トイレのドア
ドアにも色々なデザインがある。
シンプルな1枚の板になっているドア、凹凸をつけて装飾にしているドア、すりガラスをはめ込んで光が通るようにしたドアなどなど。
とあるご家庭のトイレのドアは、上半分がすりガラスになっている。下半分は、幅5センチほどの板を組み合わせたようなデザインになっていて、塗装はなく、白に近い明るい色だ。この板はトイレの中の壁にも使われている。
従ってこのドアは、すりガラス越しにトイレの中を見れば、中に誰か入っているときは、頭の毛が黒いのや、服の色なんかが、ぼんやりと見える。
「漏れる漏れる……!」
その家の息子がトイレに駆け込もうとドアの前に立つと、中の電気がついていた。
誰か入ってるのかと、すりガラスに映る色をよく見てみるが、壁の色しか見えない。
ははぁん、これは誰かが今ちょうど出ていったところだな。
このトイレの電気はセンサー式で、1分ぐらいで勝手に消える。
それに便器もフルオートで、立ち上がれば勝手に水が流れ、近寄れば勝手にふたが開き、立ち去れば勝手にふたが閉まる。
自動でふたが閉まるのも、立ち去ってから1分後ぐらいなので、ふたが閉まるのに反応して、消えかけた電気が再び点灯する。
だから今電気がついているのは、まだ消えてないだけで、中には誰もいないはずだ。
ガチャ
「おい……!」
父親が便器に座ったまま、迷惑そうな声を上げた。
自分の父親のトイレシーンなんて、誰得すぎる光景に何も言えず、息子はそっとドアを閉めた。
何も見なかった。うん。俺は何も見なかった。
ドアを閉めて、改めてドアのすりガラスを見るが、中に父親がいると知っていて見ても、すりガラスに父親の姿が見えない。頭は白く、服装も壁の色に似た明るい色なので、すりガラス越しだと高い迷彩効果を発揮するようだ。
父親のトイレは長いので、息子はちょっと離れたところにある別のトイレに向かった。
もちろん、しっかり鍵を閉める。
◇
その夜、もう日付が変わって午前4時頃。
尿意をおぼえた息子はトイレに向かった。
眠気の残る足取りでドアの前に立つと、すりガラスの向こうは真っ暗。
よし、誰も入ってないな。
ガチャ
「うわあ!?」
便器に座ったまま、父親が眠っていた。
息子の悲鳴に、父親が「んあ?」と眠そうな顔を上げる。
驚かされたことに少しだけ迷惑を感じながら、息子はそっとドアを閉めた。
びっくりして眠気が吹っ飛んじまった。これはもう眠れないな……。
やれやれと思いながら、息子はもう1つのトイレに向かった。
しっかりと鍵を閉めて排泄する。
◇
夜が明けて、息子は会社へ、父親は持病で病院へ。
日が暮れて、それぞれ帰宅して、夕食をすませると、父親はそのまま食卓でテレビドラマを見始める。
息子はさっさと風呂に入り、その後は寝室へ行って、ベッドに寝転んでyoutubeを見始めた。
しばらくすると、尿意をおぼえた息子がトイレへ向かう。
ドアの前に立つと、すりガラスの向こうは真っ暗。
すぐ横の風呂場からは、ドアの隙間から光が漏れている。
なるほど、オヤジは入浴中か。
ガチャ
「うわあ!?」
便器に座ったまま、父親が全裸で眠っていた。
晩酌のあと風呂に入ろうとして服を脱ぎ、そのタイミングで尿意に気づいてトイレへ入ったものだろう。すっぽんぽんのくせに靴下だけ履いている。座っている間に、気持ちよく酔っぱらったまま眠ってしまったらしい。
クソ……! いい加減にしろよ。
3度も続くと、息子だって人間だ。イラっとする。
なんだってこのオヤジは鍵をかけないのか。
最初の時は迷惑そうに「おい」なんて言ったんだから、排泄を誰かに見られたい性癖があるってわけでもないのだろう。それとも最初のアレで父親の新しいドアを開けてしまったとでもいうのだろうか。
ため息をつき、もう1つのトイレに向かう。
