7-5(消せないもの5)
わたしのこころはもう、けっしてはれることはない。わたしのおなかの奥に生まれたこれは、もうけっして消えることはない。
だけどこれは、わたしだけのことじゃないんだ。
みんな。
みんなそうなんだ。
ライは何も言わなかった。
カイトが、人目も憚らず声を上げて泣いたことを、知っているのか知らないのかも判らなかった。
ただ、ライは、大きな手でカイトの頭を優しく叩いた。
それで充分だった。
「性格なんだろうね、師匠(プリンスはカーラのことをそう呼んだ)はちょっとしたことですぐに落ち込むんだ。亡くなった軍の人たちのことを思い出すと、今でもね。
ふと気がつくといなくなってて、一人でいることが多かったな」
別のときに、プリンスはそう話してくれた。
「でも、ライさんは師匠が落ち込むとなぜかすぐに気がついて、黙って寄り添ってた。いつでも」
「……」
「あの二人がどうして一緒にならないのか、それがボクには一番の謎だね」
「お前には判らないさ。お前はお子ちゃまだからな、ゴート」
エトーがちゃちゃを入れる。
「んー。確かにね。ボクには判らないよ。多分。一生」
「それがお前だろ」
「そうだね。それがプリンスだね」とカイトも頷いた。
演武会1日目の体術は順調に試合を消化して、すでに準決勝の2試合目となっていた。対戦するのはライと、ハルの父、バダである。
「お前には悪いが、南の連中ばかり勝たせる訳にはいかないんでな。ここらで負けてもらうぜ、ライ」
バダのセリフに、ライが肩を竦める。
「負けられない理由があるんでね。こっちには」
「頑張れ、ライ!負けちゃダメよ!」
カイトの声援が演武場に大きく響く。
バダが声を上げて笑う。
「それはこっちも同じだ」
「父さま!頑張って!」
カイトの隣でハルが叫ぶ。
「それにな、負けたら家庭的にちょっとヤバイんだ、こっちは」
観客席の最前列で、オルガ一族の人々を背中に、ルゥが腕組みをして演武場を見つめていた。
彼女は黙ったままだが、「負けたら許さない」と釣り上がった目が語っていた。
「大変だな。家族持ちは」
「おお。だが、悪くないぜ。可愛いもんだよ、娘も。嫁もな」
試合の開始を告げる木琴がカーンと鳴る。
「力勝負といこうか」
「おお」
バダの誘いに、ためらうことなくライも乗った。
演武場の真ん中に歩み寄り、お互いの両手を組み合わせる。上背はライの方があるが、横幅はバダの方がある。
「おおおっ!」
と、二人が声を上げる。
服の上からでも、二人の筋肉が盛り上がるのが判った。
地元の利、といったところか、声援は圧倒的にバダを応援する声の方が多い。ライを応援しているのは、一族の娘であるカイトが世話になったことを恩に思うクル一族が中心である。
「頑張れ、頑張れ、ライ!」
「おおっ!」
カイトの声援に押されて、ライが上から覆い被さるようにぐっと体重をかける。
「負けるな!父さま!」
「おおっ!」
ハルの声援に、演武場を力強く踏み締めてバダが押し返す。
二人とも準決勝までは圧倒的な力で対戦相手をねじ伏せてきた。お互いこれほど拮抗した状態が続くのは、初めてである。
だが次第に、バダの足が後ろへと下がり始めた。バダの両腕が震え、噴き出した汗が滴り落ちる。食いしばったバダの歯の間から苦し気な呻き声が洩れる。
ライがじりじりとバダに顔を近づける。
歯を剥き出し、不敵に笑う。
「悪いが、オレの--」
組み合わせた両手を、ライが握り潰さんばかりに締め上げる。
「勝ちだ!」
バダはいきなり引っこ抜かれるように前へと引き摺られた。「わっ!」と声を上げ、腰の辺りをつかまれたと思った時には、彼の体は宙に浮いていた。
「ああ……!」
ため息交じりの歓声が上がり、ズンッと地面が揺れて土煙が舞った。
「どうだ!」
ライが右腕を振り上げて叫ぶ。
