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十六、騎士ゼバドの立ち回り

「いました。イサイです。この先、もう少し奥まったところに」

 

 

 人混みを押し退けるように移動していたおれのもとに、レティアがもみくちゃにされながら近づいてきた。

 おれたちがハヌディヤー通りの裏手に潜入してしばらく経った時のことだった。

 

 結い上げた銀髪をぼさぼさにされたレティアは、観念したようにため息をひとつ吐くと、髪留めを抜き取った。

 はらりと銀糸のような髪が舞うが、こんな人と人が絶えず押し合いへし合いをしているような祭りの最中じゃあ振り向く男もいやがらなかった。

 祭りの日に、色っぽい格好のひとつもせず外套(マント)に身を包んで剣を下げているこいつを見てると、全く物好きだと思えてくる。

 

 なんとなく哀れみを込めてレティアを見ていると、奴は不機嫌そうに茶褐色の瞳を細めた。

 

 

「なんですか?」

 

「なんでもねぇよ。案内しろ」

 

 

 人の大河は裏通りにまで溢れていて、おれたちは文字通り泳ぐように移動した。

 

 大柄な歌舞伎者(ダリル)、小鬼や人馬(ケンタウロ)、そいつらの熱狂で視界は揺れ、聴覚は喧騒で遮断される。

 埃と酒、それに誰とも知れん体臭、極めつけに妙な香を焚いているような臭いが鼻をつく。

 

 痩せ細った街路を抜ければ人気がなくなりつつあったが、汗は引かなかった。

 光玉の光もなく、がらんとした袋小路のような寂れきった風情の先に、不釣り合いなどよめきを感じる。

 

 この先の居住棟(インスラ)群が織り成す中庭に、イサイはいる。

 

 

「他の団員は、間に合いそうにねぇな。おれたちだけでやるぞ」

 

「しかし、あの熱気の中をどう近づくか……」

 

 

 レティアが顎の辺りの汗を拭ってうんざりといった顔をした時、今度は表通りが一段と大きくどよめいた。

 

 頭上を降り仰ぐと、住居棟(インスラ)のそそりたつ石壁の間から上空に数隻のダウ船が横切っていくのが見えた。

 

 錦色のアムカマンダラの雲と一緒に漂ってきた浮遊槽にはどうやら六肘(ろっぴ)が乗っていて、そのうじゃうじゃと生え繁った腕で体の周りに並べた十にも及ぶ太鼓を荒々しく打ち立て始める。

 力強い躍動が、叩きつけるように上空から降り注ぐ。

 その拍子に合わせて、通り中の輩が飛び跳ねだした。

 無数の足が踏み鳴らす地鳴りが、離れていても腹まで響いてくる。

 

 

「レティア、そこに入るぞ」

 

 

 音に負けじと怒鳴りつけると、レティアは頷いてみせて、壁沿いの居住区の一階に入り込んだ。

 石壁に阻まれて、幾分大音響が遠ざかるのを感じていると、突然の段差にずっこけた。

 

 開けた空間、真っ赤に燃え上がる釜戸、その側に特大のどら饅頭のような(ふいご)、天井まで連なる歯車仕掛けのからくり。

 おれたちが入り込んだのは、どうやら鍛冶職人の工房だった。

 

 鍛冶場に鍛冶職人がいるのは道理で、ほとんど裸に褌一丁みたいな格好の歌舞伎者(ダリル)が、釜戸の前に座っていて、こっちを睨んだ。

 

 

「なんだ、てめぇら」

 

「思った通りだ。中庭まで繋がってるじゃねえか。都合がいい」

 

 

 褌よりもおれの視界に入ったのは、その鍛冶場の裏口だった。

 中庭の入り口にかっつまって見えていた揉み合いを通っていかずとも件の場所に出れる。

 そこに出れば、イサイまでの距離はぐっと縮む。

 

 埃っぽい床を歩いて、褌の横を通りすぎていくおれに、レティアが遠慮がちに声をかけた。

 

 

「とはいえ、中庭も人で溢れていますよ。みなイサイの芸に押し寄せているようですので、接近は難しいかと」

 

「考えは、ある。ようはイサイを捕らえられればいいのさ。祭りがどうのなんてのは、おれの知ったことじゃねぇからな」

 

