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王水を浴びる

作者: 城井 映

pixiv『エモい古語辞典』小説コンテスト応募作品です(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18757951)。

古語「金蘭の契り」(金を断ち切るほど強く、蘭のように美しく香り高い、心を通わせあった親友同士の友情のこと。極めて親密な交わり)をテーマに書きました。

 Ⅰ

 

 卒業式の後、特別棟屋上の室外機の陰で、私は森木想(もりきそう)とキスをした。甘く、優しい香りが鼻をくすぐったのを覚えている。

「どう……」

 そう訊かれて、私は目を開いた。長い睫毛の間から、森木の大きな瞳が私を覗き込んでいる。その綺麗な瞳に映る自分の虚像に向けて、私は答えた。

「何とも」

「そうかー。金城はそうじゃないかー」

 森木は残念そうに言うと、頭をかくんと反らした。髪が揺れ、しなやかな首筋が露わになる。その健康的な首と顔の境界を、私は見つめる。

「森木は私のことが好きなの?」

「好きじゃなければこんなことしないって」

 森木は呆れたように言う。

「ごめん」

「とか言いつつ、何も感じてないでしょ」

「うん。ごめん」

「ほんと、フラットガールだな、金城(きんじょう)は……」

 やれやれ、という風に森木は笑ってみせた。その笑みは、私に少年漫画に出てくる女の子を連想させる。

 森木は爛漫な子で、誰とでも隔てなく接した。誰とでも、とはそのままの意味で、男の子も女の子も平気で好きになったし、恋もした。成就すれば喜び、砕ければ悲しんだ。そして、最後には私の前で笑った。そういう子だった。

 一方、私はといえば、誰とでもフラットに接した。誰と話しても、何をしても、何があっても、相手や物事に対して何ら感情は動かなかった。恋をしようともしたいとも思わなかった。森木とのキスも、何とも思わなかった。

 だから、森木は私をフラットガールと呼ぶ。心が平板な奴。その通りだ。

「私抜きで大学生活、やっていけるの」

 森木は私の伸びた髪先をくるくる弄びながら言った。私は国立大学に進学し、森木は東京の専門学校に行くので、離ればなれになる。

「なんとかなると思う」

 私が言うと、森木は目を細めた。

「そうだよねー。金城って何でもそつなくこなしちゃうもんね。金城だけだよ、受験でピリピリしてる中、私と遊んでくれたのは」

「二月にカラオケとかライブに誘ったりしたら、誰だってピリピリもするよ」

「でも金城は付き合ってくれたでしょ。ライブでは不動明王だったけど」

 不動明王という語感に森木は自分で笑う。私は何とも思わない。

「私、フラットだから」

「自分で言うの凄いわ。キスしても何も思わないんだもんなあ」

 森木は私の肩に、こてんと頭を預けた。

「ごめんね。私、そういうの、わからなくて」

「まあ、実際問題、金城がドキドキしたら解釈違いだったかも。私たち、これで良いんだってわかっただけ、よかったよ。高校生活に悔いなし。あ、ところでさ『金蘭の契り』って言葉知ってる?」

 突然、森木の口から堅い言葉が出てきて、私は首を傾げた。

「何?」

「古語だよ。大学、文学部でしょ?」

「知らない」

 私は首を振る。森木はちょっと得意げになった。

「硬い金を引き裂くくらい固くて、蘭のように香り高い友情っていう意味の言葉だよ」

「そうなんだ。それがどうしたの?」

「……気づかなかった?」

 森木が上目遣いで見つめてくる。

「何が?」

「匂い」

 言われて、森木から優しく甘い香りを感じたことを思い出した。

「ああ、蘭の匂い?」

「そうそう! 胡蝶蘭のね、香水買ったんだあ」

「……まさかとは思うけど」

 ふふ~ん、と森木は悪戯っ子のように笑った。

「金城の金と、私の蘭の香り、これで『金蘭の契り』ってね! さっきのキスは、私たちの友情の証ってこと!」

「こじつけてきたね」

「ちょっとは感動してよ!」

 森木がわざわざそんなことを言うために、古い言葉を引っ張ってきて、香水を仕込んできたのだと考えると可愛かった。


 Ⅱ


 大学という機関は、私ととても相性が良かった。クラスという単位がなくて、好きな講義を取れる。自由度が出た分、生活の風通しは高校の時よりも良くなった。

 サークルや部活に入るつもりはなかったけど、結局、鉱石鑑賞をするサークルに入った。動機は浅く、私が新歓期間中のキャンパスを歩いていたら、ひとりの女の先輩に声をかけられたというだけ。

