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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私の守りたいもの

作者: 新在 落花

 心を動かすな。常に冷徹であれ。

 玉座を守るため王家の闇は在り続ける。





「どうしたの?」


 イクセルは王城の水場で必死に手を洗っている灰褐色の髪をした少女を見つけた。

 身に着けているものからどこかの令嬢だとは予想できたが、小さな嗚咽をあげながら手を洗い続ける様は異様だ。


「どうしたの?」

「手の……、手の汚れが落ちないんです」


 顔を上げた少女は、イクセルと年が変わらない年齢に見える。


 澄んだ水色の目から湧き出るように溢れ出る涙は顎を伝ってぽたぽたと流れ落ちている。

 手は摩擦で真っ赤になっているのに、それでも少女は手を洗い続けていた。


「見せてごらん。汚れは落ちているよ。どこも汚れてなんかいない」


 イクセルは少女が水から出した手を包んで、少女に向かって大きく肯いた。


「君の手は綺麗だよ」

「汚れてない?」


 手が濡れるのも構わず手に触れてくれたイクセルに、少女は涙を拭って笑顔を返した。

 はにかんだ笑顔を見せた少女に、思わずイクセルは目を奪われた。


「ありがとうございます」

 

 少女が笑ったことに安堵したイクセルは、片手を軽く上げるとその場を立ち去った。


 立ち去った少年の後ろ姿を、少女は姿が見えなくなるまで見つめ続けた。イクセルの触れた手を宝物のように包み込みながら。


「アメリア」


 二人の様子を見ていた年老いた白髪の男は、木の陰から姿を表すとアメリアの肩に手をおいた。


「おじいさま」

「お前がお会いしたあの方がイクセル殿下だ。お前の主となる方だよ」

「あの方の玉座を守るのが私?」

「そうだ」


 アメリアは赤くなった手をぎゅっと握ると、とっくに姿の見えなくなったその先へと視線をやった。



 アメリアがイクセルと再会するのはそれから五年後のことだった。





「アメリア。こっちにおいで、お菓子をあげるよ」


 教室に戻ってきたばかりのアメリアにイクセルが声をかけると、周りの視線がアメリアに集中した。


 アメリアは眉をひそめてまたかと唇を結ぶと、離れた席に座るイクセルに恨みがましい視線を向けた。その様を面白そうに眺めているイクセルに、灰褐色の髪をした少女が眉尻を下げながら近づいてくる。