「おい、聞いてんのか」

 

 褌が、金槌を握り締めて立ち上がる。

 奴が一歩を踏み出す刹那、おれは曲剣を引き抜いて切っ先をその肉の塊みたいな喉元にぴたりと張り付けた。

 褌は潰れたヒキガエルみたいな声を出して、固まった。

 

 

「おれは犀利騎士小隊(ヴァルガヴァ)のゼバドってもんだ。特務中につき、善良な市民にはご協力願いたい」

 

 

 曲剣の切っ先は、鋭い。

 刃は腹にかけてやや広くなりながら、その末端に向かってきゅっと収束している。

 腹から先にかけてが両刃になっており、大抵の曲剣が切れ味を誇るように、おれの相棒も鈍い輝きを放つ。

 

 こぼれ落ちそうな目ん玉でそれを見下ろした褌は、しゃくりあげながら声を出した。

 

 

犀利騎士小隊(ヴァルガヴァ)だと……」

 

「もうしわけありません。すぐに出ていきますので、どうかご容赦を」

 

 

 レティアは割って入るようにして、おれの剣を押し退けた。

 この女騎士(セトカルキ)が段々図々しくなっていやがると感じるのは、おれの思い違いだろうか。

 

 だがまあ、そんなことはどうでもいい。

 おれは剣を仕舞いながら視線を裏口に戻す。

 

 獲物がすぐ近くに迫っている。

 おれにとって大事なのは、間もなくそいつを縛り上げられるということだ。

 その瞬間を想像して歯を溢したおれを見て、レティアは小さくため息をつく。

 

 

「どうするのですか?」

 

「こいつをイサイの側で破裂させる」

 

 

 取りだした瓶を、レティアの眼前に突きつけた。

 平手に収まる大きさの瓶からは、導火線よろしく紐が飛び出している。

 

 

「こいつに詰められてるのは嗜眠(しみん)のまじないつきの香煙だ。嗅げば一発で昏倒間違いなしの優れ物だよ」

 

 

 どこからそんなものを、とでもいいたげなレティアを尻目におれは裏口を開いた。

 

 外は砦の中の庭のようになっていて、わずかな大光玉の恩恵の下には案の定人が溢れ返っている。

 格好も様々な人の頭の波の奥で、イサイが荷車の上にお立ち台よろしくのぼっていた。

 ざわめきを縫って奴の朗々とした吟詠が響いてくる。

 酒をやってるやつ、子供、花の刺繍の帽子を被った若い男女に、どこぞの貴婦人みたいな集まりまで押し寄せていていたが、どいつもこいつも奴の目の覚めるような舞いに似た演劇に目を拐われていた。

 

 おれは静かに、人々の歓声を浴びるイサイへ、瓶を投げつける目算を立てる。

 奴の足元でこいつが破裂すれば、まずまずである。

 頭上でも構わない。

 

 

「ななつ数えたら、こいつは割れる。それを合図におれたちは人混みを足蹴にしてでもイサイへ近づく」

 

 

 レティアに説明をしながら、褌男を押し退けて釜戸の前に立つと、瓶の紐を火に近づけた。

 レティアはなにかをいいかけたが、音を立てて点火された緒先を見て、観念したように言葉を漏らした。

 

 

「了解しました」

 

「行くぞ」

 

 

 おれは瓶を握り直して、胸中で数を唱えながら、戸口へ戻る。

 

 ひとつ。

 

 イサイは自分の運命を露とも知らず、汗を飛ばして芸に勤しんでいる。

 いつ手の内に滑り込ませたのかどこからともなく出した手拭き布をぱっと広げ、貴族の真似をして高笑いをしたイサイに、つられて群集からどっと笑いが起きた。

 

 ふたつ。

 みっつ。

 

 おれはその只中に混乱を打ち込むための装置になった気分になる。

 頭の中だけがしんと静まって、気づけば笑っていた。

 

 よっつ。

 

 

「宴も酣だが、中締めとしようや」

 

 

 振りかぶり、五つめを数えた瞬間だった。

 

 頭上から影が覆い被さった。

 そう思った時、鋭い弾みが、瓶を掴んだ手の内に走った。

 