「ねえねえ、君君、金、って見てみたくない?」

 それは、私にとってタイムリーな申し出だった。脳裏には、ずっと卒業式後の森木とのやりとりが残っていた。蘭の香りがちらついた。

「はい、見たいです」

 なので即答すると、その人の方がびっくりしていた。

「ええ? ホントに?」

「金って、ゴールドですよね」

「う、うん。あ、インゴットじゃなくて、鉱石だけど……わかりやすく、ドーン! って感じじゃないけど……あ、うちら、鉱石サークルなんだけど、大丈夫?」

 気を遣う言葉がポンポン出てくる。声をかけてきたくせに変な人だ。

「大丈夫です」

 私は信頼する気になって、頷いた。

 彼女は持田(もちだ)さんといって、ディズニー映画に出てくる上品な犬のような人だった。快活な性格で「もちこ」と呼ばれて色んな人に親しまれている。

 持田さんは私を部室に連れて行った。広くはないスペースに、大量の資料と標本が並んでいる。数人のサークル員がたむろしていて、新入生の私はちやほやされた。

 くだんの金は幹事長の私物らしく、新歓のためと快く提供していたらしい。ケースに入った金は、いかにも鉱石らしく樹枝の形をしていた。

 初めて見た純金はぴかぴかしていた。

 それを確認しただけで、私は満足した。

「なんで手袋するんですか?」

 それから、私は無邪気に質問した。幹事長は鑑定人のような白い手袋をしていた。

「爪で引っ掻いただけで傷ついちゃうんだよ」

 と、持田さんが教えてくれる。

「金って硬いんじゃないんですか?」

「金は金属の中ではかなり柔らかいよ」

「ええ?」

 話が違う気がした。

 とてつもない友情でないと断ち切れないくらいの金属じゃなかったの?

 しかし、そんなことは常識らしくて、素人丸出しの私の反応に部室がちょっとざわついた。

「もう! せっかく興味持ってくれてるんだからさあ」

 持田さんはぷりぷりして、不躾な先輩方から私をかばってくれた。私は気にしていなかったけど、優しい人だな、と思った。

 それから、持田さんは履修登録のやり方を教えてくれたり、美味しいお店を教えてくれたりと良くしてくれた。どうしてこんなにしてくれるのか不思議だった。結局、私はそのサークルに入ることにした。ほどなくコロナが流行し始めて大した活動もなくなったけど、持田さんとは個人的に仲良くしていた。


 Ⅲ


 実家から荷物が届いた。中身は大量の食材だ。山ごもりするのかというくらい入っている。

 食材をあるべき場所に片すと、私はノートパソコンの前に戻る。入学祝いに兄に見繕ってもらったものだ。ただ、ほとんど文書作成にしか使わないので、ネット回線は契約はせず、スマホのテザリングで全部賄っていると兄に言ったら、すごい顔をしていた。

 画面の向こうには森木がいた。高校を卒業してからも、気が向けばカメラ付きで通話している。森木は台本を読んでいて、その傍らには高そうなマイクが置いてある。森木は東京で声優養成の専門学校に通っていて、その様子を見るたびに、遠い場所にいるのだと実感する。

