幕間(エル)
「それまで私たちから離れよう、巻き込むまいとしていた弟が、最後に『私はまだ死にたくありません』と言ったんだ。『怖い、……助けて下さい、兄上。姉上』と。
そして弟は、私の腕の中で粉々に砕けて、塵になってしまったんだよ」
「まだ10歳でした。弟は」
「弟は、ニィルは、私たちが国を捨てた後も私たちを慕ってくれていた。父はその想いを、私たちを殺すための道具として利用したんだよ」
「エル」
姫巫女がエルに向き直る。
「あなたを脅かすつもりはありません。ただ……、そうですね。わたしたちは知って欲しかったのです」
「何をですか?姫巫女様」
姫巫女が微笑む。
「わたしたちの弟のことをですよ」
エルは思い出している。
マルと二人、姫巫女の私室で聞いた話だ。
”スフィアの娘”になりたいと望んだ娘を殺そうとした父王は、そのあと民に見捨てられ、王宮の一室に閉じ込められて死んだという。
「ごめんね、マル」とエルは隣を歩くマルに言った。
後悔しねぇな。とは、マルは聞かない。聞かなくてもエルの気持ちは判る。
「謝ることじゃねぇよ」
まったく謝ることじゃない。マルも納得していることだ。
歩きながらエルは自分の腕を見た。左の腕の内側。滑らかな白い肌に傷はひとつもない。しかし、エルはそこを切られたことがある。
”スフィアの娘”になってすぐ。
自分の母親に。
エルの母は外面のいい人だった。
それはエルと一心同体と言ってもいいマルに対しても変わらなかった。
「お邪魔致しますよ。戦神の護り人さま」
スフィア神殿から与えられたエルの屋敷にいきなり現れ、母は丁寧にエルとの面会を求めた。
親子だけあってエルの母とエルはよく似ていた。
しかし、エルによく似た灰色の瞳の奥には、慇懃な態度とは裏腹にマルに対する深い侮蔑があった。
「娘と二人で話したいのですが。戦神の護り人さま」
「できねぇよ。そんなこと」
「そうですか」
エルの母はあっさり引き下がると、マルに続いてリビングへと進んだ。椅子に座っていたエルが母の姿を認めて立ち上がる。
「お母さま」
「変わりはないようね。エル」
「お母さまも。
お父さまやお兄さま方も変わりはありませんか?」
「ええ」
笑顔のないまま母が頷く。
「”スフィアの娘”になることを、やはり諦めては貰えないのですか?」
「姫巫女様にも認めていただきました。わたしはもう、”スフィアの娘”ですよ。お母さま」
「まだ見習いだと聞いています」
「もう見習いです」
エルの短い答えに強い意志がある。
「そうですか」
エルの母の表情は変わらない。
「判りました。もう、あなたと会うことはないでしょう。最後に抱き締めさせていただいても?」
「ええ」
笑顔を浮かべ、エルが母に歩み寄る。母もエルに歩み寄り、どこに忍ばせていたか、ナイフを振り上げた。
家事などしたことのない人だ。
ナイフを握るのは初めてだろう。腰は座っておらず、思わず笑ってしまいそうなほど、動きが鈍くぎこちない。
エルは逃げることなく、母の目を見ていた。
いつもと少しも変わらない母の目を。
憎しみはない。愛情も。ためらいも。エルとよく似た灰色の瞳の奥には、頑ななプライドだけがある。
どんっと突き飛ばされ、よろめく。
視線を戻すと、マルの背中があった。
マルの肩から腕が生えている。左右それぞれ、2本ずつ。4本の腕が。
左肩から生えた腕のひとつがナイフを握っている。母がエルを切ろうとしたナイフだ。
『よかった。戦神様のお力を使えたのね。マル』
エルはまずそう思った。
母はマルの向こうに尻もちをついている。
母の表情はエルからは見えない。母を見下ろすマルの表情も。
「マル」
マルが長剣を抜いている。おそらく、母の喉元に突き付けている。まだ殺してはいない。剣を止めてくれている。
「わたしは大丈夫。だから、やめて」
「--エルに免じて、今日は許す」
まだ声変わりしていないマルの声が、冷たく響く。
「次はない」
マルが剣を引く。エルを背中に庇って後ろに下がる。
「判りました」
エルの母の声に揺らぎはない。立ち上がり、埃を払う。そしてエルを無視して、マルに視線を向けた。
