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二階堂ミチはボーイッシュになりたい

ぱちりと目を覚ます。

見慣れた天井だが、今日は一味違った風合いに見えた。

勿論、天井が色や形を変えるわけではないから、これは二階堂美智の心境によるものが大きい。


目覚まし時計を見ると、午前六時三分前。

始業時間には十分間に合う、むしろ早すぎるような刻限であるが、ミチの立てたスケジュールには忠実な起床時間だ。

ここ数日、ミチは早寝早起きを心がけていて、見事に習慣化されつつあるようだ。

問題なのは、想定よりも三分も早く目覚めてしまったことである。

アラームが鳴るまで何をして過ごすか、ミチは計画を練っていなかったのだ。

しばらく時計とにらめっこをしたミチは、アラームをオフにした。

けたたましい催促の音を聞くのは好きではない。


身体を起こして、あくびを一つ。

ベッドからそっと下りると、ミチは洗面所へと向かった。

洗面台に添えつけられた鏡に、自分の姿が映り込んだ。

寝起きの瞼は腫れぼったく、まったく様になっていないのだが、昨日とは違う表情の自分が新鮮で、ミチは小さく笑顔を作る。

そして、口角をより深く上げてみた。

笑顔の練習だ。

自分の顔なので、その造形美についてはいまいち判断しかねるのだが、笑っていないよりは幾分かマシな印象を与えるに違いない。

ちなみに、普段から笑顔の訓練しているわけではない。

今朝はとにかく気分が良かった。

まだ起きていない家人への配慮さえなければ、階段をスキップで下りていたことだろう。

なので、鏡の前でポーズを決めてしまうのも、いくらか仕方のないことなのだ。


ふと物音が聞こえた気がして、ミチはひとり慌ててヘアバンドに手をかける。

家族が起きた――わけではなさそうだ。

誰にも見られていないことを確認し、ほっと胸をなでおろしながら、前髪を持ち上げた。

広い額を晒し、カランからぬるま湯を出して顔を洗うと、ドラッグストアで買えるオールインワンの化粧水を顔に塗り付けて、両手を軽く押し付ける。

頬の肉が手に吸い付く感覚を数回楽しんで、ヘアバンドを元の場所に戻したミチは、二階にある自室へと戻り、学生服に着替えはじめた。


小さな身体に見合った、小さな胸を覆う下着を身に着けて、淡い水色のワイシャツに袖を通す。

プリーツスカートの丈は膝が見える程度。

靴下は膝の真ん中あたりまでの、模範的な高さ。

グリーンのタータンチェック柄のネクタイを結って、紺のダブルボタンのブレザーを羽織れば、ミチは二階堂家の長女から、ひとりの女学生になる。

姿見の前で、己の姿を確かめてみた。

身長が伸びる可能性は捨てきれず、大きめに作ったブレザーは袖を余らせ、丈も長い。

良く見知った、自分の姿だ。


ただ、いつもより頭がスース―とする。

そんなささやかな違いが、ミチの今日を特別にするのだ。


スクールバッグを肩にかけて、ミチは静かに家を出ていった。

入学からひと月が経ったばかりの高校まで、歩いて十五分ほどだ。

スマートフォンで時間を確認すると、時刻は六時二十五分。


(今日も、間に合う)