「殿下……」

「いいだろう? 学園内は身分は関係なく平等だ。俺が王太子だろうと、お前が伯爵令嬢だろうと関係ないはずだ」


 イクセルが手で空いている前の席を勧めると、嘆息しながらアメリアが腰を下ろした。


「表向きの話はですね。こんな話が祖父の耳に入ったら何と言われるか」

「伯爵は相変わらず堅いな」


 アメリアは伯爵家の令嬢ではあるが、領地は僻地にある上に、一部は飛び地に分散しているため領地運営も難しく裕福であるとは言い難い。


 それでもアメリアは、有数の貴族の子息子女の通う学園に籍を置いている。


 人と関わることを苦手とするアメリアは、社交会の縮図のような学園への入学を渋ったが、当主である祖父が将来のためにと強制した。


 イクセルが机の上に出した砂糖菓子にアメリアが視線を落とす。そうそう食べる機会などなさそうな高級菓子に、アメリアの視線が釘付けになった。


 美味しそうだと思ったが手を出すことは憚られる。


「アメリアは好きだと思うんだ」


 いつも思うが、どうしてイクセルはアメリアが好きな物をこうも正確に把握しているのか。


 美味しそうとは思うが、こうやってアメリアだけがイクセルから目をかけられていることを好ましく思わない者も多い。

 ましてや令嬢が菓子につられることはあってはならないことではないのか。


 アメリアの葛藤が手に取るように分かったイクセルは笑いを漏らした。


「寮の部屋で食べるといい」

「……はい」


 逃げるように去ったアメリアを、イクセルは笑いを噛み殺しながらずっと眺めていた。


「また睨まれていましたわよ」


 イクセルのいたずらから逃れてきたアメリアに、ミラベルが声をかける。

 眉尻を下げたアメリアは恨みがましい目でミラベルを見ると、口元を隠したミラベルが愉快そうに笑っていた。


 ミラベルは侯爵家令嬢だが高位貴族にありがちな傲慢さもなく、没落令嬢のアメリアを見下すようなこともしない。学園でアメリアに親しげに話しかけてくれる唯一の友人だ。


「殿下のお気に入りになるのも大変ですのね」

「もうどうしたらいいのか」


 イクセルは王太子でありながら、学園内では誰にでも分け隔てなく接している。


 純粋に慕う者、腹に一物ある者、子供といえど家を鑑み思惑を持つ者も多かったが、それでもイクセルの性格からか、彼はいつも貴族の子弟子女に囲まれていた。

 その中でもアメリアと距離が近いように見えて、周りの生徒からの鋭い視線がアメリアに突き刺さるのだった。






「最近は領地に帰っているのか?」

「今は祖父が王都にいるので、そちらにはたまにしか帰っておりません」


 今日もまたイクセルはアメリアを菓子で呼び寄せると、親しげな友人のように話しかけてくる。


 イクセルを止めようとはするが、結局はイクセルに押されてアメリアが引いてしまうのはいつものことだ。


 イクセルはおろおろと困った顔をするアメリアを可愛いと思うので、当分やめるつもりもない。せめて学園にいる間だけでも今の関係を崩したくなかった。


 王太子と没落貴族の令嬢。釣り合いなど取れるはずもなく、しかも王太子であるイクセルは隣国の王女との縁談が整いつつあった。


 イクセルの縁談が整えばアメリアとも距離を置かなければならなくなる。頭では理解していたが、どうしても今だけでもアメリアと離れがたかった。


 困ったように笑うアメリアを、もうしばらく側で見ていたかったのだ。





「アメリア。手が汚れているぞ」


 それを聞いたアメリアがびくりと肩を震わすと、ゆっくりとイクセルを振り返った。

 振り返ったその真っ白な顔からは表情が抜けてしまっているように見えて、イクセルは目を見開いた。


「どうした? 手にインクが付いているぞ」


 驚いたアメリアが手を見ると、確かに手のひらの付け根がインクで汚れていた。じっと手を見ていたアメリアが、顔を上げてイクセルを見た時にはいつもの表情に戻っていた。


「ありがとうございます。早速洗って参りますね」


 何か腑に落ちない気持ちになりながらも、気のせいかとイクセルはすぐにそのことを忘れてしまった。


 思えばこれは予兆だったのだと、後になって分かった。




 ミラベルの訃報が学園に伝わったそれから数日後のことだった。

 外出先で馬車が暴漢に襲われ、従者達が抵抗した形跡があったが甲斐もなく全員命を落としたらしい。


 高位貴族令嬢の死に学園がどよめいた。


「大丈夫か?」


 アメリアはミラベルと特別仲が良かった。


 馴染めない学園で常に緊張しがちなアメリアが、ミラベルといる時は自然に振る舞っていた。ミラベルもまたアメリアといる時は、貴族令嬢の作られた笑顔ではなく無邪気な表情を見せていた。


 まもなく成人を迎える年齢にさしかかり、学園にいられるのも残りわずかだったが、当分はそんな二人の友情を見ることができるのだとイクセルは思っていたのだ。


 さぞかし落ち込んでいるだろうとイクセルはアメリアを気遣って声をかけた。


「……はい。お気遣いありがとうございます」


 人前では綺麗に隠しているが、アメリアが塞ぎ込んでいることをイクセルは見逃すことはなかった。


 それからのアメリアは何かを思い詰めたような表情をすることが多くなった。


 そんなアメリアから目が離せず、イクセルはどうにかしてアメリアを憂いから解き放ってあげたいと強く思うようになっていた。



 それはアメリアへの思慕が募りイクセルが父王に心の内を告白した時のこと。

 国王はイクセルの言葉を聞いて、面倒なことになったと思った。


 隣国の王女との縁談を反故にすることはできない。

 大国が領土拡大のために活発に他国への侵攻を続けている今、大国に対抗できるだけの国力を高めることは不可欠だった。この国に王女が嫁いで来ることで、二つの国は強い繋がりを持つようになる。