「わたくしは娘を産まなかった。そう思うことにします。戦神の護り人さま」
自分をちらりとも見ることなく出て行く母を見送り、エルはナイフを握り締めたマルの手を取った。
「手、大丈夫?」
マルが手を開く。刀身を砕かれたナイフが手から落ちる。掌に血がついている。だが、マルの血ではない。
「お前こそ、大丈夫か。エル」
エルは自分の腕を見た。母に切られた感覚があった。しかし、血で汚れてはいたものの白い肌に傷はどこにもなかった。
「ええ。大丈夫。もう治ってる」
「傷じゃねぇよ」
エルはマルを見返した。これから大きくなるかもしれない。けれど今は、マルの顔はエルよりも下にある。
「あなた本当に12歳なの?」
「茶化すんじゃねぇ。本当に大丈夫か。エル」
「ええ」
エルは頷いた。
「大丈夫よ。だってわたしは、平気で子供を殺そうとするような人の、娘だもの」
母に切られそうになったと姫巫女に報告し、エルは「驚きました」と微笑んだ。姫巫女は短く沈黙した後、「怪我はなかったのですか?」とエルに問いかけた。
エルが「はい」と頷く。
「腕を切られましたが、スフィア様のご加護でもう治っています。そうそう」
エルが声を弾ませる。
「マルが戦神様のお力を使えたのですよ。ゴラン様」
「そうか。戦神様にお認め頂いたか、マル」
「はい」
ゴランとマルが視線を交わす。
「それでは失礼いたします」
エルが頭を下げ、マルが扉を開ける。先にマルが出て、エルが出るのを待ってから扉を閉じる。姫巫女の私室だ。大きな扉ではない。閉じる扉の隙間から、姫巫女とゴランが見えた。
なぜだろう、とエルは不思議に思った。なぜ、姫巫女様とゴラン様はわたしのことをずっと見つめているのだろう。まるでわたしを気遣って下さっているかのように。
わたしはぜんぜん、--大丈夫なのに。
同じ日、スフィア神殿から屋敷に戻ってすぐのことである。いつも通りの仏頂面でモモが訪ねてきた。
「ちょっと近くまで来たから寄ってみたのよ」とモモは言って、エルとたわいもないおしゃべりをした後、いつもなら帰る時間になって突然、「今日からしばらくここに泊めて」と言い出した。
「どうしたの。急に」
「急に泊まりたくなったの。いいでしょう?」
理由も判らず10日ほど泊まって、ある日の朝、マルの朝食を食べて「美味しい」と思わず呟いたエルを見て、「ありがとう。それじゃあ、あたしは帰るわ」と出て行った。
エルはポカンとするだけである。
「なんなのかしら」
マルも首を振った。
「判らねぇよ。オレにも」
もしかしたら、とエルが思い当たったのは、同じ日の夕食の時である。
「今日の夕食、いつもより美味しいわ。マル」と言ったエルに「そうか?オレは変わらねぇけどな」とマルが答え、エルは、「ああ。そうか」と声を上げた。
「なんだよ。何か判ったのかよ」
エルの口元が綻ぶ。
「わたし、ここしばらく食事を美味しいって感じていなかったかも知れないわ」
「あれからか?」
「ええ」
エルの顔が明るい。
「やっぱり大丈夫じゃなかったんだわ。わたし」
「他人事かよ」
もぐもぐと夕食を頬張り、「敵わねぇな」と、マルが言った。
エルも改めて食事に取りかかり、
「本当にね」
と笑顔で応じた。
後悔しねぇな。マルはエルにそう聞くことはしなかった。
しかし、エルの話を聞いた姫巫女は、「後悔はしないのですね」とエルに尋ねた。
姫巫女の私室である。
室内にいるのはエルとマル。それに姫巫女とゴランだけだ。
「はい」
エルが頷く。
「ゾマ市を離れることに迷いはありません」
”スフィアの娘”ではあるものの、エルはまだ見習いだ。修行の途中ということになる。見習いであるエルがゾマ市を離れるということは、修行を投げ出し、”スフィアの娘”を辞めるということに他ならない。
「モモが助けを求めています。わたしは、わたしにできることならどんなことでもあの子にしてあげたいと思っています。
今がその時なら、そうするまでです」
「そのモモさんが、お腹の子を堕ろせとご両親に責められている……」
「はい」
