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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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夢敗れたおっさんが最期にみる走馬灯

作者: 山納言


 どんよりとした濃い鉛色の雲が一面に広がる空の下。

 視界を遮るもののない、だだっ広い草原にて。

 俺は両手足を投げ出して大の字に寝転び、今にも雨が降り出しそうな空模様をぼんやりと眺めている。


「ゆり、ごめんな……」


 息も絶え絶えに、なんとか搾り出した己の声は酷く掠れている。

 口から血が溢れてこぼれ、頬をだらだらと伝い落ちていく。

 焼けつくような痛みが全身を駆け巡る中、不思議となぜか心は落ち着いている。


 視線をゆっくりと胸元へと落とす。

 そうして見えるものは剣。

 着込んだ重金属製の分厚い全身鎧、その胸元を貫き、己を地面に縫いつけている剣だ。

 剣身を真っ赤な血に塗れさせた剣である。


 そして、剣越しに一人の女性が立っている姿が見える。

 艶やかな金色の髪を真っ直ぐに伸ばした長髪の似合う、とても凛々しい顔立ちをした美しい女性だ。

 俺と同じような全身鎧を着込んだ女性は、数歩先の場所からこちらを見下ろしていた。

 悲壮な決意を宿した、悲哀の色に満ちた瞳でもって。


「情けない父親でごめんな……」


 一つ目の謝罪は、かつて永遠の愛を誓い合った、愛する妻へ。

 二つ目の謝罪は、遠く離れた地で産声を上げたのであろう、愛する我が子へ。


 やけにゆっくりと感じられる時の流れが、俺に残された時間があとわずかであることを物語っている。

 どうやら、走馬灯なんてものは勝手に流れるのではなく、自ら想いを馳せなければ流れないようだ。

 朦朧としていく意識の中、もう会うことの叶わない、赤子を抱いた妻の姿を思い浮かべて回想に耽る。

 救いを求めてすがりつくように、深く、深く。





 あれからもう十年になるだろうか。

 神の気まぐれによって、俺は日本から異世界へと転移させられた。


 高校を卒業してから働くこと七年目。

 生活の目処が立ったと同時に、幼馴染であった妻と結婚した。

 やがて子宝を授かり、彼女の陣痛が始まったと病院から連絡を受け、急ぎ向かっていた最中。

 上司に無理を言って会社を早退させてもらい、大慌てで乗り込んだ電車の到着した先は、目的地である病院前の駅ではなく、神のおわす不思議な空間であったのだ。


 当然、乗客は俺以外にも何人もいた。

 総勢で三十名ほどであっただろうか。

 果てしなく続いていると思われる白い空間に、同じく乗り合わせていた一車両分の人間が呆然と立ち尽くしていたのである。


 そこで、唐突に姿を現した――老人の姿をした神がこう告げてきた。

 私は神である、と。

 お前たちを異世界へと転移させる、と。

 転移した異世界で抱いた大願を成就させたもののみが、またこの日本へと帰還することができるのだと。


 ふざけた話だ。

 いま改めて思い返してみても、本当に理不尽な話だと思う。

 不慮の事故で死して転生させられるならまだしも、まだ命ある人間を有無を言わさずに転移させるというのだから、もはや生体実験でしかないだろう。

むしろ生体実験どころか、暇つぶしの遊びであるとさえいえるのかもしれない。


 かくして、そういった経緯を経て、俺は異世界へと転移させられた。

 どういった世界であるかの説明は、中世ヨーロッパ風の剣と魔法のファンタジーな世界観をしたゲーム的な異世界、という一言で事足りるそうだ。

 後に出会った、同じく転移させられた男子高校生の一人がそう言っていた。

 いま流行りの漫画や小説、アニメによくありがちな世界観とか何だとか。


 次に、俺が転移させられた場所は森の中。

 自然の緑の濃い匂いが充満する、うっそうと茂った深い森の奥深くであった。

 人気のまったくない、右も左もわからない過酷な環境に、早々に絶望したことはいまでもはっきりと覚えている。


