14-4(ザワ州の亡命公子4(エルとマルとモモと1))
クロは陽が落ちてもエルの家に戻って来なかった。「迷ってるのかな」と呟いたカイトに、「そんな訳ないだろ、あのおっさんが」とマルが答えた。
「犬だぜ?犬が迷うか?」
「ホントにおっさんなのかな。クロさん」とエル。
「そっち?エル」
「ねぇ、カイト。クロさんていくつなの?」
「えーと。いくつだろ」
「相棒の歳も知らねぇのかよ、カイト」
「気にしたことなかったもの。それに判りにくいよね。クロの歳って」
「ま、毛だらけだし、な」
「少なくとも後ろ脚が弱ってるってほどの歳じゃないわね」
「クロは犬じゃないってば。エル」
「じゃあ、ちょっと賭けをしない?」
「急に、なに?」
「クロさんの分の夕食。誰が食べるか」
「どんな賭けだ?」
育ち盛りのマルがすぐに乗った。夕食の支度はとっくに終わっている。もちろんクロを含めた4人分だ。
「クロさんの歳。一番近い歳を当てた人が夕食を食べる」
「それじゃあクロが帰ってくるまで正解が判らないから、誰も夕食を食べられないわ」
「それもそうだけどよ、そんなの賭けになる訳ねぇじゃねぇか」
「どうして?」
「あのおっさんが正直に答える訳ねぇだろ。オレたちの答えを聞いて、一番面白そうな歳を言うに決まってるじゃねぇか」
ああ、とカイトとエルは頷いた。
「言われてみればその通りね」
「だろ?」
「それじゃあどうしようか、クロさんの分」
「賭けはまだ始めてないけど、マルの勝ちでいいんじゃないかな。確かにマルの言う通り一番面白そうな歳を言いそうだもの、クロは」
「そうね」
「いいのか」
エルが笑う。
「尻尾があったらぶんぶん振ってそうね、マル」
「おお。幾らでも振って……」
そこでマルは、カイトが玄関へ顔を向けるのを見、僅かに遅れて彼自身も気づいた。「ちぇっ」と舌打ちする。
「エル」
不機嫌な声で言う。
「どうかした?」
ぶすっとしたままマルが答える。
「モモが来た」
「今度はどうしたの?」来客を出迎えに行ったエルの声が戻って来る。「訊くまでもねぇだろ、エル」とマルの声が後に続く。「どうせまた、あのバカ公子様のことでモメたんだろ」
「オセロさまのことをバカ公子様なんて言わないで、マル」
「はいはい」
「それに、いつもいつもオセロ様のことで……」
知らない声が途切れる。エルと並んでリビングに入って来た少女が、カイトの姿を認めて足を止める。
カイトやエルと同じ年頃の少女だ。
眉間に深い谷のような皺が寄っている。一見すると怒っているように見えたが、青く知的な瞳の奥に怒りはなかった。
「あら。お客さま?」
「まぁね」
エルがカイトに顔を向ける。
「カイト、この子はモモ。わたしの友だち。知恵の神の信徒で、会計士をしている子よ。モモ、この子はカイト。今日からうちに泊まってもらうことにしたの。見ての通り、狂泉様の森人よ」
「こんばんは、カイト」
モモが手を差し出す。
「よろしくね。あたしのことは、モモって呼んで」
「こんばんは、モモ。わたしはカイト。クル一族のカイト。こちらこそよろしく」
「なんだか似てるな、お前ら」
ふとマルが言った。
「えっ?」
カイトとモモが顔を見合わせる。
二人は髪の色も瞳の色も違う。体形も、均整の取れたカイトはいかにも敏捷そうで、小柄でなで肩のモモはあまり身体を動かすのが得意とは見えなかった。
「どこが似てるの?マル」
とモモが訊く。
「いつも難しい顔をしているところと、」
と、マルがモモを指さす。続けてカイトを指さし、
「不愛想なところ」
と言った。
「あまり笑わないところが、二人ともよく似てるぜ」
カイトとモモが再び顔を見合わせる。マルにからかわれているのだと判る。けれど、似ていると言われて怒るに怒れない。
「似てる?エル?」
助けを求めるようにモモがエルに訊く。
「言われてみれば似てるかな。でも不思議ね。知恵の神の信徒と、狂泉様の森人が似てるなんて」
明るく笑って、エルは話題を変えた。