「ここで産むこともできますよ」
確かにスフィア神殿ならモモを守れるだろう。しかし。
「今後、北部トワ郡の騒動がどうなるか判りません。キャナがどう動くかも不明です。何よりあの子が、トワ郡を離れることを望んでいます」
形の良い姫巫女の眉が微かな疑念に曇った。彼女はモモのことを知っている。オセロのこともだ。二人とも直接会ったことはないが。理解はすぐに訪れ、微かな疑念は深い憂慮へと変わって、--誰にも気づかれることなく、--消えた。
「そうですか」
姫巫女は浅く頷き、
「どこへ行くのですか?」
と訊いた。
「マララ領にあるパロットの街へ行こうと考えています」
「確かにパロットの街であれば、キャナが海都クスルへ進むとしても道筋から外れているな」
口を挟んだのはゴランである。
「はい」
「誰か知り人はいるのですか」
エルが微笑む。
「友だちの友だちにはなりますが、ひとり、宿屋の子が。まずはその子を頼ってみるつもりです」
「マルはどうする?」
「オレも行きます。エルとモモの二人じゃあ、まともにメシ……あ、いえ、食事も作れませんから」
「戦神様のお力はもう使えぬ。判っているな?」
「はい」
「判りました」
姫巫女が頷く。
「あなたにはいずれ、わたくしの跡を継いでいただければと願っていましたが、ゾマ市を離れることを許しましょう」
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
エルが頭を下げる。
「謝る必要はありませんよ。あなたが選んだ道です。あなたの旅にスフィア様のご加護があるよう、祈っています」
最後に深々と頭を下げてエルとマルが出ていく。
「あにさま」
私室の扉が閉じられるとすぐに姫巫女はゴランに話しかけた。
「ん?」
「あの二人、お声を聞くと思いますか?」
ゴランが破顔する。
「聞くさ。決まっている」
「そうですね」
「マーヤ」
「なんでしょう。あにさま」
「何度経験しても、子が旅立つのは、嬉しくも辛いものだな」
「本当に」
エルとマルが出て行った扉を見つめたまま、姫巫女は寂しさの混じった笑みを浮かべて頷いた。
「あーあ。これでお役ご免か」
歩きながらマルが大きく伸びをする。
「あっけねぇなぁ」
そこでマルは、まだ自分が長剣を手にしていることに気づいた。
「そう言えばエル。この長剣、戦神様の護り人になった時にゴラン様にいただいたんだけどよ。
お返ししなくて良かったのか?」
「いいんじゃないかしら。もしお返ししないといけないのなら、さっきそうおっしゃったはずよ」
「それはよ。”スフィアの娘”を途中で辞めるって滅多にないことだから忘れてたんじゃねぇか?」
「そんなことあるかしら」
「それに……」
「なに?」
「何だか、まだ、クビになった気がしねえって言うか、お力が使えそうな気が……」
マルが足を止める。
エルもまた、マルの隣で足を止めた。
スフィア神殿はすでに後ろにある。二人の目の前にあるのはスフィア神殿の建つ島に架かる橋である。ゾマ市に流れて来たマルが姫巫女に拾われた橋だ。
突然立ち止まった二人の横を、神官や巫女、ゾマ市の市民たちが、訝し気に見つめながら通り過ぎていく。
「……聞いたか?エル」
囁き声で尋ねたマルに、エルは頷いた。聞いたというのは正確な言い方ではない。しかし、他に言いようがない。
エルはため息をついた。
「こういうことなのかしら」
「何が」
「カイトが言ってたでしょう?カイトが初めて、狂泉様の森に許可なく入った人がいるって森に教えられた時のこと」
「他に言いようがないって言ってた、アレか」
「ええ」
「なるほどな」
「そっか」
エルが声を弾ませる。
「これがそうか」
「良かったな。エル」
「ねえ、マル」
エルが止めていた足を動かす。
「なんだ?」
マルもすぐに続く。
「名前、どうする?」
「ああ」と頷いて「いいよ。マルで」とマルは答えた。
「本当に?」
深くマルが頷く。
「捨てるには惜しいぜ」
「そうね」
エルは軽く頷いて、
「改めてよろしくね、マル」
と華やかに笑った。