 突如戸口の上から現れた男が、外套(マント)を靡かせながらおれの目の前に降り立ち、即座に瓶を蹴り飛ばした。

 そう気づいた時、おれは剣の柄に手をやりながら、怒鳴った。

 

 

「レティア!」

 

 

 おれの手の内をすっぽ抜けた瓶は、鍛冶屋の天井に当たって落下していた。

 あれが割れれば、ひっくり返るのはおれたちの方になる。

 

 だが目の前に現れた見覚えのある相手に、余所見をしている余裕はない。

 レティアが瓶に反応することを祈って、おれは剣を抜き払った。

 

 黒外套(くろマント)はおれの居合いを突っ掛け(チャッパル)の裏で咄嗟に受け止める。

 鉄が打ち合わさる甲高い音に続いて、同時に背後で戸棚が倒れたような派手な音が響いた。

 鍛冶屋の椅子に突っ込むようにして、レティアが瓶の落下を防いだのだ。

 そのままレティアは、導火線を手套を嵌めた手で握り潰した。

 

 おれはそちらに目をやらずに、煤まみれになっているであろうレティアを労ってやる。

 

 

「ご苦労」

 

「仕事ですから」

 

 

 レティアの恨み節を聞き流して、おれは目の前の男を睨んだ。

 

 天鵞絨(ビロード)のふざけた黒い外套(マント)

 深い頭巾の下からは煙草パイプだけが覗いている。

 おれの剣を、鋼鉄を仕込んだ突っ掛け(チャッパル)とそいつを自在に操る蹴りで、押さえ込んで見せた。

 こいつの正体は、間違えようもない。

 

 

「そっちからのこのこ出てくるとはな。ディディ」

 

 

 おれはぎりぎりと刃を滑らせて、奴に一歩近づいた。

 

 

「どういうつもりだ、てめぇ」

 

「人違いですぜ、旦那」

 

 

 滑るように身体に迫った剣先を警戒して、身を低くしながら黒外套(くろマント)はいった。

 

 

「あっしは通りすがりのしがない盗賊で。望みはただひとつだけでしてね」

 

 

 ふざけた言葉を吐いたと思った瞬間、奴はぐいと足を捻った。

 

 踵で剣を押し返したかと思うと、弾かれたように爪先を打ち出して刃の腹を叩いた。

 

 衝撃で生まれた隙を埋めるべく、剣を構え直そうとするおれに、今度は逆の足で鋭い牽制の蹴りを放つ。

 鼻先の空気を切り裂いた奴の脚に、剣技を繰り出せないままおれは距離を取ることになる。

 

 なるほどその様子では、先日与えた脚への一刀は今一歩浅かったようだ。

 

 奴は、イサイへの道を塞ぐように鍛冶屋の裏口に突っ立った。

 背後からぼんやりと差し込む光が、奴を少し大きく見せる。

 

 

「やらせてやれ」

 

 

 ディディは喉の下から出るような、怒気のこもった固い声で言った。

 

 

「やらせてやれよ」

 

 

 ディディの表情はずっと読めなかった。

 それでも、やり場のない怒りに満ちた灰の眼光が、見える気がした。

 

 やらせてやれ、だと?

 

 こいつがここに立った理由。

 ディディに会いたくって仕様がなかったおれとレティアの前に、わざわざ何処からか姿を晒したそのわけ。

 それが、イサイのためだというのか?

 

 再び、頭のなかが静かになっていくのを感じた。

 反対に体はじりじりとたぎるものに温められていくような感覚になる。

 

 つまりは、こういうことさ。

 おれが、捕まえてその首を落とさんと追い求めてきたその男が、下らん情にほだされてわざわざ死にに来た。

 

 詰まらない。

 価値がない。

 ふざけるな。

 

 

「ふざけるな」

 

 

 粗い息と一緒にそう吐き出した。

 次の瞬間、おれは鋭く腕を振るった。

 

 身体全体で振ったはずのに、腕だけが飛んでいったような剣だった。

 そいつはディディの外套(マント)の被りを音もなく切り裂いた。

 寸時遅れて、ディディが身体を仰け反らせた。

 今少し腕が伸びきっていれば、ディディの顔は引き裂かれていた。

 鍛冶屋の柱が軌道を邪魔したか。

 

