは僕たちの方で用意すべきなのではないかと考えているわけだけれど……。
そのあたりは翔真くんのお兄さんとも相談したいところだし、ひとまずは保留としておこう。
壇上から校長先生が降りていく。ようやく長い長い話が終わったようだ。
ほとんど聞いてなかったけれど。
しかし、友達のいなかった僕がまさか友達とバーベキューだなんてな。なんとも感慨深い。
琴乃と二人で過ごす時間の中に、他の連中が混ざってくることが、意外と嫌じゃない自分に少しびっくりしてるけれど、……なにはともあれ。ともあれだ。
また琴乃と一緒に過ごす時間が増える長期休暇がやってくる。
夏休み、冬休み、と今のところ連続して僕と琴乃の間にはそれなりの波乱が起こっている。
果たして今回の春休みは平和に過ごすことが出来るんだろうか。
何事も平和が一番なんだけどな。
そんな前回までのあらすじとこれからの展開に対する導入をしっかりと決め込んだところで、僕は自宅の玄関を開けた。
そこで気づく。玄関に普段目にしない靴が2セット。スニーカーとローファーが一組ずつだ。ローファーは琴乃と同じ種類のものだから、恐らく琴乃の友達だろうが……このスニーカーは……。
「なはははははっ!」
リビングから独特な笑い声が聞こえてくる。
あんな特徴的な笑い方をする奴はヴァイスしかいない。っていうかなんでうちにいるんだあいつ。
また琴乃にちょっかいかけてるのか……。いや、今は琴乃の友達も誰か来ているのだし、……まさか友達まるごとちょっかい出してるのか。
とりあえずあいつの暴走を諫めておくべきだろう。
「お、少年。おかえり!」
なぜか我が物顔でソファで足組んで、だらっとした姿勢で僕に手を振るヴァイス。
「おかえりなさい! お兄さん!」
ヴァイスの横隣りでニコニコ笑顔のまま元気よく笑いかけてくる琴野ちゃん。
「おかえりなさい。兄さん」
L字ソファのもう片側に座る我が家の天使。いや、この世界の全ての可愛さを集合させた女神そのものであるマイシスター。
しかしこう見ると全員可愛いな……。
琴乃は言うまでもないが、琴乃ちゃんも中学生らしいあどけなさとパワフルでありつつ愛嬌溢れるところは魅力的だし、ヴァイスは可愛いというより美人系だが……レベルが高いこと変わらない。
そんな美少女……ヴァイスに関しては美女だが、そんな彼女たちが琴乃のコミュニティだけでなく、僕のコミュニティの中にもいるのだというのは、不思議な話だよな。
「ただいま。ってかなんでヴァイスがいるんだよ」
「少年の修了式をお祝いしてあげよう思うてな」
「修了式は別にお祝いするようなもんじゃないだろ」
なははははは、とヴァイスがまた癖のある笑い声をあげる
「琴野ちゃん、大丈夫か? こいつになんか変なこと言われてない?」
「なんやなんや、うちはそんな危険人物やないで」
「あはは、大丈夫ですよお兄さん。眞白さんとても面白いですし!」
眞白ってのは、ヴァイスの下の名前だ。
僕とヴァイスはゲームセンターで出会ったという経緯からお互いをゲームのプレイヤーネームで呼び合う仲であるわけだが……いや、僕は別にプレイヤーネームでは呼ばれてないか。
だからゲームセンター、というかゲームそのものと縁がない琴乃はヴァイスのことをプレイヤーネームではなく本名で呼ぶ。琴野ちゃんも琴乃に倣ったのだろう。
「なははは、せやせや、うちはおもろいんやで」
「認めるな。謙遜しろ」
とりあえず僕も席に座るか。
L字ソファの片側に2人座ってるなら、必然的に僕の座る先は琴乃の隣になる。
よっこらせと琴乃の隣に腰を下ろす。
「兄さん、先に手を洗ってきてください」
「……はい」
琴乃はこんな状況でもいつも通りだな。
☆ ★ ☆
「え、琴野ちゃんも来るの!?」
「はい! 眞白さんに熱烈なアプローチを受けちゃいまして」
琴乃の言う通り、しっかり両手をキレイキレイして戻ってきてから、僕は帰宅するまでにどんな話で3人が盛り上がっていたのか確認した。
するとどうやら琴野ちゃんも3日後のバーベキューに参加する話となっていたようだった。
恐るべきヴァイスマジック。このコミュニケーションお化けは、出会って1時間も経っていない友人の妹の友人と的確に距離を詰めてしまえるのだからな。
まぁ、この場合は琴野ちゃんのコミュニケーション能力の高さもあるのだろうけど。
「琴乃ちゃんとそういうイベントみたいなことした事ないですし、お邪魔じゃないなら参加したいなと」
「琴野ちゃんがいいなら、ぜひ参加してくれ」
琴野ちゃんなら翔真くんとも交友関係があるし、気まずくなることもないだろうしな。
「というか、翔真くんと琴乃ちゃんってもう家族ぐるみのお付き合いになってるんだね!」