 アメリアは表向きは国内の家格の劣る貴族令嬢。

 繋ぐことのできない縁にどう答えるかと思案していた国王だったが、イクセルに真実を伝え芽生えかけた恋心を摘み取る必要があると判断した。


「あれは駄目だ。王家に相応しい女ではない」

「なぜですか!?」


 父王に逆らったことのない息子が父親に噛みついてきていることに驚きつつ、そこまでの本気の恋情を哀れだと思った。


「あの娘が産む子が王家の子とは限らないからだ」

「なにを……?」

「別の男の子を孕んでいるかもしれん女を、妃に据えるわけにはいかぬだろう」


 国王の言葉を聞いたイクセルの顔色が変わった。


「何をおっしゃっているんですか? アメリアを侮辱するのですか?」

「任務であれば男を籠絡することも厭わない女だ」


「アメリアが何の任務を担っているというのですか!?」


 アメリアはただの令嬢だ。強く言葉を発することもなく、イクセルに振り回されておろおろするだけのただの女の子だ。


「あれは王家の影だよ」

「え?」

「本来であればあれの兄が家を継ぐはずだった。しかし死んでしまったのだから仕方ない。影を継ぐのはあの娘しかいないのだ」


 イクセルが王太子でありながらも、朧気にしかその存在を知ることのできない王家の影。

 王を守るため、国を守るために闇に潜み、主のためであればいかなる手段をとってでも任務を遂行する。


「表向きは没落貴族を装っているが、伯爵家は歴代王家の影を務めている一族だ。当代はアメリアの祖父。次代はアメリアの産む子が就くだろう」


 伯爵家はあらゆる場所に影を潜ませている。諜報の拠点となる場所を得るために領地が離れているのもそのせいだ。

 没落どころか領地内に収入源となるいくつもの鉱山を持っているが、国王によって隠されたその事実が伝わることはない。


 茫然自失のイクセルを置いて国王はその場を去ると、すぐに伯爵家へと使いを出した。





 使いからの密書を受け取った伯爵は、アメリアを自室へと呼んだ。


「陛下がお前のことを、殿下にお話しになったそうだ」

「そうですか。知られてしまっては仕方ありませんね。学園は辞めることにいたします」


 アメリアは今が潮時なのだと素っ気なく告げた。


 あの優しい目にもう自分が映ることはできないのだと、その時はっきりと理解した。


 アメリアと自分の名を呼ぶ優しい声。


 アメリアにいたずらを仕掛けるが悪意あるものではなく、アメリアを驚かせて喜ばすため。


 アメリアが笑えばイクセルも笑う。

 育ちかけたその気持ちをアメリアは鍵をかけて葬った。




 イクセルが盛大な成人の儀を終えてからしばらく経った頃、アメリアもまた成人を迎えていた。

 

 次代の影が国王へ拝謁するための席に、イクセルも王太子として参席していた。


 城の奥にある公にはされていない国王の謁見の間に、伯爵の後について入室して来たのはアメリアだった。黒い装束をまとい、長かった灰褐色の髪は貴族令嬢にはあるまじき長さに切りそろえられている。


 サラサラと耳の横で揺れる短い髪は、イクセルの知る髪と何一つ変わっていないのに、まるで違うもののように見えた。


 イクセルが伯爵家の真実を知った日から、アメリアは学園から姿を消した。辞めたわけではなかったが、その後再びイクセルの前に姿を現すことはなかった。


「私は王家の影。今より盾となり剣となりて玉座を守ります」


 アメリアが膝をついて顔を伏せると、肩で切りそろえられた髪がその表情全てを隠してゆく。


 国王への謁見が済んで立ち去ろうとするアメリアを、イクセルは無理矢理手を取って連れ出した。

 国王も伯爵も止めなかったため、他の影が後を追うことはなかった。


「いつからだ?」

「初めての任務の後、手に着いた血の汚れがとれないと泣いていた時にあなたにお会いしました。あなたは私の手を汚れていないと言って下さいました。あの時あなたの影となりたいと思ったのです」


