十三、黒猫カーリーのとつおいつ
メナシェたちの住処からほど遠くない所、アムカマンダラの郊外の闇の中に、大きな井戸ともいえる縦穴はあった。
レンガ造りに囲まれた空洞は、暗がりの中にあっても更に深淵に向かって伸びているように見えた。
ウヴォの地底、更なる深み、弐階層へとその穴は繋がっている。
本来階層を跨ぐ縦穴には様々な利権や税が関係してくるはずだが、小人が辺鄙な土地に気まぐれで空けた穴にまでわざわざそれを主張しに来る者はいないとみえる。
岩壁が闇を黒々と染め上げるように突き出し、上空からは槍の雨のように吊り竹が伸びてきていて窮屈な感じがした。
根を天井に持つ逆さの竹林は、闇のなかから手を伸ばすように鬱蒼と空に生い茂る。
それらに遮られながら、右手の彼方に天体苔がかすかに見え、左手には燦然と輝く灯台がアムカマンダラの雲の奥で霞んでいた。
闇に目が馴れてくれば、吊り竹の葉の舞う下には藁葺きの小さな住まいが岩の間に散見される。
魔族街だ。
ごみごみと掘っ立て小屋が突っ立った隙間を、時より焚き火の残りかすみたいな明かりがちらつく。
獣のような唸り声みたいなものも時折こちらにまで響いてくる。
井戸は、集落から少し距離を置いた所にあって、そこを抜けてきたであろう一隻の浮遊槽が降り注ぐ竹の隙間に隠れるように浮いていた。
船体の下には三つの影がある。
うちふたつは明らかに魔族だった。
ひとつは成人より一回り身体が大きく、闇のなかでも一目で鬼と分かる。
それを引き連れるようにしているもう片割れの方には足がなく、代わりに腰の辺りにぶら下げた装飾品がじゃらじゃらと引き摺られている。
ぎょろっと飛び出るような目玉だけが暗闇の中に目立っていた。
幽精だ。
残されたもうひとつの影がだぼっとしたへんちくりんな格好をしているというのは、人間の目にもよく見えるに違いない。
けれど、小生にはその者の顔までよく見えた。
イサイだった。
「確かに、よっつだ」
幽精は、子供一人すっぽり入ってしまいそうな手元の大きな麻袋の中を覗くと麻袋の口を閉じた。
その僅かなあいだでも、麻袋の中身は想像がついた。
中のものは、布の繊維を溶かすように発光していたし、その口を緩めた一瞬に幽精の顔を確かに照らしたのだ。
なるほど。
あれがソソの“光るもの”。
そこらではお目にかかれない大物の光玉だ。
「こんなものもあるんだ。どうだい、あんたんとこで上手く捌けるだろ?」
イサイはいつもの調子のよい大声ではなかった。
憚るように身を竦めて辺りを見回し、大きな包みを取り出して幽精に手渡す。
幽精が包みを開いてそいつを広げると、イサイは小さな手振りをつけて売り込みをした。
「良い外套だ。間違いなく値打ちもんさ。この滑らかな手触りったらなかなかだろう」
幽精は無表情のまましばらく外套を眺め、それを僻地に一筋差し込む灯台の光に晒した。
「天鵞絨か」
「そう。お得意様も喜ぶはずだ。おいらの目利き品だぜ」
「傷がついているな」
イサイの浮かれ調子を無視するように幽精は言って、鬼に目配せをする。
大岩のような鬼が1歩進み出ると、イサイの手に何かを握らせた。
突きつけられた鬼のいかつい顔に、イサイはやや畏縮した作り笑いを返して、手元に目線を落とす。
しかしその笑みさえも、握らされた銭の枚数を見てすぐに凍りついた。
幽精はそれを彫刻のように見下ろしながら、分厚い唇を開いた。
「おまえには似合わん代物だ。どうせ盗品だろう。捌いてやるだけ有り難いと思え」
もう一度幽精が目配せすると、鬼は外套の包みを肩に担いで下がった。
鬼はそうして浮遊槽から垂れ下がる縄梯子に掴まると器用に巨体を揺らしながら登り、上空に漂う小舟へ乗り込んだ。
鬼は、慣れた手つきで出航の準備を進めた。
小舟の三角帆が、ばさっと音を立てて斜めにマストへ掛かる。
