1-3(狂泉の森の少女3)
クル一族の集落に帰り着いたカイトをまず出迎えてくれたのは、集落で飼っている犬たちだった。森から姿を現したカイトの臭いを確認して、彼らは小さく尻尾を振った。
「ただいま」
と、犬たちに声をかけ、家へと向かう。
集落に入ったと言っても、いきなり森が開けている訳ではない。狂泉の森に不慣れな者であれば、集落に入ったと気づくことさえないだろう。ただよく見れば辺りには下草がなく、人が辿ったと思われる道もあった。
ほどなく森に沈むように建てられた平屋の家が木々の隙間に見えた。
庭の畑に人影がある。母のサヤだ。
彼女に声をかけようとして、ふとカイトはためらった。
怒ってるかな--。
意識することなく足音を消して母に歩み寄る。
「母さま」
サヤが顔を上げる。彼女の手から籠が落ちた。
サヤは、彼女が14歳になった時の革ノ月を、集落からさほど離れていない森の中で過ごすことで切り抜けた。
気配を消すことに関しては多少の自信があったが、狩りの腕前はまだまだだったからである。水場近くにねぐらを確保し、獣の通り道に罠を仕掛けて獲物を狩った。サヤに限らず、多くの者はそうやって革ノ月を過ごす。
クル一族でサヤと同じ年に生まれた者は5人。
そのうちの一人は遂に革ノ月から戻らなかった。
5人の中で最も弓に優れていた子で、おそらく己の腕を過信し、集落から遠く離れて、森の奥へ踏み込んでいったのだろうと推測された。
死体が見つかることは--革ノ月から戻らなかった場合は大概そうだが--なかった。
『この子は、このまま帰って来ないかも知れない』と、カイトが革ノ月に出る際にサヤが思ったのは、カイトの腕が他の誰よりも優れていたからだ。
1ヶ月が過ぎるまで不安で眠れない日々が続いた。
1ヶ月が過ぎてもカイトは帰らず、絶望に沈んだサヤはふと思った。
『カイトが死んだのだとしたら、どうやって死んだのだろう--』
狼にでも襲われたか。
カイトの弓の腕は、10歳になる頃には一族の誰をも上回っていた。獣の足跡を追うのも得意で、気配を読むことにも優れている。
カイトが狼にやられるとは思えない。カイトならば狼が彼女に気づくよりも先に気づいて、狼をやり過ごすだろう。仮に--万にひとつの偶然で--不意を突かれたとしてもカイトならば逆に狩ってしまうはずだ。
カイトの俊敏さを、サヤは良く知っている。
人に襲われた?
同じことだ。誰が相手だろうとカイトがやられるとは思えない。
『あの子は生きてる』
サヤはそう確信した。
クル一族で狂泉の巫女を務める老女は彼女に言った。「あれはバカじゃからな。きっと森が楽しくて時間が経つのを忘れているのだろうよ」と。
あの子なら--と、サヤは納得し、夜も眠れるようになった。
だが、カイトが生きていると確信するのと、不安な想いに苛まれるのは別物だった。昨夜もサヤはカイトの夢を見た。
「ただいま」といつもと変わらない様子で娘は帰って来て、今まで何をしていたのと責めるサヤに、「ちょっと怪我をしちゃったの。でも狂泉様に助けられて、治療してもらってたのよ」と笑って答えた。
ああ、それなら良かったと思ったところで目が覚めた。
それがほんの、数時間前のことである。
だからサヤは、立ち尽くすカイトを見て、夢の続きを見ているのかとまず疑った。
「本当に、カイトなの?」
娘が頷く。
「うん」
「夢じゃなくて?」
カイトが笑う。
「夢じゃないよ、母さま」
「今朝の夢でも、あんたはそう言ったわ」
そこでカイトは、母親がひどくやつれていることに気づいた。頬はこけ、髪も手入れされているとは言い難く、顔色がひどく悪い。カイトが革ノ月に出てから、母の上だけを10年以上の歳月が通り過ぎたかのようだった。
罪悪感がずきりっとカイトの胸を刺す。
「……遅くなってごめんなさい」
「何をしていたの?」
母の問いに、カイトが視線を落とす。あっと、サヤは悟った。理由なんかないのだ。婆さまの言う通り。楽しくて時間が経つのを忘れていただけなのだ、この子は。
改めてカイトを見直すと、どこも怪我をしている様子はなく、薄汚れてはいたものの顔色も良かった。とても何ヶ月も森で過ごしてきたとは思えないほどだ。
ただ、出掛けた時に比べると髪が--随分と--短い。
心配していたことがばかばかしくなって、ふっとサヤは笑いを零した。あははと声を上げて笑う。
「いいわ。お小言は後にして、心配で心配で倒れてしまいそうなあんたの父さまに、あんたが帰ったことを教えてあげましょう」