「戻ったよ」

「あ、おかえり。郵便?」

 やけに音質の良い森木の声がそう言った。

「うん。実家から食材」

「へえ。実家の味が恋しくて送ってもらってるの?」

「うん。この辺で買ったものだと合わなくて。いつも実家の近所のスーパーで買ってもらってる。私、お母さんの料理も全部再現できるんだ」

 母も末娘の胃袋を心配しているので、喜んで協力してくれている。ありがたい話だ。

 ただ、森木はちょっと引いた顔をしていた。

「……マジかよ。ねえ、前からちょっと気になってたんだけど、その部屋の内装も、実家の金城の部屋を再現してる?」

「え、うん。全部同じ家具買って、同じレイアウトにしてる」

「あー、どうりで高校の時、遊びに行った雰囲気と変わらないわけだ。でも、新生活感なくない?」

「別にいいかな。私は同じ方が落ち着く」

「フラットだなあ」

「うん、フラットが一番……あ、フラットといえば」

 私はそこで新歓での裏切られたような気持ちを思いだした。

「金って一グラムあれば三キロ分の糸になるんだって」

「え、何、突然……」

「それくらい柔らかくて加工が簡単なの。それで、〇.〇〇〇一ミリまで薄くしたのが金箔」

「えっと……超フラットだね?」

「その程度でしかない金を裂くほどの友情って、何だろうって考えてて」

「……あーっ! 卒業式のあれね! お、覚えてたの……恥ずすぎるが……」

 森木は顔を真っ赤にして、手でパタパタ扇ぎ始めた。思い出すのにそれくらいエネルギーを使ったらしい。

「うん。金蘭の契りって……わざわざ森木が持ってきてくれた言葉だし、良い言葉だと思ったからずっと頭に残ってた。でも、金は固い関係を示すほどの硬さはないって知って」

「ま、まあ確かに、マイクラでも金で作った道具は簡単に壊れるけど……ふ、古い言葉だし、昔じゃ金も硬い部類だったんじゃないの」

「この言葉の出た頃にはもっと丈夫な青銅があったはず」

「えー! いやでもあれ、どんな強い酸にも溶けないって化学で習った!」

「濃硫酸と濃硝酸を合わせた王水には溶けるし」

「王水はズルじゃん! ねえ、金城さあ──」

「あと、金蘭の蘭の方、あれはランじゃない」

「……え?」

 ディスプレイ越しに森木が呆然とした顔をする。

「森木は胡蝶蘭の匂いをつけてきてくれたけど、胡蝶蘭は洋蘭の一種で発見されたのは一九世紀になってから」

「……」

「実際はフジバカマっていうキク科の花で、古代中国の知識層が好んでたみたい。それにあたる漢字が『蘭』だったってだけで、今、普通に流通している洋蘭とは何の関わりも──」

「ねえ、金城……」

 森木が弱々しく私の名前を口にするので、私は言葉を止めた。森木は背筋を伸ばして、目線は落として、憂うような面差しをしていた。

「なんでそんなこと言うの? 大学に入るとそうなっちゃうの?」

 嫌な感情が差しているのかも知れないな、と思った。

「私は昔からこうだよ」

「あー、そうだね。いつでも金城はフラットだから……でも、だからって、私が、あの卒業式の日に頑張ったことも、そうやって潰そうとしなくたって良いじゃん……」

 森木の細く震えた声に、調子よく回っていたコマがぐらぐら揺れ出すような感覚がする。

 私が、押し潰す? いや、この話で潰されるのは金である私の方だ。何かかみ合っていない気がした。でも、こういうすれ違いかけみたいな場面は、高校の時にいくらでもあった。実際に擦れたこともあった。でも、森木との関係は続いている。この見えない病の渦の中でも。

「納得いかないんだよ」

 私は言った。森木は困惑の表情を浮かべる。

「納得って……」

「私たちに対して『金蘭の契り』という言葉が追いついてない」

「マジでやばいこと言いだしたわ」

 森木はぞっとしたような声で言った。私は首を振る。

「ううん。これはタングステンという金属を裂くほど強くて、胸いっぱいの胡蝶蘭くらい香り高いものを指してくれないと。いっそそういう意味にしない?」

「意味を改変し始めた! 長い歴史をかけて洗練されてきた古語に対するリスペクトはないのか! 怒られるぞ、マジで!」

 もう既に怒られているようなものだ。私は視線を逸らして、テーブルの表面を人差し指でなぞった。

「……でも、そうじゃないと落ち着かない」

「献立とか部屋のレイアウトとは違うんだからさあ」

 呆れたような森木だったが、いつの間にか機嫌が良さそうだった。私がフラットでいる間に、森木は感情の喜怒哀楽を通り過ぎていくのだな、と思った。


 Ⅳ


 疫病は飽きることなく猛威を振るい、私は高校時代の延長線上のような家の中で、大半の時間を過ごしていた。繰り返しの時間の中、高校時代の比じゃない速度で月日は流れた。

 三年生となった私は考古学系のゼミに所属したが、八月の末に行われた合宿で運悪く濃厚接触者となり、家族内で少し騒然となった。結局、陰性のまま経過し、無事に数週間が過ぎた。