バダは転がされたまま、ライを見た。負けたと悟り、恐る恐る目だけを動かして、観客席に視線を向ける。彼の視線の先に、腕組みをしたままのルゥがいた。
ルゥの口角が上がる。声もなく、口角だけが。
ルゥの周りのオルガの民人が、災いを避けようとでもするかのように、少しずつ彼女から離れていく。
「あー。その。……何と言えばいいか」
バダの視線を追ったライが、手を差し出しながら彼に声をかけた。
「悪かった」
「もう遅いよ」
ライの手を取りながら、バダは深いため息を落とした。
ライに引き起こされる父親を、ハルは呆気に取られて見つめていた。
「……父さまが投げられるとこ、初めて見た」呆然と呟いて、隣のカイトに顔を向ける。
「あんた、本当に、このライさんに勝ったの?」
「うん」
カイトが落ち着かない。
ハルはカイトから、酔林国でライに勝った時、ズルをしたと聞いた。詳しく話を聞いたハルにはズルをしたとは思えなかったが、カイトはそう思っているのだろう。
ハルは喉の奥で低く笑った。
「今ならちゃんと勝てるのに、と思ってない?あんた」
「やっぱりわたしも出るんだった、とは思ってる」
とカイトは答えた。
決勝は準決勝の30分後に行われた。もうひとりの決勝進出者はプリンスである。
「ハルちゃん。もしボクがライのおっさんに勝ったら、ボクとお付き合いしてくれる?」
決勝の舞台に上がる前に、プリンスはハルにそう軽口を叩いた。
「もし、なの?プリンスさん」
ハルの答えにプリンスは声を上げて明るく笑った。
「そうだね。勝ってくるよ。だから考えといて」
「うん。判った」
「いい返事を期待しているよ」
プリンスは、ハルと、二人のやり取りを目を丸くして見守っていたカイトに軽く手を振って演武場に上がった。
「ライさんとやるのって4、5年ぶりかなあ」
手首から肘、肩と、関節を順に回しながら、プリンスは先に演武場に上がっていたライに話しかけた。
「そんなもんだろ。オレがお前を軽く捻ってからな」
「そうだったっけ」
「しらばっくれんじゃねぇ」
「悪いけど、今日は勝たせてもらうよ。ライさんに勝てば、ボクの方がハルちゃんの父上よりも強いんだって証明できるからね」
ライが嗤う。
「勝手に言ってろ」
試合開始の合図とともに、プリンスの方がライに歩み寄った。
他の森人と比べると、プリンスは長身の部類に入る。だが、ライと比較すると一回り以上は小柄だ。
しかし、ライに歩み寄るプリンスの足取りに、ためらいも迷いも、まったく感じられなかった。
ライが構える。半身になり、軽く右手を前に出す。
暴風雨のようなライの拳がプリンスを襲う。
軍団長もカイトも後ろに下がりながら捌いた攻撃である。けれどプリンスは細かい足さばきで重心をずらし、至近距離で巧みにライの拳を躱し、怯むことなく一息にライの懐に踏み込んだ。
ライの豪拳が頬を掠めても瞬きすらしない。
プリンスがライの胸元に手を伸ばす。服を掴もうとする。ライがプリンスの手を激しく弾く。同時に左拳を放ってプリンスをけん制してライは後ろへ跳んだ。
滑るようにプリンスが追う。
ライが踏み止まる。身体を沈める。豪拳がカウンター気味に突き出される。
「あっ!」
と声を上げたのはハルだ。
しかしハルが声を上げた時には、ガツンッという音を残して、プリンスは大きく後ろへと飛び離れていた。
ハルがホッと安堵のため息をつく。
何があったか早過ぎて彼女には見極められなかった。ただ、最後にライの拳を躱したプリンスが、右拳をクリーンヒットさせたことだけは判った。
「すごい」
カイトが呟く。
プリンスが飛び離れるまでの短い間に、プリンスがまずライの拳を躱し、躱すと同時に放たれたプリンスの拳をライが受け止め、二人の腕が交差し、ライの拳は空を切ったが、さらに深く半歩踏み込んだプリンスの右拳がライの左頬にクリーンヒットしたのである。
効いてはいない。
プリンスも判っている。だからこそすぐに後ろへと飛び離れたのだ。