「……そうですね、そう捉えることもできるかもしれません。ただお互いの兄同士で面識があるだけで、ご両親とはお互いお会いしたことはありませんけど……」
琴野ちゃんからの質問に思案顔で答える琴乃。琴乃はやっぱり友達の前では多少分かりやすく表情を変えるらしい。
「お兄さんは翔真くんのこと認めたんですか?」
「うーん、まぁ、多少はな」
琴野ちゃんからの質問に僕は濁した返答をせざる負えなかった。
琴乃が翔真くんと付き合っている真の理由は知っている身からすると、認める認めないという次元の話では無いんだけれど、それを知っているのは僕と琴乃だけだ。
それに琴野ちゃんにはスパイ行為までお願いしてるわけだからな、兄の立ち位置としては渋々交際を認めてる、くらいに落ち着かせるのが妥当だろう。
「なはは、少年は相変わらずシスコン拗らせてんなあ。こんな兄を持ったら妹ちゃんも難儀やろ?」
「ええ、そうですね」
即答かよ。
「要らんのやったらうちが少年のこと引き取ったるけどどないや?」
「結構です」
「あら残念やなあ、妹ちゃんのことを思って言うとんのに〜」
何が引き取るだ。人を物みたいに言いやがって。
ニマニマと笑みを浮かべるヴァイスの顔もそろそろ見慣れてきた。
琴乃を篭絡するためにあれやこれやと週末になる度に僕らの家に押しかけて来ていたわけだし、当然と言えば当然か。
「そういえば兄さん」
「ん?」
琴乃が無表情な愛らしい顔を僕に向けてくる。
「先程から琴野ちゃんに対して、琴野ちゃん、と慣れたように呼んでいますけれど……いつ名前を知ったんですか?」
ぎくっ。
琴乃は僕と琴野ちゃんの夏休みでの出来事については知らない。
琴乃の認識では、僕と琴野ちゃんは少し顔を合わしただけの顔見知りだ。僕が琴乃の居ないところで琴野ちゃんと話してるとは毛ほども思ってない琴乃からすると、違和感を抱いて当然だ。
「それはね琴乃ちゃん」
ここで琴野ちゃんが答える。
頼むぞ、夏休みの告白の件とか琴乃へのスパイ行為とか言わないでくれよ。
「お兄さんとは冬休みに話す機会があったの!」
「冬休みですか?」
「そうそう、琴乃ちゃんの彼氏さんのことで少し」
「……?」
表情は変わってないが、首を微かに傾ける琴乃。
琴野ちゃんの回答に合点がいってないようだ。
「どうやって連絡を?」
「え、っと、偶然! 偶然外ですれ違って、挨拶したんだけど、すっごい元気なかったから、どうしたんですか、ってお節介しちゃった!」
きつい。きついぞ琴野ちゃん。
見ろ、琴乃の顔を。あの冷たい目が僕を見てきている。ジロリと圧をかけて僕を見つめてきてるぞ。頑張ってくれ琴野ちゃん。
「そうですか……」
実際、琴野ちゃんならそれくらいのお節介は簡単にしてしまいそうではある。
友人の兄の部屋にいきなり上がり込んで告白をしてくる女の子だ。その嘘には説得力しかない。
「なははは、妹ちゃんも気が抜けんなあ」
「……どういう意味ですか?」
「いやいや、女っ気の多い兄を持つと苦労するなあって話や」
女っ気が多くは無いだろ。
女の子の知り合いなんてヴァイスと琴野ちゃんしか居ないんだし。
「別に兄さんが女っ気が多くても構いませんよ。そんなことは有り得ないでしょうけれど。ただ、私の友人に変なことをしていないか不安なだけです」
おいおい、妹よ。
自虐する分には傷つかないが、妹からそんなばっさり有り得ないとか言われるとそれはそれで傷つくんだぜ?
「変な事ってなんや、告白とかか?」
「告白は別に変なことじゃねぇだろ」
「いやいや、高校生3年生にもなろうとしてる少年が、小学校あがりたての女の子に告白するのは変な事やろ」
楽しそうに笑うヴァイスではあるけれど、僕としては琴乃のジトっとした疑念の籠った目線が痛すぎて居たたまれない。
したことないからな。琴野ちゃんには告白されたのであって、僕が告白したわけではない。ましてその告白を受け入れたわけでもないのだ。僕に疚しい事は何一つとしてない。ないが。
実際、その出来事を琴乃には黙ってるんだよなぁ……。
「してねぇよ。僕はちゃんと良識を持った男子高校生だ」
「良識を持った男子高校生は、妹の下着をクリスマスプレゼントに所望するんですか?」
琴乃の言葉に場が凍った。
――は? と、表情にそれを全面に張り付けた琴野ちゃんとヴァイスが僕を見てくる。
「ち、ちがっ! あれは冗談で!」
「え、少年。冗談であれ、妹ちゃんの下着を欲しがったん……?」
「……お兄さん……流石の私もそれは庇えません……」
「ち、違うんだって!!」
違うわけではないが、違う!
事実ではあるが、事実じゃないんだ!
苦しい言い訳を続ける僕に、浅ましい愚民を軽蔑するお姫様の如く冷たい琴乃ではあったけれど、その口元がやや緩んでいるのを見て、僕の今年度は無事に終了したんだな、とどこか安堵を覚えてしまうのだった。