もじゃもじゃな子猫
「もじゃもじゃ♪ もじゃもじゃ♪ も〜じゃもじゃ♪」
麻里ちゃんは、歌いながら猫のもじゃもじゃな毛をゆっくりとブラシでとかす。そうしないと、くるくるな毛がもつれて毛玉になってしまうのだ。
『にぁ〜お』
麻里ちゃんの膝の上には、半年前に小学校の帰りに拾ったマルが、少しでも毛を引っ張ったりしたらすぐに逃げ出そうと警戒しながら座っている。
どうにか今日のブラッシングタイムは終わった。ホッとしたのは麻里ちゃんもマルも一緒だ。
「マルちゃん、きれいになったよ」
ブラシを置いて、マルの毛並みを撫でる。
『ごろごろ〜』
今日は一度も毛を引っ張らずにブラシをかけ終えた。満足そうにマルは喉を鳴らす。
ここまで来るまで、麻里ちゃんとマルの間には厳しい試練の日々があったのだ。
✳︎
『にゃ〜』
小学校の帰り道、生垣の下で惨めな子猫が鳴いていた。
「わぁ、子猫だ!」
見つけたのは麻里ちゃんではなかった。何人かの小学生が先に子猫を見つけていたのだが、ちょっと抱き上げるのをためらっていた。
「捨て猫かな?」
「どうだろう? 迷い猫かも……」
麻里ちゃんがランドセルをかけ分けて、子猫をのぞきこむ。
「わぁ、何? このもじゃもじゃ!」
先に見つけた子ども達が抱き上げないのも無理はない。その子猫は、なんともみっともない姿だったのだ。
子猫というより毛玉。その上、午前中の雨で泥だらけ。
『みゃあ! みゃあ!』
必死に鳴いている顔は、鬼気迫っている。
「どろどろ、もじゃもじゃ! でも、このままじゃ死んじゃうよね」
麻里ちゃんは、ハンカチを出してもじゃもじゃな子猫を抱き上げた。子猫は泥だらけなので、制服が汚れたら嫌だったからだ。
「ねぇ、そんなの拾ったらお母さんに叱られない?」
一緒に帰っている実花ちゃんに心配されたが、安心したのか、もじゃもじゃの子猫はハンカチの中ですやすや寝ている。
「ううん、きっと叱られるだろうけど、もう拾ったものは仕方ないよ」
「そうだね! よく見たら、可愛い顔してるし」
必死の形相で鳴いていた時は、なんだか怖かったのだが、こうしてハンカチの中で寝ている子猫は可愛く思えた。
「子猫ってこんなに軽いんだね。それにあったかいよ」
お母さんが飼うことを認めてくれたら良いなぁと思いながら、家へと急ぐ。
「ダメよ! ダメ! 猫なんて飼っちゃダメです。それにお母さんも仕事を始めたばかりなのに、猫の世話なんかできないわよ」
やっぱりお母さんは猫を飼うのに反対した。麻里ちゃんが高学年になり、帰ってくるのも遅くなったので仕事を再開したのは知っている。
「でも、この猫を飼わないと死んじゃうよ。他の子はみんな拾うのを嫌がったんだもん」
麻里ちゃんのお母さんは、差し出されたハンカチの中のどろどろもじゃもじゃの小汚い子猫を見た。
「わぁ、見ちゃった!」
お母さんは、あまりにまじめな姿に驚いた。
「かわいそうでしょ! こんなにどろどろの子猫なんて誰も貰い手ないよ」
可愛いふわふわの子猫なら「元の場所に戻してきなさい!」と言えたけど、こんなの麻里ぐらいしか拾わないかもと、お母さんはため息をついた。
「仕方ないわねぇ。でも、猫の世話は麻里がするのよ」
「やったぁ!」と喜んだ麻里ちゃんだったが、それから大変な目にあった。
✳︎✳︎
拾った子猫をお母さんと麻里ちゃんは、町の動物病院に連れて行った。ノミがいたら困るとお母さんは考えたからだ。
「見事にどろどろもじゃもじゃだね」
診察台に置かれた子猫は、泥の塊だった。なんとなく、お母さんと麻里ちゃんは小さくなる。
「ううん、きっとこの子猫はセルカークレックスの血を引いていると思います」