幽精は白いそれを目を細めて見上げながら、イサイへ言葉を投げて寄越した。
「あまり欲を出すな。おまえたちには今回余りあるほどの対価を与えているはずだ」
イサイは幽精の言葉をじっと聞きながら立ち尽くしていた。
鬼が舟の準備を終えてするすると降りてくる。
幽精はなにかの指示を鬼に与えていた。
どうやら鬼は浮遊槽には乗らないようだ。
そのまま無表情に立ち去ろうとする幽精の肩を、イサイが突然飛び付くように掴んだ。
「もう一度、約束してくれ」
小生は、イサイのその形相に驚かされる。
あの間の抜けた、けれどそれ故にどこか愛嬌のあった道化の顔はなりを潜め、そこには追い詰められた人間の血走った目があった。
「プネー市に……バティカンの庇護のもとに連れていってくれるんだな」
幽精はその手をそっと払い除けると、能面そのもののような顔をイサイにむけた。
「織物工共同体に話は通してある。おまえたちの新たな住居は表層の組合宿舎だ。喜べ、穴蔵から出られる」
幽精の言葉を受けても張り詰めた表情を解かないイサイに、今度は幽精の方が手を回して長い爪のついた手で一度、二度とイサイの肩口を撫でた。
「我らは約定を違えない。もちろん、そちらが友情を裏切る事がなければだが」
「これ以上、おいらになにができるっていうんだい?」
囁くような口ぶりの幽精に、イサイは自嘲気味に笑った。
額の皺には深い苦悩が伺える。
幽精はその顔を見ながら手を引くと、懐から葉煙草を取り出した。
「吸うか?」
イサイはそれをちらりと見やり、痛ましい表情のままゆっくりと首を振った。
「ソソが、気づいてるかもしれないんだ。そうなったらおしまいだ。急いでくれよ」
「明日の祭りの最中に、おまえの家に迎えの舟を寄越す」
幽精はそれだけいうとイサイの腰の辺りをとんと叩き、その場を離れた。
空飛ぶ小舟に両手を使ってするすると登り、鬼が錨を外すと舟は静かに、緩やかに舞い上がった。
三角の一本マストがぴんと帆を張ると、今度はその舟はゆっくりと方向転換しながら下降して、井戸の大穴に消えていく。
通りすぎる浮遊槽が巻き起こす旋風が、井戸の煉瓦の上に座る小生の毛並みを撫でた。
舟が消えたのを合図に、鬼もくるりと踵を返すと、暗闇の中に迷うこともなく足を踏み入れていった。
小さな空き地には、イサイの背中だけがぽつんと残された。
しばらく呆然と井戸の縁の辺りに目を止めていたイサイは、やがて重い足取りで歩き出した。
イサイの顔は眉から口からどこも強ばっていて、得体の知れぬ巨大な恐怖と必死に戦っているようだった。
だからイサイは、普段であれば気づけたかもしれない気配を、この時になってようやく探り当てた。
イサイは我に返ったように顔を上げると、身体を固くした。
誰かがいる。
イサイの蒼白な顔に、絶望の色が濃くなる。
ぴたりと動きを止めてイサイが動けなくなったのを見て、その時ディディははじめて口を開いた。
「安心しろよ。通りすがりの盗人だ」
酒焼けした声に、しばらく硬直していたイサイの表情がゆっくりと、本当に少しずつ緩んだ。
疲れたような目元には、安堵というよりは何かを諦めたような悲哀が滲んでいるように見えた。
ディディは、岩壁にもたれるように立っていた。
イサイはそっちに視線を投げて弱々しい声を返した。
「てっきりお迎えが来たかとおもったよ」
「そいつはまだ早いぜ」
ディディは壁から離れて、イサイに近寄った。
黒髪と顔の一部を光の筋が照らして、片目がはっきりと見える。
灰色の瞳が光に晒されて、月色を放っているようだった。
「酒代をまだ払ってない」
ディディは面白がるように笑った。
イサイはディディの言葉に毒気を抜かれたような目になって、それからゆっくり目尻に小さな皺を浮かべた。
「黒風ディディの英雄譚」
イサイが小さく笑いながらいうと、ディディはぱちんと指を鳴らした。
「聞きたいだろ?」
「いいのか?」