 が、まあいい。

 ならばもう一刀を見舞うまで。

 

 ディディは戦慄したように笑っていた。

 きっとおれが笑っていたのが移ったのだ。

 ともあれ、おまえはもう逃げられない。

 

 おれは後ろで埃を払うレティアに声を飛ばした。

 

 

「おれ一人で充分だ。こいつに逃げ場はねぇ。おまえは表から意地でもイサイに近づけ」

 

 

 ディディが身じろぎをしたのを逃さず、おれはまた一刀を振るった。

 ディディのすぐ隣の柱に薄く切り傷が走った。

 

 

「瓶をイサイにぶつけろ。それで片がつく」

 

 

 おれの言葉が終わらない内に、ディディがもう一度仕掛けてきた。

 おれが制することが出来なかったのは、視界の外からの這い上がってくるような蹴りだったからだ。

 

 奴の蹴り上げは、膝を伸ばしきったまま垂直に跳ね上がって、おれの曲剣の腹を蹴り飛ばした。

 こちらが体制を整える隙を与えず、奴は宙に浮かぶようになって、もう一本の脚を眼前に突き出してきた。

 化け物みたいな連撃だ。

 

 おれが二発目をなんとか持ちこたえたのを見て、レティアが踵を返して表出口に向かって駆け出した。

 

 ディディが着地と同時に身体を捻った。

 これは、旋風脚が来る。

 破壊力のでかい回し蹴りを想定して、おれは攻撃の裏に剣を打ち込むため身構えた。

 

 が、ディディが振るったのは腕だった。

 ディディは回転と同時に、なにかを投げた。

 

 矢のように放たれたそれは、おれの耳を掠めて、レティアの元へ飛んだ。

 どん、と斧で木を打ったような音が響いてきた。

 

 壁に、暗器が突き刺さっていた。

 針矢だ。

 針は、レティアの開かんとしていた表の取っ手口に刺さっていた。

 レティアの動きがあと半歩速ければ、そいつはその手元に命中していた。

 

 どこからそんなものを取り出した?

 ディディの様子を探るおれは、すぐその異変に気づいた。

 ディディの口元から、パイプが消えていた。

 

 仕込み針。

 そんなものを咥えて俺とやり合っていたのか。

 

 

「本当は葉煙草(ビデイ)の方が、好みでね」

 

 

 がらっとしたディディの声を聞きながら、しばらく取っ手口の針を見つめていたレティアは、こちらを向き直ったようだ。

 すらっ、と剣を抜く音が聞こえる。

 

 

「結局やりあう運命か?」

 

 

 剣を構えるレティアを見て、ディディが肩を竦めた。

 後ろのレティアから、闘気が膨れ上がってくるのを感じる。

 

 

「仕事ですから」

 

 

 首の辺りにちりちりと伝わるレティアの気合いは、まるでおれごとディディを突きかねんほどだ。

 まったく、見かけによらず血の気の多い女である。

 

 しかしレティアがどんなにやりたがったところで、ディディはおれの目の前だ。

 

 鍛冶場はやや開けた空間とは言え、手放しで暴れられるほど広くない。

 中央の歯車が連なったからくり台がそれをさらに圧迫している。

 暖炉と、斧や鉈の試作品がずらりと並んだ壁の間でおれとディディが睨み合っていて、からくりを挟んだおれの背後にレティアが陣取っていた。

 

 ところが当のディディは、おれを警戒しつつも奥のレティアにさえ神経を尖らせていた。

 このおれを相手取って、ずいぶんな余裕だと思わないか?