「えっ、血統書付きなんですか?」
獣医さんの言葉にお母さんは驚いた。そんな上等な子猫には見えなかったからだ。どちらかというとみっともない子猫だと思っていた。
「多分、ミックスでしょう。でも、私もこんなにカールした毛は見たことないから、毎日ブラシッングしないと大変ですよ」
「麻里、毎日ブラッシングなんてできるの?」
麻里ちゃんは子猫を飼って貰えるなら何でもするつもりだった。
「もちろん!」
なんて言ったのを、すぐに後悔することになった。
✳︎✳︎✳︎
白と茶色の子猫は、どうやらセルカールクレックスという長毛種の血を引いていたようで、カールした毛がもつれないように、毎日ブラッシングしないといけないのだ。
「マルちゃん、ブラシしようね」
獣医さんのところで綺麗に洗ってもらった子猫は、もうどろどろではない。もじゃもじゃの茶色と白の毛玉になった。
麻里ちゃんは、お母さんとの約束通り、毎日マルのブラシッングをしようと思ったのだけど……
『シャー』
麻里ちゃんがブラシを持った途端、マルは毛を逆立て逃げ出す。
「マルちゃん!」
逃げるマルを捕まえて、無理やりブラシをかけると『ウウウ……』と唸りだし「痛い!!」と手を引っ掻かれた麻里ちゃんの叫び声があがる。
「麻里には無理なんじゃないの?」
どろどろでなくなった子猫は、そこそこ可愛い。お母さんは、これなら他の猫好きな家庭に飼って貰えるのではないないかと期待する。
「仕事先で猫好きな人がいるから聞いてみようかしら?」
「お母さん、私がちゃんとお世話するから!」
「本当に世話できるの?」
「する!」
麻里ちゃんは、お母さんがあまり猫が好きじゃないのに、マルを飼いだして気づいた。
「マルちゃ〜ん」
お父さんなんか、会社から帰った途端、マルを抱き上げて頬にすりすりしている。麻里ちゃんも同じだ。
学校から帰ったら、まずマルを抱っこしないと落ち着かない。でも、お母さんはマルと少し距離をおいて接している。マルのことは嫌いではなさそうだけど、猫が好きではないみたいだ。
だから、マルのご飯や、トイレの掃除は全て麻里ちゃんがしていた。よその家にマルをやるのは嫌だからだ。
「問題はブラシッシングだけなんだけど……」
麻里ちゃんの小さな手にはマルの引っ掻き傷だらけ。お母さんは、可哀想で見てられない。
「仕方ないわね。お母さんがしてあげるわ」
そう言ってブラシを持った途端『シャー』とマルは逃げてしまう。
「猫を飼ったことがないけど、こんなにブラシッングって必要なのかしら?」
お母さんは、逃げだしたマルを家中追いかけ回したけど、捕まえることはできなかった。
「獣医さんは、毎日ブラッシングしなきゃいけないと言ってたよ」
「そうだけど……麻里の手は引っ掻れてばかりじゃない。傷が残ったら困るでしょ」
たしかに、小学校で「何? 傷だらけね!」と友だちに言われるのは、嫌な気分だったし、近頃マルは麻里ちゃんを避けるようになったのもショックだった。
その晩、お父さんにブラッシング問題を相談してみる。
「なんだぁ、二人ともだらしないなぁ。こんなに可愛いマルちゃんにブラシもかけられないのか? お父さんがやってみよう!」
お父さんは子供の頃猫を飼っていたので、猫の扱いには慣れていると自信満々だったが、やはり『シャー』と逃げられた。
「ブラッシングは諦めよう。マルがブラシを見ただけで逃げ出してしまう」
「良いの?」
「良いさ。お父さんの子どもの頃はブラッシングなんてしなかったから」
お母さんと麻里ちゃんは、良いのかなぁと首を傾げたが、マルも嫌がるのでブラッシングは少しやめておくことにした。