「プリンスの方が押してる」
「ああ見えて、ゴートは貪欲だからな」
カイトの背後に立ったエトーが言う。いつ彼が現れたのか、演武場の二人を追うことに夢中で、気にする余裕はカイトにはなかった。
「ライのバカが及び腰になってる理由は判るか?嬢」
「プリンスの返し技を恐れているんだと思う」
「その通りだ」
カーラを師匠と呼ぶだけあって、プリンスは相手の力を利用するのが上手かった。決勝までの試合では、プリンスが相手の懐に入った、と思った時には相手の身体が面白いようにくるりと回って、試合が終わっていたのである。
カーラのような流れるような美しさはなかったが、プリンスの技にはカーラにはない力強さがあった。
ライが軽く顎を振り、不快気に眉をしかめる。
プリンスが微笑む。
今度はライさんの番だよ、とでも言うように。
虚を突かれ、ライは一瞬動きを止め、すぐに「ハハハ」と短く笑った。10年前。キャナとの戦争で死んだ軍の仲間を悼んで怒り泣きわめく少年の--プリンスの姿が、何故か思い出された。
「行くぜ」
低く言ったライの身体がもう一回り大きくなる。プリンスにはそう見えた。だが怯まない。むしろ、胸が躍った。
プリンスに歩み寄ったライが、幾つかフェイントを入れ、囮の拳を放って距離を詰め、蹴りを放つ。重心を前にかけ、プリンスを演武場の外まで蹴り飛ばすつもりだった。
プリンスは逃げない。逆に一歩深く踏み込んで蹴りを両腕で受け止め、……ない。蹴りの勢いを逸らし、するりとライの懐に入る。そのままライの胸元をつかんで手前に引いた。同時に足を刈る。
ライがバランスを崩す。
しかし、ダンッと大きな音を立てて踏み止まり、倒れそうになりながらライは左拳を放った。
軽やかなステップでプリンスが距離を取り、ライはチッと舌打ちした。
「何を狙っているんだろう」
カイトが呟く。
「えっ?」
「嬢もそう思うか」
「うん」
カイトは頷いた。
「さっきからプリンス、ずっとライを誘ってる」
『ホントに強くなりやがって』
ライは心のうちで毒づいた。前にやった時よりもはるかにプリンスの力が強い。技にもキレがある。だが、深追いして来ない。
彼もプリンスが何かを狙っていることに気づいていた。ただ、それが何か判らない。
『仕方ねぇ。乗ってやるよ』
何度か拳を交わしてから後ろへ飛び、腰を落とす。プリンスに隙がある。小さな隙だ。だが、誘いだ、と知りながら、ライは前へと勢いよく足を踏み出した。
プリンスの胸元に手を伸ばし、--ぞくりっとライの背筋を悪寒が走った。
「あっ」
カイトが声を上げる。
大袈裟なほど大きく両手を振り上げて、ライが跳ねるように後ろへと逃げる。ライの手があったはずの空間を、プリンスの両手がすり抜けるのを、カイトは見た。
「なんだ?」
「--プリンス、今、関節を取ろうとした」
「なに?」
「こっちの、北の護身術を使おうとしたんだ」
「はっ」
楽し気にエトーは声を上げた。
「ホント、貪欲なヤツだぜ。ヤツがどうやって北の護身術を覚えたかは……、ま、どうでもいいか」
演武場では、ライが腰に手を当ててプリンスに話しかけていた。
ライの口元に笑みがある。
「お前。いつそれを覚えた」
「こっちに来てからね。親切な子が多くてさ。ライのおっさんこそ、よく判ったね」
プリンスもまた笑みを浮かべて答えた。
「勘だ、勘。まぁ、酔林国でカイトが使っているのは見たがな」
「そうか。カイトちゃんに負けたんだったね、ライさん」
「違うぞ!」
大声でライが否定する。
「勝ちを譲ってやったんだ!」
観客席でむっと顎を引いたカイトに、「乱入なんかするなよ。嬢」と、エトーが声をかけた。
カイトを怒らせたことを知ってか知らずか、ライが首を左右に軽く振る。
「それじゃあオレも、ちょっと面白いものを見せてやるよ」
「なに?ライさん」
「しっかり見てろよ」