「それは緊張感あったね」

 森木はいつものようにパソコンの画面越し、気遣うように言った。

「それが、そうでもなくて」

 私はルーペを磨きながら答えると、森木は目を剥いた。

「えっ、まさかフラットだったの?」

「うん。平気だった」

「まあ……ウイルス弱くなったっていうけどさ、心配になるわ」

「森木は大丈夫なの? 東京は凄いけど」

「私はなんか平気。誰にも会わないし」

「そう……」

 森木は声優の専門学校を卒業したけど、その後のことは詳しく聞けていない。バイトをしながら仕事をこなしているらしいけど、以前のように台本を読む姿は見せなくなっていた。

「──あ、そうそう、あのね」

 森木は話題を変えるように明るく言った。

「私さ、恋人できたんだ。金城には伝えておきたくて」

 寝耳に水な報告に、私は思わず背筋がピンと伸びた。

「えっ、いつ?」

「先週」

「へー、おめでとう」

 私は素直に告げたつもりだったが、明るい話題に移って、安堵が声音に滲んでしまったと思った。森木はにへら、と笑ってみせた。

「へへ、どうも」

「どんな人?」

「同い年で、背は私より少し高いくらい。すんげーいい声で、めっちゃゲームがうまいの」

 それから、堰を切ったように森木は嬉しそうにのろけ始めた。私は「へー」と相づちを打ちつつ、自分の気持ちが全く動かないことを、他人事のように見つめている。森木の恋愛沙汰は高校の時に何度もあった。私がなんとも思わないことも、森木はわかっているし、だからこそ話してくれる。

 でも、何故だか、蘭の優しく甘い香りが、喉の奥に抜けてくるような感覚がした。あの日のでたらめな金蘭の交わりが、風に削られた砂の下から顔を覗かせたようだった。

 私は、森木の話を聞いていても、森木の新しい恋人が男性なのか女性なのか、全くわからないことに気がつく。森木は性別の区別をしない。相手をその人としてしか見ない。

 だとしたら、森木にとって、私は──。

「あーあ、会いたいよ」

 森木は出し抜けに、そんなことを言った。

「そうだね」

 私はフラットに相づちを打つ。


 Ⅴ


 九月に入って一気に暑気が退き、肌寒い日が続くようになった。雨の日が増え、台風の予報が毎週出る。とある週末、私は持田さんにご飯に誘われた。持田さんはもう卒業して、メーカーに就職していた。

「横橋くん、結婚するんだって」

 居酒屋の個室、向かいに座って持田さんは言った。横橋さんとは、新入生の私に金を見せてくれた元幹事長だった。森木もいつかそうするんだろうな、と私は感じた。

「もちこさんは誰か、お相手いないんですか?」

「私は、まー、いないね。いちるは?」

 持田さんは私の名を口にする。私の名前を呼ぶのは、家族と持田さんだけだった。

「私もいません」

「男の子に声かけられたりしないの?」

「ないです」

「気づいてないだけじゃない?」

「だとしたら、私が悪いです」

 持田さんは笑った。冗談なので笑ってくれるのが正しい。きっと私に恋愛の心はない。そういう人は一定数いると聞く。

 そんな私でも、持田さんは気に入ってくれていた。お酒もハイペースに入れて、ずっとニコニコしている。私はザルなので酔わないけど、その空気にあてられてよく口が回った。

「でも、高校時代の友達に恋人ができたらしくて」

 私は勢いで言った。言ってから、言ったことに気がついた。

「へえー。でも、そうだよね、周りがどんどんそうやって、そうやってねー、できてくんだよね……」

 持田さんは既に酔っ払いになっていて、曖昧な嘆きを漏らしながら、お手洗いに行ってしまった。ひとりになって、私はまるで胸をなで下ろすように息を吐いた。

 どうして、森木のことが口をついて出たんだろう。

 訝しみながらお冷やに口をつけ、スマホを見ると、「警報」と物騒な文字が見えた。自治体からの緊急速報だった。この週末、日本を横断するという台風は、過去に見ないほどの強さだ言われていて、その報せだった。既に九州の方では冠水した地域が出ているという。私の住まう地域一帯に「断水の可能性」の字が見えた。胸がざわついた。