弾むような足取りで通学路を進み、学校にたどり着くと、ミチは下駄箱から室内履きを取り出した。

三階の教室に鞄を置き、スマートフォンと財布だけを持つ。

向かうは、第二体育館である。

一階まで階段を下りて、正門とは真逆の方向へと歩いていくと、第二体育館の入り口だ。

既に友達が到着していた。

貴重な友人は、ミチに気づくと、その姿を凝視してから、悲鳴を上げた。


「どうしたの、その頭!」


驚いた表情の佐藤千夏の前まで歩いていくと、当たり前のようにミチの頭の上に手が乗る。

平均並みに身長のある千夏にとって、ミチは手を添えたくなる存在なのだそうだ。

いつもの所作を気にも留めず、「おはよう」とあいさつをすると、千夏は「おはよう」と返事をくれた。

「しかし――思い切ったねえ」

感嘆の声を漏らしながら、ミチの短い髪を掬う手。

「似合わない?」

「いや? いいと思う。びっくりしたけど」

嘘のないことがわかる、屈託のない微笑みに、ミチもつられて笑顔になった。


ミチは週末に髪を切った。

ずっと伸ばしていた髪を、ばっさりと。

何か特別な事情があったわけではない。

ただ、憧れの人に、ほんの少しだけ近づいてみたくなったのだ。


ミチの焦がれるその人は、スラリと高い身長が特徴のバレーボール部員で、ミドルブロッカーというポジションについているらしい。

らしいというのは、話したことがないうえ、バレーに明るくないからだ。

入学したばかりの頃に行われた球技大会で、偶然見たバレーボールの試合に、その人は出場していた。

宙へと高く投げたボールを、彼の人の手のひらが叩いた瞬間の、真剣な表情に、ミチは心を奪われてしまった。

力強いプレーに魅入られて、彼女のようになりたいと思うようになってしまった。


といっても、ミチのような小柄な人間が、体育の授業でわずかに経験した程度のバレーボールをすることはできないだろう。

背の低いプレイヤーの多いリベロというポジションもあるにはあるが、とても技術のいる役割だと聞いている。

ぽっと出の素人にできるような役職ではない。

ただ、チームを引っ張り、誰もを魅了する人柄が、ミチの目標になった。

今は遠く及ばないけれど、いつか先輩のような人になりたいと思った。


だから、一番近づけることをはじめようと、ロングだった髪を短くしたのだ。

勿論、突然ベリーショートにはできないから、美容師おススメのショートボブに留めたが、それでも一大決心だった。


今朝も、朝の練習に励むバレー部員を応援するためだけに、ミチは友人と朝早くから学校にやってきている。

千夏は、一人ではバレー部ファンに混ざりにくいミチのために、わざわざ付き添ってくれている。


ちなみに、訪れているのは、ミチや千夏だけではない。

件の先輩は大変な人気者で、日常練習でも鑑賞者は後を絶たないのだ。

勿論、バレーボール部員自体の人気も高い。

愛されて勝つ、をコンセプトに掲げているバレー部は、立ち振る舞いも立派だし、学外からも評価されているほどに素行が良かった。

それでも、今日の観客は少ない方だ。


「今日は近くで見れそうだね」

「そうだね」


そわそわと逸る気持ちを抑えられず足踏みをしていると、よく見かけるバレー部員が体育館のカギをあけにやってきた。

扉が開くと同時に、観客席を目指して駆けていく人たち。

その中に混ざって、ミチと千夏も階段を駆け上り、端の方の最前列を確保した。

ほどなくして、体育館に部員が集まってきた。

髪を高い位置でポニーテールにしている生徒に続いて、ミチの思慕する先輩が入ってきた。


かなり短い髪に、精悍な顔立ち。

整った頭の形が、浮き彫りになるヘアスタイルの彼女の横顔が見えるなり、小さな歓声が上がった。

ちらりと、部員たちがこちらを見て手を振るのに交じり、件の先輩と目が合った――気がした。

直後、にこりとほほ笑んだ先輩に、ミチは顔を真っ赤にしてあわあわと口を戦慄かせた。

部員たちは、壁を背にするように大きな円を作り、ウォーミングアップを始める。

微笑を携えた先輩も、輪の中に混ざって足首と手首を回し出した。


