十、少女メナシェのなりきり
木製の、古いけれどしっかりと手入れされた台の上では、色鮮やかな札が飛び交っていた。
ディディはなにかを話ながら目まぐるしい札の応酬を展開していて、瓢箪状の卓の中央に立つ背の高い紳士が、それらを取り仕切っていた。
彼は札勝負に負けた人々からケアンと呼ばれていた。
さっきまで勝ちが続いていたケアンはディディを相手に連敗を喫した。
勝負はいずれも一点差。
白熱した展開に、卓の周りに集った観客達の纏う空気も熱を帯びる。
あたしもその例外ではなく、目の前で行われているなんとなく現実離れしたやり取りに夢中になっていた。
だからディディの隣に座った女が親父を追っていた騎士だってことにも、二人の話の焦点が他ならぬ自分だっていうことにも気づかなかった。
もっといえば、女騎士と入れ違いになって現れた背の高い女がソソという名のさらに恐ろしい女であり、その部下がいつの間にかあたしの退路を断つべく背後に回ってきているなんてことは、あたしは知るべくもなかったのだ。
肩が、冷たい手の感触がぐっと掴まれた。
そうなってからようやくあたしは魅惑的な卓上の遊戯から目を離して背後に首を捻った。
茜色の壁が立ち塞がっていた。
一瞬何が起こったか分からなくなりながら、あたしはその派手な柄の壁を見上げた。
突然現れた断崖絶壁の上には、表情のない顔が、虚ろな瞳であたしを見下ろしていた。
親父が言っていた。
出会ったら一目散に逃げなくちゃならない類いの人種っていうのがいる。
関わり合いになってはならない者。
一生涯言葉を交わす機会がないのならその方がいい連中。
あたしを見下ろす男はそういう人間だと、あたしは思った。
あたしは咄嗟に、肩に置かれた手を振り切って逃げ出そうとした。
ところが、反転させようとした体は堅いものに衝突して行く先を阻まれた。
目を上げれば、そこにあるのはまたしてもうっすら光を反射する朱色の壁とその上に乗っかる血の気のない顔だった。
男達は二人ががかりで私を取り囲んでいた。
その異様な圧力に、肩を並べて声援を飛ばしていた観客達は、いつの間にかそそくさとあたしから距離を取っていた。
「面白い勝負をしているねぇ、ディディ」
透明な水桶に真っ赤な塗料がぽたりと垂れたように、声は空間に広がった。
卓を取り囲む色とりどりの格好をした人々は、一人も残らず声の主を注視していた。
ソソは、全ての希望を締め出すような暗い空気を纏ってそこに立っていた。
赤銅色の服は華やかに刺繍が施されて静かな光沢を放っているし、そこに垂れ下がる桑茶の長髪は優しく弧を描いて美しかった。
けれども人々の目はまずそれらには向けられない。
抗いがたい力で、彼女の顔で光る双眸に引き寄せられているのだ。
漆黒の瞳は、夜よりも暗く景色を見渡していた。
彼女の醸す絶望の質感の全ては、その二つの眼の形容し難い力の渦から産み出されていた。
人々はそれを一度見てしまってから、それに映し込まれるのを恐れて視線を逸らした。
ソソは、そうした人々の反応を気にも留める様子はなく席に歩み寄った。
ソソが歩くたびに、死神が鎌の石突を打ち付けるような、こっ、こっ、という音がした。
「よお、ソソ」
唯一、昂然とした様子で、ディディはソソを向かい入れた。
緊張の走る卓の周囲で、ただひとりディディは緩んだ姿勢でそこに座っていた。
それはソソがすぐ側に立ってディディを見下ろしても変わることはない。
ソソは、空気に文字を刻み付ける様に言葉を発した。
「楽しんでいるみたいじゃないか?」
「どっちかといえば、汗水垂らして勤労しているところよ」
いいながら、ディディはこちらにちらと視線を走らせる。
二枚の赤い壁に挟まれて固まるしかないあたしと、ほんの一時目が合った。
そうしていながら、ディディはソソにへらりと気の抜けた笑みを寄越す。
