十四、女帝ソソの苦り切り
舟の軋む音が、ロフの舵櫂が捻られるたびに静かに響いた。
魔族街にしては辺りはしんとしていた。
わたしたちが光を振り撒きながら航行しているためだろう。
半鳥や小人は夜目がきくから、奴らの住み処に明かりは灯らない。
光を手放すことのできない侵入者にすぐ気づくというわけだ。
歌舞伎者ですら魔族街に不用意に踏み入る者は少ない。
異形の民が集う真の暗闇はさしもの風来坊どもも恐ろしいとみえる。
だが、魔族といえど落ちこぼれは落ちこぼれだ。
わたしに盾をつくほどの勇者などこんな掃き溜めにいるはずもない。
物陰から、草庵のすかすかの壁の隙間から、こちらを伺うようにしている魔族を、ロフは鋭い眼光で睨みながら浮遊槽を漕いだ。
「魔族頭の野郎、バティカンと結託しているってことはありませんか」
魔族頭というのは、この魔族街のまとめ役のようなことをしている男だ。
ロフの言に、わたしは笑って声だけを返した。
「そういうこともあるだろうな。バティカンは根回しを怠らない男だ。だが、魔族頭はせいぜい利用されて終わりだろう」
バティカンの私に対する態度が、強引さを隠さないものであることは分かりきったことだ。
そもそもこのアムカマンダラの北端を使って、藤黄の花薬を作り魔族どもにばら蒔いていることは重々承知の上だ。
今さらアムカマンダラ侵入の証拠を突きつけたところで、バティカンはそれがどうしたという顔をするに違いない。
断罪はいずれする。
それよりも身内の不始末を片付けるほうが先決だ。
鬼神足のイサイ。
バティカンに与し、私の光玉に手を出した男。
罪を犯した者は、裁かねばなるまい。
しかし、ディディはついに白状しなかった。
奴を締め上げることを考えなかったわけではないが、それが骨の折れることであるのは確かだ。
アムカマンダラでは黒猫使いのディディなどというふざけた仮面を被っているが、奴の正体はあの黒風のディディだ。
どうも腹が読めん。
金だとか面子だとか、ましてや正義のためなんて陳腐なもののために動く男ではない。
だからイサイの肩を持つ理由は依然として知れないし、そんなものは存在しないという可能性もある。
そしてくたびれ儲けをしているほどわたしたちは暇ではない。
奴について確かなことは、扱いづらい男であるということだけ。
黒風のディディ……奴も後回しだ。
浮遊槽が小川をひとつ跨ぐと、喧騒は大きく反響して耳に届くようになる。
天にせり上がった岩山のあちこちに屋根のない家をひっつけた、不揃いな街路。
喧嘩に明け暮れ地べたに這いつくばる男どもや、酒樽の山に座るけばい女たち。
あるものは抜き身の剣を振りかざして歌い、あるものは家畜の上で短刀を打ち鳴らして喚く。
それらの上空を、万華鏡が高熱でどろどろに溶け出したような、色鮮やかな霧、アムカマンダラの雲が立ち込めていた。
私たちは、アムカマンダラ中心街へ戻ってきていた。
大路へ出ると、色めき立つアムカマンダラの混沌が、より生彩を放っていた。
腹に響く振動を立てて、牙象が道の中央を闊歩していた。
天に反り返る二本の牙を見上げると、数十にも及ぶ数の鈴を垂れ下がっている。
明日の祭りでは、こいつは自分の丈よりもさらに一回り大振りの御輿を引くことになる。
牙象の足元では、人々が奴に踏み潰されぬように用心をしながらあちらこちらへ忙しなく行き交っている。
街明かりに浮かび上がるシルエットはどれも、動物の骨や草花を身につけてより鮮烈に飾り立てた歌舞伎者どもだった。
そのうちの一人の恰幅の良い歌舞伎者は大黒天のようななりをして豚を数匹連れており、その一匹一匹までもが巴の描かれた頭巾を身に巻き付けて朱色の耳飾りでめかしこんでいた。
祭りの当日は明日だ。
しかし、もうアムカマンダラでは前夜祭が始まっている。