 ともあれ、立ち止まっていたところでなにも解決しない。

 まずは人里に下りなければと、そう意気込んで足を踏み出し、草木をかきわけて森の中を進むこと体感で一時間少々。

 俺は集落らしき場所を遠目に見つけた。

 前方を遮る木々の隙間から、わらぶき屋根をした粗末な家屋が目に映ったのである。


 これで助かる、と安堵した俺は舞い上がり、はやる気持ちを抑えきれず、集落へと急ぎ足で向かった。

 そこがゴブリンどもの巣窟であるとも知らずに。


 ぱっと視界が切りひらけたとき、己の浅はかな判断を瞬時に後悔する。

 なにせ目に飛び込んできたのは、緑の体色をしたゴブリンであったのだから。

 もともとは恐らく人里であっただろう集落は、醜いゴブリンのすみかへと成り果ててしまっていたのであった。


 そして、都合よくもゴブリンの姿が見えていなかった視界を呪う間もなく、すぐさま俺は死を意識する。

 なぜなら、こちらの姿を視認したゴブリン数匹のすべてが、獲物を見つけたような嗜虐的な笑みを浮かべたからだ。

 危惧したことは当然のように現実となり、小汚い腰みのを身につけたゴブリンどもはこん棒やら木製の槍やらを手に、耳障りな奇声を発しながら襲いかかってくる。

 だが俺は逃げることもできず、向けられた明確な殺意にただただ怯え、迫りくる暴力への恐怖から腰を抜かすばかりであった。


 ところがだ、そのとき奇跡が起きた。

 突然、一匹のゴブリンの首が宙高くに跳ね上がったのだ。


 ほんの少しの滞空時間を経て地面に落ちた生首と、切り口である首から血をどくどくと垂れ流す胴体。

 一体なにが起こったのかと、俺が事態を把握するよりも早く、ゴブリンどもは襲撃者に対する臨戦態勢を整えていた。

 喚き声でもって増援も呼び集められ、何十匹ものゴブリンが輪になって襲撃者を取り囲む。

 襲撃者が鎧を着た人間らしきことに俺がかろうじて気づいたときにはもう、その姿はゴブリンどもの背によって隠されてしまっていた。


 ただし、襲撃者の姿はものの一分もしないうちに露わになった。

 ゴブリンが襲撃者に向けて放っていた威嚇の喚き声が、泣き叫ぶような悲鳴に変わったのはすぐのこと。

 先と同じように生首が跳ね上がり、腕が跳ね上がり、脚が跳ね上がり、血飛沫が伴って派手に舞い上がる。

 襲撃者の目にもとまらぬ、演武にも似た華麗な舞いによって、ゴブリンどもは次々と切り伏せられていったのだ。

 刃向かうことを許さず、逃げることも許さない、巨大な象が虫けらをなんなく踏み潰すような圧倒的な暴威によって。


 なんと美しいのだろうか。

 眼前で繰り広げられる非日常的な光景に、絶大なる力によって命がいとも容易く散らされていく光景に、俺はたしかに魅了されてしまっていた。

 あれほど美しく、あれほど強い、誰にも勝っているであろう力を手にできたならば、己を取巻く世界はどう変わるのだろうか。

 そう、強く思ってしまった。


 そうして、我を忘れて見入っていた俺は、つい興味本位の願いを――大願を抱いてしまった。

 日本に戻るための切符である大願を、あの襲撃者を超えるほどの力を手に入れるという帰還条件を、知らず知らずのうちに定めてしまっていたのである。


 それを理解できたのは、襲撃者の素顔を確認できたとき。

 こちらに歩み寄ってくる襲撃者が、小さな美少女であることに気づいたとき、脳内にかの神の厳かな声が響いたのだ。

 あの少女を超える力を身につけ、そして証明してみせよ、と。


「大丈夫か?」


 感情を微塵も感じさせない、無機質な声色。

 目の前に差し出された手を、俺は押し黙って見つめていた。

 銀色のガントレットをぬらす、ゴブリンのものであった緑色の血は、赤色の血と同じ錆びた鉄のような臭いをしていた。


 これが、後に俺を殺すことになる少女――ロゼとの出会いである。


 当時十歳であったロゼに窮地を救われた俺は、彼女の助けを得て、最寄りの町へと無事に辿り着くことができた。

 電気もなければガスもない、暮らすに不便な町だ。

 現代日本のそれより遥かに劣る文明レベルをした町は、なるほど、たしかに中世ヨーロッパを思わせる古臭い町並みをしていた。