◇ ◇ ◇


「今朝も迫力あったね」

「うん。やっぱり先輩のサーブ、好きだな」


朝練が終わったのは八時十五分。

三十分にはホームルームが始まってしまうので、ちょうどいいだろう。

体育館を出て教室に戻りながら、ミチは先ほどの先輩の様子を思い出していた。


「――そんなに好きなら、やっぱりマネージャーになればいいんじゃない?」


千夏の提案に、ミチはぶんぶんと首を振った。

「めっそうもない! 私なんかには無理だよ!」

「そう? 案外やっていけそうだと思うんだけど」

「だって私、あがり症だもの。あんなに大勢の人と話すなんて、緊張しちゃう」

ミチの文句に、千夏は「確かに」と笑った。


「そっか。まあ、うちのバレー部はマネージャーとらないっていうのは、結構有名な話だもんね」

千夏の言葉に、ミチが驚く。

ミチと異なり社交的で、情報通の千夏は、入学したてにも関わらず、学内の事情にやけに詳しい。

「そうなの?」

「そう。バレー部はマネージャーの仕事は三年生が分担してやる決まりになってるから、わざわざマネージャーに人員割かなくてもいいんだってさ」

「三年生が? 一年生じゃなくて?」

ミチの疑問に、千夏は得意げに答えた。

「スポーツ強豪校では、雑用は上級生がやるのが常識。年功序列制度は古くさいんだよね」

「へえ。夏ちゃんは詳しいね」


感心しているうちに、二人は一年五組の教室にたどり着いた。

ミチと千夏は、運動はからっきしだが、成績だけはよかったので、進学クラスである五組の所属になった。


教室に入ると、窓際の席に友人の和久井早紀が着いていた。

二人に気づいた早紀は、にこやかに「おはよう」と口を開いた。


「おはよう、早紀」

「おはよ」

「大胆に切ったねえ」


さして驚いた表情は見せなかったが、気づいてはいたらしい。

それもそうだろう。

これまでとはシルエットがあまりにも違っている。


「今朝も応援? 精が出るねえ。そんなに好きなら、差し入れでもすればインパクトあるのに」

「――無理無理無理ッ」


早紀の台詞に、ミチは赤面して頭を振る。

差し入れるということは、先輩と直接対峙するということだ。

そんなことをしたら、この身は張り裂けてしまうかもしれない。

それに、他の選手や、応援団に目をつけられてしまうのは避けたかった。

人気のある彼女に声をかけるだなんて、熱烈なファンに見つかったら、ミチなどどうなってしまうかわからない。


「健気だねぇ」

「ねえ」

早紀と千夏の言葉に頬を染めて、ミチは早紀の前の席へと腰を下ろした。

そこが、ミチの席なのだ。

中学からの同窓である早紀と席が近いのは素直に嬉しいが、こうやって揶揄われてしまうのは苦手だった。


「そうだ、今日バレー部は部活ないんでしょ?」

毎週月曜日は、朝の練習のみで、夕方の部活は無いことが多い。

バレー部員が友人にいないので、ミチには詳しいことがわからないが、千夏なら知っていそうだ。

案の定、間髪入れずに千夏が「そうそう。休みの日」と答える。

早紀は嬉しそうに、ミチの椅子を引っ張った。

それにつられるように、ミチは振り返る。

「だったら放課後、チーズティー飲みに行こうよ」

チーズティーと言えば、今流行しているスイーツ系飲料だ。

確か学校の最寄り駅にもショップが作られたし、都内にはすでに何店舗も出店している。

「賛成」

千夏が手を上げて喜んでいるの。

ミチは特に逸るものすたるものに興味はなかったけれど、二人が楽しみにしているようだから、OKを出した。

友人の笑顔を見るのが好きなのだ。

なぜか元気になれるし、力が湧いてくるような気がする。

ミチは頼りなく、二人に迷惑をかけることの方が多いから、こんな細やかな形でしかないけれど、恩返しができるなら嬉しかった。


◇◇ ◇


放課後、ミチは日直の仕事で、千夏と早紀より遅れて教室を後にした。

スマートフォンには校門に居ると連絡があったので、まだ間に合うだろう。

階段をなるべく急ぎ足に駆け下りて、昇降口で靴をローファーに履き替えた直後だった。


