9(行って来る)
カイトは、椅子の背もたれに掛けてあった上衣を手に取り、丁寧に畳んで自分のベッドに置いた。
父への土産として買ってきた木綿の上衣である。
次にカイトは、椅子の座面に置いた螺鈿細工の櫛を取った。
「母さまに買ってきたの。伯母さまが使って」
数日前にカイトはそう言って螺鈿細工の櫛を伯母に渡した。しかし、伯母はすぐに首を振り、カイトの手を取ると、カイトに渡された櫛をそっと置いた。
「これはあなたがサヤのために買ってきたのよね?」
「うん」
「だったらこれはもうサヤの物で、サヤの物はあなたの物だわ。だからカイト、これはあなたが使いなさい。
その方がサヤも喜ぶと思う」
カイトが手元に視線を落とす。彼女の手のひらには螺鈿細工の櫛があり、伯母はカイトの手を櫛ごと包むように両手で握っていた。
「カイト」
カイトは顔を上げた。
「なに?伯母さま」
「必ず帰って来てね」
酔林国に旅立った時に、伸び上がるようにして手を振っていた母の姿が鮮やかに思い出された。
カイトはもう一度手元に視線を落としてから伯母を見返した。
伯母の笑みの裏にある不安が、今なら良く判る。しかし伯母ももう、止めるつもりはないのだと、それも判る。
カイトは伯母の手に自分の手を重ねた。「うん」と、僅かばかりの嘘が潜んでいることを自覚しながら、カイトは「約束する」と頷いた。
伯母が返してくれた櫛を、カイトは畳んだ上衣の上に置いた。
元々母と父が使っていた櫛と上衣は、ベッドの脇に据えた椅子にそのまま残した。
誰もいない部屋に、
「行ってきます」
と声をかけて、カイトは寝室の扉を閉じた。
平原王とのいくさからすでに2ヶ月が経っている。朝が早いからだろう、家の外はまだ薄暗く、静かだった。
集まっていた他の一族の人々も去り、ライとエトーも酔林国に帰った。
イズイィたち武装魔術団は洲国へと旅立った。
プリンスとハルがどこにいるかは、カイトも知らない。
「あたしたち、駆け落ちするわ」
夜遅くカイトを訪ねてきたハルは、カイトにそう宣言した。仕方なさそうに苦笑を浮かべたプリンスも一緒である。
「ボクは反対したんだけどね」
「父さまがうんと言うのを待ってたら、あたし、おばあちゃんになっちゃうもの」
プリンスと付き合うことを、ハルの父が認めないのである。
「『ハルと付き合いたければ、オレを倒してからにしろ』って父さまが言うから」
「手加減するのも失礼だしね」
何度やってもバダはプリンスに勝てなかった。組んだ、と思ったら終わりである。ころりころりと何度も転がされて、それでもバダは二人が付き合うことを認めなかった。
「あんた、いい加減にしな」とルゥにきつく言われて、バダは「ハルは誰にもやらん!」とほとんど泣き顔で叫んだ。
そこでハルがキレた。
「母さまには駆け落ちするって断ってきた。そうしたら『好きにしな』って」
「母親公認で、駆け落ちって言うのかな」
「ハルちゃんの父上が頭を冷やすまで、しばらくは身を隠せってことだよ。ルゥさんに断っておかないと、追いかけてきちゃうからね。父上が」
「ああ。そうか」
「そういう訳で、あんたが森を出るのを見送れないわ。ごめんね」
「ううん」
「カイトちゃん」
「なに?」
「外は森とはずいぶん違うから気をつけてね。法律なんてものもあるし、理由もなく人を殺したり傷つけたりしたら罰せられるから。
でも、前にも言ったけど、カイトちゃんは森人だから。
どうしても上手くいかなかったら、帰ってくればいい。それを忘れないで」
「判った。ありがとう、プリンス」
「それじゃあね、カイト。また会いましょう」
そう言って、ハルとプリンスはクル一族の集落を後にした。平原王とのいくさが終わって、すぐのことである。
カイトは南へと、クスルクスル王国へ向けて、クル一族の集落を後にした。
彼女の探し人の名が、”フウ”だということは判っている。平原王とのいくさで集まった森人の中に、知っている人がいたのである。ずいぶんと目に力のある母娘だったよ、とその人は教えてくれた。
だが判っているのはそれだけだ。
クスルクスル王国には13の郡があるという。フウがいるというトワ郡はそのうちの一つで、ルゥはトワ郡の人口を「100万はいないね」と言った。多くはないという意味だろう。だが、カイトにとっては気の遠くなりそうな数字だった。
長い旅になるかも知れない、とカイトは思ったが、荷物は少ない。
腰にはハルと交換した山刀、そして矢筒の中にはニーナとロロと交換した矢がある。たったそれだけのことで、わたしは独りじゃないとカイトは思えた。
狂泉の森をしばらく歩いて、辺りに誰の気配もないことを確かめてから、カイトは足を止めた。
矢筒には、ニーナとロロの矢の他に、もう一本、カイトの物ではない矢がある。
「これ」
と、矢をカイトに差し出したのは、フォンの姉だ。
「あの子が使ってた矢。良ければ持って行って」
「フォンの……?」
「うちに一本だけ残ってたの。お守り代わりに、って言いたいところだけど、あの子の腕じゃあ気休め程度にしかならないだろうけど」
「そうだね」
「正直すぎるよ。カイト」
怒ったように言ってからフォンの姉が笑い、カイトも笑った。
カイトは矢筒から自分の矢を抜いた。
友情の証しとして矢を貰えば、同じく矢を返すのが習いである。
『行って来る。フォン』
胸のうちでそう呟いて、空へとカイトが放った矢は、遠く、高く、どこまでも飛んでいった。