 煉瓦造りの家屋と橙色の三角屋根、通りを歩く日本人離れをした顔立ちの人々、風にのって鼻をついてくる不快な臭い。

 男性も女性も、風呂に毎日入っていないのか、擦れ違うたびに鼻につく体臭を漂わせてくる。

 異世界の町に抱いた第一印象はすこぶる悪かったといえよう。


 ロゼに感謝を告げ、早々にも彼女と別れた俺は、冒険者ギルドなる組織の門を叩いた。

 己はなにをもっており、なにができ、果たさなければならない大願はなんであるのか。

 それらを考えたとき、取るべき選択肢は一つしかなかった。

 戦いの中に身を置くしか、冒険者という野蛮な職業に就くしかなかったのである。


 冒険者になってからの日々は苦労の連続であった。

 汚物の溢れるドブを掃除し、罵声を浴びながら土木作業に従事し、夜の酒場で一晩中と皿洗いを続けから、宿屋の馬小屋に戻って泥のように眠る。

 積み上げてきた学歴も、社会人としての少なくない経歴も、まるで意味をなさない。

 およそ何でも屋にも似た冒険者の中で、さらに実戦経験のない俺ができる仕事など、高が知れていたのだ。

 誰からの信用もない、その身一つで生計を立てなければならない日々は、底辺労働者がするような肉体労働でもって埋め尽くされていた。


 それでも、少ない収入をなんとかやりくりし、やっとの思いで安物の装備を整えるまでに至る。

 木製の固いこん棒と、使い古された皮の胸当てと、何箇所も補修されている革靴。

 新品など買えるはずもなく、中古一式で武具と防具を揃えた俺は、決意を新たに町の外へと足を踏み出した。


 初めはスライム一匹を倒すのにも苦戦した。

 たとえ最弱であってもさすがは魔物というべきか、スライムは打撃に対する耐性を備えており、繰り出してくる体当たりの衝撃もけっして軽くはなかった。

 ホーンラビットの素早い突進にも腰が引けた。

 三十センチはあろうか、あの長い角にもしも突かれてしまったならば、肉どころか骨まで絶たれてしまうのではないかと、恐れずにはいられなかった。


 転移初日ぶりとなるゴブリンとの再戦においても、武者震いするようなことはなかった。

 あのときの手の震えは、痛みと死、そして愛する家族に会えなくなることへの恐怖からきていたものだ。

 少しずつだが、着実に身につけた力に対する歓喜からきたものでは断じてない。

 ただひたすらに力を追い求めながらも、俺は誰よりも怯え、いつも罪悪感を抱いていたと思う。

 戦うことに、生き物の命を奪うことに。


 そうしていつしか、オークをトロールを屠り、中級冒険者の域に達したころ。

 異世界に転移させられてから三年の月日が流れたころ、隣国であるブラウ帝国との戦争が勃発した。


 町民が兵士として徴兵される中、冒険者もまた徴兵を免れることはできず、俺も戦争に参加させられる羽目に陥ってしまう。

 冒険者といえども、領主ひいては国の所有物にほかならなかったからだ。

 敵前逃亡もとい、領主命令である徴兵に応じなければ重罰が課されるというのだから、嫌々ながらに従う以外に道はなかった。


 そこで、初めて人を斬った感触は忘れられない。


 人の肉を切り裂く感触は、ゴブリンのそれとは大きく異なっていた。

 所詮は同じ肉であり、では一体なにが異なっていたのかと問われれば、上手く答えられる自信はない。

 同じ作業を幾度となく積み重ねてきたいまとなっても、ただ漠然と、なにかが異なるとしか答えられない。

 強いていうのであれば、倫理観がぼろぼろと欠損していくような感覚がする、といったところだろうか。

 もちろん、それが適切かは定かではない。


 加えて、なによりも。

 人を殺すごとに強くなっていく己にまた、俺は得体の知れない恐怖を覚えてもいた。


 それを簡単に説明してしまえば、経験値を多く得られる、ということだ。

 魔物を屠るよりも人を殺すほうが、強くなるのに――いわゆるレベルアップをするために格段に効率がいいということである。

 それは偶然にも、かつて味方として戦場をともにした男子高校生が教えてくれた。

 異世界の世界観を一言で簡潔に表してくれた彼である。