「まじめにまじめに、稼いでる所さ。返さなきゃならない金があってね」
ソソは暗黒の瞳を、今やそのディディの表情を写し込むことに使っていた。
そうしながら、たったいま女騎士が席を立った椅子に座り込む。
ディディとソソ以外の人々は、固唾を飲むだけで空いた席に座ろうとはしない。
「まじめってわりには、おしゃべりが過ぎたようだねえ」
ソソはゆっくり、ゆっくり言葉を紡ぐ。
魔法にかかったように緩便に、方頬に皺を刻んで、ソソは笑った。
「イサイがどうとかって聞こえたが?」
ディディはもう一度あたしを見た。
肩を掴まれているだけなのに、猿轡を嵌められて簀巻きにされたように、あたしは微動だにできずにいた。
灰色の目を見返したあたしは、きっとひどい顔をしていたに違いない。
ディディはため息をつくと、ソソに言葉を返した。
「なんだよ。あんたもイサイの追っかけなの?」
「ああ、大の信奉者さ」
言いながら、突如ソソはディディの方を振り向き、ぎょろっと目を見開いた。
瞼の皮が悲鳴を上げるほど開かれた眼の中央で、紫黒の渦が化け物の口のように開いてディディに食いかかる。
「冗談だろ?」
それでもそいつにひきつった笑みを返すあたり、ディディという男はどこかねじの外れた男なのだろう。
ソソは瞬きひとつせずにディディを写し込み続けながら、言葉を返す。
「冗談で、たかが道化にファリードの舞台をひとつ任せることはない」
ディディは眉を潜めてそれを見つめ返しながらも、ソソが言ったことを反芻するように口を動かした。
「あいつが、ここの余興を?」
ディディの顔に驚きの色が濃くなる。
ディディは知らなかったのだ。
親父は今踊り子が芸をしているあの舞台で、即興劇の一人芝居をしていた。
そんな事実は、知らなかった。
だってあたしはいわなかった。
迷うような表情の揺れるディディの横顔を、あたしは黙って見つめた。
「うちの舞台に立てるのは若かろうが老いていようが一流だけだ」
ソソは無機質に言いながら、ようやく大きな瞬きをひとつした。
ソソの瞳が、いつもの美しくありながら何者をも拒絶する瞳に戻る。
ソソとディディは、席に着いてる以上当然というように札勝負を始めていた。
ディディとソソがどんな会話をしていようが、仕切り役のケアンは冷静沈着に進行をした。
ソソは札を捲りながら、それを見ているのか見ていないのか分からないような目になった。
「奴は人を惹きこむ天才だよ。気づけば人は、奴が創り出した世界に引き込まれて、そこの一人の住人のような気分になる。そこでは、胡散臭い僧会の坊主の説法や市長の演説よりももっと説得力のある活劇が待っていて、世の煩わしさの全てを踏み倒していく」
あたしは、自分の耳が信じられない気分で、ソソの闇魔術の詠唱のような言葉を聞いていた。
親父は、すごかった。
いや。
親父のすごさは誰よりもあたしが知っていた。
けれど、アムカマンダラで一番恐ろしい女に、ここまでいわせるほどだなんてことは露とも思わなかったのだ。
芸の練習が始まると、あたしは親父以外の何物にも目をやることができなかった。
けれどそれと同じように、沢山の人が親父を見ていたのだ。
ソソは、とんっと指を打ちながら詠唱のようなものを続ける。
「人々は空を翔る怪竜となり、力強い羽ばたきに体が浮かび上がる感覚を覚える……」
「こりゃ驚いた。あんたほどの女が、本当に入れ込んでるじゃないか」
ディディの口調と表情が噛み合ってるのは珍しいことだ。
ソソは意外そうな顔のディディの方を振り向き、またしてもゆっくりと笑った。
「だからこそ目をかけていた。しかし…」
ソソの顔から、一瞬にして笑みが消える。
ぐんっと、あたりの温度が下がったような気配がした。
