三章◎篝火と狂気
「ドラゴンに食い殺された死体ですって?」
ダニエルは目を見開いてウォレスの言葉を反復した。
ウォレスはその反応も予測していたのか、ゆっくりと深くうなずき、それが真実であることをダニエルに再確認させた。しかし、納得できないダニエルは舌鋒鋭く詰め寄る。
「お言葉を返すようですがねウォレスさん。ロンドン王立協会のアイザック・ニュートンが数年前に著した『自然哲学の数学的諸原理』によれば、宇宙を含めたこの世界すべての運動は数学的に記述できるのだそうですよ。そんな科学の時代に、ドラゴンと聞かされて信じる人間がいると、本当にお思いですか!」
「なるほど、やはり君は合理的な人間のようだな。そこの点は実に頼もしい。もちろんわしだって完全には信じておらんよ。ならずものに惨殺されたに決まっとる。だが、教区の連中ときたらどいつもこいつも迷信深い奴らばかりでな。やれドラゴンが現れただの、空を飛んでいく影を見ただの、毒の息や毒の爪に気をつけろだのと大騒ぎだ。疫病のおかげで混乱状態だというのに、追い打ちをかけられてパニック状態だ。だから、なんとしてでも事件を解明して、少しでも平静な状態を取り戻したいのだ」
ウォレスはため息をついてそう述べた。
「なになに、面白そうな話してるね」
部屋の奥から声を発したのはゲイブである。その声で何かを悟ったウォレスは、ダニエルの耳元でささやくように言った。
「おいダニエル。まだあのクソガキを飼っておるのかね。奴はコーヒーハウスでスリを繰り返していた宿無しだろ?」
「そうおっしゃいますがねウォレスさん。ああ見えて結構役に立つんですよ。すばしっこいし、頭も切れる。それに裏社会の情報網にも通じてる。この街で商売やら情報収集やらするには、ああいう人間がそばにいると何かと便利なんですよ」
事実、ウォレスから依頼される事件も、ゲイブのもたらす情報のおかげで解決できたことも少なくない。
「どこの馬の骨ともわからんやつだぞ、せいぜい寝首をかかれぬようにな」
ウォレスはゲイブを睨みつけたあと、あえて存在を無視するかのように視線をそらした。ゲイブの能力をまるで知らぬではないのに、ウォレスはいつも邪険に扱う。いつのまにか二人のそばに近づいていた当のゲイブは、ウォレスのつれない態度を前にしても、またいつものことだという調子で気にしてはいない様子だ。
「ドラゴンに食い殺された死体が見つかったんでしょ。いやあ、楽しみだな。早く見に行こうよダニエル」
「失神しても、わしは知らんぞ」
目を合わせるでもなく言い捨てて、ウォレスは早くも外に飛び出した。ゲイブも帽子に髪を詰め込むようにして整えなおすと、すぐにその後を追う。
出遅れたのはダニエルである。「まだ仕事を受けると決めたわけじゃ……」と誰にも聞こえぬ愚痴をつぶやきながら出かける準備をして二人のあとに続いた。
現場であるセント・ジャイルズ教会までは、表通りを道沿いに北西へ向かえば十数分というところである。
疫病で人通りが激減している道を数分も歩いたところで、目に付く範囲でも数個の篝火が焚かれている。意識すると思いの外その数が多いことにダニエルは気づかされた。
「本当に、そこら中で篝火を焚いているな。わたしはあまり好きになれないよ。小さい頃に見た大火を思い出して肝が冷えてしまうからね。ついつい黙示録的な情景を連想してしまっていけない」
「ダニエルって意外と繊細なところがあるよね。僕は結構好きだけどな、火祭りとか花火とか。火を見るとなんだか盛り上がるよね」
「まったく、お子様だなゲイブは。そういえばウォレスさんがくる前に篝火の話をしていてドラゴンがどうとか言いかけなかったか?」
ゲイブは目をくりくり回す。すぐに思い出した様子だ。
「そうそう。僕もそこまで詳しいことは知らないんだけど、あれはドラゴンを避けるためだっていうんだ。このあたりでは、昔からドラゴンが恐れられてたらしい。恐ろしい爪に、大きな翼、それに毒の息を吐くとなれば、確かにどう考えても怖いけどね」
「わしもその説はどこかで聞いたことがある。子供の頃に聞かされた、おとぎ話のたぐいと同じものだと思っていたがな」
ウォレスはゲイブの方を少しも見ずに答えた。ダニエルは顎を右手でいじりながら考える。
「ふむ。しかし、実際にはこの世にドラゴンなど存在しないですよね」
「田舎者のウェールズ人なら皆、あの赤い竜を信じとるぞ」