 

 傷つくぜ。

 つれないじゃねえか。

 

 

「同じ、葉煙草(ビデイ)好き同士」

 

 

 ちらと剣先を下げると、ディディの視線がこちらにすっと引き寄せられた。

 

 

「もっと仲良くしようぜ」

 

 

 素早く踏み出むのと同時に、弾かれたバネの様に上半身が腕を振るった。

 突如飛び跳ねた曲剣の刀身は、意表を突く。

 

 剣に血が飛ぶが、ディディの顔の薄皮を割いただけに終わったようだ。

 

 ディディは滑るようにおれから半歩程距離をとる。

 こちらの返し刃を蹴りでいなすつもりだろう。

 おれは剣を煌めかせて翻すと、腕を戻しつつディディの胸元に斬り込んだ。

 予想通りに、振り子人形みたいな直角に脚が飛び上がって、おれの剣を叩き返す。

 

 おれは剣を打ち落とされながらも前に進み出て、ディディの蹴りの間合いのさらに内側へ滑り込んだ。

 なにも斬るばかりが剣技ではない。

 おれは倒れ込むようにして、肘をディディの顔面へ打ち込んだ。

 

 ディディの驚愕に見開かれた瞳が一瞬見える。

 が、寸でのところでディディは転がるように肘を躱した。

 

 背後に回ったディディに、しかし次の剣客が挑みかかる。

 

 レティアの刺突がひゅんひゅんと、風を割いた。

 二本目の突きはどうやらディディの腕を掠めた。

 

 レティアは連撃を止めない。

 

 突き、突き、払い、突き。

 鍛冶場の温い空気を凍てつかせるように剣が舞った。

 

 ディディは転げ回るようにしながら、そいつに一、二発肉を削がれたようだ。

 ようやく立ち上がって牽制をやり返した時、ディディは肩で息をしながら、右腕を押さえていた。

 

 ディディが落ち着いたところは、奴にとってあまり好ましいとは言えない位置だった。

 鍛冶場の隅。

 からくりを挟んで、おれとレティアに二方向から剣を向けられる位置だ。

 

 レティアが、ひゅんと剣を薙いで血を払う。

 おれは左手は腰に当てたままで、剣先を地に這うようにさせてディディに構えた。

 

 

「今貰った傷の他に、少なくとも四つ切り傷があるな」

 

 

 ディディがのたうち回ってる間に見えたものを、おれは指摘してみる。

 

 

「ひとつは胸に長い切り傷」

 

 

 ディディは、おれたちの前に現れた時点でかなり消耗した状態だったのである。

 外套(マント)で手傷を覆っていたが、ここに来てそいつもどうやら隠しきれなくなったようだ。

 

 この男の足技を掻い潜って胸元に一撃入れるような達人と、直前にやりあっていた。

 一体誰だ?

 

 

「どんな化け物だった?」

 

 

 おれが問うと、ディディは頭巾の下の口をにいと緩ませた。

 

 

「やけに怖いお兄さんだったよ」

 

 

 汗の伝う顔で、それでもへらへら笑っていやがる。

 いいぜ。

 そうこなくっちゃな。

 

 おれたちの打ち合いが一時の静けさを取り戻したのを見て、でかい図体の褌鍛冶屋は、這うようにして鍛冶場を逃げ出して行った。

 表通りの辺りでは相変わらず歌舞伎者(ダリル)どもが乱痴気騒ぎに明け暮れていて、太鼓や足を踏み鳴らす大音響が、それに伴う小さな振動と共に建物の中まで伝わってくる。

 

 鍛冶場の中だけの埃臭い沈黙を破って、おれはおそらく間違いのない見込みを口にした。

 

 

「ソソお抱えの殺し屋を退けて、その上おれたちまで止める気か?」

 

 

 せっかくの天鵞絨(ビロード)も最早ずたずただ。

 床を転がったせいか、ディディの唇は切れて血が滴っていた。

 額の辺りにも先ほど刃が掠めたはずだが、そのあたりの表情は相変わらず頭巾で見えなかった。

 

 

「てめぇがイサイのためにそこまでする義理はなんだ?」

 

 

 おれがこの手で殺してくれようと追い求め続けた男が、こんなところで惨めに憂き目を見ている。

 あの愚かな道化に、なにをたぶらかされた?

 いずれにせよ、腹立たしい。

 騎士団(カルキジャーチ)をだし抜き続けた仇敵が、こうも呆気なく終わろうとしているだなんて。

 こんなことが許せるか?

