8-4(平原王とのいくさ4)
平原王の軍が去り、狂泉の森人たちが森に戻って、戦場には数え切れないほどの攻城櫓が残された。
深夜である。
死体は埋葬するために運び去られ、幾重にも踏み荒らされた戦場に人の姿はどこにもない。
そこへ、黒い影がひとつ、忍び歩いてきた。
夜気に湿った風を供のように従えた、一頭の黒豹である。
ただの黒豹ではない。
狭い額に、縦に開いた第三の目がある。
黒豹は長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら大地に鼻を這わせて臭いをかぐと、ごろりと横になった。
そのまま、満足そうに体を地面にこすりつける。
「楽しそうじゃの、平原」
黒豹はしなやかな動作で頭を持ち上げ、声の主を見た。
「主もであろう?狂泉」
動物と狩猟の神である黒豹--平原公主は、琥珀色の瞳で声の主を見つめたまま、声を発した。
平原公主の視線の先に一人の女がいた。
口元に薄く笑みを浮かべ、ひたと平原公主を見つめている。
女にしては肩幅が随分と広い。
背中に落とした藍色の長い髪は足元まで届き、豊かな胸は大きくはだけられていた。長衣は裂けて両の腿をすっかり晒し、草を踏む足は裸足だ。ふたつの大きな瞳は青く透き通り、風に揺れる水面のように静かに波打っていた。
泉の神、狂泉である。
二柱の神の下に薄い影があった。
狂泉は平原公主に歩み寄ると、彼女の傍らに腰を下ろした。
「悔しいが今回は、わらわの負けじゃ」
平原公主が狂泉に親しげに声をかける。
「信徒の工夫が足りなかったのぅ、平原」
低く太い声で狂泉が楽しげに言う。
互いに狩猟を守護する二柱の女神は、実体化した生身の身体を楽しむように、大気を震わせて声としていた。
「工夫が足りなかったとは酷いのう。反則じゃろう、あの娘は。のう、フラン。そうは思わぬか?」
「そうね」
人気のない戦場に、二柱の女神とは別の声が響いた。
狂泉の影からだ。
影が盛り上がり、そのまま厚みを増して、人の姿へと変わる。滑るようにするりと影が落ちて、後には、魔術師の黒いローブを纏い、フードを背中に落とした10代半ばの少女が残った。
「でも、戦巫女ではないのでしょう?狂泉」
しっとりとした笑みを狂泉に向けて、少女が訊く。
赤い髪が夜目にも鮮やかだ。
「もちろんじゃ」
「だったらいいんじゃないかしら」
「フランもこう言っておる。諦めよ、平原。いくさはもう終わりじゃ。まずは呑もうぞ。いい酒があるからの」
狂泉が軽く左手を振る。と見えた時には、酒袋が彼女の手の内にあった。
「ほれ、フラン」
差し出した狂泉の右手に湯呑がある。
「お前の弟子の造った酒じゃ」
「神ともあろう者が泥棒の真似事?狂泉」
湯呑を受け取りながらからかうように少女が、フランが言う。
「嫌なら呑まなくともいいんじゃぞ」
「ありがたく頂くわ。うさぎくんのお酒は久しぶりだから、楽しみだわ」
「うさぎくんとは、誰のことじゃ?」
平原公主が訝し気に訊く。
「フランの弟子じゃ。ショナの生まれでの。今は我が森で酒を造っておる」
「20年ぐらい前にあたしが連れてきた子よ。飛竜に乗せてね。憶えてない?子猫ちゃん」
「おお。あいつか」
平原公主が声を上げる。
「わらわを見て悲鳴をあげよった、あの失礼な小僧か」
「飛んでいる飛竜の横にいきなりあなたが現れたら、誰だって驚くわ」
「それが狙いだったんじゃろう?」と、狂泉。
「もちろん」と、にこやかに笑ってフラン。
「それで、なぜ、”うさぎくん”なんじゃ?」
「あの子を弟子にした時にね、あたしのもうひとつの名前を教えてあげたの。そうしたら彼、歯の根も合わないくらいがたがた震えだしてね、それが可愛くて、だから、うさぎくん。
素直な、とっても良い子よ」
「お前に気に入られるとは。気の毒なヤツじゃ」