楽士はすでに演奏会を道端で始めていて、その見世物の一帯の横をこちらに一頭の馬が駆けてきた。ノイだった。
「ソソ。どうでしたか」
ノイは馬を御しながらわたしの近くに寄った。
わたしたちは敢えて低いところを人混みを押し分けるように浮遊槽を飛ばしていて、だから長身のノイは微妙な馬術を操ってわたしの顔にそう遠くない位置に頭を寄せられた。
わたしは早口に状況を告げ、ノイに報告を促した。
「そちらはどうだ。大きな獲物が網にかかったか?」
ノイは遠目に見ても抜き放った刃のような目つきをしていて、ノイが張っている辺りで問題が起きたのは間違いなかった。
案の定、ノイの口からは厄介な人物の名が転がり出てくることになる。
「ハヌディヤー通りからの道に、騎士団が来ました。犀利騎士小隊のゼバドです」
わたしが辿り着いた時、ゼバドはうんざりといった顔で鞘に収まったたままの剣を肩の辺りで遊ばせながら、葉煙草を燻らせていた。
「いよお、ソソ。こいつらをどうにかしてくれや」
ハヌディヤー通りが魔神熊の門を潜り、アムカマンダラ大路にぶつかるその三叉路で、ゼバドを先頭にして整然と縦隊する騎士団が十人近く佇立していて、その銀の百足どもの行く手を塞ぐように、茜色の上衣を身に纏ったうちの商会の連中が立ち塞がっていた。
往来の者共はその張り詰めた空気に興を引かれて遠巻きに輪をつくっていていたが、口汚く野次るには危険人物が顔を揃えているとみたようだ。
奇妙なざわめきの中に、野良犬だけが吠え狂っている。
ゼバドはわたしを見ると葉煙草を咥えたまま、パン屋の主人を呼び出すかのような調子でわたしの名を呼んだ。
わたしは鉄の表情を湛えたままゼバドに答える。
「貴様はここで歓迎されない。耄碌するような年ではあるまい。それくらいの目算は立つはずだが」
下らぬ腹の探り合いをするつもりはない。
都市議会の動きを考えれば、騎士団上層部が今さらこいつらのような末端の騎士が出張るのを許すとは思えない。
となれば、ゼバド。
この男の独断だ。
ゼバドは口髭をぐっと歪めて笑みをつくった。
眼光は炯々として、不気味にわたしを見据えている。
騎士団なんてものに就く連中の間抜け面を、わたしは心から軽蔑しているが、この男の目はどうにも我々に近しい妖気を放っているように思う。
「ひでぇじゃねぇか。おれはただ遊びに来ただけだぜ」
「騎士団を丸々一部隊連れてか?」
「おぉ、若いもんにも祭りってもんを教えてやらにゃならん。先達の務めよ」
「戯れ口を閉じろ。貴様らのような者をここに入る許可は出さん。もう一度の上の人間からよく分かるように高説を頂戴して来い」
硬く高い壁に弾き返ったような声が、喉から出ていくのを感じる。
吠え猛っていた野良が、情けなく呻いて口を閉じた。
いつから、意図せぬ内に相手を圧倒するような温度で話すようになったのかは思い出せない。
騎士団の若衆は、直立の姿勢を崩さなかったが、わたしから目を背けるだけの利口さは披露した。
しかしゼバドは、愚かしくもその目を楽しそうに歪めた。
「おれは思うんだけどよお。正義の剣を振るおうってのに、どうしてわざわざチンピラのお許しがいるのかねぇ」
喉を潰すようなしゃがれ声で、ゼバドがいった。
「お山の大将ってったって、たかが歌舞伎者だろ? てめぇは」
ノイが、腰の小太刀に手をやった。
冷え冷えとした眼差しの前に、わたしは手をかざして制止をした。
同時に身構えたゼバドの真後ろに控える全身甲冑の小柄な騎士を、ゼバドが制する。
そうしてから、ゼバドはまるで茶番劇でも見たような冗談めかした笑いを浮かべて寄越した。
なるほど。
やはりこの男は、どこかに正気たらしめるためのタガを置き去りにしてきたようだ。
犀利騎士小隊の名は数多の騎士団の中でも飛び抜けて知れ渡っている。
目標とした相手を制圧するためならどんな手段でも用いる。
