1-1(狂泉の森の少女1)
空腹のあまり、彼は今にも倒れそうだった。
傍らには群れから一緒に離れた仲間がいる。同じ頃に生まれ、母は違うが兄弟も同然に育った仲間だ。だが、三頭ともに狩りは不慣れで、彼らはもう何日も水以外口にしていなかった。
獲物に最初に気づいたのは、彼である。
いつもであれば避けるべき種類の臭いだった。しかし、耐え難い空腹が彼に臭いの元を入念に探らせ、彼は臭いの元がまだ若い個体だと悟った。しかも、と、耳をピクピクと動かして辺りを探る。
彼らの天敵とでも言うべき成熟した個体の気配は、どこにもなかった。
ハルはふと、獣の気配に気づいて弓に矢を番えて振り返った。
ハルが振り返った先、30mほど離れた木々の間に、一頭の狼がいた。
まだ若い。おそらく群れから離れたばかり。とても腹を空かせている--。そうしたことを彼女は考えるよりも先に読み取り、同時にゾクリと背筋に悪寒を感じた。
葉をこする微かな音がふたつ。
しかも、近い。
あいつは、囮だ。
言葉にするよりも早くそう悟り、ハルは音の方向に向けて素早く矢を放った。
ぎゃんという悲鳴が、少し離れた茂みの奥から上がる。しかしそれとは反対の方向から襲って来た別の狼に矢を放つことは、彼女にはできなかった。2本目の矢に手を伸ばしながら、彼女は狼の大きく開いた口を見て、死を覚悟した。
ヒュッと、短い矢の音を彼女は聞いた。
まさに彼女に喰らい付こうとしていた若い狼の身体が、まるで何かに弾かれたように軌道を変えて、彼女の顔を掠めてどさりと落ちた。
彼女が聞いた音はひとつだけ。
しかしハルは、倒れた狼の身体に矢が三本、打ち込まれているのを見た。しかもその内の一本は正確に狼の頭部を貫いており、若い狼は既に絶命していた。
「大丈夫?」
いつそこに現れたのか、若い声が森に響いた。
彼女が振り返ると、彼女と歳の変わらない、--と、ここでハルは混乱した。声を聞いた時には女と思ったが、彼女の傍らに矢を番えて立った人物は髪を短く切っており、どう見ても少年としか思えなかったからである。
でも、女……よね。
と、少女の視線を追うと、囮となっていた若い狼がこちらを見つめていた。
狼が視線を逸らし、木々の間に姿を消す。
見知らぬ少女はしばらくそちらを見つめた後、弓を別の方向に向けた。矢の刺さった狼が、よたよたと足を縺れさせながら彼らから逃れようとしていた。
少女が弓を下ろす。
逃げる狼の先に、囮になっていた狼が仲間を待つように姿を現し、2頭の狼は、お互いをかばい合う様に後ろを振り返ることなく森の奥へと姿を消した。
ハルは大きな息を吐いた。少女を振り返り、「ありがとう」と、声をかける。
「あたしは、ハル。オルガ一族のハル。……あんたは、誰?」
少女が振り返り、泉のように静かな瞳で彼女を見た。
「わたしはカイト。クル一族のカイト」
「クル一族!?」
ハルは思わず声を上げた。彼らの集落は遠い。
「あんた、革ノ月の最中よね?」
ハルの一族に限らず、狂泉の森にある多くの集落では、14才になれば性別に関わりなく集落を出て、狂泉の森で1ヶ月をたった一人で過ごす「革ノ月」と呼ばれる通過儀礼が行われていた。カイトはハルとたいして歳が変わらないように見えた。彼女もおそらく、ハルと同じように革ノ月の最中だろうとハルは推測していた。
だが、通過儀礼として過ごすには、カイトはあまりにも彼ら一族の集落から離れ過ぎていた。
「うん」
「なにしてんのよ、こんなとこで!」
カイトが視線を逸らす。あ、恥ずかしがってる。と、ハルは思った。
少しためらってからカイトは小さな声で答えた。
「……楽しくて、気がついたら、ここに」
ハルはあっけに取られた。
「楽しくて、ですって?」
改めて、彼女はカイトに尋ねた。
「あんた、集落を出てから、どれぐらい経つの?」
「はっきりとは判らない。多分、2ヶ月は経ったと思う。ただそれにしては森の様子が……、悪いけど、今、何月か、教えてくれない?」
ハルが教えてやると、カイトは困ったように唸った。
「集落を出てから3ヶ月も経ってる。母さまが心配している」
ハルは吹き出し、声を上げて笑い始めた。
通過儀礼のために森に入った者が、集落に帰る日を忘れることはまずあり得ない。この日のためにと準備をしてはいても、初めて一人で過ごす森はとてつもなく心細いものだ。場合によっては、そのまま帰らない者も決して珍しくはないのだから当然だろう。
ハルにしても同じだ。
森を怖いとは思わなかったが、楽しいとは、流石に思わなかった。それも、時間が経つのも忘れるほどに楽しいなどとは。
「変な子ねぇ!」
涙を拭きながらハルはそう言った。
「ねぇ。それじゃあ、もう少しだけ集落に帰るのを遅らせてもらっていい?」
「なぜ?」
ハルは自分の才に自信があった。
だから、通過儀礼では本来踏み込むことのないこんな森の奥まで来たのだ。自分の才を一族のみんなに--誰よりも母に--証明するために。そして、あやうく死ぬところだった。もし、たまたまカイトが来なければ。
カイトの技量がとても彼女の及ばないレベルにあるのは明らかで、その事実が、ハルの心を柔らかく溶かしていた。
ハルはカイトに笑顔を向けた。
「あたしを、オルガの集落の近くまで送ってってもらいたいから」