「この世界で生きていくには通さなきゃならない道理ってもんがあり、守るべき矜持がある。そうだろう?」
ソソの声が、底冷えするような冷徹さと怒気を含む。
その手札の合計は、九だった。
じゃらじゃらと、張り詰めた空気に石の擦れる音が鳴り響き、瑪瑙がソソの元に渡された。
ディディはその様子を横目で見ながら大きく息を吐いた。
「イサイがあんた相手に不義理を働いたってんなら」
ここに座って初めて負けたディディは、その手元から石が引き上げられていくのを見送りながら呟いた。
「おれが思ってる以上の大物だぜ、奴は」
「うちに入ってくる品物と出ていく品物の帳面が合わないんだよ」
ソソは黒く輝く小石達を片手でつまみあげ、またじゃらじゃらと落とした。
「品物? その瑪瑙かい?」
ディディの疑問に、ソソは頬の皺を深くして笑う。
「もっと、光る石さ」
ディディとソソがなんの話をしているのか、あたしにはさっぱり分からない。
けれど、ディディの眉間がさらにきつく眉が寄せられているのを見て、とってもまずいことであるらしいことが分かる。
親父は、このファリードで舞台に終始していたのではなくて、ソソの大事な“光るもの”に手を出してしまった。
どうやらそういうことだ。
必死に頭を回転させるあたしに、突然強い冷気が浴びせられる。
目をしばたいて前を見ると、ソソが、こちらを見ていた。
「──それであの娘が、イサイの娘ってのは本当なのかい?」
あたしは、凍りついた。
揶揄ではなく本当にそうなってしまった。
体中から血の気が引いていくし、息ができなくなってしまったのだ。
それは、ソソの鉄黒の諸目と視線がぶつかったたった一瞬のことだったのに、あたしにはそれは永遠のことに感じられた。
両手で握った傘の柄のごつごつしたのを握りしめて、なんとかその場に立ちすくむ。
ソソがあたしから目を逸らしてディディの表情を覗くようになっても、あたしはしばらくそんな調子でいた。
ディディはソソの眼力をすぐ隣に受けながら、虚空に瞳をさまよわせていた。
そうして、やがて強く目を閉じた。
ソソの目は、どんな嘘も許さない。
いままでのらりくらりとはぐらかしてきたディディだって、今度ばかりは白状するしかないのだ。
あたしが、道化イサイの娘であると。
そうして、あたしは後ろの岩壁男達に両の腕を捕まれて静かに連れ去られ、二度と陽の目を見ることはないのである。
「さあな」
ディディはゆっくりと喉から声を出した。
その発声には、やはり緊張の類いは見受けられなかった。
茶屋の軒先で世間話でもするような調子で、ディディはいった。
「奴はそうだっていったとしても、果たしてそれが本当のことかどうか、今となっちゃ誰にも分からない」
ディディは目を開けて、あたしを見た。
ファリードの明かりを受けて、ディディの灰の瞳は青磁のような不思議な落ち着きを纏っていた。
そいつを見ていると、あたしは不思議と落ち着いた気持ちにさせられた。
身体に呼吸が戻って、指先に力が入るようになるのを感じた。
雪解けの日差しに当てられたように、血液の循環を感じる。
なぜこんな気持ちになるのだろう?
わからなかったけど、あたしはディディの言った言葉を頭のなかで繰り返していた。
“彼がそうといったとしても、それが本当のことかどうかなんて、今となっては誰にも分からないのよ”
それは、聞いたことのある一節だった。
「どういうことだい」
ディディの態度と言葉が解せないソソの声には、やはり威圧の棘をあからさまに振りかざしていた。
けれどディディは、その眼を真っ向から見返した。
「あの娘はあの娘で、一人の歌舞伎者なのさ」
言い終わると、最後にディディはもう一度あたしに目線をやって、誘うようににやりと笑った。
「自分の賽は、自分で投げる。そうだろ?」
自分の賽は自分で投げる、そうでしょう?