「本当はカイトの他に、犬の獣人でクロって人も一緒に泊まってもらうことになってるんだけれど、まだ帰って来てないの。
ちょうど良かったわ、あなたが来てくれて。
晩ごはん、まだでしょう?」
「あ、うん」
「ちぇっ。せっかく二人分食べられると思ったのによ」
「ごめんね、マル」
ふんっ、とマルが鼻を鳴らす。
「ま、他でもないモモだからな。残念だけど譲ってやるよ」
マルの言葉を聞いて、モモの眉間に刻まれていた深い皺が、固い紐がほどけるように消えた。
「ありがとう、マル」
と、微笑んだモモは、とても幼く、可愛らしく見えた。
”スフィアの娘”になると、友だちはみんないなくなったわ、と、エルは夕食を取りながらさばさばした口調で言った。
「モモだけよ。ずっと友だちでいてくれたのは」
「仕方ねぇんじゃね?」
もぐもぐと口を動かしながらマルが言う。
「あら。どうして?」
「どうしてって、本気で訊いてるの?エル」
呆れたように言ったのはモモだ。
「もちろんじゃない。何かおかしい?」
「何かしたの?エル?スフィア様の娘になった時に」
事情の判らないカイトが訊く。
「”スフィアの娘”になるとすぐにね、エルったら、友だちの彼氏、みんなに”手ほどき”をしたのよ」
「……手ほどき」
エルが仕えるスフィア神は愛と美の女神であり、性愛と快楽も司っている。鈍いカイトでも、何の手ほどきかは訊かなくても判った。
「刺されなかっただけマシって思わねぇか?」とマル。
「それって、つまり」
カイトの脳裏に、カイトが射た獲物を、鼻歌を歌いながら肩に担いで歩き去っていくエルの姿が鮮明に浮かんだ。
「確かに、許せないかも」
「どうしてかしら。わたしはちょっと技術的なサポートをしただけよ。あの子たちがもっと深く愛し合えるようにね。
感謝はされても、恨まれる覚えはないわ」
「獲物を盗るのは森では大罪よ」
きっぱりとカイトが言う。
「わたしは獲物を盗ってはいないわよ、カイト。スフィア様は貞節も司っていらっしゃるのよ。そのわたしが人の恋人を盗ったりするはずないでしょう?
わたしは獲物の正しい捌き方を教えて、はい、と返しただけよ。
それの何がいけないの?」
「獲物に捌かれ方を教えた、の間違いだろ」とマル。「みんな、初めて捕まえたエモノは自分なりに捌きたいっていうのが人情じゃね?例え下手でもよ」
あなたホントは何歳?と思わず聞きたくなるようなことをマルが言う。
ふむ、とエルが顎に手を当てる。
「そうね。確かに楽しかったわ、初めての子って」
お日様のように明るいエルの笑顔に、カイトはぶるりっと身体を震わせた。恐ろしい子。カイトは心底、そう思った。
彼氏だけじゃなく、後で女の子の方にも手ほどきをしてあげたのよ。そうしたらみんな友だちに戻ってくれたわ、とエルは言った。
「オレはあの時、女に対する幻想は捨てたぜ」とは、当時まだ12歳だった筈のマルのセリフである。
マルがいったい何を(どんな地獄絵図を)見たのか気にならないでもないカイトだったが、
「マルもゾマ市の生まれなの?」
と尋ねた。
「いいや。オレはオム市の生まれさ」
「南部トワ郡にある街よ、オム市は。トワ郡の郡都。トワ郡の中心都市ね。海都クスルから派遣された郡主様の住んでる街よ」
横からエルが補足する。
「郡主って、ザカラって人?」
「よく知ってるな、カイト」
「ロクな人じゃないって森にいるときに聞いた。こっちに来てから、クロも同じことを言ってたわ」
マルが鼻を鳴らす。
「確かにロクなヤツじゃねぇよ。ザカラも、ヤツが連れて来た部下もな。オレはオム市でヤツの部下をぶっ殺して、ここに逃げて来たんだ」
「どうしてそんなことをしたの?」と訊いて、すぐにカイトは「話したくなければ別にいいわ」と続けた。
「少なくとも、狂泉様に恥じるようなことはしてねぇよ」
カイトは頷いた。
狂泉の名を口にしたということは、誰かの仇を取ったということだ。
「判った」
「別に逃げなくてもよかったんだけどな。
