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疫病流行  作者: monado
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二章◎猖獗と事件

 帰宅したダニエル・フォーは、まるで長らく潜っていた深い湖から戻ってきたかのように大きく深い呼吸をした。肺の中の空気をすべて押し出すべく、その動作を何度も繰り返す。最後に、胸元へと空気を通すように上着を引っ張って一呼吸すると、疲れの混ざった弱々しい声でただいまと呟いた。

 部屋の奥ではゲイブリエル・スペンサーが奇妙なポーズで帰りを待っていた。椅子の座面に背をつけ、両足を背もたれに乗せた逆立ちのポーズでダニエルを見つめている。頭を地面に向けているにもかかわらず、かぶっている帽子はなぜかぴったりと頭部に張り付いたままだ。トレードマークとばかりに、それを脱ぐことをしない。

 その口元には小さく巻かれた葉煙草がくわえられていたが、帰ってきたダニエルを確認すると口元から離して煙をくゆらせた。

「おかえり、フォー君」

 そう呼ばれて、ダニエルはなかば呆れながらも反射的に切り返す。

「ゲイブ。フォーって呼ぶなと言っただろ!」

「はいはい。おかえり、ダニエル」

 再度、ゲイブは口からゆっくりと煙を吐き出して、小憎たらしくニンマリと笑った。

 ガキのくせに、あどけない顔つきだけは天下一品だ、とダニエルは苦虫を噛み潰す。それからゲイブがふかしている煙草を指さす。

「お前それどこで手に入れてきたんだ? 小僧のくせに、そんなものを吸って、粗悪品だと頭がイカれちまうって話だぞ」

「でも疫病にも効くってさ。今じゃ、どこのコーヒーハウスでも売ってるよ」

「時々、夜に抜け出していたのは、そんなものを買うためだったのか。検察員エグザミナにでも見つかったら逮捕されるぞ。それにコーヒーハウスで売っているような怪しい薬の効果なんぞ、全部デタラメに決まってる。混乱に乗じて、いかがわしいものを売りつける詐欺師が山のようにいることは、お前のほうが詳しいと思っていたんたがな」

「へえ、そうなの。知らなかったな。さすがは元商売人」

 ゲイブはとぼけたふりをしてチクリとやり込める。

 以前は貿易商を営み、羽振りもよかったダニエルだったが、数年前に倒産の憂き目に会いあえなく破産。さいわい債権者とはなんとか和解が成立したおかげで債務者監獄行きだけは免れたものの、金欠でほとんど身動きがとれないでいる。

 今では得意の情報収集と情報分析を活かして、なんとか糊口をしのいでいる。そんなおりに出会ったゲイブは裏社会の情報に通じており、それは丁度ダニエルの守備範囲外の領域でもあった。満足そうな顔で煙草をふかす皮肉屋のゲイブを追い出さないでいるのも生活のためなのである。

 それにしてもゲイブのその表情からして、疫病除けで吸っているわけではなく、どう見ても嗜好品を楽しんでいるようにしか見えない。

「まったく……」

 呆れたようにダニエルは続ける。

「脳天気なものだな。お前さんの帽子の中身とは違って、外はあいかわらず地獄そのものだ」

 それからダニエルは身を投げ出すように椅子に腰掛けると、テーブルに何やら細かい字が書きつけられた紙を一枚、叩きつけた。

「ほら、買ってきたぞ。いつもの死亡報告書だ」

 死亡報告書という言葉に反応して、ゲイブは座面でくるっと一回転して着地し、その用紙に手を伸ばした。再び椅子に座ると、のけぞるような体勢で目を通し始める。

「なになに、今週の死者は……と」

 人差し指で字を追って読んでいく。

「ロンドン全体で三九七八人か……へえ、だいぶ少なくなってきたじゃない」

 ゲイブは深刻な数字であるにもかかわらず茶化すように言って、更に細かい数字を読み込んでいく。

 すでに簡単に目を通していたダニエルにとって、その数字は確かに光明に見えた。

「ようやく峠は越したようだが、まだまだ油断は禁物といったところだな」

 死亡報告書は各教区からロンドン市長に数字を上げて、それをまとめた公的な書類だ。今年の始まり頃にセント・ジャイルズ教区から疫病が発生して以来、毎週とりまとめられて発行されている。ダニエルは定期購読し、その推移を丹念に追っているのだ。こうしておけば疫病の感染経路を推定でき、防護策を立てられるかもしれない。少なくとも今後の再流行には備えられるだろう。