サヤが家を振り返り、
「カタイ!」
と、家の中にいる筈の夫に声をかける。
「カイトが帰って来たわよ!」
「えっ!」という声が聞こえた。何かをひっくり返す大きな音が続き、「イテッ!」という声も聞こえた。
しばらくしてカイトの父のカタイが、無精ひげに覆われた顔に鷹揚な笑みを浮かべて扉を開けた。
「やあ。お帰り、カイト」
あまりにもあからさまに取り繕った彼の姿に、3ヶ月ぶりに再開した母娘は顔を見合わせ、笑い合った。
「まずは」
腰に手を当てて、サヤが言う。
「あんたが戻ったことを狂泉様に報告しなくちゃね」
カイトの眉間に不満げな皺が寄る。僅かな表情の変化だったが、それをサヤは見逃さなかった。
「あんたが婆さまを苦手にしているのは知ってるけど、ダメよ。カイト」
「明日でもいいんじゃないか、カイトも疲れているだろうし」
娘に助け舟を出したカタイを、サヤが睨む。
「革ノ月から戻ったらすぐに狂泉様に報告する。これがクル一族の決まり。あなたの一族はそうじゃないかも知れないけど。
さ、行くわよ」
歩き始めた母親の背中を見て諦めたようにカイトが続き、「やれやれ」とカタイも続いた。
森の外の国々と違って、狂泉の森に神殿組織はない。
狂泉の森に点在するそれぞれの一族毎に、一族の総意で選ばれた者が神官、もしくは巫女を務めるのである。神官や巫女になったからと言って彼らが猟師であることを止めることもない。
狂泉の森に、専任の神官、巫女はいないのである。
一族と言うが、狂泉の森で一族とは必ずしも血縁者の集団を意味しない。むしろ村と表現した方が近い。外から人が加わることも多く、かなり流動的な集団だった。
しかし血縁関係はなくとも同じ一族と名乗ることで、彼らは本当の血縁者以上に固いきずなで結ばれていた。
一族を代表する者を、一族の”水”と呼ぶ。
各一族の”水”に、権力と言えるものはあまりない。個々人の独立心が強すぎるのである。一族を代表する者を”水”と呼ぶのも、由来ははっきりとしないが、泉の神の信徒として一族の人々を等しく浸す、という意味だと言い伝えられていた。
現在のクル一族の”水”は、狂泉の巫女も兼ねる一人の老女である。クル一族の民人は彼女のことを、『巫女様』とではなく、親しみを込めて『婆さま』と呼んだ。
カイトは母親に追いつき、会話の糸口を探して、「婆さまって、いつから巫女を務めているの?」と、訊いた。
「んー。あたしが生まれる前からずっとだから、30年以上は務められているんじゃないかな」
足を止めることなくサヤが答える。
「……婆さまって、おいくつなの?」
「さあ。それは一族の誰も知らないと思うわよ」
「オレがクル一族に来た時からお変わりないよな。婆さまはずっと婆さまのまま、お元気なもんだ」
「カイト、婆さまにお歳なんか訊いちゃあ、ダメよ」
母親の声が明るい。青白かった顔にも赤味が戻り、ほっと安堵すると同時に嬉しくなって、これは逆に訊けということかと「どうしようかな」とカイトも明るく応じた。
巫女の家には10分ほどで着いた。平屋の小さな家である。
「婆さま!」
畑に老女の姿を認めてサヤが声をかける。今にも折れてしまいそうなほど細い人影が身体を起こす。しかし、一見すると枯木のようでありながら、老女の立ち姿には歳経た巨木のような力強さがあった。
「カイトが戻って来ました」
弾んだ声で報告するサヤに、老女は口の端を歪めた。
「ようやく戻って来おったか、バカ娘が」
張りのある声が返って来る。
「ご心配をおかけしました」
「誰が心配なぞするものか。お前らにも言ったじゃろう?そのバカ娘は森が楽しくて楽しくて、時間が経つのを忘れておるだけじゃろうと」
「はい。婆さまのおっしゃる通りでした」
老女は両親に挟まれて立つカイトをジロジロと見て、ふんと鼻を鳴らした。
「今日はたっぷりと叱られるが良い。お前のいない間、その二人は毎日、狂泉様の祠に足を運んで祈っておった。お前を心配しての。
判っておるか、カイト」
老女はいつもカイトを叱った。それ故だろう、老女の言葉に深く胸を突かれながら、カイトはどこかムッとした様子で頷いた。
「では、狂泉様に報告に行くかの」
老女を先頭に彼らが向かったのは、集落の南の外れにある狂泉の祠である。
クル一族に限らず狂泉の森では家と家の間が離れていることが多く、集落の中にあっても人と出会うことはあまりない。
