14-10(ザワ州の亡命公子10(死の公女の森3))
木々が複雑に絡み、まるでトンネルのようになった参道の入り口で、「じゃ、オレはここで」と言ったのはマルである。
「おいおい。戦神様の護り人ともあろう者が、”スフィアの娘”を一人で行かせるのかよ。一緒に行こうぜ、マル」
「オレがついて行かなくてもアンタがいるし、そもそも西の公女様の森で”スフィアの娘”に手を出したら、公女様が黙ってるハズないだろ」
「オレを護ってくれよ、マル」
マルが鼻で笑う。
「必要ねぇだろ、アンタは」
「わたしがまだ見習いだからマルは行けないんです、クロさん」
「ん?」
「戦神の護り人になると一度死んだことになるのは、おっさんも知ってるだろ?エルが見習いの間は、オレはまだ半分死んでるんだ。
だから公女様の祠には近づけないのさ」
「向こう側に連れて行かれるかも知れないから--、ってことか?」
「エルを頼むぜ、おっさん」
「それはオレが頼むことだぜ。
エル、オレが公女様に連れてかれそうになったら助けてくれよ。オレはまだ死にたくねぇんだ」
「それはクロさんの心掛け次第ですね」
「だったら問題ねぇな」
マルの「何がだよ!」という叫び声を背中にクロが踏み込んだ森は、随分と暗かった。まっすぐ伸びた参道には木々の隙間から陽が差し込んでいる。しかし、両側の森はまるで暗幕を下ろしたかのように昏い。
「あー。あまり、否定的なコトは言わない方がいいかな。ここでは」
「陰気だとか?湿っぽいとか?」
「怖いもの知らずだな、エル」
「わたしにも怖いものはありますけど、わたしは『知っている』だけです。でも、クロさんは迂闊なことは口にしない方がいいですね」
「しゃあねぇ。黙ってるわ」
10分ほど歩いた辺りで陰鬱に響き始めた幾つもの鈴の音が、クロに祠が近いことを教えた。
左側の森が切れている。
流石に緊張して、クロは左へと、死へと顔を向けた。
ぽっかりと黒い穴が森の奥に開いていた。
西の公女の祠は、ひと抱えほどもある太い石柱を組み合わせただけのシンプルな造りだった。高さはクロの背よりも少し高いぐらいで、横幅も同じぐらいある。石柱は森の木々に幾重にも厚く囲まれ、石柱の間には何もなかった。
ただ、触ることさえできそうなほど重く淀んだ闇だけがある。
石柱へと続く両側の木々には、数えきれないほどの鈴が吊るされている。風もないのにその鈴が微かに揺れて、鈍く鳴っているのである。
鈴の音の中に沈み込んでいくように、エルが死の公女の祠へと足を進める。
『やれやれ』
クロも続き、鈴の音に包まれた。
ひやりと冷たく温度が下がるのが判る。ちりちりと毛が逆立ち、竦みそうになる足をどうにか前へと進める。
頭を垂れたエルの横に並んで頭を落とす。
何も考えることなくそのまましばらく祈り、祠に背中を向ける。
祠から滲み出た闇がクロを追う。無数の女の手となってクロに纏いつき、息を吹きかけ、冷たく笑う。
気のせいだとは判っている。しかしクロは、それが気のせいだと、振り返って確かめる気にはなれなかった。
参道へと戻ってふぅと息を吐き、
「さて。帰ろうぜ、エル」
とエルに声をかける。
「ごめんなさい、クロさん。クロさんだけ先に戻ってて下さい」
「はぁ?」
「私は参道を北まで行ってきますので」
「おいおい、死にたいのか?エル」
西の公女の参道に南から入り、北へ抜ける。それは死を望む者がすることだ。
楽な死ではない。
西の公女の参道を南から北に抜けた者は、深夜、何者かに喉笛を食い千切られ、苦しみ抜いて死ぬ。そう言い伝えられている。
「スフィア様の神官や巫女は、西の公女様にも奉仕していることはご存知ですか?」
灰色の瞳でクロを見上げてエルが問う。
「らしいな。だから、か?」
「はい」エルが頷く。
「わたしたちは西の公女様に奉仕していることを示すために参道を北まで抜けるんです。森からは出ませんけど、参道の北の端まで行って、もう一度ここまで戻ってきて公女様に祝歌を捧げてから、南へ戻るんです。
ですから先に戻ってて下さい、クロさん」
クロはため息を落とした。
「いいよ。ここで待ってるから行ってきな。マルにも頼まれたしな。そのうちカイトも来るだろうしよ」
エルが悪戯っぽく微笑む。
「良ければ、一緒に行きます?」
「冗談じゃねえ」
なるべく早く戻りますと笑ってエルが北へと歩き去るのを見送って、クロは大きく欠伸をした。
ヒマだねぇと思いながら、死の公女の祠へと続く参道の森が切れた辺りに何気なく目をやり、びくりっと動きを止める。
誰かがいる訳ではない。
クロが視線を向ける先には、昏い死の森以外何もない。
鈴の音が陰鬱に響く。
クロはそっと腰に下げた剣に手を添わせた。
