7-8(消せないもの8)
カイトがクル一族の集落の外れに建つ一軒の家の扉をノックしたのは、狂泉の森と平原王との交渉がまとまる少し前のことである。
カイトは扉をノックすると返事を待つことなく中に滑り込んだ。
音を立てないよう扉を閉じ、戸口の脇に潜む。
「何をしているんだ?カイト」
訊いたのはイズイィである。
カイトは声を立てないよう身振りで示した。
遠くで足音がする。
イズイィには聞こえていないだろう。あちらこちらと彷徨ってから、足音はやがて遠ざかっていった。
カイトはホッとため息をついた。
「ごめんなさい。イズイィさん。ちょっとしつこい人がいて逃げてきたの」
「大変だな。カイト」
イズイィが笑う。
彼らがいるのは、クル一族とオルガ一族の人々がイズイィたち武装魔術団のために建てた家だった。オルガ一族をはじめとする狂泉の民人は森での野宿に慣れているが、イズイィたちに野宿はきついだろうと用意したのである。
武装魔術団全員が暮らせるように他の家よりも随分と広い。
ただしイズイィ以外の団員は平原王とのいくさに備えて狂泉の森に散っており、今はイズイィ一人しかいない。
「笑い事じゃないわ」
カイトは文句を言った。
弓技会と演武会が終わった後、平原王と戦うために集まる森人が急に増えた。それまでは1500人程度だったのが今は倍の3000人を越えるまでになっている。弓技会と演武会のことが噂として広まり、平原王の襲来を森に教えられなかった人々まで興味を持って集まってきたのである。
狂泉の森では弓の腕のある者は一目置かれる。カイトほどの腕となれば尚更だ。そして新しく集まった多くの森人の目的は、カイトだった。
「射殺してしまえれば楽なのに」
物騒なことをカイトが言う。
何人もの男に次々と言い寄られて、カイトはいい加減うんざりしていた。
「お茶でも入れよう」
「ねぇ、イズイィさん」
イズイィが入れてくれたお茶を口に運びながらカイトは訊いた。
「なんだい」
「どうやって平原王を追い払うの?」
イズイィは自分のためにコーヒーを淹れ、黙ってカイトの対面に座った。
「カイトは、酔林国に攻め込んだキャナが休戦に応じた理由を知っているかい?」
「ううん」
「まあ、オレだって推測に過ぎないんだが、それを前提に聞いてくれ。
キャナが休戦に応じた理由を話す前に、そもそもキャナがなぜ酔林国に攻め込んだか、だが、オレは百神国と洲国との膠着した戦況を打開するためだったんだろうと思ってる。
狂泉様の森を抜けて両国の側面を突こうとしたんだ」
「ライもそう言ってた。トロワさんや軍団長--ううん、酔林国でもそう考えてたって」
イズイィが頷く。
「つまりキャナの目的は、酔林国の占領でも壊滅でもない。あくまでもキャナの目的は、百神国と洲国なんだ。
酔林国に攻め込んだのは目的じゃなくて手段なんだよ。
キャナが酔林国との休戦に応じたのは、酔林国と戦争を続ける必要がなくなったからなんだ。
酔林国と戦っている間に、百神国、洲国両方の戦線で動きがあった。両方の戦線でキャナが決定的な勝利を得て優勢に立った。
膠着した戦況が打開されたんだ。
だからキャナは休戦に応じたんだ。
もっとも、酔林国の方でもキャナが確実に引くだろうと考えていた節がある。
狂泉様の森に攻め込んでいたキャナの軍に酔林国が反攻を仕掛けたのが、ちょうど百神国と洲国の戦線が動いた後なんだ。
キャナの軍を森の外まで押し返して、すぐに休戦を申し込んでる。
多分、百神国と洲国の戦線で動きがあったことを、委員会、だったか、酔林国の指導部は知っていたんだろうな」
カイトはライから聞いた話を思い出した。『ヤツラが飲むとは思わなかったが、意外とすんなり飲んだ。トロワはヤツラが飲むって確信があったようだな、オレにはさっぱりだが』あれはそういうことだったのか、と思う。
「そうなんだ」
イズイィが小さく頷く。