しっかり鍵を閉めて排泄した。
◇
夜明け前の午前4時。
息子は尿意をおぼえてトイレへ向かう。
ドアの前に立つと、すりガラスの中は真っ暗。
しかし、息子は学んだ。
もうダマされねぇぞ。ノックしてやる。
コンコン
…………
コンコン
…………
ガチャ
「うわあ!?」
またしても父親が便器に座ったまま眠っていた。
息子は苛立ちで顔をゆがめながら、勢いよくドアを閉めようとして、思い直した。
ドアに当たっても仕方ない。
そっとドアを閉め、もう1つのトイレに向かう。
しっかり鍵を閉めて排泄した。
◇
あくる日の、午前2時。
珍しい時間に目が覚めたと思いながら、息子は尿意に従ってトイレへ。
すりガラスの向こうは真っ暗だ。
ノックは無意味と学んだ息子は、中に父親がいるかもしれないと警戒しながら、そっとドアを開ける。
いなかったか。
誰もいないトイレに警戒する自分の間抜けな姿を俯瞰して、息子は自嘲気味に便器へ座る。
さて、父親が中にいないのなら、息子が注意することは1つだ。
眠気が飛ばないように注意深く慎重に、まどろみに半ば身を任せつつ動くことだ。歩く、ドアを開ける、ズボンを下げる、座る。それらの動作は、どれも脳に覚醒を促し、トイレ後に再び眠りに入ることの邪魔になる。
便器に座ったまま、なるべく筋力を使わない姿勢を保ち、何も考えないようにぼーっとした思考を続け、目はトイレの電気の明るさに刺激を受けないように閉じておく。
ガチャ
いきなりドアが開き、息子は鍵をかけ忘れたことに思い至った。
しかし眠気が飛ばないように、ぼんやりし続ける。
「鍵ぐらい閉めろよ」
迷惑そうに言って、父親が立ち去る。
息子は一瞬で眠気が吹き飛んだ。
お前が言うな! 一番鍵をかけないお前が言うな!
◇
結局あれからイライラで眠れなかった息子は、朝になって再びトイレに行き、しっかり鍵を閉めて排泄した。
排泄していると、足音が近づいてきて、ドアを開けようとした。
鍵がかかっているので、もちろんドアは開かない。
「入っとるか」
諦めたような父親の声。
遠ざかる足音。
息子は今の出来事を頭の中で反芻した。そして1つの結論に至る。
オヤジは、ノックをしない。
前回ドアを開けられてしまった時は、半分眠っていて気づかなかったのかもしれないと思ったが、そうではなかった。やっぱりノックをしていなかったのだ。
ま、それはともかく。
今の息子には、もっと重要な問題がある。便意だ。とりあえず出たが、まだ腹が気持ち悪い。もう少し出そうだが、腹がに力を入れても出てこない。どうやら降りてきていないようだ。今まさに降りてくる最中なのだろう。だから腹が気持ち悪い。
しばらく頑張っていると、ドアの向こうで足音が近づいてきた。
この足音は父親だ。
足音は風呂場へ向かった。脱衣場に洗面台があるから、顔でも洗うのだろう。
ちょうど息子も腹が落ち着いたので、尻を拭いてトイレを出た。
ここで息子の一工夫。
ドアをきっちり閉めないで、半ドアにしておく。
これで次にこのままだったら、中には誰も入っていないという事だ。
いくら父親が鍵を閉めないといっても、ドアまで閉めないわけではない。これで中に父親がいるかどうか分かるというものだ。すでにトイレを済ませて出ていった後にも閉まっているわけだから、空振りに終わることも多いだろうが、10回に1回でも役立てば十分だ。それに、警戒しなくていい時まで警戒しないで済む。
ほんの1センチメートルほど、ドアの厚みの半分ぐらいだけ開けておく。通りかかっても邪魔になるものではない。
「おい! ちゃんと閉めろ」
立ち去ろうとした息子に、父親が怒声を上げる。
虫の居所が悪かったのか知らないが、そんな怒って言うことないだろうに。
しかしそんな事よりも、息子は反射的に怒りのスイッチが入った。
「お前が言うなッ」