「ねえ!」


どこか凛々しい声が響く。

反射的にミチは声のした方へと振り返った。


ベリーショートヘアに、形のいいおでこ。

肉感的なのにすらりとした脚。

足首には、青系の統一色でミサンガが結われている。

部活ジャージをワイシャツの上に羽織ったその人は、毎朝、その姿を垣間見ている先輩――倉田葉留だった。


どくりと、心臓が高鳴る。

耳の奥で血管の脈打つ音が響いて、頭の中が真っ白になる。


ミチの意中の人は、下駄箱の脇からこちらを覗いていたが、ミチの返事を確認すると、すぐ近くまで歩いてきた。

身長差がとてもよくわかる。

頭一つ分、いいや、それ以上の違いだ。


なぜ、ここにいるのだろう。

どうして、声をかけたのだろう。

ここは昇降口なのだから、先輩がいるのは当たり前だ。

それに、まだ自分に声をかけたとは限らない。


けれど、これほど近くに来て、人違いなんてことがあるだろうか。


切れ長の瞳を、じっと見つめる。

まるで黒水晶のようだ。


食い入るように見つめていると、「髪」と、涼しげな声は言う。


「――かみ?」

「髪、切った?」


今日何度も言われている言葉だから、意味はすぐにわかった。

「は――、はい」


先輩はぐいと顔を近づけたと思ったら、後ろに下がり、上から下から覗き込んだのち、「うん、可愛い」と頷いた。


「ロングも可愛かったけど、短いのも可愛い」


緊張で、何を言われているのかわからない。

けれど、褒められていることだけはぼんやりと理解できた。

同時に、耳まで熱くなっていく。


「あああああああの」

「ん?」

「わ、たしのこと、知って――?」


当然の疑問だと思う。

あえて言うならば、ミチは先輩のストーカーみたいなものなのだ。

自分が一方的に知っているだけだと思っていた先輩が、自分の変化に気づいてくれたのである。

動揺するなと言われても無理な話だ。


大人びた先輩は、ぷっと吹き出し、おかしそうに笑った。

「毎日練習見に来てるじゃん」

沢山の生徒に混ざっているから、気づかれていないと思っていたのだが、ミチのストーキングはしっかりと把握されていたらしい。


でも――と、ハルが口を開く。

「でも、名前はまだ知らないな。私、倉田葉留って言うんだ。ハルでいいよ」

君は?


ミチはごくりと喉を鳴らした。

名乗ることがこんなに緊張するのは、今が始めてだった。


「に、二階堂、美智です」

「ミチか。よろしく」


そうだ――と、ハルが手をぽんと合わせた。


「今週末、暇?」

「今週末――?」


オウム返しをしたミチに、ハルが屈んで顔を近づけてくる。

その整った顔立ちと、デオドラントの香りに、どきりとした。


「練習試合。見に来てよ」

「れ、練習試合?」

「そう」


パニックを起こしている頭の中で、冷静に予定を参照する自分もいて、ミチは不思議な気持ちになった。

ひとりの人物の中で、まったく違った二つの処理が行われているのが、場違いにおかしい。

脳内でクールなミチが週末の予定に空きを確認した。

しかし、自分などが応援に行って、迷惑ではないだろうかと、ミチは心配にもなった。


断ろうと開きかけた唇が、頭の軽さを思い出す。

(そうだ、私は――)

ハルのように、かっこよくなりたいと思ったのではなかったか。

ハルのように、スマートに生きたいと思ったのではなかったか。

そのために、髪を短くしたのではなかったか。


ミチは口を閉じて、ぶんぶんと音がなるほど強く頷いた。


「行きます! 絶対!」

かなり勢いのよい返事になったのが、恥かしい。

けれど、ハルは嬉しそうに「頑張れるよ」と応じてくれたので、羞恥心などはじけ飛んでしまった。


校門の方で、ハルを呼ぶ声がする。

「それじゃ、またね。ミチ」

片目を閉じて見せると、ハルは先輩たちの輪の中に溶けていった。

ミチは、その姿が見えなくなるまで、昇降口から動けなかった。


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