「そういう約束だ。おれは約束を守る男さ」
ディディは葉煙草を取り出すと、その先端を火金鋏でばちんとやった。
闇の中に微かな閃光が走って、やがてそれは葉煙草の先端に収束していった。
どうやら、ディディは己の過去を打ち明けるつもりらしい。
どういう風の吹き回しなのか小生の知るところではないが、まったく猫のような気分屋である。
とはいえ、極端に言葉足らずなこの男が口火を切る機会はおそらくそう多くない。
小生はぴん、と耳をそばだてた。
「黒風のディディは、いかれた男だった。酔狂で、洒落に命をかけるような偉大な男だったよ」
自己紹介にしては何とも尊大な語り口だ、と小生は思った。
ディディに殊勝な心掛けなどというものを感じたことは出会ってこのかた一度もないが、それにしても妙だった。
まるで、黒風のディディは全く別の人物で、それを心から敬愛しているかのような口ぶりだ。
ディディは、その奇妙な違和感を助長するように言葉を続ける。
「奴の冒険記のあれこれは恐らく本物さ。おれは奴を見ててそう思ったね。語り部や詩人連中が多少大袈裟に語り広めていたとしたって、本物の活劇がきっとそこにはあったんだ」
灯台から差し込む黄丹が吊り竹の影にぎざぎざに切り裂かれていて、ディディは紙切れのようになった光の欠片が飛び散るところに立っていた。
ディディはどこを見るともなく岩肌の一角辺りに視線を投げていて、それは光から顔を背けているみたくも思えた。
葉煙草の先が漆黒の中で真っ赤に燃え上がると、光の世界に煙が物悲しく舞い上がった。
「けれどディディも、捕らえられて最期の時を迎えることになった。しけた奈落の底の牢獄で終生を送ることに飽き飽きしていたディディは、やがて手頃な暇潰しを手に入れる。隣の牢獄に、死人同然の顔をした若造が放り込まれてきたのさ。……若造は地獄から返ってきたような顔をしていた。その目は虚ろだったし、もぬけの殻といった感じで地べたに転がっていた」
ディディは一度言葉を切ると、大きくため息をつくように煙を吐いた。
「ディディは若造に興味を持った。そして、奴は知り得た世界の秘密を若造に話して聞かせたんだ」
「世界の秘密?」
「ああ」
ディディは小さく笑った。
「この小さな世界の秘密さ」
井戸の底から、冷たい風が吹き上がってきて小生の毛並みを撫でた。
小生がディディから目をそらせなくなっているように、イサイもしんとしてディディを見つめている。
葉煙草の渇いた臭いだけが、自由に漂っているように思えた。
「この小さな世界の、秘密……」
イサイが躊躇いがちに繰り返した。ディディはそちらを見ることはなく、ただ緩やかに首を振る。
「秘密ってのは、秘密のままだから美しくみえるものさ。ディディが面白がって話したそれは、若造にとっちゃ余計なおせっかいだった。若造は、死すら受け入れていたっていうのに」
ディディの声は静かな抑揚を伴っていた。
ディディがふいに振り仰いだのにつられて、小生は暗い空を見た。
「若造は生き延びた」
葉煙草を口から外して、無感動な声でディディは言った。
「どうして生きているのかは分からないまま、でもなぜか今日もそいつは生きている」
ディディは片眉をちらと上げて、それからイサイを見た。
口角に微笑を浮かべるディディの目は、どこか寂しそうですらあった。
イサイはそれを見返して、それから目を伏せた。
よく分からないままに、小さく頷いて、それから小さくかぶりを振った。
目の前の男の告白を、懸命に飲み込もうとしているように小生には見えた。
やがてイサイは、くぐもった声で訊ねた。
「ディディはどうなった?」
「死んだよ」
一言答えて、ディディは葉煙草を噛んだ。
ゆったりとそれを吹かして、そうして掠れた声を続けた。
「若造を逃がす事と引き換えにな」
からん、と音が響いたのは、ディディが突っ掛けを穿いた足を一歩踏み出したからだった。