その陣頭指揮を執るのはいつだってこの男だ。
わたしはゼバドのにやけ面を、無感情に見つめ返した。
葉煙草の煙が鼻につく。
そうであるならば、とっとと刈り取ってしまうというのも、ひとつの手だ。
「我々は騎士団と良好な関係を築いてきたつもりだ。貴様は、長年積み上げられてきたお互いの努力を、踏みにじろうというのか?」
いいながら、わたしは左肩の髪をかきあげた。
それが、わたしの位置からそう遠くない位置に身を潜めているラトへの合図だとは、ゼバドは気づかない。
ゼバドはわたしの言葉にくるりと目を回して、小さく息をついた。
「苦節には、労いの言葉を送りたい思いだね。懸命に石を積み重ねてきたこの数年間」
剣を肩に担いだまま、片手を広げてふらふらとゼバドは歩き出した。
アムカマンダラ大路の街並みに溶け込んでいる石塔では、ラトが手元の弩をぴたりとゼバドの動きに合わせて、矢尻をその頭に据えている。
わたしが人差し指を天井に向けて掲げるのを合図に、その矢は放たれることとなる。
その瞬間、ゼバドはただの肉塊になる。
そう思うと、目の前の咥え葉煙草の男の堂々たる様も憐れに思えてくるものだ。
「三途の川原の石積みだったって話さ。遅かれ早かれ、崩れる運命にある」
ゼバドはなおも強い語調で、鋭い目付きをわたしへ向けていた。
「祭りはいずれ終わるってもんだぜ。バティカンの祭りも、てめぇら歌舞伎者の祭りも……採掘工共同体の祭りもな」
思わぬ文句がゼバドの口から溢れ出た事に、わたしはほんの一瞬、落ち着きを失う。
これは、少しばかり計算外だ。
採掘工共同体。
つまり光玉の取り引きのことを、ゼバドが掴んでいる。
そしてこの男は今、バティカンの名すら出した。
つまりは、我々赤月商会とプネー市の大商人バティカンの間で起こっているいさかいについて、こいつらが掴んでいるということだ。
そして今の一刹那のわたしの眼の揺れで、おそらくゼバドは確信を得た。
奴の歪みきった笑みが、それを証明していた。
なんとも、こいつは大それたことを考えている。
どうやら、殺すしかないようだ。
わたしはゼバドの口元を指差した。
「我らの歌舞伎者の祭りが終われば、葉煙草はシバ市から消え失せるだろうな。貴様が咥えているものも同様に。それでいいのか?」
葉煙草を大空洞にもたらしているのは我ら赤月商会だ。
僧会が禁じているものを真っ当な商人では捌くことすら出来ない。
我々が解体されれば、葉煙草は地底への供給経路を失う。
などという空言は、もちろんゼバドの気をそらすための言葉だ。
「むっ?」
思っていたよりも奴はおたついた。
どうやら重度の葉煙草中毒らしいゼバドは、考えてなかったとでも言うように眉をしかめた。
「馬鹿言え。そのへんは、折り合いをつけてだな……」
丁度いい。
わたしは瞳が冷酷な色を帯びていくのを感じた。
ゼバドを指した左手を、天井に向かって振り上げる。
それだけでこいつは死ぬ。
そうだ。
ならば行え。
しかし、わたしが手を振り上げようとした、その刹那。
ゼバドの後ろにいた全身甲冑の騎士がぱっと前に進み出て、ゼバドの口から葉煙草を取り上げると、地面に叩きつけた。
突然の小柄な騎士の暴挙に、わたしとゼバドは動きを止めた。
先に動いたのはゼバドだった。
「なにしやがる!?」
末期喫煙者の動きで、ゼバドは地を転がった葉煙草を追いかけた。
情けなく這いつくばろうとするゼバドは、しかし、背後の建物で構えるラトの弩の射程から逸れる。
全身甲冑は、私の前についと進み出ると、兜の奥からくぐもった声を出した。
「ソソ。今日はわたしたちが引きます。突然の来訪をお許し下さい」
変声期前の少年の声だった。
ゼバド専属の従卒か。
なにより、大それたことをしてくれた。
おかげでゼバドを射抜く機会を逃した。
