8-2(平原王とのいくさ2)
平原王は軍を大きく3つに分けていた。
第一陣を横隊に配置し、その後ろに第二陣。第二陣は後詰と側衛として配置され、平原王の本営は第二陣の後ろにあった。
第一陣、第二陣共に支配下の国々の軍であり、直属軍である平原王国軍は本営の周囲を固めている。
「第一陣を櫓の後ろまで進ませろ。それと、音楽を鳴らせ。賑やかにやれよ!」
楽器が華々しく打ち鳴らされ、第一陣が前進する。寄せ集めの軍隊である。全軍足並みを揃えて、とはいかない。各国の軍ごとに動きがバラバラだ。
「……止まらないところがありますな」
平原王の傍らで老人が呟く。
左翼の一隊、100名ほどの兵士と、それとは別の右翼の200名ほどが、足を止めるどころか駆け足となって、喚声を上げて攻城櫓を追い越し、狂泉の森へと走り込んでいった。
喚声が森に飲み込まれ、そのまま静かになる。
しばらく様子を見ていたが、走り込んだ兵士たちの誰一人として、森から出て来ることはなかった。
「少しは期待したが、やはり無理か--」
平原王が独り言のように呟く。
「許しなく森に入った者がいれば、森のどこに入ったか、彼らは判るようですからなぁ。そこへ矢を射られれば、ひとたまりもありますまい」
森人が弓技会で示した弓の腕のことは、平原王も当然、知っている。
「どこにいるかな」
「打ち返してくるところ。そこにはいる筈ですな」
攻城櫓はすでに狂泉の森まで10mほどのところまで近づいていた。
「矢を。雨の如く見舞ってやれ」
20基の攻城櫓から、平原王の言葉通り、矢が雨のように狂泉の森に降り注いだ。矢が放たれるのは攻城櫓の頂上からだけではない。攻城櫓の正面には幾つもの突きだし窓が設けられている。弓兵とは別の兵士が押し開き、弓兵が矢を森へと撃ち込むと同時に素早く閉じるのである。
狂泉の森から撃ち返された矢は、閉じた窓の鉄板にむなしく跳ね返された。
「ヤツラの矢はいずれ尽きよう。物量の違いを見せてやる」
「それですがな、王よ」
老人が暢気に告げる。
「なんだ、ご老人」
「彼奴らが撃ち返している矢を持って来させましたところ、どうやら彼奴らはこちらの撃ち込んだ矢を回収して使っているようですな」
「なに?」
攻城櫓から矢は絶えることなく撃ち込まれている。雨の如くと平原王は命じたが、ただの雨ではなく土砂降りの雨である。
「あれを回収していると言うのか?」
「この通り」
手にした矢を老人が平原王に渡す。平原王は信じられない思いで矢を検め、老人の言葉が正しいことを知った。
面長な平原王の顔から感情が消えていく。
「油を」
冷え冷えとした声で平原王は命じた。
「油を落とさせろ」
油の入った樽が、布に火を着けられて攻城櫓の上から放り投げられた。樽は森の中に落ちて砕け散り、激しく燃え上がった。
「投石器も出せ。櫓に当てるなよ!」
「王よ」
老人が攻城櫓のひとつを指さす。
森から誰かが歩み出ていた。それもたった一人で。遠い。顔までは見極められない。背は高いが細身で、酔っているような足取りで攻城櫓に近づいていく。
「のこのこ出て来るとは--」と平原王は嘲るように呟き、絶句した。男に向かっていった十数人の兵が瞬く間に切り倒されたからである。
「もう一人出て参りました。ああ、あれは暴君ですな」
平原王は視線を転じた。遠目にも判る。槍を手にした大男が現れ、こちらも平原王の兵を軽々と薙ぎ倒した。何かを叫んでいる。その声に応えるように別の男が森から走り出て攻城櫓を見上げた。男の手には、火矢を番えた弓があった。
火矢を手にした男が怯んだように見えた。
「気づきましたな」
ぼそりと老人が呟く。
火矢を手にした男は気を取り直し、矢を放った。
「ほう」
老人は思わず声を上げた。
火矢が過たず攻城櫓の頂上まで届き、油の入った樽を燃え上がらせたからである。火に包まれた兵たちが激しく暴れながら赤い花びらのように落ちていく。
「いい腕ですな」
火矢を放った男が暴君に何かを話しかけ、森人は森へと戻った。
「そろそろ宜しいのでは?」
平原王は頷き、短く命じた。
「櫓を倒せ」
「倒れる?倒れるってどういうことだ、プリンス」
狂泉の森に戻って、ライは訊いた。
「櫓だよ、ライさん!この櫓、倒れるようになってる!ヤツラ、櫓を倒して、森ごと燃やすつもりだ!」