 もうひとつ、通知があった。母からのメッセージだった。

『食べ物送ったんだけど、宅配便のミスかなんかで、さっき戻ってきちゃった……二、三日かかるけど、しのげそう?』

 私はテーブルの上の、空になったお皿を見つめた。そういえば実家からの物資が届いてなかったけど、いずれ届くだろうと、さして気にもとめていなかった。

『もう、うちに食べるもの、ない』

 断水、という言葉が、何か物騒な概念と結びついて、ヒリヒリとした。私はごまかすようにお冷やを飲んだ。いたく冷たかった。

 と、突然、私の隣に誰かが座った。持田さんだった。

「もちこさん?」

「ねえ、さっき言ってた友達って……女の子?」

 持田さんの輪郭が、私に熱く迫っていた。

「そうですけど……」

「あのね、私ね……いちるの気持ち、わかるかも知れない」

 何かが踏み込んでくるな、と思った。

 持田さんはひどく酔いの回った胡乱な眼を私に向けて、言った。

「……好きだったんでしょ、その子のこと」

 見透かすような一言だった。私はなんと答えればいいか、わからなかった。

「どういう意味ですか……」

「深い意味」

「……私は」

 そうではないと言いたかったのに、声が詰まった。そう答えることは、私が森木のことを貶めているように映ってしまうのではないかと、思ったからだった。

 持田さんは甘い顔になった。

「ねえ、いちるは、私のことどう思ってる?」

 そう訊きながら、腕を私の腰に絡みつけてくる。答えを囲い込むような手つきだった。

「もちこさん、あの、ちょっと……」

「私は……いちるのこと、ずっと良いなって思ってた」

 そうなの?

 私は裏切られたような気分になった。持田さんが今まで、優しくしてくれたのは、その「良い」ものをたぐり寄せるためだったの?

 その眼差しに、私は嫌悪を覚える。

 ずっと、フラットにいたもの。ずっと、安定していたもの。

 それが、揺らぎ始める。

「ねえ、私なら、いちるの気持ち……慰めてあげられる」

 持田さんは潤んだ瞳で言うと、私の腿に手を置き、這わせた。

「私の気持ちって?」

 私は自問する。何だろう。わからない。

 どこか、遠くで激しい雨の降る音がしている。水音が轟く。

「……寂しい気持ち」

 持田さんは、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 何をされるのかはわかった。私は動けなかった。

 それとそれが触れた瞬間、灼けるような熱さが、全身に走った。

「やめて!」

 私は持田さんを突き放した。持田さんは「あっ」と声をあげて椅子から落ち、床に倒れ込んだ。大きな音が立つ。それを見て、私は酷いことをしてしまった気になった。

「ああ……」

 逃げなくちゃ、と犯罪者のように強く感じて、私は腰を上げた。

「ご、ごめんなさい……」

「い、いちる……待って、違うの……」

 持田さんのか細い弁明を聞こえないふりをして、私は店から出た。外は暗くなっていたが、雨はまだ降っていなかった。私はスマホを取り出して、何かをしようとしたけれど、指が震えて何もできなかった。早足で歩きながら、何度も試して、やっとできた。

「……もしもし? 金城?」

 スマホから森木の声がした。私はその声で、少し平静さを取り戻せた。私は息を整えながら、何事かを口にする。

「もしもし、森木……森木、あのね、私……」

「あ、うん、友達……いや、わかんない。ねえ、もしもし? 金城ー?」

 通話の向こうの森木は、誰かといるようだった。恋人だろうか。その声はぶつぶつしていて、どこか遠い国にいるようだ。

「もしもし? もしもし、森木……森木?」

 私は必死に呼びかけたが、やがて通じなくなった。スマホの画面を見ると、タイムアウトしていた。その後、何度試しても、通話は繋がらなかった。それどころか、ブラウザもSNSも接続できなかった。

 器官を失ったような気分で電車に乗ると、周りからもスマホがネットに接続できない、という声が聞こえてきた。どうやら、私の契約している携帯会社で大規模な通信障害が起こっているらしい。

 私はひとりだった。気分が悪くなった。耐えて、最寄り駅で電車を降りる。道中のことは覚えていない。気がついたら、自宅の扉を押していた。台所の冷蔵庫を開く。調味料を除いて、空っぽだった。飲み物もなかった。