わたしは内心臍を噛む思いをしながら、その騎士を見下ろした。
甲冑の奥の表情は見えない。
が、この気配。
わたしには本能的に感じ取れたことがひとつあった。
ゼバドは拾った葉煙草に息を吹き掛けて大事そうに抱え上げながら、しゃがれた声で怒鳴った。
「てめぇ、なにを勝手な──」
従卒が、ふいにゼバドを殴った。
ようにみえたが、どうやらその胸元に拳を押し付けたに留まっている。
ゼバドは一瞬よろけて、わけが分からないという顔で従卒を見た。
従卒はその胸元にやった拳をぱっと開いた。
従卒の手の内から、リボン状に結ばれた小さな麻縄がひらひらと落ちた。
ゼバドがそれを目で追っている間に、従卒はくるりと向きを変えてこちらへ向き直った。
「我々犀利騎士小隊は、ゼバドを頭として手足となる一つの生命。本意でなくとも無謀な命に従わざるを得ぬ運命なのです」
「なんだと!?」
頭にきた様子でがなるゼバドを、従卒はまるっきり無視して言葉を続ける。
「しかし、万が一頭が倒れることがあれば」
そこで言葉を切ると、従卒は腰の半剣に左手を添えた。朝靄のようにうっすらと、従卒の辺りから殺気が立ち上った。
「もはや死なば諸とも。騎士の名誉も尊厳も捨て、最後の一人まで報復のために生きることでしょう」
従卒の後ろを見やると、雁首揃えて突っ立っているだけに見えた騎士どもが、いつの間にか揃って剣の束に手を掛けていた。
先程私から目をそらした若輩でさえ、張り詰めた眼差しになって敵意を溢れ出している。
いつだ?
一体いつ、こいつらの警戒が引き上がった?
いずれにせよ、この場を無駄な労力をかけずに済ませる言葉を、わたしは口にする必要があった。
「──とっとと失せるがいい」
わたしの言葉に、小柄な従卒は小さく会釈をした。
「ごきげんよう」
従卒がかつっと踵の音を立てて踵を返すと、それに習って騎士の列が一斉に方向転換した。
やつらが一斉に歩き出すと、耳障りな甲冑が擦れる音と一緒に土煙が地面から涌き立った。
どうやら勘のいいのがいたようだ。
奴が咄嗟にゼバドを引かせたのは、嫌な予感だとか虫の知らせのようなものの域をでないだろう。
だが、そういうものを持つ者というやつは面白い。
やはり、女は案外腹のすわった博打をする。
わたしは、厄介者の背中に向かって思い付いた言葉を投げ掛けた。
「見事な手並みだ。今度は、ファリードで共に卓に着きたいものだな? レティア」
従卒はわたしの言葉にほん束の間立ち止まったが、すぐに前を向いて歩を進め始めた。
「ばれてるじゃねえか。え?」
納得がいかないという顔をしていたゼバドが、皮肉っぽくいって小柄な騎士をどついた。
「この始末をどうつけるつもりだ、てめぇ、レティア。ああ?」
「元々今日は様子見だったはずですよ。それをあんな風に吹っ掛けたら死に急いでいるようなものです。それに、兜を装着してくださいと、日頃からわたしは進言しているはずですが」
「うるせえ」
憚るつもりもないだろう声で、騎士どもはいいあいをしながらハヌディヤー通りを戻っていった。
わたしは一時その背中に視線を送ってから、ロフに合図を送って浮遊槽を動かした。
ノイが、槽の動きに沿うように横に馬をつけてくる。
「奴らは明日も現れるかもしれません。よろしいのですか」
「構わん」
わたしは祭りに浮かれるアムカマンダラに視線を投げた。
楽団の奏でる裏表の拍子や酔っぱらった町人の笛の音が混ざりあって、ヴィヴィットの発色をなすアムカマンダラの雲へ吸い込まれていた。
大空洞の奥地、光に見捨てられた地に広がるアムカマンダラは、おそらくウヴォのどの地よりも狂乱の予感に沸き立っていた。
「客は多いに限るだろう」
祭りが、はじまる。
アムカマンダラの上空を、鳩鼠が甲高い鳴き声を飛ばしながら羽ばたいてゆく。
わたしはそれを目を細めて見つめて、ひとつ小さく息をついた。