ポストリュード
「おい、煙人間」
帷子頭の騎士が、葉煙草を咥えたおれをとがめる。
肩を竦めて、葉煙草を掌で覆った。
ぱっと指を開くと、葉煙草はもうそこにない。
騎士はせっかくの手品ににこりともせず、むっつり顔のまま鼻を鳴らした。
思いの外その眼光には力があった。
まさか、顔を覚えられていたって?
そんなおつむがあるようには思えなかったが、人は見かけによらないってことかもしれない。
十歩ほど歩いて振り向くと、やはり騎士はもう明後日の方向を眺めていた。
目の前には、瓦礫の谷の底みたいなハヌディヤー通りの眺めがあった。
大光玉が遠くに瞬く薄暗さの中を、浮遊槽がのんびりと飛んでいる。
侘しさの滲む石の建物の隙間を、人影がちらちらと揺れる。
相も変わらず無気力で平和な有り様だ。
ソソとバティカンの抗争は水面下で熾烈化しているらしい、というのは棟梁の弁だ。
酒場の情報通によれば、バティカンはプネー市の裏町の連中に助力を仰いで武力を得たそうだが、その裏町がソソの配下による襲撃を何度も受けてだいぶ参っているって話だ。
騎士団はようやく重い腰をあげ、表面上は事態の沈静化を計っている。
どうやら犀利騎士小隊もそっちへ駆り出されていったらしい。
まあ、そうでもなきゃおれがここへ舞い戻ることは到底叶わない。
ハヌディヤー通りは変わらない。
葉煙草の煙があちらこちらからもくもくとあがる。
なにかを見ているようななにも見ていない目で、人々は虚空をぼんやりと仰いでいる。
ふてぶてしいことだ。
アムカマンダラがざわめきたっていても、我関せずという無責任と無節操と無遠慮で成り立つ喫煙処。
だから、おれは今日もここで葉煙草を噛むのだ。
「昼間っからそれしかすることがないのか。ならず者め」
だみ声が這い上がってきて、うんざりとする。
黒い不気味なそいつは、尻尾を振りながらおれの足にまとわりついていた。
「なにを今さら。歌舞伎者の耳に念仏ってなもんだぜ」
「……なに?」
黒猫は、おれの言葉に声をあげて立ち止まった。
なにを驚いていやがるのか、黒猫はなにやらうつむき加減だ。
であれば、今度こそ一発見舞えるかもしれない。
おれは爪先をちょいと猫の腹に向かって振り抜いた。
しかし、奴は器用に飛び退いてそれを躱してみせた。
口惜しさに、毒づいてみる。
「なんか文句あんのか。化け猫め」
「いや。まあ、うん」
黒猫はそれでも気も漫ろな様子で、ごにょごにょとやっていた。
おれは鼻を鳴らすと奴から目を離し、暗澹とした地底の天井を見上げた。
地上に出てみようか。
そんなことも考えないことはない。
そいつは絶対的に不可能ということでもないのだ。
けれど、その思いつきがどうにも魅力的に思えないあたり、おれはとっくにウヴォの地底人なのかもしれない。
人ってのはどんなところでも逞しくやっていくものである。
ハヌディヤー通りの人間は、もはや地上に憧れてなどいなかったりする。
本物だとか偽物だとか、どうでもよろしいのである。
それは逞しさともいえるものだ。
おれたちがどう構えていたって、日は沈んでまた昇っているようだ。
地底に入り込んだ者には昼も夜もないが、それでも世界は進むものだ。
すべての秘密を明らかにしたとしても、それを、秘密のままにしたとしても。
例えば、アムカマンダラにどうして雨が降ったのか。
なにもアムカマンダラの虹雨は、イサイが魔法のように降らせたわけではない。
あれは大光玉の力が作用したものだ。
アムカマンダラの雲にそれが伝播して、あの辺り一帯に水滴を落とした。
大光玉のないアムカマンダラにはそうそうない事態だが、祭りの行列がアムカマンダラの雲を散らしていたあの日に限っては、ハヌディヤー通りの大光玉のあたりまで雲が届き、その不思議な力が及んだのだ。
アムカマンダラの虹雨の伝説は、裏があったわけだ。
だからあの日の雨は、一人の道化が起こした奇跡ってわけじゃあないのさ。
どうだい。
世界の秘密を知るってのはいい気分かい。
おれだったら、余計な口を挟む不粋な輩にゃ、脛に一発かましてやるね。
なにも知らずに奇跡を信じていたイサイの方が、幸せってものさ。
すべてを知る必要なんてものはない。
興醒めもいいところだ。
本物や、本当にどれだけの価値があるだろう。
計らずしてそれを知ってしまったとき、今度は一体どこへ向かえばいいのだと思う?