 もう、とてもフラットではいられなかった。

「うぅ……」

 私はシンクに嘔吐した。灼けるような喉の痛みが、まるで王水を浴びたみたいだった。

 破れた私は、ただ泣いた。

 私のフラットな感性。それは、安定した人生の裏返しだった。全ては当たり前にそこにあり、全ては私の思い通りになった。だから、感性を動かす必要もなかった。フラットな私は、金のように安定していて、どんな腐食もへっちゃらだと思っていた。

 思い上がりだった。私は決して金なんかじゃない。ただの一人の人間だった。それがたまたま、全てに恵まれて回っていただけだった。

 私はこれまで、とても幸せだったのだ。でも、これからはそうもいかないだろう。

 暗い窓の外から雨の降り出す音がした。ここも安全ではない。でも、どうすればいい? 水もない、食べ物もない。持田さんは置いてきてしまった。森木とは通じない。頭が回らない。私を慰めるものはなにもなかった。ただ、重苦しい不安の中、避難所にいるように縮こまって座っていた。

 それから、どれだけ時間が経ったか。節々が強ばって苦しくなり、身体を少しだけよじる。赤ん坊のような呻き声が出た。それが情けなくて涙が出た。

 その時、部屋のチャイムが鳴った。

 大雨の夜、その軽快な音は不気味に響いた。

「……もちこさん」

 追いかけてきたのかも知れない。そう思うと、怖くてモニターすら見れなかった。

 息を潜めて身を縮まらせていると、今度は、部屋の扉がノックされた。ゴツゴツと鈍い音がする。私は耳を塞いだ。

 じっとしていると、足の先で空気の流れを感じた。扉が開いたのだ。鍵を閉めていなかったらしい。

 ああ……。

 私が恐怖のどん底で、顔をあげた時──感じたのは、胡蝶蘭の香りだった。

「金城! 大丈夫!」

 部屋にとびこんできたのは、大きな荷物を背負った森木だった。

「森木……? どうして……」

「どうしてって、あんな弱った金城の声初めて聞いたから心配したんだよ! どっかのプロバイダも通信障害だし、金城の家、ネットも通ってないでしょ? そしたら、もう、来るしかないじゃん! だから、終電の新幹線に飛び乗ってきたんだよ!」

 私は愕然とした。恐ろしいことをしてしまった気になった。

「な、なんで……? 恋人もいるのに……私のために、そんな……」

「もう、何言ってんの! 当たり前でしょ!」

 森木は怒ったように言った。

「私たち、友達でしょ! 『金蘭の契り』が追いつかないくらいの、友達!」

「森木……」

 みるみる涙が溢れ出て、視界が真っ白になった。ぼろぼろになった私を、森木はぎゅっと抱きしめる。蘭の香りと、温もりが、身体に染みていく。

「あー、良かった。死んじゃうのかと思った。もう、台風の警報も脅かしすぎ。金城は繊細なのにさ」

「私が……繊細……?」

「同じ食べ物とか同じ部屋の内装しか受け付けない人が、なに意外そうにしてんの」

 森木はそうやって、私の頭を撫でる。

 私は、私に関する新事実に、驚いていた。私は繊細だったんだ。森木だけは、そんな私を見ていてくれたんだ。

 そう考えた途端、感情の安定が破れたごときで、落ち込み果てていた自分がしょうもなく思えた。繊細を乱された私は彼女の香りにじっとりと甘え、いつしか、私の中から王水は抜け去っていた。


 森木の持ってきた大きな荷物からは、水や食料がたくさん出てきた。水害の予想される地域にいた私を、本当に心配したらしい。

 私は森木と高校の卒業式の時のように並んで座りながら、今日のことを話した。

「その人とは距離置いた方が良いよ」

 森木は言った。私も、そうなるだろうな、と思った。持田さんには恩がある。でも、罰だと思って諦めてもらうほかない。

「……これから、どうなるんだろう」

 私は暴風雨に荒む夜に目を向けて、言った。

「わかんない。なんともないといいけど」

 森木は同じ夜を見ながら、答えた。

 私たちは、もう触れ合うことも、キスすることも決してないと思う。

 それでも、森木は私のもとに駆けつけてきてくれたし、私もきっと同じことをする。

 私と森木は、爛れても蘇り、いつまでも高く香る、私たちだけに通じる「金蘭の契り」を信じ続ける仲間だ。そう思うだけで、ずっと深く、安心していられた。

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