「なに?」
ライは森のすぐ側にそそり立った攻城櫓を見上げ、すぐに「櫓から離れろ!倒れて来るぞ!」と声を張り上げた。
攻城櫓の背後に隠されていた仕掛けが外され、攻城櫓は二つに分かれた。重心が崩され、狂泉の森に向かって攻城櫓の前部がゆっくりと倒れていく。それと同時に、内側に隠されていた油に火が放たれ、20基の攻城櫓はたちまち巨大な炎の柱となって狂泉の森に倒れ込んだ。
轟音が轟いたはずだが、平原王の本営からは流石に遠い。
「次の櫓を出せ」
「何基でございましょう?」
老人の問いに、「全部だ、ご老人」と平原王は答え、老人は「かしこまりました」と慇懃に頭を下げた。
「無事か、プリンス!」
炎から逃れ、ライが叫ぶ。
「今はね」
意外と近くからプリンスが答える。プリンスは、火の粉を払い落としながら、ライの背後の茂みから現れた。
「でも、ちょっとヤバそうだよ」
「何が」
「あれ」
プリンスが森の外を指さす。プリンスの指さす先で、大気が揺らいでいた。それもひとつやふたつではない。
とても数えきれない。
最初の20基とは比較にならないほど多い。
「野郎」
ライは歯軋りした。
「このままじゃあ耐え切れねぇ。まだか、イズイィ」
吐き捨てるように言ったライに答えたのは、いつ現れたか、エトーである。
「来たようだぜ、ライ」
ライは背後を、狂泉の森を振り返った。森の奥が白く染まって、遥かに高く空まで続いていた。
狂泉の森の奥に湧き上がった白い霧は、平原王の本営からも見えた。
「ふむ」
慌てる様子もなく平原王が目を細める。
「ご老人の想定通りだな」
「そうですな……」
「霧に紛れて打って出ようと言うのであろう。森から出さえすれば、猟師どもなど怖るるに足らん。順調だな、ご老人」
順調だな。平原王にそう言われて老人は黙考した。
信者を教え導く立場だった雷神の元神官長(老人は元、とは思っていなかったが)でありながら、老人は天邪鬼だった。
順調、と言われれば逆に、本当にそうだろうかと、自問せずにはいられなかった。
かつて彼の部下だったイズイィ。彼が森人どもの策を立てたことは疑いない。老人は彼が気に入らなかった。ある時老人は、雷神の姫巫女であるレナと、イズイィが神殿の廊下で談笑しているのを見かけた。まだ雷神が神殿の扉を閉じる前、キャナの沖に浮かぶ遠雷庭でのことだ。
おそらくはちょっとした立ち話だったのだろう。廊下には二人の他に神官や巫女もいて、艶っぽい雰囲気は皆無だった。
だが老人には、レナの笑顔がいつもよりも明るい、そう感じられた。
以来、老人はイズイィが嫌いである。
『……それはそれ』
老人がイズイィを好きになれないのは、傭兵となっても、彼が味方だけでなく敵をもなるべく殺さないようにしているからである。
敵味方の双方を殺さないために、冷徹な戦術を選択するからである。
『彼奴らの目的は--』
考えるまでもない。
平原王の軍を追い払うことだ。
決して平原王の軍を壊滅させることではない。
それには何が最適か、と考えて、老人はふと『あの娘……』と思い至った。いくさが始まる前に森人どもが森の外に出て喚声を上げた時。『あの娘はいただろうか』と。
先程、攻城櫓に火矢を放った男。
素晴らしい腕だったが、なぜあの娘ではなかったのか。
森人たちが行ったという弓技会ではあの娘が優勝したと聞いている。弓技会の視察に送り込んだ武官たちは、皆が皆、『己の見たのが現実なのか、未だに信じられません』と報告した。
弓の腕に関してはあの娘が狂泉の森で一番なのは疑いがない。
なのになぜ、あの娘ではなく、別の男が火矢を放ったのか。
森人どもが妙に統率されているのも、老人は気に入らなかった。
本来、狂泉の森人は自我が強く、他者の命令に大人しく従う連中ではない。それが不思議なぐらい彼らの動きに統一感がある。
『ヤツラを纏めているのは何だ……?』
森人に落とされた砦に、老人の思考は飛んだ。
砦の惨状を、老人は詳しく調べた。彼がまず調べたのは砦を落とされた時の見張りの配置だ。
土塁の上。倒れた物見櫓。砦の中に置かれた篝火。
炎に焼かれて確とは断言できなかったものの、土塁の上にも物見櫓にも、そして篝火の脇にも見張りは配置されていただろうと彼は推断した。