死ぬのは怖くなかったけど、捕まったらアイツらに殺されちまう。それだけはまっぴらだったんでとにかく逃げて、ここに辿り着いた。あの頃はオム市以外の街のことを何も知らなくて、ゾマ市のことも何も知らないままスフィア様の神殿の橋のところで倒れてたのを姫巫女様に拾われたんだ」
「で、姫巫女様に見込まれて、わたしの護り人になったのよね」
「どこをどう見込まれたのか、今でも判らねぇけどな」と頷いて、「あー、美味かった」とマルが湯呑に手を伸ばす。
「カイト、知ってるか?戦神様の護り人になると一度死んだことになるんだ」
「どういうこと?」
「戦神様の護り人になると、護り人になる以前のことはぜんぶ捨てるんだ。ぜんぶ捨てて戦神様の護り人として新しく生きるのさ。
その証しとして名前も捨てることになる。マルって名は、エルがつけたんだ」
「そうなんだ」
「名前を捨てることになったけどオレはちっとも気にしなかった。捨てて惜しい名前じゃなかったしな。
けど、ちょっとヒデェと思わねぇか。
マルって、エルが飼ってた猫の名前なんだぜ?」
「……猫?」
「そうよ」
エルが頷く。
「気性の荒い子でね。近所の犬に負けないどころか、逆に追いかけていくような子だったの。
この子にぴったりだと思わない?」
「ヒデェだろ?猫だぜ、猫。
エルはまだ見習いだけどよ、エルがちゃんと”スフィアの娘”になったら、オレは名前を変えることができるんだ。
その時には絶対、もっとカッコイイ名前に変えてやる」
「例えはどんな名前?」
「そうだな……」
とマルが呟いて、4人でいろいろな名前を挙げているうちに、モモがふと「ねえ、カイトってどう?」と言った。「え?わたし?」とカイトが驚いたように言って、マルが「そうだな、悪くないな」と応じた。
「けど、やっぱりそのままというのはなぁ」
「じゃあ、カイで」
と、エル。口調が軽い。
「カイか……」うーんと考え込むマルにどう言えばいいか判らず、背中がもぞもぞするなぁとカイトが思っているうちに「じっくり考えればいいわ、マル。まだしばらくは見習いだと思うから」と明るくエルが言って、食事は終わった。
エルとモモ、カイトの3人で後片付けをして、「あのおっさん、今日はもう帰ってこないだろう」とマルが戸締りをした。
「ウチにはお風呂もあるのよ。お客様なんだから、カイトが最初に入って」とエルに勧められ、カイトが浴室へと消えたリビングで、「ねぇ、エル。カイトって、もしかして、あの噂の子かな」と、モモがエルに尋ねた。
「そうかも知れない。そうじゃないかも。でも、どっちでもいいかな」
エルの答えはあっさりしている。
「うん……」
と、モモが天井を振り仰ぐ。そのまましばらく考えて、「ま、そうだね」と顔を戻してモモは頷いた。
浴室から戻って来ると、カイトは何も言わず椅子に座った。「どうかしたの、カイト」不審に思ってエルが訊く。
「……うん」
曖昧に頷いて、まだ少し迷ってから、カイトは腹を決めたようにモモを見た。
「ねえ、モモ」
「なに?」
警戒の混じった声でモモが問い返す。
カイトは言葉を選びながら、慎重に口を開いた。
「わたしね、こっちに来る前に、まだ森にいる時に、砦をひとつ、落としたの」
「えっ?」
「森の北の……、大平原の、平原王の砦。ひとりで、砦の兵士を全員殺したわ。多分、だけど」
「……」
「わたしが砦を落としたのはね、平原王の兵士に、わたしの一族の人たちや、父さまと母さまを、」
短くカイトが声を詰まらせる。
「殺されたからなの」
「……」
「人が死ぬってどういうことか、わたし、よく知ってるつもりだった。森では、狩りに出た人がそのまま戻らないってよくあることだし、でも、ぜんぜん違った。人が死ぬのがどんなに辛いことか、父さまと母さまを亡くして、初めて知ったの」
カイトが改めてモモを見返す。
青味を帯びた栗色の瞳が、モモの青い瞳の奥まで覗き込む。
「ねえ、モモ。
あなたは何をそんなに辛そうにしているの?あなたは、何をそんなに、苦しんでいるの?」