 あの頃のアメリアはまだ十歳にもなっていない頃だっただろう。

 王城の水場で悲しげに泣いていた少女を思い出す。


「あんなに幼い頃からか……」

「父と兄が死んだ時に、私が家を継ぐことが決まりました」


 それまではただの没落令嬢だった。父と兄に可愛がられて守られるだけの、幼いただの娘。

 一変したのは、任務地で父と兄が命を落としてからだ。


 伯爵家の者は、生まれつき優れた身体能力と毒への耐性を持っていた。伯爵や今は亡き父や兄もそうであったように、アメリアにもその特徴は見られた。


 生まれ持った能力を伸ばすため極限まで体を鍛え、毒の扱い方を覚えさせられた。時にはその身に毒を入れ、更に耐性をつけた。

 その内に人を屠ることを強要された。


 アメリアに他に道はなかった。

 兄はどんな気持ちで暗殺者として生きていたのか。兄はアメリアにそんなことは微塵も感じさせることはなかった。

 甘い言葉で妹を愛で、聞かせたくないことから妹の耳を塞ぎ、汚れたものを何も見せないように目隠しをした。


 兄は何も知らず暢気に笑っているだけの妹を、どんな思いで可愛がっていたのか。

 アメリアが妹でなければ、たとえば兄や弟であれば二人で辛さを分かち合うことができたのだろうか。


「ミラベルのことはお前は関わっているのか?」

「私がとどめを刺しました。侯爵家は大国に寝返って王家を裏切ろうとしていましたので、見せしめのために当主の愛娘であるミラベルを殺しました」


 その後も影による侯爵家への粛正は続いた。


 あの日の憔悴はそのせいだったのかと、鬱いだアメリアの顔を思い出す。


「……なぜ、アメリアがそこまで?」

「王家に仇なす者は屠られねばなりません」


 イクセルの知らない顔をした女が淡々と言葉を紡ぐ。

 目の前にいるのは本当にアメリアなのかと疑いたくなった。


 イクセルのいたずらに困ったように笑い、ミラベルと楽しそうに談笑していたアメリアとはまるで別人のようだ。


 しかし同時に理解もしていた。アメリアが王家の影なら、親しい者であろうと王家のために躊躇なくその命を奪うだろう。


「お前をそうしてしまったのは俺か?」


――あなたの座るべき玉座を守りたい。


「国に暗部は必要だ。組織を解散する気もなければ、することもできない。それでもそれをアメリアがその役目を担うのはどうしても我慢ができないんだ」

「影は王家のために在るもの。あなたが気になさる必要はありません。私はあなたの玉座を守りたいのです」


 イクセルの手を解いたアメリアは、イクセルに振り返ることなくその場を離れていった。


 それからアメリアは一度も戻らないまま学園を辞めた。





 隣国から王太子に嫁いでいた妃との間に、王子が一人。

 王孫を得た国王の玉座は盤石であるかに見えた。それでも玉座を更に確固たるものにするために、影は動き続けた。


「アメリア、標的が動いた」

「分かった」


 王城に潜むアメリアに、声を潜めた別の影が声をかけた。

 テラスに出ていたイクセルは視線を感じて振り返るが、そこには誰の姿もなかった。




 刺客が放った刃から王太子を守るために飛び出してきたのは女のようだった。漆黒の装束を纏った女は、イクセルに代わって凶刃を受けるとその場に崩れ落ちた。


 イクセルはすぐに幾重にも取り囲む騎士達によって、その身を隠されたが、倒れた女が気になってイクセルは首を伸ばす。


 隙間から苦しそうに眇める水色の目がイクセルの目に入った。

 一瞬、女と目が合った気がしたが、同じ装束の男やって来るとすぐさま女を連れ去った。


「……影」


 見間違うはずもない。あれは。




 イクセルは周りが止めるのも聞かずに、すぐに伯爵家へと馬車を走らせた。


「アメリアはどこにいる!」

「影が正体を気づかれるなどあってはならないことです」


 イクセルを招き入れた伯爵は、アメリアの演じた失態に苦々しい顔をしていた。


「もう長くはありません」

「あの時受けた傷か?」

「毒に侵されていますが、医者も匙を投げました」


 イクセルを狙って振り上げられた凶刃を、身を挺して庇ったアメリア。肩を切りつけられていたが、傷の程度だけでは致命傷となるようなものではなかった。


「アメリアを侵している毒はどうやら大国から密かに運ばれたもののようです。未知の毒が国内に広がる前に見つけることができて何よりです。少し時間はかかるかもしれませんが、解毒の方法も解明できるはずです」


「その毒を受けたお前の孫が死にかけているのにか!?」

「アメリアは影です。殿下に気にかけていただく必要はありません」


「アメリアに会わせろ!」


 大きく嘆息した伯爵は屋敷の者にイクセルを案内するよう指示を出すと、案内された部屋の寝台には青い顔をしたアメリアが横になっていた。


「……殿下」

 

 アメリアに駆け寄ろうとしたイクセルを、アメリアは手で制した。


「私に触れてはなりません」


 アメリアが受けた毒が、触れた者にどのような影響を及ぼすかは分からない。


「毒に強いはずの私でもこの通りです。しかし、解毒方法の解明に多少はお役に立てると思います。うちの医者は優秀ですから」

「何が優秀だ! お前は死にかけてるではないか。すぐに毒を抜け!」

「そう簡単にはできませんよ。これからです」


 死に瀕しているアメリアを見て、医者は喜々としていた。アメリアが死ぬまでにいくつもの毒抜きを試すつもりだろう。


「影の男と結婚はしましたが、私の役目は能力ある者と私の体質を受け継ぐ子を生むことでした」


 伯爵はもっと多くの子を生むようにと強要したが、アメリアは二人目を生んだ際に体を壊し、子が生めない体になった。


 そうなるとアメリアは伯爵家の女としては役に立たない。ただの毒に耐性のある影の一人となった。


「私の生んだ子は、影に相応しい冷徹で何にも心を動かすことのない子供です。今も死にかけている母親を、使えぬ者は淘汰されるだけと言っています。それを聞いても悲しいとも思わず、哀れだと思うだけの私も壊れているのでしょうね」