 もっともその彼は、流れ矢に頭部を射抜かれて呆気なく死んでしまったのだが。


 何人もの死者を、何体もの死体を生み出す戦争は長く続いた。

 そして、後に七年戦争と呼ばれることになる動乱の真っ只中で、俺はロゼと再び出会うことになる。


 ロゼとの再会は、レーディッヒ砦での防衛戦の初日であった。

 そのころの俺は部隊長の覚えもめでたく、一軍を率いる将軍にも存在を認知されており、たしかな戦力として重宝されるまでに成長していた。

 戦争開始から一年が過ぎた、間もなく夏を迎えようという蒸し暑い日の夜のことである。


「交代の時間だ」


 夜間の見張りの折、久しぶりに無機質な声を聞く。

 緊張から絶えず乾いていた目を横に向ければ、あの日よりもかなり背が伸び、美しさに磨きをかけた美少女がいた。


 そのころのロゼの齢は若干十四。

 性別が女であることをさておきにしても、戦場に出るにはまだ早い年齢ではあるが、これには彼女の特殊な育ちが起因している。


 ロゼの姓名はロゼ・バルディという。

 バルディ家といえば、国内に知らぬものはいない武門の名家だ。

 家格は侯爵にあたり、王族と公爵に次ぐ地位を有している。


 では、ロゼがバルディ家でどのように育てられたかといえば、次代の剣聖としてである。

 伝え聞くに、バルディ家の当主は代々、その類稀なる才を引き継がせるために十数人もの妾を迎え入れ、世継ぎの候補となる子を一斉に量産するらしい。

 そうして産まれた子弟らは、男女を問わずに幼いころから英才教育を施され、十三歳を迎えたときに選別されるそうだ。


 子弟同士の殺し合いという、世にも残酷な方法でもって。


 ともあれ、かくして生き残った子弟は次代の当主として――アザリア王国を支える剣聖として、感情を置き去りにして死ぬまで国に貢献していく。

 女性が当主では子を大量になせず、優秀な子を選別できないのではないかという疑問がわくだろうが、そこは一子相伝の歴史があるようで問題ないのだとか。

 事実、建国初期から長きに渡って続くバルディ家の歴史が途絶えたことはない。

 ロゼもまた、これから先、命を落とすようなことはきっとないのだろう。


 一方、レーディッヒ砦での防衛戦は敗北に終わってしまう。

 防衛に専守することを決めたこちらに対する帝国軍の攻めが、あまりにも苛烈を極めたからだ。

 かつてアザリア王国に侵略された、痛ましい過去に対する憎悪こそが力の源であったのだろう。

 積み上げた死体を踏み台にする、まさしく背水の陣かのごとき猛烈な攻めに戦線は耐え切れず、王国軍は撤退を余儀なくされたのである。


 その際、下手に覚えがよかったせいか俺は、臨時的に編成された殿部隊の副隊長に抜擢されてしまう。

 隣には、同じく殿を任され、同部隊の隊長に任命されていたロゼがいた。

 砦を奪ってなお追撃の手を緩めない帝国軍を、俺とロゼは幾度となく迎え撃ち、少なくない犠牲を出しながらもなんとか命を繋いでいた。


「ロゼ! 新手の騎兵が来るぞ! どうする!?」

「どうするもなにもないだろう。迎え撃つ以外、我々に選択肢はない」

「だよな……ああ、くそったれが! こんなところで死んでたまるか!」


 気が動転し、年下ということもあってか、つい荒い口調になってしまった俺に対し、ロゼは平時と変わらない様子で答えてきた。

 感情を見せない、無機質という言葉がぴったりな表情で。

 その取りつく島もない、有無を言わせないような態度には辟易とさせられたものだ。

 生傷の絶えない俺をよそに、なんなく敵兵を屠っていく彼女の姿に、諦念にも似た思いを抱かされたことは記憶に新しい。

 どうしてだろうか、まるで昨日のことのように思い出せるというのだから不思議なものだ。


 かくして、なんとか無事に殿を務め上げた俺たちは、その功績を認められ、小さいながらも新たな一軍を任されることになった。

 百名の兵士からなる隊の、隊長にロゼ、副隊長に俺という形だ。

 高名なバルディ家の世継ぎならば、一兵として最前線に配属されてからの出世ではなく、最初から立場に見合った地位が用意されてしかるべきだと思わないでもないが、どうも通過儀礼の一種であるようだ。