 ダニエルは過去の死亡報告書をまとめている台帳を取り出し、そこに今週分も丁寧に挟み込む。それから、自分の住んでいる教区の死亡者数とトータルの死亡者数の推移を丹念に読み直し、その数字が明確に減少に向かっていることを確認すると、少しばかり安堵の表情を浮かべた。

「この数字も完全に信用できるってわけじゃない。どこも病人の対処で手一杯で、死体のほうは十把一絡げで数えてるだろうからな、厳密な値とは言い難いだろう……とはいえ、誤差は大きいにしても推移はそれなりに正確なはずだ。確実に死者の数は減ってきている。それに過去の記録によると、寒くなると流行が収まる傾向がある。一六六五年の大疫病グレート・プレイグの時も、うだるような夏の暑さで最も流行し、秋口には死人の数が減り始め、冬が終わる頃には綺麗に消え去った。それなら今回も、あと数ヶ月すれば終息へと向かうだろう。もうしばらくの我慢と言ったところか」

「そうなることを期待するよ。このままじゃ芝居や見世物を見ることもできやしない」

 ゲイブは紙面から目を離さずに言う。しばらく沈黙があったが、何かを発見したらしいゲイブの声がそれを破った。

「ねえダニエル。ハロルド・ヴァイナーが死んだってさ、欄外の隅に書かれてる。どこかで聞きいたような名前なんだけど、そんな名前の有名人いたっけ?」

「その記述は見逃していたな……」

 不意に問われてダニエルも数秒、思い出すのに時間を要した。ハロルド・ヴァイナー、確かにどこかで聞いたことのある名前だ。それも最近の話ではなく、かなり昔の記憶である。ダニエルはそのか細い記憶の糸をたどっていく。

「そうか、ハロルド・ヴァイナー。思い出したぞ。第五王国派フィフス・モナーキストの残党のリーダーだった男だ。十数年前に逮捕され、政治犯として投獄されたってのを最後に耳にすることも少なくなった名前だよ。ヴァイナーが死んだってことは、第五王国派も完全に壊滅したというわけか」

「第五王国派ってピューリタンの過激派だっけ? ならダニエルと気が合いそうだけど」

「おいおい、人を過激派扱いしないでくれよ。わたしはちょっとだけ刺激的な政治主張のパンフレットを書いているくらいで、実に慎ましいものさ。なんと言っても第五王国派は黙示録やらダニエル書の予言にのっとり、アッシリア、ペルシア、ギリシア、ローマに続き、キリスト教の偉大なる千年王国として繁栄するのは我がイングランドなのだ! などとのたまう頭のおかしい連中だぞ。獣の数字である666にこだわって、一六六六年に向けて活動を活発化させていたが、それ以降は衰退するばかり。反体制側に回ってからはただのテロリストだ。勢力が衰えたとはいえ、一時期は商人のなかにもかなりシンパがいたから、指導者が死んで安心したよ。それで書かれてるのは名前だけで、死因とか死んだ場所とか詳細はなにもないのか?」

「そうみたい。でも死亡報告書に書かれてるってことは、おそらく疫病が原因で死んだんだろうね」

「ヴァイナーは処刑されてもおかしくない政治犯だった。釈放されたという話も聞いていないし、脱獄や恩赦があったということもないはずだ。となると獄死ということか。市街も地獄なら、監獄も同様に地獄というわけだな」

 やれやれという調子でダニエルは頭を掻いている。

「まったく地獄の前では人類など、ただ死を待つだけの無力な存在というわけか。虚しいものだな。時は啓蒙主義によって科学の時代だというのに、まず医者からして逃げ出すのだから話にならない。残るは無学で迷信深い連中ばかりだ。わたしが子供の頃に起きた大火グレート・ファイアが疫病を浄化したと本気で信じ込んでいるありさまだからな。一度は大火で街が焼け野原になってしまったというのに、やたらと火をありがたがってやがる」