 

 頭に血が上るのを避けるために、おれは笑ってみせた。

 けれどおそらく、そいつには凝縮された不機嫌さの固まりみたいな顔でしかなかっただろう。

 

 ディディはおれを見遣って、怠慢な動きで顎をかいた。

 

 

「おれが聞きてえよ」

 

 

 それは、なんとも然り気ない動きだった。

 

 まるで肉親とひとつ屋根の下で語らっているかのような、緊張感を欠片も交えない動作だった。

 油断と隙の塊、とでもいえばいいだろうか。

 突飛なディディの態度に、一瞬、ほんの寸刻、おれとレティアは意表を突かれた。

 

 その僅かな隙間に、突風が巻き起こった。

 まるで休んでいた馬が突如として最高速で走り出したかのように、ディディは驚くべき機敏さで弾け飛んだ。

 

 真っ黒な旋風が巻き起こったと思った。

 それは、ディディが目眩ましに振り回した外套の裾で、すぐにその渦中から鞭みたいにしなる蹴りが繰り出されてきた。

 おれとレティアがそいつを食らってよろけたのは、ほぼ同時だった。

 

 おれがなんとか踏み止まった時、歯車の向こう側で銀の脚が閃くのが見えた。

 次いで、レティアが呻きながら床に倒れ込む。

 

 恐ろしく速い連脚だ。

 一気に身体中の毛穴が開くのを感じた。くる。

 

 すぐに、目まぐるしい閃光のような蹴りが上段に、下段に、狂ったように放たれた。

 本能が、急所以外への守りを捨てる。

 微塵でも甘い判断をすれば、即座にやられる。

 受けに回り続けていても駄目だ。

 

 脇腹に強い衝撃を受けながら、覚悟を決めて蹴りの嵐のなかへ突っ込む。

 右手の刃をディディの攻撃の軸へ、最小限の動きで送り込む。

 揺れる斬撃となったそいつは、ディディの腰を小さく捉えた。

 

 刹那、ディディの攻撃が止む。

 

 この機を逃すな。

 おれは、相手を切り裂くための道具になりきる。

 剣と一体化したようになって、剣技を振るう。

 

 技を出した腕が寒気で消えてしまった気になる程、冴え渡る感覚に身を委ねる。

 見たことのない速度で、曲剣が舞った。

 

 しかし、それでも、ディディの体は捉えられなかった。

 幾度か天鵞絨(ビロード)を切り裂いた感覚はあった。

 壁を背にしたディディに、残された空間は幾ばくもないはずだった。

 

 それなのに、おれの剣は空を斬り、その光る刃を掠めるようにして延びてきた蹴りが、気づけば眼前にあった。

 

 ばちん、という酷い音が耳に残った。

 

 顔面の皮が剥がれ落ちたような痛みが、皮膚に残っていた。

 前後左右が分からなくなって、暗い世界をぐるぐると回ったような気がした。

 

 わけが分からない、という感覚に陥って、それから抜け出せなくなってしまったということを理解した時、おれは敗北を認めざるを得なかった。

 

 脳みそが衝撃でぐらついている。

 おれは痛みをひとつひとつ感じていった。

 こういう時は、痛みがなにより目を覚ます頼りになる。

 顔面を削がれたような痛みを感じていると、血の臭いがした。

 後頭部の鈍い痛みに耳を傾ければ、耳鳴りの奥にレティアの苦悶する声が短く聞こえた。

 次いで、剣が地面に転がる音が響く。

 

 瞼を開けると、点滅する視界の中に立ちはだかるディディの黒い後ろ姿が見えた。

 それ以外に立ってる者はいない。

 レティアはどうやら倒された。

 

 どうして、おれたちは地面を這いつくばっている?

 戦局は、奴にとっては最悪といって良かった。

 それを、只の瞬きひとつ分ともいえる隙を縫って、ひっくり返しやがった。

 

 どうかしてる。

 

 

「ディディ」

 

 

 我ながら凄惨な呻き声が喉から零れ出た。

 怨霊の断末魔といわれれば信じてしまいそうな声だ。

 ディディは飛び上がって、こっちを振り向いた。

 

 

「まだ意識があるのかよ。頑丈なおっさんだな」

 

 

 間抜けにうそぶいた格好をとる奴の、体のあちこちから血が滴っている。

 

 ディディは、まだ欠片も諦めなかった。

 おそらくおれとレティアに追い詰められても、頭巾の下に隠した目は可能性を捨ててなかった。

 “どうにかする”つもりでいたし、それをやってのけた。

 