 俺からの問いに、ロゼは淡々とそう答えてくれた。


 時が流れ、次なる主戦場はクレディス大森林。

 レーディッヒ砦での敗戦以後も、あちらこちらの戦場を駆け回っていた俺たちは、いつしか千人の兵を率いる一隊へと成長していた。

 そうして獅子奮迅の活躍でもって同砦をも取り返し、戦線を押し上げて勝利を積み上げていく中。

 戦争開始から三年が過ぎた、間もなく秋を迎えようという満月の夜のことだ。


「交代の時間だ」


 いつかと同じ夜間の見張りの折、すでに聞き慣れた無機質な声を耳が拾う。

 地べたに座り、愛用の剣を磨いていた手をとめて目を横に向ければ、あの日よりももっと背が伸び、さらに美しさに磨きをかけた美少女がいた。


 そのころのロゼの齢は十六。

 隊長の立場にありながらも平兵士が任せられるような任に就く彼女は、隊長としては随分と変わりものであった。

 もっとも、それはお前とて同じことだろう、と返す言葉で黙らされてしまったが。

 戦場で安眠できない俺にとって、夜間の見張りは苦もない作業であったのだが、ロゼにとっても同じことであったのだろうか。

 確証はないが、きっと多分、そんな気がしてならない。


「その薬指の指輪、いつも身につけているな」


 俺の隣に座りこむなり、ロゼが言った。


「ん? ああ、これか? 結婚指輪だよ」

「結婚指輪? なんだ、結婚していたのか?」

「おいおい、いまさらかよ……」


 行動をともにするようになってから丸二年。

 四六時中といって差し支えないほど同じ時を過ごしているのにこれだ。

 剣聖を目指すこと以外に興味はないロゼらしいといえばロゼらしい反応である。

 むしろこの場合、結婚指輪の存在を知っていたことを驚くべきなのかもしれない。


「ちなみに子供も産まれたんだぞ」

「そうなのか?」

「ああ。男の子なら春人、女の子なら桜。ちなみに桜っていうのは春に咲く花なんだが、男の子か女の子かは嫁が教えてくれなかったんだ。会ってのお楽しみだよ、ってね」


 子供の命名の由来は、生まれる季節が春だから。

 我が妻ながら実に安直だと思うものの、日本に置いてきた彼女がそれはもう春をこよなく愛していたことにも起因している。

 なぜ春を愛しているのかと聞けば、それは内緒、ともったいぶって教えてくれなかったが、思うに春が趣深い季節であるからだろう。

 それ以外の理由を、いまなお思いつきはしない。


「まだ顔を見てないのか?」

「ああ」

「そうか。なら、勝って、生きて帰らなければならないな」

「――ああ、そうだな」


 一瞬、布で剣身を磨いていた手がとまった。

 言うや否や立ち上がり、巡回に向かっていったロゼは、俺の手がとまったことに気づいていない様子であった。


 戦争に勝ったところで帰ることはできない。

 戦争に勝ったくらいで帰ることのできる場所に、妻は、我が子はいない。

 二人がいる場所に帰るためには、己が抱いた大願を果たさなければ帰ることはできない。

 ロゼを越える力を身につけ、それを証明してみせなければ帰ることはできない。


 月明かりが照らす下。

 ふと剣身に映った己がどんな表情をしていたのか、俺はもう覚えていない。

 たしか一時は気にとめていたはずなのだが、クレディス大森林での戦いを制したころにはすっかり忘れてしまっていた話だ。


 ただし、あのときどんなことを考えていたかについては、はっきりと覚えている。

 ロゼから初めてかけられた気遣いの言葉に、ふと、薄汚い光明を見出してしまったことは記憶に新しくすらあるくらいだ。

 それをずっと実践してきたのだから、むしろ忘れられるはずもないだろう。


 また時は流れ、最後となった戦場はブラウ帝国の王都。

 一進一退の攻防を繰り広げつつも、大勢の仲間の死を乗り越えて勝利を積み重ねていく中で、俺たちはいつしか一万の兵を率いる大隊へと成長していた。

 戦争開始から七年が過ぎた、間もなく冬を迎えようという暗い夜のことである。

 本格的な冬の訪れを告げる、肌寒い日のことであった。


「交代の時間だ――だったか?」