ライが無造作にプリンスに向かって歩く。プリンスは半身になって備えた。両の拳を軽く握る。ライが左へ動くと見えた。プリンスが左へ視線をやる。誘われたと気づいて視線を戻し、背後に気配を感じて、プリンスは素早く身体を回した。
誰もいない--、と思う間もなく、後ろから襟首を引かれて、足払いをかけられた。
「え」
気がついた時には、プリンスは青空と、自分を覗き込むライの悪戯っぽい笑顔を見ていた。
「どうだ。驚いたか」
歓声が上がらない。プリンスと同じく、観客もぽかんとしている。
「ええ?」
ハルも同じである。
驚いていないのは、カイトとエトーだけだった。
「ま、あれぐらいはやってもらわないとな」
「そうだね」
「なに?なにがあったの?」
ハルには、ライがプリンスの左手側へ踏み出すと同時に、プリンスがくるりと自分から背中を無防備にライに向けた--と見えた。
自滅とさえ言えない終わり方である。
「何をされたか判らない。いったい何をしたの、ライさん」
ライに引き起こされながらプリンスは訊いた。
「ここ半年の間、ずっとカイトの相手をしてたのさ。オレが木剣を持ってて、素手のあいつがオレの背中を取ればあいつの勝ち、っていうゲームのな」
観客席ではエトーがハルに説明していた。
「最後の頃には嬢が5回やって4回は勝つようになったんだがな。ライにも意地があるからな。5回やって5回にはしないように工夫しているうちに--」
「オレにもコツが判って来たのさ」
演武場でライがプリンスに説明する。
「呼吸の読み方、意識の逸らし方ってヤツがな。いまやったのが、それだ」
「なんだ。それじゃあ--」
プリンスが笑う。
「ボクはカイトちゃんに負けたようなもんだね」
「そう言ってもいいけどな」
気分を害した様子もなくライが笑う。
「勝ったのはオレだ。そのことを忘れるなよ」
「残念だったね。プリンス」
演武場を降りたプリンスに、カイトはそう声をかけた。だがどこか、口調が固い。
「どこへ行くの、カイトちゃん」
「ライのところ」
プリンスを振り返ることなく、カイトが演武場に向かっていく。
「何かあった?」
プリンスの問いに、ハルは苦笑を浮かべた。
「さっきライさんが言ってたでしょう?カイトに勝ちを譲ったんだって」
「ああ」
「だからちょっと手合わせを申し込んで来るって」
「今から?」
「うん」
「流石はカイトちゃん。それで、エトーさんは?」
「ライさんの自業自得だから放っておけって。イズイィさんとヴィトさんがいるから大丈夫だろうって、どこかに行っちゃった」
プリンスが演武場に目をやると、ライに食ってかかるカイトにイズイィが笑顔で何かを話しかけていた。しばらくするとヴィトが割って入り、カイトの勢いが萎んだ。それでも言い募ろうとしたカイトに、ヴィトが何かを言った。
カイトが怯み、がくりと頭を落とす。最後はライがカイトの頭を優しく叩いて、場を収めた。
「--エトーさんの言った通りだね」
「うん」
プリンスは演武場から視線を戻し、ハルに「ごめんね」と謝った。
「勝つって言ったのに約束を守れなかったね」
ハルが首を振る。
「結果がすべてじゃないって母さまが言ってたし、あたしもそう思う。いい試合だったよ、プリンスさん」
「ボクのことを見直してくれた?」
冗談っぽくプリンスが言う。
ハルは首を振った。
「ちっとも」
「ひどいなぁ」
「だってプリンスさんなら、これぐらいはやれるって信じていたもの。いまさら見直すまでもないわ」
ひと呼吸置き、
「カッコ良かったよ、プリンスさん」
と、藍色の髪を傾け、ハルが微笑む。
プリンスは、ハルが自分を落としにかかっていることを知っている。プリンスが知っていることを、ハルが承知していることも知っている。ハルの見せた笑顔も、彼女なりの精一杯の手管のひとつだと判っている。
それでも、プリンスは一瞬、ハルに見惚れて時間を忘れた。
それほどきれいな、渾身の笑顔だった。