 地べたに這い、こちらを見下ろすディディを睨みながら、ようやく分かったことがあった。

 ディディがそうまでして、イサイに芸を全うさせたい理由。

 

 あの時奴自身がいったように、それは“わからない”のだ。

 そのわからないことに、こいつは命を懸ける。

 

 

「おい! 新手だ!」

 

 

 突然、奇妙なしゃがれ声が埃っぽい鍛冶場に響き渡った。

 

 

 「イサイを狙ってる!」

 

 

 視界の端で捉えたそいつは、猫のようななりをしていた。

 そういう幻獣か、いやしゃべると言うことは魔族(アスラ)か。

 それともおれは夢を見てるのか。

 

 

「ソソの追手か!」

 

 

 ディディは背戸口に立って上空を仰いだ。

 やがて素早く周辺に目をやり、腰帯に巻き付けている銀色の緒をするすると外し始めた。

 

 ソソの手の殺し屋が来た。

 おそらく二回目だ。

 初手が妨害されたと分かって、今度は確実に潰しにくる。

 二人以上は居るだろう。

 どこから狙っているのか、ディディの様子を見るに空から仕掛けるつもりらしい。

 大方、地底街の空を舞うダウ船のひとつにでも紛れ込んでいるのだ。

 

 まだやるつもりなのか?

 

 天鵞絨はずたずたになって、傷口がいくつもみえる。

 それでも、天を睨むディディの横顔は全身全霊で敵を止めるつもりでいる。

 

 ディディは腰緒の先をひゅんひゅんと回した。

 蠢く群衆を目の前にして、ただ上空を睨んでいた奴は、やがてはずみをつけて腰緒を投げあげた。

 空に放たれた鳥のように天井に真っ直ぐ伸びた紐の先は、上空に浮かぶ浮遊槽のひとつにもたれ掛かって垂れた。

 

 ディディは紐を強く引っ張って強度を確かめると、浮遊槽に引っ張られてぐんぐん奪われていく縄の尻に足を引っ掻け、助走をつけて跳び上がった。

 見物人の背中を、頭を足蹴にして、ディディは今や浮遊槽に吊られて空中に浮き上がった。

 突然空を飛翔したディディに、中庭の数人は気づいて驚きの声をあげた。

 

 いつの間にか上空を埋め尽くしていたアムカマンダラの雲に吸い込まれて、やがてディディの影は鍛冶場の地面を這いつくばるおれからは見えなくなった。

 

 後に残されたのは、喧しい人込みが踏み鳴らす騒音と煤の臭いに、口に入り込んだ砂と血の味だ。

 おまけに顔面は皮が捲れたように痛む。

 

 それでも、なんとか四つん這いになるようにして体を起こした。

 

 すぐに起き上がれば、また天地がひっくり返ってすっ転ぶの関の山だった。

 おれはずりずりと鍛冶場の地面を這いながら、レティアに近づいた。

 レティアは青い顔で倒れていていたが、どうやら死んではいない。

 そいつを確かめると、おれは昏倒したレティアが片手に握っていた瓶をもぎ取った。

 

 導火線がなくなっても、イサイの側で破裂すればこいつの役目は果たせる。

 イサイを捕縛できれば、ソソやバティカンのほの暗い繋がりについての確かな情報を手にできる。

 刑に処すのは、その後でいい。

 おれは作業台に捕まりながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 視界をちらつく火花を頭を振って追いやり、鍛冶屋の窓から喧しい外の様子を見遣ったその時だった。

 上空から、影が人垣に落下した。

 次いで、人々のどよめきが僅かに聞こえる。

 落ちてきたのは、人だった。

 

 ディディだ。

 ディディがやりやがった。

 あの状況からソソの追っ手を、少なくとも一人打ち負かしたのだ。

 

 理屈で説明出来ないものに従って、奴は行動し続けている。

 奴はこの寂れた裏通りを飛び回る。

 たった一人の体で、道化イサイを狙う凄腕を何人も相手にして。

 

 戸口に立って、ごみごみした中庭の上空を見上げる。

 上空を漂うダウ船の一隻から、またひとつ人影が落ちた。

 あの男は、まだ戦い続けている。

 

 

「いいぜ。認めてやる」

 