 決戦前夜の見張りの折、からかうようないたずらっぽい声を耳が拾う。

 精神を研ぎ澄まして振っていた剣を下げて目を横に向ければ、少女から淑女へと成長を遂げた、見るも華やかな美女がいた。


 そのころのロゼの齢は二十。

 感情の乏しかったかつての面影が消えた彼女は、誰からも慕われる立派な将軍になっていた。

 強く、美しく、なによりも優しく。

 俺が失っていったものを彼女は身につけていき、俺が捨てていったものを彼女は拾って大事そうに抱えていた。

 そんなもの、強くなるうえで重荷でしかないだろうに。


「こんな寒い中で剣を振っていると風邪をひいてしまうぞ?」


 近寄ってきて俺の隣に立つなり、ロゼが微笑んでそう言った。


「大丈夫だ」

「なにを馬鹿なことを。大丈夫なわけがないだろうに」


 行動をともにするようになってから六年が経っただろうか。

 人を寄せつけなかったロゼの雰囲気は随分と柔らかくなっており、温かな人間味を感じさせるものに変わっていた。

 読書や裁縫といった鍛錬以外の趣味にも目を向け、片手間さながらに剣聖を目指しているいまの姿は、昔のロゼとは大きくかけ離れているといえるだろう。


 修羅にも似た、かつて俺が憧れたロゼはもういない。

 再度、休めていた剣を振り始めながら、そんな風に思ったことを覚えている。

 己が憧れを地に貶めた張本人であることを忘れて。


「聞いたぞ。この前の休暇も家族のもとに帰らなかったそうじゃないか」

「ああ」

「ああ、って。そんなんじゃ家族に愛想を尽かされてしまっても文句は言えないぞ?」

「――ああ、そうだな」


 振り下ろした剣は手を抜け、勢いそのままに地面に突き刺さった。

 一瞬、強張ってしまったせいだろうか、なぜか小刻みに震えている手を見ながら考える。

 寒さのせいか、怒りのせいか。

 もし仮に怒りであるとするならば、それは不甲斐ない己に向けてのものか、こうして無遠慮に心を踏みにじってくる輩に向けてのものか。

 きっと、その両方であろう。


「……なぁ、どうしていつもそんなに必死になんだ? どうしていつもそんなに辛そうな顔をしているんだ? ずっとそうだ。お前は一体なにをそんなに思いつめているんだ?」

「お前には関係のないことだ」

「関係ないことはない。私には関係ないだなんて、そんなことは絶対にない。だから、私に教えてくれないか? 力に、お前の力になってやりたいんだ」


 月明かりもない、松明だけが闇夜を照らす薄暗い中。

 悲しそうに顔を歪めたロゼに背を向けて歩き出す。

 いずれ殺さなければならない相手に情は一切無用であることを、ブラウ帝国の王都を制圧し、何人もの罪のない人々を惨殺してなおまた、俺は確信していた。


 あと一人だ。

 あと一人、たったあと一人殺すだけで、俺は家族のもとに帰ることができる。

 幸せにすると誓ったんだ。

 絶対に帰らなければならない。

 なにをしてでも、どんな手を使ってでも、なにを犠牲にしてでも、どんなに手を血で汚そうとも、俺は帰らなければならない。


 あのとき、俺はそんなことを思っていたんだ――



 ◆



「なぜ剣をとめた?」


 ふと、耳に聞こえた誰かの声。

 随分と久しぶりに聞いたような気がする、聞き慣れた声に俺は意識を浮上させられた。


「あのまま剣を振りぬいていれば私を殺せただろうに、なぜ剣をとめたのだ?」


 閉じていた目を開けば、そこにはロゼの顔。

 俺の顔の左横で両膝をつき、こちらをのぞきこんできている彼女と目が合った。


 七年戦争が終わって平和な世を迎えたいま、ロゼはアザリア王国に平和をもたらした英雄として、大勢の民から慕われている。

 その美貌から、彼女を妻にと欲する貴族も多く、さらには王太子殿下の妃にという声すらもあげられているくらいだ。

 いまのこの状況は世の男性諸君が羨むものに違いないと、きれいに整った彼女の顔をまじまじと見つめて思う。

 いまだ悲哀の色に満ちたままの瞳ですらも、やはり人々を虜にしてやまないだろう。


「なんでだろうな……」


 ロゼを呼び出し、嫌がる彼女に無理強いしてまで行った決闘