剣が役に立たないことは判っている。判ってはいたが、クロは剣から手を離すことも、硬直したように立ち尽くして、視線を動かすこともできなかった。
弓に矢を番えたまま、カイトは待った。
待つことには慣れている。
周囲に現れた気配。よく似た気配をカイトは知っている。紫廟山で出会った狂泉の神使である銀色狼だ。
カイトは左へ視線を回した。
木々に塞がれていた筈の視界が、幕が引かれるように開けていた。
10mほど先に、一頭の赤犬がいた。
頭を低く落とし、カイトを下から睨み上げている。カイトに向けられたふたつの目は、深く穿たれた黒い穴でしかない。
牙を剥き出し、ぐるぐると不快げに唸りながら近づいてくる。
カイトは弓を上げない。
身体の向きだけをそっと変える。
カイトは知っている。
死の公女もまた、狂泉と同じように神使を従えている。それが赤犬の群れだ。
赤犬が止まる。ぽたぽたと涎を落とす。
死の公女の神使である赤犬は、鋼さえ溶かす酸の涎を吐く。カイトはそう聞いたことがある。しかし、赤犬の落とした涎はただ、地面に落ちて黒いしみとなった。
あれは間違った伝承だったのかな。
と、他人事のように思う。
赤犬が嗤った。
『そこ、気にするか?』
そう言われた気がした。
赤犬がカイトから視線を逸らす。
そのまま左手の木陰へと姿を消し、気配も消えた。
木々の影から風の音のような笑い声がいくつも響き、泡が弾けるように消えた。
カイトは弓を下ろした。
ホゥと短い吐息が漏れた。
森の中から微かに人の汗の臭いが近づいてきて、クロは参道の東側の暗がりを伺った。姿を現したのはカイトである。
「よお」
クロに声をかけられたカイトが安堵したように、クロには見えた。
「どうした。何かあったか?」
「西の公女様の神使に会った」
カイトの声にはまだ解け切らない緊張感がある。
クロは嗤った。
「そりゃ、災難だったなぁ」
カイトが首を振る。
「クロこそどうしたの?怖い顔して」
「えっ?ああ」
クロは剣から手を離した。カイトに気づかれないように汗ばんだ手のひらを服で拭い、肩の力を抜き、だらしなく笑って見せる。
「何でもねぇよ」
「そう」
カイトは周囲を見回した。
「ひとり?エルとマルは?」
「マルはまだ半人前だからここには来れねぇんだとよ。公女様に連れて行かれるかも知れねぇんだそうだ。
エルは、参道を北まで行って来るって……、ああ、戻ってきたな」
カイトが参道の北へと視線を向けると、昏い死の森にあってそこだけ陽の光が当たっているかのように明るく華やいだ人影が見えた。
エルだ。
「お待たせしました」
朗らかにエルが笑う。エルの長いブロンドが煌めき、生の気配が零れ落ちる。
「大丈夫だった?カイト」
「うん」
「よかった。じゃあ少しつき合ってくれる?公女様に祝歌を捧げるから」
「判った」
「オレももう一度、祈っとくわ」
エルを先頭に三人で死の公女の祠の前まで進む。さっきと違ってエルは両手を胸の前で組み合わせると、顔を上げ、澄んだ声で祝歌を静かに歌った。
エルの祝歌に乗って、木々に吊るされた鈴が軽やかに揺れる。陰鬱だった鈴の音が、明るく音を変えた。
呪にちけぇな。クロはそう思い、視線を背後へと送った。
カイトも釣られてクロの視線を追った。
誰もいない。クロの視線の先にあるのは、死の森の暗がりだけだ。しかしクロの視線は見えない誰かの姿を追うかのように動き、エルの脇を通ってそこで少しだけ止まり、死の公女の祠の闇に吸い込まれていった。
「クロ。どうかした?」
クロは首を振った。
「なんでもねぇよ」
「そう?」
エルが短く息を吐く。
ちりんと鈴が鳴って沈黙が落ちる。
「さて。とっとと帰ろうぜ」
「うん」
参道まで戻り、森の東、来るときに通ってきた暗がりへと顔を向け、カイトが小さく息を吐く。そっと腰に差したハルの山刀に手を添わせる。
足を踏み出そうとして、カイトはビクリッと動きを止めた。いつそこに現れたか、エルが横からカイトの顔を覗き込んでいた。
「なに、エル?」
「カイト、あなた、もしかして怖がっているの?」
訊いたエルの声に、妙な湿り気がある。
「えっ、そ、そんなこと……」
エルが自分の唇に細い指を這わせる。口元が綻び、灰色の瞳に怪しい光が宿る。
「可愛い--」
「!」
「とても可愛いわ、カイト」
「ご、ご、ごメン、先に行く!」
「あら」
躊躇うことなく死の森へと踏み込んでいったカイトの後姿を見送り、エルはクロを振り返った。
「わたし、何か悪いことしました?」
くっくっくっと低く嗤って、「さてな。いいからオレらもとっとと帰ろうぜ。マルが不貞腐れて先に帰っちまう前によ」とクロは答えた。