この日も祠に着くまでに出会ったのはほんの数人である。
彼らはカイトたちと行き会うと、誰もが笑顔を浮かべてカタイとサヤ、それにカイトに声をかけてきた。
「やっと帰って来たか、カイト」
「おかえり」
「よかったな、カタイ、サヤ」
彼らの示してくれた好意が意外で、カイトは戸惑いながら曖昧に返事を返した。
「ああ、戻って来たのね、カイト」
そう言って歩み寄って来たのは、サヤの姉である。カイトからすれば伯母だ。伯母はカイトを優しく抱擁した後、サヤを固く抱きしめた。
「良かったわね、サヤ」
「ありがとう、姉さま」
サヤがそっと抱擁を返す。
「無事だったか、カイト」
二人を見守っていたカイトに、背後から声をかける者があった。知っている声だ。カイトは眉根を寄せて振り返った。カイトの視線の先、少し離れたところに細身の少年が立っていた。
カイトと同じ歳のフォンという名の少年である。
彼はカイトより少し遅れて革ノ月に出たはずだった。カイトが森の奥深くまで踏み込んでいる間に、先に戻って来たのだろう。
「あんたもね」
カイトは硬い声で彼に応じた。
少年が笑う。
「あまりご両親に心配をかけるなよ。でも、安心したよ。おかえり、カイト」
それだけ言って、少年は背中を向けた。
カイトは唖然として少年を見送った。
彼はいつも何かにつけてカイトに対抗心を燃やし、突っかかって来た。もちろんその度にカイトは悉く返り討ちにしていたが、今日もまた何か、革ノ月から戻るのが遅くなったことを揶揄してくるだろうと、臨戦態勢で身構えていたのである。
「カイト、どうかしたか?」
カタイに訊かれて、カイトは首を振った。
「あ、ううん。何でもない」
フォンの後姿に視線を送ってから、カイトは、歩き始めた巫女と母親を駆け足で追った。
『何だろう。みんなの様子が違う気がする……』
やがて道が切れて、木々のない開けた場所に出た。
あまり広くはないものの、クル一族の集落で唯一の広場である。
広場の奥に、高さ2mほどの柱が二本立てられていた。形もいびつで、森の木をそのまま伐り出して皮を剥いだだけの柱である。
柱の上には同じ太さの横木が載せられていた。2本の柱は僅かに内向きに傾けられ、全体としては台形の枠を形作っていた。枠の向こうには森しかない。
それが、祠のない狂泉の森の祠だった。
祠に向かって老女が頭を垂れる。
老女の後ろで、カイトを挟んで立ったサヤとカタイも老女に倣う。カイトは老女よりもむしろ両親に倣って頭を下げた。
狂泉の森に儀式らしい儀式はない。
何かを狂泉に捧げるということもない。狂泉の森では全てが狂泉の所有物であり、狂泉から貰ったものをただ返すことに意味はないからである。
「狂泉様。カイトが貴女様の試練から戻って参りました。貴女のしもべたる守り人がひとり、新たに我らに加わったことをご報告いたします」
低く、短く、独特な抑揚をつけて老女が呟く。
儀式はそれで終わりである。
老女が振り返ると、カタイとサヤはまだ深く頭を垂れており、カイトひとりが顔を上げ、両親の様子を見て慌てて頭を下げた。
まずカタイが顔を上げ、サヤが続く。
「もういいわよ、カイト」
サヤが娘に囁くのを見て、老女は密かに笑みを漏らした。
「さてカイト。これでお前も森人のひとりとなった。これからは森人として、守り人として、己が義務をしっかりと果たせよ」
「うん」と頷いたカイトを、「はい、でしょう」とサヤが叱る。
「カイト」
老女がカイトに声をかける。
「なに?婆さま」
また小言を言われるかと、硬い声でカイトは応じた。
「よく、無事に戻ったの」
優しい笑みを浮かべて老女が言う。
森から、狂泉の祠から、ざっと音を立てて風が吹いた。
あ。
「それではな。今日はカイトをゆっくり休ませてやれ」
立ち去る老女に、「ありがとうございました、婆さま」と、カタイとサヤが頭を下げる。
「さ、帰りましょう」
そう言って歩き始めた両親の後にカイトも続いた。
「父さま」
「うん?」
カタイが振り返ると、カイトは顔を空に向けて、夢を見ているような頼りない足取りで歩いていた。娘が躓いてもすぐに支えられるようにと、カタイは--それと考えるよりも早く--足を止めた。
「なんだか足元がふわふわするの。それに、空が--」
「空が、なんだい?」
カイトが見つめる先、絵具で塗ったような濃い青空を背景に、色のない雲が次々と流れていく。
「妙に、広い--」
わたしは自由だ。
何の脈絡もなく、カイトはそう思った。