「まったくの。挙句の果てにデアからこんなところまで連れて来られて、酒まで造らされておる」
「あら。あたしが無理強いしたみたいに言われるのは心外だわ」
そう言いながらフランは狂泉の注いだ酒をひとくち含み、味を確かめてから喉に落とした。ほうっと満足そうに微笑む。
「また腕を上げたわね。うさぎくん」
「本当じゃ。これは旨い」
平原公主の前にもいつの間にか酒の注がれた皿があった。嬉しそうに酒を舐める彼女の姿は、どう見てもただの大きな黒猫そのものである。
「この前もお前に呑んで貰えないことを残念がっておったぞ。あやつのところには顔は出さんのか?」
「あの子は賢いから、ちょっと行きにくいわ」
「どういう意味じゃ?」
「雷神が神殿の扉を閉じたことにあたしが関わっているって、あの子なら気づいているだろうってこと。
いろいろ聞かれるのはね。
身内のことは話したくないわ」
「自業自得じゃ。母上を悲しませおって」
三つの瞳をきつくフランに向けて、平原公主が責める。
「そうね。お母さまに、こんなに長くデアから出させて貰えないなんて思わなかったわ」
「ほとんど軟禁状態だったのぉ」
狂泉が笑う。
「自業自得じゃ」
と、平原公主は酒の注がれた皿に口を近づけた。
「これでも反省しているのよ、子猫ちゃん。あまり苛めないで」
甘い声で話しかけながらフランが腰を上げ、平原公主の隣に座る。平原公主の耳の後ろに手を伸ばし、優しく掻いてやる。
「あまり苛められると、あたしも意地悪したくなっちゃうわ」
「筋肉馬鹿のことなら聞きとうない」
ぷいっと平原公主が顔を背ける。しかし気持ちがいいのだろう、フランの手からは逃れようとしない。
「ゾーイ様との約束だもの」
二人の会話を聞きながら、狂泉はふと、視線を森へと戻した。手にした湯呑を膝に落とし、不機嫌そうにそのまま森を見つめ続ける。
「どうかしたの?狂泉」
「ちょっとの。まあよかろう」
狂泉が顔を戻すと、平原公主はフランの膝に頭を預けて、だらしなく仰向けに寝ころんでいた。
喉をフランに撫でられて、飼い猫のようにごろごろと鳴らしている。
「……信徒が泣くぞ。平原」
「わらわの喉を撫でさせたら、フランは天下一じゃ」
恍惚と平原公主が呟く。
「好きにしておれ」
呆れたように言って、狂泉は湯呑を口に運んだ。
***
「辛そうだね」
少年の声に、殿下は目を覚ました。
自分がどこにいるか、咄嗟には判らなかった。
暗い。どこかの室内だ。故国にある彼自身の部屋と比べると、随分と狭い。手首が痛む。なぜ、と思い、手首が背中で縛られていることを思い出す。
そうだ。捕まったんだった。
狂泉様の森人に。
捕まって、犬小屋のような小さな家に放り込まれた。
いつの間にか眠っていたのだろう。
そして--。
「思い出したようだね」
理由も判らず全身から汗が噴き出す。血の気が引き、床に転がされていても尚、身体がガタガタと震えた。
これは、だれだ。
彼の前に、少年がいた。
立っているのではない。座っているのでもない。深く座った姿勢のまま、少年は宙に浮いていたのである。
整った顔は人形かと思えるほど白く、一見すると顔だけが暗闇に浮いているかのようだった。大きな瞳は瞳孔だけでなく虹彩まで黒く、まるでぽっかりと空いた底のない穴だ。絹糸のような髪も、黒い--。
「大丈夫。何もしないよ」
笑顔のまま少年が言う。邪気はまったく感じられない。いや、感情そのものが感じられない。
「ボクたちは竜王との契約に縛られているからね、君に直接手を下すことはできないよ。
それよりどうかな、この身体。よくできているだろう?」
少年が両手を広げて見せる。
「雷神を真似てみたんだ。これなら森に入れるかと思ってね。
でも姉はいま、ボクたちの妹の相手をしていて不在だから、こんなことをする必要はなかったんだけどね。
ん?ボクがここに来た理由かい?