 己に課せられた大願を果たし、愛する妻と子のもとへ帰るべくして臨んだ、最後の決闘。

 その死闘とも呼べる激しい戦いの末、俺はロゼをあと一歩というところまで追い詰めていた。

 がら空きになった彼女の首筋までの軌跡を、なぞるべき剣筋をはっきりと見ることができていたのだ。

 もし振りぬいていれば、その首を宙高く跳ね上げられていたであろう、たしかな未来を。


 しかしながら、俺はその好機をものにすることができず、ロゼに敗北を喫してしまった。

 結果として彼女に胸を貫かれ、こうしていま、死の淵に立たされている。

 無様にも死に瀕している。


 では、どうして剣をとめてしまったのか。

 それはきっと、俺の中にロゼを娘のように大切に想う心があったからだろう。

 ずっと望んできた未来を自らの手で閉ざしてしまった、その理由を自問自答してみれば、答えはごく自然にすんなりと導き出された。


 もちろん、想うといっても恋愛の類の邪な気持ちではない。

 愛する家族に向けるような、親愛に近しいものだ。

 十五も歳が離れたロゼは、俺にとっては娘――我が子のような愛しい存在であったのだと、いまさらながらに思う。


 なにせ実際、我が子を育てるように接してきたのだから。


 そもそも、何事にも無感情であったロゼが人を思いやる情を身につけたのは、俺の卑劣な画策によるものにほかならない。

 あの日の気遣いに見た、情。

 わずかに残されていたのか、はたまた取り戻しつつあったのかはわからない。

 だが、どちらにせよ、それは彼女の力を貶める弱点であり、たしかな隙であった。

 恐れを知らず、まるで殺戮兵器のごとく無慈悲に振り下ろされる力は、その刃を鈍らせる情を捨て去ってこそ持ちうるもの。

 すなわち、殺戮兵器から人に戻してしまえば、弱体化してしまうことは必然でもあったのだ。


 人間味のある情を再び身につけさせ、人を想う心を育ませていく作業。

 人と関わりあうことの楽しさを、人と気持ちを共有することの喜びを。

 人を傷つけることで生まれる怒りを、人を失うことで生まれる哀しみを。

 俺に対しても少なくない親愛の情を向けさせていく下種な作業を、いざこうして振り返ってみれば、我が子を育てていく過程に酷似しているようであったと、皮肉にも思う。

 次第に人らしさを取り戻していったロゼを、俺は一体どんな思いで眺めてきたのか、いまとなっては思い出すことも叶わない。

 しかしながら、そうして日々、彼女は俺とともに過ごしてきた。


 ふざけた話だ。

 いま改めて思い返してみても、本当に理不尽な話だと思う。

 偽りの愛情でもって人らしく育てられた結果、その育ての親とも呼べる人物に刃を、明確な殺意を向けられるのだから、もはや悲劇でしかないだろう。

 どこぞの神以上に質が悪い、人の気持ちを踏みにじる悪辣な遊びであったと、いまさらながらに後悔してやまない。


「本当に、なんでこうなったんだろうなぁ……」


 視界がにじみ、涙が頬を伝い落ちていく。

 なんの価値もない、あまりにも醜い涙がぼろぼろと流れ落ちていく。


 でも思えば、俺はこうなることを望んでいたのかもしれない。

 なぜなら、もう、妻と子に合わせる顔がないからだ。


 何度も握った妻の手を、生まれたてのきれいな我が子の手を取るのに、すでに俺の手は汚れすぎてしまっている。

 人を殺し、人の死を踏み台にしてきた俺の心は、平和な世に生きている家族と接するのに、すでに相応しくない代物に成り果ててしまっている。

 愛する家族を免罪符にして罪を重ねてきた俺には、もはや生きる資格すらもないだろう。


 いまの俺は汚れた化け物だ。

 こんな顔で、こんな手で、こんな心で。

 どうして妻と我が子に会えるだろうか。

 いや、会えるはずがない。

 けっして会ってはならなかったのだと、いまさら、今際の際になってようやく気づくことができた。

 気づいてしまった。


「ロゼ」


 目に映していた灰色が真っ黒に変わりいく中、呼びかける。

 幾度となく呼んできた、この世界でもっとも傷つけてしまった人の名を、おこがましくも口にする。