ディディは俯きながら歩み寄ると、イサイの数歩手前で立ち止まった。
「代わりに黒風のディディは、その名を若造に託した。若造は、黒風のディディとして生き始めた」
ディディは上目にイサイを見た。にやりと笑ったディディは、悪戯の種明かしをするような瞳をしていた。
「入れ替わったのさ。若造は死んだことになっている。でも本当に死んだのはディディだ。最後の最後まで、世界を化かしてみせた。それが英雄ディディの最期だよ」
いってしまうと、ディディは目を閉じた。
偉大な男の最後を思い返しているようにも見えたし、気怠さから瞼を下ろしているようにも見えた。
こいつの考えていることは、いつもよく分からない。
けれど、確かなことはひとつあった。
ディディは、ディディではなかった。
つまりはそういうことだ。
この男にはなにかある。
そう睨んでいた小生の勘は正しかった。
あの日、何と呼べばいいか訊ねた小生に、こいつは一言「ディディと呼べ」と答えた。
黒風のディディとこいつのことを呼ぶ輩に、間違っているとも正しいともいわなかった。
それはどちらでもあるからなのだ。
この男は、ディディであり、ディディではない。
──それでは一体、本当は誰なのだ?
視界の端で、黒い布が揺れた。
ディディが踵を返して、それに伴って羽織がふわりと揺らめいていた。
「歌舞伎者の神様は、偽物にすり変わってたってわけさ」
奇妙に明るい声色で、ディディはいった。
大気のうねるような音が、やけにはっきりと聞こえた。
それはやや離れたアムカマンダラの雑踏だったり、もしかしたら地上のどこかで大きな牙象が立てている足音かもしれないと思った。
その時の小生には、この街自身が、地上も地底もひっくるめて振動しているような、そんな音にも思えた。
「待ってくれ」
上手く舌が回らないような様子で、けれども必死な顔でイサイがいった。
「でも、吟遊詩人に確かに聞いたんだ」
イサイの言葉に、ディディはぴたりと動きを止めた。
イサイは、ディディに詰め寄るように捲し立てた。
「バティカンをやり込めたって男の話は、確かにあんたに似通っていた。アニタは? あんたの相方なんじゃないのか?」
こちらに背を向けているディディの表情は分からなかった。
黒い羽織には菖蒲の花が散っていたが、闇の中では萎れた枯れ草のようにも見える。
ディディはそれを揺らすと、首を捻ってイサイを見た。
「いったはずだぜ。おれは終わった人間の話しかしないってな」
黒髪の奥で光る鼠色の瞳に、強い光が宿っていた。
「おまえにはメナシェがいる。命を投げ出すには早い。こいつはそのための取り引きだ。違うか?」
ディディは小生のいる井戸の方を親指で指し示した。
幽精が浮遊槽を操って姿を消した大穴。
そこからは、やはり微かな空気の鼓動が響いていた。
イサイはうなだれるようになってこちらを見た。
その眉間に、皺が濃くなる。
「ソソは、裏切り者を許さないさ。どこまで逃げても無駄だよ」
そういってしまってから、イサイは胸の上を大きく膨らませるようにして、ため息をついた。
吐き出された息が深い苦悩に小さく揺れる。
そうして力なく首を降ると、イサイは乾いた笑みを浮かべた。
「あの娘は頭のいい子だ。器量もいい。メナシェは、ちゃんとした機会さえあれば真っ当に生きていける子なんだ。あんな、悪事の片棒担がされる生き方なんて、もうしなくていい。その権利だけでもあの子に与えることができたんだ。おいらは満足さ」
小生は、知らず知らずのうちに身じろぎをしていた。
前足ががりっと、煉瓦を掻く。
ちょっと待ってくれ。
おまえのその口ぶりはまるで、自分がメナシェと関係なくなるみたいな調子だ。
イサイ。
おまえはメナシェの父親だ。
役割のいくらを果たせていなかったとしても、それは間違いない事実だ。
そうだろう?
