第21話
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落下中、晶の背後から【蜘蛛】の脚が伸びるのを、辰海は見ていた。
ガリガリガリッと井戸の壁面を黒い八ツ脚が削る。
そのおかげで落下速度が低下し、晶と辰海は井戸の底に叩きつけられることなく、何度か転がり、気が付けば井戸の底にべちゃりと寝そべっていた。
「あ、危なかった……一体何が」
ゼーゼーと壁に手を着いて呟く晶を、辰海は呆然と見つめる。
【蜘蛛】の脚はもう見えない。
だが見上げると井戸の壁面には爪で抉ったような跡が八つ残っていた。
そして、そこには辰海が見たことのないおかしなものもあった。
「なんだよあれ……」
絶句したまま上を見る辰海につられて晶も視線を上げる。
そしてひゅっと息を飲んだ。
石を積み上げて作られた井戸の壁面には、巨大な壁画が泳いでいた。
悠々と巨軀をうねらせ、円柱状の石壁の中を遊泳するように移動している。
シンプルな点と線で描かれた、黒い眼窩を持つ絵。晶には見覚えがあった。
「【鯨】……!!」
五体の邪霊のうちの一体、【鯨】の呪画がゆっくりと瞬きをした。
晶の声に呼応するように、暗い眼が井戸の底の二人を見下ろす。
そしてゆらりと尾びれを揺らし、まるで潮を吹くように勢いよく白い霧を放出した。
ぶわりとあっという間に視界が白に染まる。
晶は舌打ちして辰海を庇うように壁ギリギリに押し付けた。
逃げ場がない上に、恐らく辰海は霊感を持つ生徒。
【鯨】は辰海に取り憑くつもりで井戸に引き摺り込んだに違いない。
最悪の状況だった。この狭さでは【蜂鳥】の時のように戦うこともできない。
「神崎くん絶対絶対絶対あの白い霧吸わないで」
「無茶言うなって! それよりあの黒いヤツ出して。壁登って逃げよう」
辰海の提案に晶は首を捻る。
「黒いヤツって?」
「……マジ? 無意識? ヤバ」
二人を目がけて白い霧の塊が急下降する。
井戸の外に現れた霧よりも数段濃い霧は、周囲の空気を凍らせながら落ちてくる。
「危ない!」
晶は辰海を突き飛ばし、自分も地面に伏せた。
白い霧が直撃した壁は一瞬で霜が張り付き真っ白になってしまった。
ひやりと冷たい空気が晶の頬を撫でる。まるで瞬間冷却ビームだ。
パキパキと壁から剥がれ落ちる薄氷に、晶はゾッとした。
「本野! ここ!」
声のする方を向くと、辰海が石壁の一部をガンガン蹴とばしている。
「この壁の向こうに道がある!」
「え……?」
「見えたんだ! 手伝って!」
晶はバッと【鯨】を見上げた。
先程の攻撃を続けてくる気配はない。
冷却ビームは恐らく連続では撃てないのだ。
そう判断した晶は起き上がり地面を蹴る。
「どいて!」
「え?」
「破ッッ――!!」
勢いそのままに、晶は下段蹴りで壁を突き破った。
崩れた壁の向こうには、辰海の言ったとおり人間一人が通れる程の抜け道がある。
「え、すご……」
「早く中に!」
背後からパキパキパキと空気の凍る音が鳴る。
またあの冷却ビームが来てしまう。
晶は辰海の首根っこを掴んで壁の中へと放り込み、自分も飛び込んだ。
その直後にドンッという音が響き、崩れた壁に直撃した。
パリパリと冷気が石を伝って、壁の穴が半分氷で塞がれる。
「はあ、はあ」
「な、何がどうなってるんだよ……」
これであの冷却ビームからは逃れられるが、白い霧はまだ辰海を追いかけてきていた。
壁の穴からゆらりと白い霧が辰海に向かって伸びる。
「――ッ! 奥へ!」
ゆるい下り坂を転がり落ちるように二人は駆けた。
辰海がスマホで前を照らすのを見て、晶はハッとする。
「そうだ地上に連絡を――」
「無理だ電波がない!」
辰海の言うように晶のスマホも圏外になっていた。
険しい表情で晶はスマホのライトを点ける。
もしもこのまま一本道が続くと逃げ場がなくなってしまう。
白い霧は二人をずっと追尾してくる。捕まるのも時間の問題だ。
晶が思考していると、ふと先を行く辰海が立ち止まった。
まさか行き止まりかと青ざめる晶の前に、石の扉が現れた。
その見たことのあるデザインに、晶の胸に不安が押し寄せる。
「開けるよ!」
「あ、う、うん」
二人でなんとか力を合わせて重厚な扉を開ける。
そして白い霧が通過する前にバタンと扉を閉め切った。
「はー……これでもう追ってこないだろ」
扉に寄りかかる辰海とは対照的に、晶は呆然と立ち尽くしていた。
扉を開いた先――今晶達が居る場所は、見紛うことなく白い柱が建つ封印の場だった。
「どうしてここに……!?」
「うわっ何ここ?」
井戸の底に隠されるように存在した抜け道が、封印の場に続いていた。
晶はふらりと【蜂鳥】と対峙した部屋の前へと足を進める。
破られた扉から、煤で塗れた部屋の内部が見える。
つまりここは間違いなく、防空壕から続く封印の場と同一であるということだ。
「てことは地上に出られる!」
「えっほんと?」
「うん、あっちの道に――」
晶が防空壕へと続く抜け道を指し示した時、さあっとその場に冷気が走った。
「なっ」
空間全体を凍てつかせるような強大な力。
視界に落ちてくる白い霧。
封印の場の天井から白い霧が染み出し、一つにまとまる。
そして巨大な【鯨】の形になり、宙を泳ぎ出した。
それは井戸から地面を通り、この場まで辰海を追ってきたのだった。
晶の首筋を冷や汗が伝う。
【蜂鳥】も呪画の状態から炎になった。
【鯨】は自らを霧へと変化させることができるのだ。
【鯨】の体から無数の白い手が生える。
霧でてきたそれらは異様な速度でまっすぐに辰海に向かって伸びた。
「神崎くんッ!!」
晶が慌てて出した手は空を切り、辰海は白い手に喉元を掴まれ壁に叩きつけられた。
「がっ!?」
辰海は手足をバタつかせるが、霧でできた手を貫通するだけ。
きつく気道を狭められ、辰海は天を向いて口を開けてしまう。
「やめて!!」
晶の物理攻撃も霧相手ではなんのダメージも入らない。
【鯨】はゆっくりと頭を擡げ――
その白い巨体を一気に辰海の口に捩じ込んだ。
「ゔあ゛ああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「神崎くん――!!」
白い霧を飲まされながら、辰海の首には一段と濃い霧の帯が巻きついていた。
それを引き剥がそうとしているのだろう、首筋に何度も何度も爪を立てている。
遠目で見ても分かるほどに、辰海の首は赤く染まっていた。
「ぐッ――がはっ……あ゛! あ゛あ゛! あ゛あ゛あ゛ーーーー!!」
辰海の細い胴体が内側からボコボコと変形する。
なんとか辰海を助けようと晶は辰海の元へ駆け寄るが、辰海は壁の高い位置に縫いとめられているため届かない。
そうしているうちに、白い手は晶にも伸ばされる。
晶は襲いくる白い手をかわしながら、【鯨】に取り憑かれる辰海を見て、血が滲む程唇を噛んだ。
 