真実なんてものを追い求めても、堂々巡りの輪の中にさまよいこむだけだ。
自分の尾に噛みついちまった哀れな蛇みたいに、終わらない探求の渦を這いまわり続ける運命だ。
「ディディ」
黒猫がだみ声でおれを呼んだ。
そういえばこいつの名を知らないな、と思った。
「伝言がある」
「伝言?」
「ああ。ディディに会ったら伝えてくれと」
時折こいつは姿を消す。
その間に誰に会ってなにを語っていようがおれの知ったことではないし、知りたくもない。
けれども伝言と聞いて、おれの頭にはアニタの横顔が過っていた。
黒猫は、そんなおれの顔を見上げてしばらく見つめると、だみ声でいった。
「引き摺ってでも、自分の足で歩いていく。だそうだ」
アニタの横顔に重なるように、一人の娘の横顔が現れた。
そうか。
そうだな。
あいつも一丁前のことをのたまるようになったというわけだ。
最後に食らった頭突きを思い出し、おれは鼻の頭を撫でた。
「あの餓鬼め」
「餓鬼じゃないぞ」
おれのつぶやきに、黒猫はすぐさま言葉を寄越した。
「メナシェは、歌舞伎者だ」
黒猫は楽しげにとんとんと跳ねるようにしながら、おれの前をゆく。
おれは葉煙草から煙を吸い込んだ。
体の内側をどうっと流れていくものがあった。
その心地よさに目を細め、それから煙を吐いた。
この感覚は紛れもない本物なのだ。
もしもおれが真か偽りかに惑うことがあったら、立ち戻るべきところはここだ。
イサイに、一本くれてやればよかったのかもしれない。
「なあ、ディディ」
黒猫は二、三歩先でこちらを振り返っていた。
「小生もだ」
まったく、ならず者ばかりである。
餓鬼に猫までそうなるとはこの世も末ってもんだ。
可笑しくなって、おれは眉を歪めて笑った。
これでは化け猫と呼べない。
「おまえの名前は?」
黒猫は名を名乗った。
引き換えにおれの名をきく。
猫と自己紹介なんて笑えたものである。
道行く住人は奇妙な顔でおれをみて、また過ぎ去っていった。
葉煙草はもう半分灰になっていた。
おれはそいつを手にとって、黒猫を見下ろした。
「ディディだ」
おれは笑っていった。
「歌舞伎者の、ディディだよ」
見上げた大空洞の天井は、重々しい岩壁を晒してくたびれた通りの上を覆っていた。
たまには地上に出てみるか。
もう一度そう思った。
別にメナシェの奴に会ってやろうなんて思ったわけじゃない。
断じて違う。
それじゃあまるで、おれが餓鬼が趣味のもの好き野郎みたいだ。
勘違いしないでくれ。
少し、様子を見るだけさ。
そうして声をかけるかはまた別の話だ。
なんだ。
こういうと、なんだかおれが臆病風に吹かれているみたいじゃないか?
冗談じゃない。
おれは“黒風”だ。
尻込みするようなものなんかあるもんか。
行ってやろうじゃねえか。
道案内は、黒猫任せ。
次は地表をひとまわりしてきてやるぜ。
決めた。
そうしよう。
メナシェに会うかどうかは地表に出てからまた考える。
もし、メナシェが「ディディは現れなかった」っていったなら、そうだな。
その時は、こういうことにしておいてくれ。
歌舞伎者ってのは、得てして案外そういうものだ、と。