小生はそう声を上げたかった。
けれど、そうするまえにディディが強い声を飛ばした。
「おまえはメナシェの父親だ。あいつにはおまえが必要だ」
ディディはそれまで見せたことのない、焼きつくような眼差しでイサイを見ていた。
イサイはそれを見返さず、顔を伏せたままだった。
化粧を塗りたくった顔は、憔悴しきっているかのように生気がなかった。
「英雄ディディが命を懸けてやり通したことがあるみたいに、例え死ぬことになったとしてもやりたいことがおいらにはある」
イサイの口調は早口だった。
「明日、おいらはメナシェと一緒に地上には行かねぇ」
ディディがぱっと駆けて、イサイの胸ぐらに掴みかかった。
長身のディディに締め上げられるようになって、イサイは頭に被っていた派手な頭巾を落とした。
縮れ毛をなすりつけたような頭のイサイは、苦しそうに顔を歪めながらも、強くディディの拳を握り返した。
「バティカンの綿物工共同体に入れば、ウヴォのどこよりも安定した生活が手に入る。おいらはもう、必要ない」
喚くようにもがくイサイを、ディディは黙って見下ろした。
怒りに燃え上がった灰の目で、真っ直ぐイサイを見る。
イサイはその瞳に、ぎりっと口角を引っ張りあげるようにして、無理矢理笑ってみせた。
「それに、明日は祭りだぜ。祭りがあるところにゃ駆けつける。道化ってのは、得てしてそういうものだろう?」
ディディの目が見開かれた。
小生は、イサイのぶかぶかの服を締め上げるその手が、今にもその顔をぶちのめすのではないかと、緊迫してその様子を見つめる。
しかし、それっきりディディとイサイは暫く動かなかった。
ディディは目を見張ってイサイを見つめ、イサイは歪んだ笑みを湛えたままそれを見返していた。
ディディが咥えた葉煙草から、ぽろと灰が溢れた。
沈黙を打ち破ったのは、そう遠くない場所から響いてきた男の悲鳴だった。
野太く張り上げられた声が地底の空にこだまして、尾を引いて空虚に消える。
不気味な感触を耳に残して消えたそれに、ディディとイサイは思わず視線を投げた。
声がしたのは、さっきの鬼が消えていった方向だ。
ディディが警戒に目を光らせながらイサイの胸元から荒々しく手を離した。
イサイは、しわくちゃにされた服を正す様子もなかった。
呆然自失で、見たくもないものを見るように闇に顔を向けて凍りついている。
「まさか」
「……ソソか」
絞り出すようなイサイの声に、ディディが低く続いた。
ソソ。
その名を口にする者は、誰しもが気後れするような、身をすくませるような小声になる。
ファリードに姿を見せたその者を見た時、小生には一目で分かったことがあった。
ソソは、吸血鬼の血を引いている。
おそらく半分以下でしかないはずだが、魔族の血が入っている。
このウヴォで、魔族の血を持つ者があそこまでの権力を持つということ。
それには、想像を絶する道程があったことは間違いない。
あの女が醸し出す凄みは、魔族だとか人間とかそういうものに由来しない、歩んできた道の仄暗さから来るものだと思った。
そしてその圧力が、確かに闇の奥から伝わってくるように感じられた。
ソソが、ここに来る。
「行け」
押しこもった声で、ディディが短くいった。
掘っ立て小屋との隙間へ油断なく顔を向けているディディの立ち姿から、表情は見えない。
尚も立ち尽くすイサイに、ディディはもう一度声を飛ばした。
「行けよ。ここで死ぬなんてことが、おまえの本望かい?」
イサイが、はっとして目をしばたかせた。
束の間の逡巡を表すかのように、イサイの指が所在無さげに空を掻いた。
「ディディ」
「足止めにも限界があるだろうぜ。なんせおれは、偽物だからな」