「つまりいくさというのは、目の前の状況だけに左右される訳じゃない。ここだけじゃなくて、大平原全体の状況に影響を受ける。
それで今の状況だが、平原王は本当は兵を引きたがってる、と思う」
「なぜ?」
「平原王が攻めて来た理由も、狂泉様の森を抜けることにあるからさ。
狂泉様の森には、酔林国を除けば国はない。おそらく平原王は、組織的な抵抗はないと踏んでいたんだろう。最初に送った兵だけで片が付くってね。
平原王に、積極的に森を抜けなければならない理由はないんだ。森を抜けられるとなれば、いくさで使える手札が増えるぐらいだ。だから平原王は、兵を著しく損耗してまで森を抜けるつもりはなかったと思う。
ところが予定が狂った」
カイトが砦を落としたがために。
「いくさの対価として得られる結果と、兵の損耗の収支が合わない。平原王としてはこれ以上、兵を損耗したくない。
あまりに長く、王都を、自在宮を開けているから支配地が動揺し始めている。
平原王は、本当はもう兵を引きたいんだよ。
しかし、平原公主様の許可をいただいて始めたいくさだ。予定が狂ったからと言って今さら止められない。
もちろん、負ける訳にもいかない。
大平原の統一事業はまだまだ道半ばだ。ここで負ければ支配下に置いた国々が離反する恐れがある。
だから一気にカタをつけるべく兵を集めた。
しかし、5万もの兵を集めたものの、かき集めた、と言った方が相応しい。
統一が取れていない。烏合の衆とまでは言わないが、つけ込む隙は十分にある。
平原王には自分から引いてもらう。
引くことが出来るように状況を作る」
「どうするの?」
カイトがお茶をすする。
イズイィがテーブルに置いた湯呑を大きな両手包み込む。深味のある瞳に静かな覚悟を秘めて、カイトを見返す。
「申し訳ないが、お前に無理をしてもらうことになる。カイト、お前が要なんだ」
「判りました」
平原公主の巫女は、怒りを押し殺して応えた。
歳は50代の後半だろう。
白髪混じりの長い髪を一つに纏めて背中に落とし、狭い額には平原公主の巫女の証しである琥珀色の瞳が描かれている。
「平原王様が勝利を得た場合には、狂泉様の森に3度、入る許可を頂くということで了解いたしました。森に入れば森のルールに従うことも認めましょう。
ただし、平原王様が狂泉様の森に、何度、入る許可を得られたか、ということについては一切口外しないこと。
宜しいですか」
「いいぜ。こちらは文句なしだ」
巫女と向かい合って座ったヴィトが頷く。
彼らがいるのはトークスの街にある平原公主の神殿の一室である。室内にいるのは彼ら二人だけだ。
「お誓い頂けますか」
「狂泉様に誓うぜ」
軽い口調で答えたヴィトの口元には人を小馬鹿にしたような薄い笑いがある。
『到底、信じられない』
と、平原公主の巫女は忌々しく思い、思いながら、ヴィトという名の森人に敬意さえ抱いていた。
たったひとりで敵地に赴いて、顔色ひとつ変える様子がない。のらりくらりと言葉を弄しているが、論旨は意外なほど確かだ。
『この男なら、必要とあればあっさり誓いを破って、顔色ひとつ変えずに死ぬでしょうね』
巫女には確信がある。だから、幾ら彼が狂泉様に誓っても無意味だと判っている。しかしそうと判っていても、彼女にはどうすることもできない。
言質は取った。
それで満足するしかない。
「では次に、こちらが勝利を得る条件ですが、やはり、主将として誰か一人を立てることは受け入れていただけませんか?」
「ああ。無理だ。あんたらと違ってこちらは組織らしい組織じゃないんでね。悪いとは思うがね。全員が死んだところで終わりってことで納得してくれ」
「全員、というのは、具体的に何人なのですか?」
「いくさの前にそれを言うバカはいねぇよ」
ヴィトがせせら笑う。だがこれも芝居だ、と巫女は思った。
「3000人は越えている、と聞いています」