 母親としての触れ合いなどなきに等しい関係だ。アメリアが産んだ子はすぐに伯爵に取り上げられ、次代の影として育てられている。


「影として生きて死ぬだけの私が、あなたを好きになって人の心を知りました。あなたが私に笑いかけてくれる度に、声をかけてをくれる度に幸せを知りました」


 アメリアの好きな目が、辛そうな色を湛えて見下ろしている。彼を苦しめているのは自分だと分かっていても、今この瞬間だけは、その心を独占できていることが嬉しかった。


「私の手も体も汚れてしまったけれど、一つだけ綺麗なままのものがありました。子供の頃からの私のたった一つの願いです」 


――あなたの玉座を守りたい。


「それに気づいた時、私の中にも綺麗なものが残っていたと素直に嬉しいと思いました」

「お願いだ。死なないでくれ」


 目の前で涙を流すのは、ずっと影から守り続けた愛しい人。


 彼のために手を汚し続け、屠った命も、罠に嵌めて潰した家も、没落し自ら命を絶った者も数知れない。

 女も子供も友人も関係なく、王家のために凶刃を突き立て続けた。


 心許したたった一人の親友もこの手で葬った。


 祖父は侯爵家の動向を探るため、アメリアにミラベルと親しくなるように命じていた。最初の任務のつもりだったが、気がつくとミラベルを友人のように思うようになっていた。


 祖父は見せしめのため、ミラベルの女性としての尊厳を踏みにじってから殺すようにと指示していた。しかしアメリアは、周りが止めるのも聞かず一息でその命を奪った。


 それでも罪悪感などは微塵も感じない。兄が死んだ時に決められたアメリアの運命だからだ。


 隣国の王女が嫁いで来た時も影に潜み続けた。

 イクセルの隣に並ぶ美しい王女が、イクセルに微笑みかける様もそれに応えるイクセルの姿も影から見守り続けた。


 仲睦まじく寄り添う王太子夫妻を見守り、イクセルの玉座が確固たるものになるように任務を遂行し続けた。



 もう二度とその目に映ることなどないと思っていたのに、目の前にイクセルがいる。アメリアの名前を呼んでくれている。


「アメリア。ずっと好きだったんだ。お願いだ。死なないでくれ」

「嬉しい。こんなに幸せな気持ちで死んだ影は他にいないと思います。お父様達に自慢しないと」


 記憶が混濁しているのか、一時的に幼子のような話し方をするアメリアは、初めて会ったあの日のように笑っていた。


「もう一度私の名前を呼んで下さい。あなたに私の名を呼ばれるのがとても好きでした」

「アメリア」


 イクセルの声を聞いたアメリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「アメリアをここに置いておくわけにはいかない!」


 アメリアを王城に連れ帰ろうとするのを妨害したのは、アメリアの祖父だった。


「アメリアにはまだやるべきことが残っております。殿下のご命令には従えません」

「お前達は王家の影だろう! 私に逆らうのか!」


「はい。我らは国王陛下の影。貴方様がその座に就かれた暁には、我らは主たる貴方に従いましょう」


 ずらりと並ぶ黒装束の影達に阻止され、イクセルは唇を噛みしめながらそのまま伯爵の屋敷を後にした。


 それがイクセルがアメリアの姿を見た最後だった。


 影たる伯爵家の娘を攫うため父王を説得し、近衛騎士を率いようとしていたイクセルにもたらされたのはアメリアの死だった。




 国王の死去によってイクセルが国王となったのは、それから五年後のこと。



 イクセルはアメリアに守られた玉座に座り続けるため、王であり続けた。

 大国に侵攻されかけた時も、謀反を企てられた時も、王妃や臣下が国を逃れても王の座を守り続けた。




 今日も暗部は動く。

 王家のために。国のために。


 自分を殺して。心を殺して。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 影を使うのに伯爵直系が手を下すのかなと、普通部下や手下をつかうのでは?
[一言] 切ない… ただ、切ない。 けれど、本当に不幸だったのかどうかは… 本人にしかわからないことですよね
[一言] アメリアのイクセルを想う気持ちに心揺さぶられました。 どんなにつらくても、自分に課せられた運命を全うする為に生きなくてはならない、その中で目的がイクセルの為であったことはせめてもの救いだった…
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