砦で死んだ司令官を、老人はよく知っている。
生真面目で面白みがなく、慎重すぎるほどに慎重な男だ。
彼が見張りの配置を怠るとは老人には思えない。だがそれでも敵は砦に侵入し、内部から火を放ったのである。
そうだ、と老人は思う。
3000人の兵士が詰める砦に、見張りの誰にも気づかれることなく侵入し、誰にも気づかれることなく悉く見張りを殺し、眠っている兵士だけになったところへ、敵は火を放ったのである。
『もし、本当にそれを一人でやったのだとしたら』
あの娘。
カイトという名のあの娘。
栗色の瞳に泉の静けさを湛えた、あの娘の本当の恐ろしさは--。
老人は顔を上げて狂泉の森を見た。老人が思考に沈んでからさほど時間は経っていない。森の奥に湧き上がった白い霧はまだ森の中だ。
『彼奴らが妙に統一されているのは、同じ思いを共有しているからか……』
娘は死地にいる。
おそらくは、たったひとりで。
たったひとりで死地にいる娘を生かすために、森人はひとつになっているのだ。
森の中に残っているのは主力ではない。囮だ。
イズイィは--老人の大嫌いな若僧は--、たったひとりの娘を主力と定め、その他の全員を囮としたのである。
『おのれ。若僧めが』
老人は歯軋りをし、歯軋りをしながらも、外見的には茫洋と狂泉の森に視線を向けたまま、懸命に考え続けた。
奇襲には備えている。森人に側面を、背後を突かれぬよう、物見櫓を建て、周囲を警戒させている。配置しているのは大平原に暮らし、遠方を見ることに慣れた者たちだ。
娘はいつ森を出たか。
おそらくは戦端が開かれた後。そうでなければ神が納得しない。
物見櫓の見張りから、誰かが森を出たと報告はない。遮るもののないこの戦場で彼らの目を逃れられる者がいるとは思えない。
けれど娘はいる。どこかに。
老人は確信する。
なぜなら。
攻城櫓の被害が少なすぎるからだ。あの娘。報告通りのあの娘の腕なら。攻城櫓の兵はもっと多数が死んでいるはずだ。
霧は戦場の正面だけでなく、見渡す限り続く森のすべてから湧き上がっている。
あの霧が本営に向かって雪崩落ちた時。
魔術で霧を晴らすまでの間。
おそらく、ほんの数分。
長めに見積もって7、8分。
視界は白い闇に完全に閉ざされるだろう。
平原王の周囲には8000の兵。この兵で守り切れるか。いや、むしろこう言い換えるべきか。7、8分の間にあの娘は、この8000の兵の間をすり抜け、ここまで至ることができるか。
老人の背中を冷たい汗が伝う。
できないと思いたかった。だが、できないと、老人は断言することができなかった。だとすれば、できると仮定するべきである。
もし、ここまであの娘が来られる、となれば。
木の後ろにある的を正確に射抜く腕である。
『つまり狙われれば、それで終わり……』
あちらも霧で何も見えまい、と思い、いや、霧に覆われる前に場所を特定されていればどうなるか判らぬ、と思い直す。
そもそも何故、あの娘は木の後ろの的を射抜く技を身に着けようと考えたのか。曲技としてか。違う。おそらく。おそらくだが、獲物を射抜くためだ。木の向こうにいて、見えない獲物を。それなのに何故、視界が利かぬからといって、あの娘が獲物を捕らえられぬなどと決めつけることができるだろう。
『忌々しい』
心のうちで毒づく。
イズイィが自分に何をさせようとしているか、それも老人は理解していた。老人が平原王の傍らにいる理由をイズイィは知っている。大平原をひとつに纏めた後にはキャナに攻め込み、一ツ神からキャナ王国を取り戻すと、平原王が老人と約していることを。
『忌々しい』
老人は再度、心のうちで毒づいた。
『だがもはや、あやつの策に乗るより、手はないのう--』
ひとり嘆息して、老人はいつものように、穏やかな声で平原王に話しかけた。
「王よ。お逃げになった方がよろしいかと」
「なに?」
平原王が狂泉の森から視線を外し、老人を見る。老人の言葉が意外すぎて、驚くよりも平原王はきょとんとしていた。
「なぜだ」
「あの娘が参ります。王を討つために、狂泉様の落し子とまで称された、あの娘が、いや--」
言葉を続けながら、老人は腰を浮かした。
まだ死ぬ訳にはいかぬ。この男を、死なせる訳にはいかぬ。
「もう近くに、来ている筈でございます」