「さてな」
「そちらが誰か一人を決めていただけないのなら、平原王様が勝利を得られる条件を、誰かではなく、何人殺せば、と改めたいのですが、如何ですか」
「平原王一人を殺せばこちらの勝ち、という条件はそのままで、だよな」
巫女の言葉を待っていたようにヴィトが訊く。
「はい」
巫女もまた、待っていたように頷いた。
「いいぜ。それで何人殺されたら、こっちの負けになるんだ?」
「3024人です」
「よし。決まりだ。それでいこう」
ためらうことなくヴィトが同意する。半端な人数の意味を訊こうともしない。
「いらっしゃるのですか。それだけの人数が。そちらに」
「いる。だから問題なしだぜ、巫女様」
「判りました。では最後に、開戦をいつにするかですが--」
「明日だ」
巫女の言葉を遮ってヴィトが宣言する。巫女は口を閉じ、ヴィトの悪人顔を探るように見た。冗談で言っている訳ではなさそうだった。
「判りました」と、巫女は頷いた。
そうと決まればぐずぐずしている暇はない。
「では明日。ごくろうさまでした、狂泉様の神官殿」
「決まったぜ。明日、平原王とケリを着ける」
カイトにそう知らせてくれたのはライである。自宅でハルと二人で夕食を取っていた時のことだ。
「明日の朝、祠の前に来てくれ。日が昇ったらすぐにな」
「判った」
「それじゃあ、邪魔したな」
「待って。ライ」
扉を閉じようとしたライに、カイトは声をかけた。
「なんだ、カイト」
ライの問いには答えず、カイトはハルに顔を向けた。
「ハル。お願いがあるの」
「なに?」
「今晩は、あんたのお母さんとお父さんのところに戻って欲しいの」
「どうして?カイト」
「上手く言えない。でも、その方がいい気がする」
ハルがカイトの瞳の奥を探る。カイトの瞳に迷いはない。やがてハルは納得したように笑った。
「判った。そうする」
「ありがとう。
ライ、悪いけど、ハルを送って行ってもらえる?」
「ああ。いいぜ」
「ごめんなさい、ライさん。でも、夕食が終わるまで待ってもらっていい?」
「ああ」
ライが扉を閉じる。
「座ってもいいか」
「もちろん」
「ライさんの分、あったっけ」
「うん」
カイトとハルが席を立ち、ライの前に温かい夕食の載った食器を並べていく。
「カイト。お前が平原王と戦う理由は何だ?」
スープを口に運びながら、不意にライが訊いた。
「理由なんかないわ。だってそれが守り人としてのわたしたちの義務だから。そうでしょう?ライ」
「ああ。そうだな」
と、ライは笑って頷いた。
「カイト」
夕食の後片付けを終え、戸口に立ってハルはカイトに尋ねた。
「ひとりで大丈夫?」
「うん」
頷いてからカイトが言葉を探す。
「もう、独りじゃないから」
「--判った」
本当にハルが判ったかというと、そうでもない。ハルの心にはまだ、カイトを一人にすることへの不安が燻っていた。だが、ハルはカイトを信じた。口を挟まないことで、『大丈夫だろうよ』と肯定してくれたライを信じた。
両親のところに戻った方がいい、とカイトが言った理由は痛いほど判る。
ハルはカイトとハグを交わし、「また明日ね」と笑って扉を閉じた。
何ヶ月もハルと二人で眠ったベッドは、一人になると妙に広く、寂しく感じた。
ベッドに座ってしばらく考えて、カイトは椅子を一脚、ベッドの脇に据えた。
母が使っていた櫛を座面に置き、着古した父の上衣を背もたれにかける。
まだ何か足りない気がして、自分が買ってきた土産の螺鈿細工の櫛を座面に並べ、父のために買ってきた木綿の上衣を背もたれに重ねた。
そうすると、ようやく二人の許に帰って来た、そう思えた。
カイトはベッドに潜り込み、「おやすみなさい」と呟いた。
森の緑がそのまま降りてきたような静けさの中、『おやすみ、カイト』と声が響いた気がして、深い安堵感に満たされて、カイトは穏やかに眠った。