今や、ディディの言葉より先に、あたしはその言葉を脳内でしゃべっていた。
あたしは知っているのだ、この話を。
そしてこの先どうすべきかを。
興奮が体を駆け巡って、逆毛立った。
眼の奥が熱くなって、気づいたらあたしは言葉を口走っていた。
「──あたしが、イサイの娘? はん、いい迷惑ね。誰があの甲斐性無しの娘ですって?」
卓を囲う誰もが、あたしを見た。
ソソも、あたしの後ろの二人の壁も、それ以外の貴族も、商人も、歌舞伎者も、魔族も、ケアンですら、呆気に取られてあたしを見た。
それが、自分に当たる舞台の灯火のように感じた。
ディディだけが、あの暖かい色の目であたしを見ていた。
「あたしはメナシェ。アムカマンダラの歌舞伎者。親なんていない、一人でやって来た。信じようが信じまいがそちらの勝手だけど」
あたしは夢中で言い募った。
あたしは今や一人の役者だった。
ソソが目を細めてあたしを見た。
それにもし気づいてしまっていたら、あたしは言葉を止めてしまっていたかもしれない。
けれどもその時、心を現実ではないどこかへ飛ばしてしまっていたのだ。
全てが見えているような心持ちのあたしは、きっとなにも見えていない。
「それでもあたしを人質にするの? やぶさかじゃあないわ。けれど、タダでって言うのは歌舞伎者の取引としちゃ成り立たない。違う?」
なにかがあたしを急き立てていた。
次に言う言葉は?
そう。
「あたしは自分を賭ける。勝負をしましょう」
いった。
あたしはいいきった。
けれども、まだ足りない。
そうだ、あたしは台詞をしゃべっただけで身振りをつけてない。
あたしは慌てた。
これじゃあ、只の演説だ。
あたしはぱっと駆けた。
壁の男達は、虚を突かれてあたしを捕らえられない。
今思えば、そのまま逃げ出したって良かったのだ。
けれどあたしは、真っ直ぐディディの元へ走った。
そこは、札遊戯の参加者の席だった。
少し高い木彫りの席に、あたしはよじ登った。
そうしてほう、と一息つくと、そのまま思い付いた台詞をひとつ加えて、あたしを見下ろす黒い目を見上げた。
「勝ったらあたしはあなたのもの。良いでしょ、アムカマンダラの女帝さん?」
ソソの顔に、表情は皆無だった。
ただどす黒く渦を巻く瞳だけが、あたしを見ている。
そこに来てようやく、あたしは夢から醒めた。
もしかしたらもしかして、あたしはとんでもないことを口走ったのだろうか?
ソソの目から口にかけて、皮膚がゆっくりと冷たい笑みを浮かべる。
ああ、そうだ。
間違いない。
あたしは、また浮かれてとんでもないことをやらかした。
あたしは後悔を飛び越えて逃げ出したいような気持ちになった。
その時、暖かいものがどさっと膝の上に乗った。
黒いにゃんこは、あたしを見上げてなぁと鳴いた。
その体温が、冷えかかったあたしの身体に小さな明かりを灯したようだった。
にゃんこをひと撫でした時、大きな手があたしの肩を掴んだ。
「よぉくいったぜ。メナシェ」
ディディが、あの目であたしを見ていた。
それは真っ直ぐ迷いない目で、あたしの後ろめたい考えなんかを吹き飛ばすくらいに、愉快そうにしていた。
おまえは、間違ってない。
ディディはそういっていたし、それがあたしの胸のうちのどこかの器官を熱くした。
「さあ、今度は口だけじゃないって見せてみな」
ディディは、そうやってあたしを女優に仕立てるのだ。
あたしは前を向き、仕切り役のケアンを見上げた。
寡黙な彼でさえ、愉しげに笑っていた。
彼の薄い唇から発せられた言葉が、そうして戦いの合図となるのであった。
「それでは、札勝負と参りましょう──」