 これが最後だからどうか許してほしいと、心の中で謝りながら。


「最期に一つだけ、頼みがある」

「なんだ?」

「幸せになってくれ」


 目には見えずとも、勘で左手のガントレットを取り外し、ゆっくりと宙へ伸ばす。

 すぐに指先はロゼの頬に触れた。

 けっして殺戮兵器などではない、人の血が通っている温かな肌に。


「随分と勝手だな」

「すまない」

「本当に……本当にお前は勝手だ……! 私の気持ちも知らないで……! こんな形でしか、お前を救ってあげられなかった私の気持ちを知りもしないで……!」


 もうすぐ、全部わからなくなるだろう。

 震えている声色も、降り出したであろう雨粒が頬を濡らす感覚も、左手をぎゅっと握られている温もりも、きっともうすぐ全部わからなくなるだろう。


 だから、その前にロゼに前を向いてもらいたい。

 愚かな俺の死なぞ、その身に背負ってほしくはない。

 どうか前を向いて、己のためだけに生きて、いつか幸せになってほしい。

 人並みの幸せを、かつて俺が夢見た幸せを、どうか彼女は手にして幸せになってほしい。

 身勝手だが、それだけが俺の最期の心残りだ。


「すまない。でも、頼む。幸せに、なってくれ」

「……わかった」

「俺の、こと、なんて、気にせず、どうか、幸せに」

「だから、わかったと言っただろう!? 大丈夫、私は幸せになる! ちゃんと幸せになってみせるから! だからお願い、お願いだから――」


 ――もう泣かないで。


 ふと。

 脳裏に浮かび上がったのは在りしの記憶。

 場所は家の近所の公園、相手は幼稚園児のころの妻。

 満開の花が咲く桜の木の下で、同じく幼稚園児の俺が妻に慰められている、懐かしい思い出の記憶。


 あのころの俺は毛虫が苦手だった。

 一方、あのころの妻は、毛虫をのせた木の棒を片手にたびたび俺を追いかけ回し、こちらの顔に近づけてはからかい、俺が泣きべそをかくのを楽しんでいた。

 そうして、ひとしきり泣かせられた後、慰められて仲直りするというのがいつもの流れ。

 泣き虫な俺とお転婆な妻が織り成す、子供らしい幼稚な物語だ。


 ああ、そうだ。

 思い出した。

 妻が俺をいじめていた理由は、泣き顔が可愛いから、とかいうくだらない理由だった。

 本当に、いま思い返してみても実に幼稚な話だ。


 ……なぁ、ゆり。

 もしかして、それが春を好きな理由だったりするのか。


 いや、そんなわけないよな。

 そんなふざけた理由でもって春を好み、ましてや、春に由来する名前を子供に命名するわけないよな。

 さすがにそれはないと信じたい。


 いや、でも、ない話ではないかもしれない。

 もしかしたら、いや、ひょっとしてそうだったのかな。

 もしそうだったのなら、ああ、とんだ笑い話だ。


「そうだ、それでいい。私は幸せになる。お前がくれた家族の――父の温もりを胸に、絶対に幸せになってみせる。だからお前も安心して笑って逝け」


 すまない、ロゼ。

 にやにやした下品な笑みを見せてしまって。

 泣くな、とは言われたが、笑え、とは言われてないのにな。


 でも、よかった。

 安心したよ。

 力強く、優しく、なによりも嬉しい言葉をくれてありがとう。

 おかげで胸のつかえが下りた気分だ。


 なぁ、ロゼ。

 あのとき、俺を助けてくれてありがとう。

 ともに戦ってくれてありがとう。

 健やかに成長していく姿を見せてくれてありがとう。

 愛する家族を想う日々を与えてくれてありがとう。

 そして、どうしようもなくなった俺を救うために、この胸を貫いてくれてありがとう。

 最後に、こんな俺を父と呼んでくれてありがとう。


「それはこちらの台詞だ。私のほうこそありがとう。お前に会えてよかった。お前と同じときを過ごせて本当によかった。心からそう思っている。本当に、本当にありがとう……」


 ロゼ。

 愛しい、我が子よ。

 願わくば、どうか、幸せに――








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