 

 おれは誰ともなしに呟いた。

 

 ディディは、本物の歌舞伎者ダリルだ。

 たったひとつの芸のために、命を張る。

 手前に利益があるだとか、なにかの正義のためだとかって大義もない。

 

 ただ、誰も認めないことであっても、ディディだけが認める価値がそこにあった。

 或いは、ほんの気まぐれかもしれない。

 命を張るには、余りにも無責任な気まぐれが。

 

 全くもって酔狂だ。

 だが、それが歌舞伎者(ダリル)だ。

 

 まるで偽物だとでもいうように、憚るように外套(マント)に姿を隠したあいつは、誰よりもその魂を持っている。

 認めよう。

 黒風のディディ。

 

 だが。

 

 

「さればこそ、おれの出番だ。そうだろう?」

 

 

 歌舞伎者(ダリル)が、世の中を敵に回してでもひとつの義理を果たそうとするのであれば、そいつに現実を叩きつけるのが、騎士(カルキ)だ。

 

 悪事は等しく裁かれる。

 例え小さな悪党でも、生易しくお許しを振り撒いてちゃあ、世界は回らない。

 冷徹な鎌をその首に据えて、問うのだ。

 

 「おまえの罪はなんだ?」と。

 

 おれの剣は鈍らない。

 この地底の、地獄の果てのような場所で、小さな夢を見ている者にさえも。

 それを悪だという声があるのならば、おれは決して許しはしない。

 

 それがおれの正義だ。

 

 イサイは、裏通りをアムカマンダラ大路に負けじと高い温度へ仕立て上げていた。

 そして極めつけとだかりに天に吠える。

 

 

「教えてくれ、女神よ! おいらは本物になれたのか!」

 

 

 一瞬の静けさが中庭を包んで、でもそいつはすぐに大歓声に変わった。

 

 広場の誰も彼もが、イサイを称えた。

 お立ち台の上でアムカマンダラの雲を見上げるイサイは、まるで神にでも祝福されたかのようだ。

 

 おれは、ゆっくりと瓶を握った腕を振りかぶった。

 

 興奮した人々の上げる声や物音は頭の中から締め出され、心臓の音がどくどくと聞こえてくる。

 ギロチンの刃を落とす処刑人ってのは、こういう気分なんだろう。

 感情が消え失せたような気分になってから、喜びの世界へ悪魔の煙をもたらすべく、腕を振り抜いた。

 

 でも、おれのその様子をディディは見逃さなかった。

 

 ダウ船に這い上がっていたディディは、おれが瓶を投げ込むその瞬間に合わせて、空中の舟から飛び降りた。

 イサイの頭上に飛び出したディディは、光をちらちらと反射しながら飛んでくる瓶に向かって、蹴りをかました。

 瓶は、空中で冷たい音を立てて、碎け散った。

 

 どすん、と、ディディはそのままイサイの立つお立ち台の上に落下した。

 次いで、イサイとディディの頭上から、しだれるように煙が広がる。

 

 破裂の位置が高すぎる。

 これでは奴らに煙をかい潜られる。

 混乱に陥る群衆を前にして、おれは痛恨の念に奥歯を噛み締めた。

 

 その時だった。

 

 

「伏せろ、イサイ!」

 

 

 ディディが、咆哮した。

 血を額から流したその姿は、絶望を叫んでいるように見えた。

 

 まさか。

 

 おれはディディが睨んでいる方向を見た。

 その時、居住区の一角から光が鋭く走った。

 

 ──弩から放たれた矢だ。

 

 そう思った時には、イサイの体が大きく泳いでいた。

 

 イサイはまるで人形になったみたく、力なく、無感動に、倒れこんだ。

 慈悲のない、荷物を放り込んだような音が、ばたんと響く。

 

 降りかかる煙が、その姿をすぐに包みこんだ。

 ディディとイサイは見えなくなって、中庭は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 阿鼻叫喚のさんざめきの奥で、ディディがイサイに呼び掛ける怒鳴り声が、微かに聞こえた。

 

 おれは戸口で阿呆のように棒立ちになった。

 目の前の騒ぎを眺めながら、永遠にイサイをとり逃したのだ、ということだけを頭の片隅で理解した。

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