****
マルはすくすく大きくなり、梅雨が終わり、夏になった。
『ボリボリ……ボリボリ』
麻里ちゃんは、近頃、マルが脚で身体をボリボリしているのが気になった。
「ねぇ、お母さん! マルちゃん、なんだか痒いみたいだけど、大丈夫なのかな? それに、毛がもつれて……あっ、脚の爪が毛に!! 血が出てる!!」
お母さんもマルを見てドキンとする。もつれた毛玉ごと引っこ抜いた皮膚からは血が出ていたし、他にも掻きむしった箇所が赤くなっていた。
「これは皮膚病かもしれないわ!」
慌ててキャットキャリーにマルを入れ、動物病院に連れて行く。
「夏だから、皮膚炎になっていますね。それに、毛玉がたくさんできています。毎日ブラッシングしていませんね」
麻里ちゃんとお母さんは、マルのブラシッングをサボったのを思い出し、しゅんとした。
「ちょうど夏だし、毛玉をカットしましょう。炎症の所には軟膏を塗って下さい」
麻里ちゃんも家族も長毛種の猫なんて飼った事が無かったから、ひどい毛玉だらけにしてしまい獣医さんにカットして貰うことになった。
「マルちゃん、ごめんね。こんな五分刈りになっちゃって」
地肌のピンク色が透けて見えるほど短く切られた毛をそっと撫でながら、麻里ちゃんはマルに謝った。
「先生、どうやったらマルが嫌がらないようにブラッシングできるんでしょう」
お母さんと麻里ちゃんは、二度と皮膚炎になんかさせないように気をつけようと決心した。
「猫は人の感情に敏感な生き物です。ブラッシングされるのを嫌がるのは、する人の緊張感を受けとったからではないでしょうか? それと、毛を引っ張られるのは痛いから、優しくしてやって下さい」
「そうか、マルが引っ掻くから私もビクビクしていた。そんなんだから、余計に怖がったのかも」
麻里ちゃんは、動物病院のお姉さんからブラッシングやり方を詳しく教えてもらった。
「私が髪をとかすようにブラッシングしちゃいけなかったんだね。もっと優しくしなきゃいけなかったんだ」
「そうね、猫の飼い方をもっと勉強しないといけないわ」
お母さんも、猫はそんなに好きではなかったが、これからはマルも家族なのだからもっと気をつけてあげようと思った。
*****
皮膚炎は飲み薬と軟膏で治ったが、ブラッシングはなかなか再開できなかった。やはり、ブラシを見るだけでマルは逃げだしてしまうからだ。
「今は超短毛だから良いけど、また伸びてきたら毛玉になっちゃうよ」
麻里ちゃんは、マルが寝ている時にそっとブラシを軽くかけてやるところから始めた。
膝の上で寝ていたマルは、ブラシを数回あてたら目を開けた。
『ニャオン?』薄眼を開けたマルを誤魔化したくなって、麻里ちゃんはでたらめな歌を聞かせる。
「もじゃもじゃ♪ もじゃもじゃ♪ も〜じゃもじゃ♪」
こんな変な歌だけど、何故かマルは気に入ったようだ。目をつむったマルに歌いながらブラシッング続けた。
この日から「もじゃもじゃ♪ もじゃもじゃ♪ も〜もじゃもじゃ♪」と歌いながら、そっとそっとマルの毛を引っ張ったりしないように、麻里ちゃんはブラッシングをしている。
冬毛になったマルは毎日ブラッシングしてもらっているお陰で、綺麗なカールした毛に覆われた中猫になった。
もう、どろどろもじゃもじゃの子猫ではないけど、やはり「もじゃもじゃ♪ もじゃもじゃ♪ も〜しゃもじゃ♪」の歌を聴きながらじゃないとブラッシングはさせないのだった。
近頃は、お父さんやお母さんも「もじゃもじゃ♪ もじゃもじゃ♪ も〜じゃもじゃもじゃ♪」と歌いながら、マルをブラッシングしている。
おしまい