「たしかに、ロンドンっ子はなにかと火を焚きたがるよね。ガイ・フォークス・ナイトもしかりだし。そういえば篝火ボンファイアに関しては、実は古くからの風習らしいとも聞いたな」

「それって街中で焚かれている、あの火のことか?」

「そうそう。僕も大火グレート・ファイアによって疫病が鎮静化したから火を焚いていると思っていたんだけど、実はもっと昔から疫病対策として焚かれていたらしいんだ。なんでも古くからの言い伝えで、もともとドラゴンを……」

 ゲイブが言いかけたその時、激しいノックの音が会話を中断させた。疫病が流行してからというもの来客は極端に少なくなっていたので、二人は一瞬、硬直する。

 間髪入れず再び激しくノックの音が響いたので、ダニエルは立ち上がってドアを開けた。

 ドアの向こうに立っていたのはロバート・ウォレス、大柄の恰幅の良い初老の紳士である。教区の自警団をかって出ており、近隣住民からの信頼もあつい。

「ウォレスさんじゃないですか。どうしました、こんな時に」

 元来ビール樽のような体つきだったが、疫病騒ぎの労苦で少し痩せてきたせいか、不幸中の幸いにも健康的な体型をとりもどしつつある。とはいえ髭に混ざる白髪が日々の苦労をにじませている。

「どうしても手伝ってもらいたいことがあってな」

 ウォレスはつばのついた帽子を脱ぎ胸にあてて続けた。

「今朝、セント・ジャイルズ教会の脇で、とある死体が見つかったのだ。役人どもは、忌々しい疫病の対処で手一杯でな、まったくもって当てにできん。そこで我々、自警団が乗り出したわけなのだが、これがなかなか厄介そうでな。君に調査に協力してもらいたいのだ」

 以前とある難事件に巻き込まれたとき、見事にダニエルが解決したことがあった。それ以降、一筋縄ではいかない事件が起こると、ウォレスはダニエルに協力を要請してくるようになっている。

 しかし、疫病で毎週何千何百人もが亡くなるこの状況下においての死体である。

 街にありふれた死体だ。

 いまさらウォレスは何を言っているのだろうか、とダニエルは訝しむ。

「死体? 死体ですって?」

 ダニエルは少し皮肉めいた調子で唇を吊り上げ、

「失礼ですがねウォレスさん。死体なら、そのへんにいくらでも転がってるじゃないですか。今どき、誰も死体ごときで驚いたりはしませんよ。なにもわざわざ調査するようなことはないでしょう?」

 その反応は織り込み済みといったウォレスは、手のひらを前後させて落ち着けとのジェスチャーをした。

「君の言い分ももっともなんだがな、少し落ち着いて聞いてほしい。疫病による死体ではないのだよ。見つかった死体が、あまりに異常なのだ。驚かないでくれたまえよ……」

 そこで一度ウォレスは神妙な顔つきをすると、できるだけ声を殺して、しかしはっきりと、ダニエルに向かって言い放った。

「恐ろしいことに、ドラゴンに食い殺された死体が発見されたのだ!」

疫病条例――疫病対策要員に関する規定その二

・すでに疫病施療院に勤務している者を除いて、有能な外科医を新たに任命し、区画分けしたシティおよび自由地区リバティーズの各区域に、それぞれ一名を割り当てる。こうして割り当てられた外科医は、調査員と協力して、担当区域の病人自身の求めによる場合はもとより、各教区の検察員から病人の名が通達された場合にも、ただちに往診して患者の病名を確認する。診察料は十二ペンス。支払いは原則として患者本人によるものとするが、やむをえない場合には教区がこれを負担する。

・調査員、外科医、看守、埋葬人が町を通行する際は、必ず衆人の目を引くにたる長さ三フィートほどの赤い杖ないし棒を携えていなければならない。彼らはまた、自宅と任務先の感染家屋以外、いかなる家屋にも立ち寄ってはならない。他人との接触も絶つよう要請される。

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