幕間(フォン)
長剣が男の腹を貫くのを見て、フォンは叫ぶのを止めた。後ろ手に縛られた手首の皮が裂けるほど暴れていたが、それも止めた。
堅く縛められたフォンの手に指はない。
すべて切り落とされ、撒き餌として森に撒かれた。
長剣で腹を貫かれたのは、指が撒かれるのと同時に真っ先に森を飛び出した森人だ。
倒れた男の背中を、さらに何本もの長剣が貫く。
「どうした」
彼の傍らに立った平原王の兵士が訊く。
フォンは身体を起こした。低い笑い声が洩れる。空が青いな。と思う。こんなに広い空を見るのは初めてだ。
カイトは見たことがあるだろうか。森の外の空を。
「狂ったか?」
尋ねた兵士にフォンは首を捩じって顔を向けた。
「森で死ねないのは残念だけど--」
叫び過ぎて潰れた喉から声を絞り出す。
「ここで見届けてやるよ」
「何を?」
「カイトが、お前たち全員を殺すのを、な」
血走った眼で兵士を睨み据えて、フォンはそう言った。
カイト。と、フォンは胸のうちで幼馴染の少女に話しかけた。
父上を死なせちまったよ。
お前の父上を。
オレのせいで。
オレが捕まったせいで。
ゴメンな、カイト。
オレも死ぬ。
だから許してくれ、とは言わないけど、オレも死ぬ。
だけど。
どうせなら言えばよかった。
お前に。好きだって。
もし言ってたら、お前は何て答えたかな。
ひとり、胸のうちで笑う。ぶん殴られるか、投げ飛ばされてたかも知れないな、と思って。
いつからだろう。
お前から目が離せなくなったのは。
気がついたら、いつもお前の姿ばかり追ってた。
お前が革ノ月からなかなか戻らなくて、心配で心配で、戻ったら好きだって言おうと決めてたのに。無事に戻ったって聞いて、慌てて会いに行ったのに。
まさか酔林国へ行っちまうなんて。
馬鹿カイト。
カイト。
お前はいつでもかっこ良かった。
憧れてた。
ずっと。好きになる前から。
なのに、なのに--。
「フォン!」
良く知っている女の声が、フォンを現実に引き戻した。母が、無防備に立ち上がって彼の名を叫んでいた。
凍ったはずの心臓がせり上がって喉を詰まらせる。
フォンは苦し気に顔を歪め、あえぎ、視線だけを周囲に巡らせた。森人としての知識と経験が、彼に教えた。母上は囮だ。本命はどこかに--いた。
姿は見えない。
だがいる。
そこに、クル一族の巫女である老女が。姿は見えないが、そこにいるはずだとフォンは信じた。
フォンは安堵した。
婆さまなら間違いない。きっちり殺してくれる。
視界の隅で母が槍に貫かれる。
己の胸を貫かれたような痛みと絶望に打ちのめされながら、フォンは草むらから矢が放たれるのを見た。
あれ。と、思う。
狙いが逸れてる。
これじゃあ死ねない。
婆さま、どうしたんだよ。
まさか涙で手元が狂ったか?
飛んでくる矢がはっきりと見える。まるで誰かが手で持って走っているかのように。
ほら、ダメだ。
これじゃあ、左の脇腹に突き刺さって終わりだ。
痛いだけだよ、婆さま。
ほらな、と思った時、フォンは別の矢が自分の胸に滑り込むのを感じた。どこからか、地を這うように飛んで来た矢が、彼の心臓を正確に射抜いたのである。
フォンは視線を回し、自分を誰が殺したか、知った。
さっき長剣でめった突きにされた森人。倒れているのは同じだが、さっきと違って両手が前にある。
前に突き出された左手が、強い意志を持って弓を握り絞めている。
もう息絶えているのだろう、ぴくりともしない。
笑みがフォンの口元に浮かぶ。
『……さすが、カイトの親父さん……』
満足な想いが黒い帳となって降りてきて、フォンの視界を暗く覆い尽くした。
***
ひとつの言葉が頭の中でぐるぐると回って、彼は眠れなかった。聞いたのは昨日の昼間のことだ。
「カイトがお前たちを殺す」
人質にした森人の少年が言ったのである。
人の名か?と思う。
彼がいるのは狂泉の森の近くに築いた砦の中だ。カイトというのが何者だろうと、ここにいる限り安全だ。絶対に安全だ、と思いながら、しかし不安は消えなかった。
カイト、カイトと思いながら、いつの間にか眠っていたのだろう、「火事だ!」という声で彼は目を覚ました。
「なんだ、これは」
兵舎から転がり出た彼は呆然と呟いた。砦の中はすでに火の海だった。しかもよく見ると燃える兵舎の間に人が倒れていた。幾人も。折り重なるように。
平原王の軍に入って8年が経つ。
幾度となく従軍し、死体は見慣れている。
「……火事じゃない。これは」
少年の声が脳裡で閃く。
『カイトがお前たちを殺す』『カイトがお前たちを』『カイトが』
「て、てき……!」
矢がどこから飛んで来たか、彼には判らなかった。自分がいつ倒れたのかも判らなかった。気がついた時には喉を射抜かれて倒れていた。
ごろりと首が横を向く。
瞬きもできずに向けた視線の先に、彼は少年の姿を見た。燃え盛る炎の中に立ち、哄笑する森人の少年の姿を。
少年の手に指はない。
笑い続ける少年の、大きく見開いた瞳に笑いはない。
誰かがガッと彼の体を踏む。喉に刺さった矢が乱暴に引き抜かれる。姿は見えず、走り去っていく足音すら聞こえない。
『カイトがお前たちを殺す』『カイトがお前たちを』『カイトが』
生気を失った兵士の瞳に、炎の中に立つ少年が映る。
少年はもう嗤っていなかった。
どこか遠くを、走り去っていく誰かをただじっと見守っていた。少年の身体に炎が纏いついていた。龍だ。と彼は思った。炎が幾匹もの小さな龍となって、少年の身体の上で踊っているかのようだ、と。
燃え上がっていた兵舎が崩れる。そこへ物見櫓が倒れ掛かり、兵士を飲み込み、少年をも飲み込んで、一層高く炎を巻き上げた。
矢が飛び続ける。
平原王の兵士を殺す矢が。
どこにも届かない矢が。迷いもなく。