「あれこそ伝説上の存在ですよウォレスさん。ここはイングランドの中心、ロンドンですよ。冷静になりましょう。たしかに太古の昔からドラゴンの伝説は各地にあります。かのリヴァイアサンも龍の一族と考えられてきました。スカンジナビアの方には、ひとつの国を取り囲むのほどの巨大な龍の伝説があります。しかし実際にそんな巨大な化け物が存在したら、骨や牙の実物が今でも残っているはずですよ。つまりは何か伝説上要請された教訓めいた存在なんじゃないでしょうか。あるいは何かの見間違いか、またあるいは何かの象徴なのか……」
歩みを進めながら考えるも、ダニエルはその時点では何かしらの結論を得られなかった。
しばらくして現場である教会に近づくにつれ、ある異様な雰囲気が漂い始めていた。それは得体のしれぬ声であった。尋常ではない奇声が三人の耳に聞こえ始めてきたのだ。最初こそ屠殺される動物の悲鳴か、何かのうめき声かとも思われたが、その声は次第に明瞭な輪郭を帯びて、明らかに毒づくような、糾弾するような、一聴して異様さがわかる言葉の数々であった。
「ドラゴンだ! ドラゴンが現れたぞ!」
その声は何度も何度も、ドラゴンという言葉を忌々しげに連呼していた。
「ドラゴンの奴め、畜生! 食い殺されちまった! 隠れてないで、出てこいドラゴン! 俺が退治してやる! 探し出して退治してやる!」
大きく反響するほど遠くから聞こえてくるのに、よほどの大声で叫んでいるのか、はっきりと言葉が聞き取れる。今や姿は見えないのに耳を塞ぎたくなるほどうるさい。
しばらくすると、その声の持ち主が道路を横切っていくのが見えた。がなりたててはいるものの、なかなかの早足で移動しているようで、はっきりと姿を捉えることはできなかったが、声だけでなくその顔つきもなにかに取り憑かれたように歪んでいることは明らかだった。
ウォレスがうんざりという表情で説明を始める。
「あの声の主は死体の第一発見者であるジョージだよ。このへんに住んどるんだが、数ヶ月前に妻と娘が疫病に罹って亡くなってからというもの、少し頭がおかしくなってしまってな。ジョージ本人は疫病の徴候もなく無事だったんだが、よからぬ妄想に取り憑かれてしまって、哀れなものさ」
「妄想ですか……」
ダニエルは少し考えて、
「なるほど、自分がその名前と同じ、ドラゴン殺しの聖ジョージだと思いこんでいるわけですね」
ウォレスはコクリとうなずく。
「そう、以前も不意に自分が聖ジョージだと言い出すことはあったのだが、これまではほんの一時的な発作で済んでいたのだ。しかし、今朝がた死体を見つけてからというもの、ずっとあの調子なのだよ。おかげでドラゴンが現れて、人間が食い殺されたって噂だけが周囲の住人に知れ渡ってしまってな。迷信深い連中は震え上がっとる。まったくウェールズ人じゃあるまいし。おかげで教区は大混乱で、いつも以上に疫病の対策も進まないし迷惑もいいところだ」
ウォレスは呆れなながらも、とはいえ事もなげに淡々と語った。ジョージのような存在を軽くあしらえる胆力がなくては、疫病によって混乱の渦中にある教区の自警団など続けられないのだろう。その点はダニエルも一目を置いているし、信頼してもいる。
しばらくすると狂気に飲まれたジョージは別方向に向かったのか、その影は消え失せ、声も聞こえなくなっていった。結果として面と向かいあうことがなくなったので、ダニエルは胸をなでおろす。ただでさえ恐ろしい事件に巻き込まれつつあるというのに、これ以上、危ない人物に関わりたくはないというのが正直なところだ。
そうして三人が石畳を歩いていくと、建物の隙間を縫うように鋭く尖った塔が姿をあらわした。すかさずウォレスが指をさす。
「そら、もう尖塔が見えてきたぞ、あそこが現場のセント・ジャイルズ教会だ」
疫病条例――感染家屋と患者に関する規定その一
・患者は発病した自宅から市内の他の家屋へ移ってはならない。ただし、疫病施療院や仮設病院、および感染家屋の戸主が所有する別宅に移ることはできる。移転は夜間を選んで行い、患者に対する看護や費用は、教区に頼らず、全額自己負担とする。また、患者を密かに他の家屋に移送された場合は、旧居の属する教区当局は、自己の負担において、患者を夜分に旧居に戻すこと。違法行為を犯した関係者は、区長の指揮に従って処罰され、移転先の家屋は二十日間閉鎖される。
・悪疫による死者の埋葬は日の出前ないし日没後の適当な時間に、教区委員または警吏の同意を得て行われるものとする。いかなる知己、隣人といえども、柩に従って教区に赴いたり、喪家を弔問したりしてはならない。この禁を犯した場合には、家屋閉鎖ないし投獄の刑に処せられる。また、埋葬地の墓穴の深さは、六フィート以上とする。