ディディの声音は一様に冷たかった。
それでもディディが口にするのは、この場を一先ず任せろと、そういう物言いだった。
イサイはどうしようもなく切迫した顔を一瞬した。
それでも、すぐに腹を決めたように顔をあげた。
「すまん」
一言残して、イサイは風のように駆け出した。
まるで雪の結晶が人肌に解けるように、宵闇の中にするりと姿を消す。
ディディは振り返りもせず、それを送り出した。
ディディが最後のひと飲みを済ませて葉煙草を指で地べたに弾き飛ばし、燃えカスのようになったそれがじりと最後の煙を吐き出した頃、闇の中から光がちらっと走った。
しばらくしてそれが浮遊槽の先頭に掲げられた光玉だと認められるようになると、二隻の浮遊槽が並んで藁葺き小屋の間を縫って近づいてきていることが分かった。
ディディは身じろぎもせずそれを見つめていた。
ランプをかざした冥府からの使者が、生者の最期を刈り取りにやってくる。
そんな局面を見ている気分にさせられた。
舟が川の流れに軋む音と全く同じ響きを立てながら、浮遊槽はディディの前に首を差し出すようになって止まった。
ディディはにわかに照らされた空き地の中央に直立したまま、その上から見下ろす気配に目を向けていた。
「夜釣りと洒落こむにしちゃ、干上がった場所を選んだもんだね」
少しもたじろぐ様子のないディディの声が、しなやかに響いた。
鈍い光玉の光は、闇に目が慣れた小生たちには充分すぎるほど眩かった。
下から顔を照らされて半分を光に晒したソソが、闇に飲まれたままの黒黒とした瞳でディディを見ていた。
ソソの後ろで暖かみの欠片もない表情で舵櫂を取る男は、ファリードでメナシェを捕らえていた奴だ。
後ろの浮遊槽にも似た顔が見える。
我輩の見立てが間違いなければ、おそらくこいつらも吸血鬼の血を引いている。
「ここは、負け犬に甘んじる誇りなき魔族どもの巣だ」
地獄の門が開く軋みのような声が漏れ出してくる。
ソソの放つ気色が、ぐっと温度を下げた気がした。
小生の毛が、前足の方からぞわりと逆立っていった。
「誰が好き好んで陰気臭い連中のつらを拝みたいと思うね?」
藍白の光が、そう言って笑ったソソの顔を妖しく照らした。
その時、後ろに付き従っている浮遊槽から、無造作に何かが放り出された。
重い音とともに墜落したそれが、光の下に太い腕を投げ出した。
その手には、先ほどイサイが渡した天鵞絨外套の包みが握られていた。
さっきまで凶悪な面を引っ提げて肩をいからせていた鬼だ。
どうやらもう死んでいる。
「ディディ」
鉄みたく冷ややかな声をソソが出した。聞く者を虚無に突き落とすような、寒々とした声だ。
「イサイはどこだ」
ソソのどす黒い瞳が見開かれた気がした。
それが本当に見開かれたのかどうかはよく分からない。
ずっと見ていると、ソソの明かりを映さない目は、伸縮しているような、肥大化しているような、よく分からない不安を掻き立てた。
逸らしたくても、それから逃げることができなかった。
ぐらりと、目眩がした。
青碧に照らされた世界は、ソソに支配されてしまったように静かだった。
不意に、鳴子を打ったようなかん高い音が、静寂を破った。
ディディの突っ掛けが、一歩踏み出した音だった。
「おれも探してるとこさ。奴のことを」
這い出たようなディディの声は、葉煙草の煙にやられてがさがさとしていた。
けれど、不気味な無言に縛られていた小生には、それがいやに心地よいものに感じた。
ディディは怖めず臆せずソソを見上げた。
「知らないよ、ソソ」
そうしてディディは、この期に及んでちゃらんぽらんな笑みを、顔に浮かべた。
「おれは知らない」