もちろん君の始末をつけるためだよ」
少年が微笑む。ザラザラと。無機質に。
「知ってるかい?この森では他人の獲物を奪うことは大罪だ。そんなことをしたら殺されたって文句は言えない。君はあのカイトという子に捕まったからね。君をどうするか決められるのはあの子だけなんだ。
けれどあの子に君を殺す気はない。
不思議だね。復讐を司る神の信徒なのに、彼女は、もう復讐は終わったって考えてる。狂泉の落し子とまで呼ばれる子なのにね。
いつものことではあるけれど、姉が司る復讐っていったい何なんだろうと不思議に思うよ。
でもね、君には悪いけれど、ボクは君が死んだ方が面白いと思うんだ」
殿下に向かって、氷そのもののような冷気が這い寄っていく。殿下の足先が、指先が痺れ、次第に感覚が奪われていく。
絶望に殿下の息が不規則に途切れる。
「あの子は復讐はもう終わったと考えてるけど、そう思っていない者もいるんだ。
この森で獲物を奪うことは大罪だ。そうと知っていても尚、復讐を望む者たちがね。ボクがわざわざ手を下すまでもない。
ちょっと彼女たちの心に囁いてやりさえすれば。
ああ、来たようだ。
それじゃあボクは行くとするよ。あまり長くいると姉が怒るからね。
では、さようなら。
……グラム殿下」
少年の姿が闇に薄れる。
笑みを浮かべた唇だけが残り、その唇も消えた。
少年の背後に隠れていた玄関の扉が、音もなく開いた。
入って来たのは女たち。森の女たちだ。
10人、20人--、いや、もっと多い。
「サヤと、カタイの仇」
「フォンの仇。父さまと母さまの……」
女たちが口々に、殿下の知らない名を呟く。女たちは次々と室内に入って来て、壁となって殿下を幾重にも取り囲んだ。
「簡単には死なせない」
殿下の喉が、まず潰された。
***
「いつまでこのままにしておくつもりじゃ。フラン」
「何を?狂泉」
膝に乗せた平原公主の頭を掻いてやりながらフランが訊く。
「雷神じゃ」
微笑んだままフランは答えない。
「お前が行かぬ限り、あの甘ったれは扉を開くまい」
「ひどくケンカしたから行きにくいわ」
平原公主がフランの膝の上で鼻を鳴らす。
「何を小娘のようなことを言っておる。何万年と生きてきた、千の妖魔の女王ともあろう者が」
「忘れるな、平原。こやつは今、15の小娘じゃ」
「そうよ、子猫ちゃん。記憶と心は別なのよ」
「不便なことよの」
「あら。いいこともあるのよ」
いたずらっぽく微笑んで、男にはとても聞かせられない話でしばらく盛り上がった後、「しばらくは行けないわ」と、フランは言った。
「しばらくとは、どれぐらいじゃ?」
「判らないわ」
「判らない?お前が?」
明らかな驚きを含んで平原公主がフランを見上げる。微笑むフランの顔に、憂いがあった。それを見て、
「仕方ないの」
と、平原公主はフランの膝に頭を戻した。
「フラン」
「なに?狂泉?」
「いずれ遠雷庭に行くべき時が来る。娘たちが5人、集った時にな。その時にどうするかは、お前次第じゃ」
「あら。それはご神託なの?狂泉」
「好きなように受け取ればよい」
「娘たち、と言っても、この近くにはあたしを除けばぺルしかいないわ。5人も揃うかしら?」
「詳しいことは言えぬ」
「相変わらず勿体ぶるわね。神々は」
軽い口調でフランが言う。
「そうではないと判っておろう、フラン」
もちろんフランは判っている。未来は脆い。神の言葉である神託は、良くも悪くも未来に影響を与える。与えてしまう。
だからこそ、神託は曖昧にならざるを得ない。
「忘れずにいてくれれば良い」
狂泉が素っ気なく告げる。
「ええ」
フランは素直に頷いた。
「憶えておくわ。狂泉」
忘れる筈がない。忘れられる筈がない。わざわざ言われるまでもない。なぜなら彼女はフラン。
フランなのである。