プロローグ4 4年前
フウは狂泉の森の中を母と共に走っていた。
フウはまだ10才で、母もまだ25才と若く、いつもなら全力で走る母についていくことなど出来ないはずだった。しかし、いつになく母の走る速度は遅かった。母の息が荒い。フウは森を駆け抜けながら、母の脇腹の様子をちらりちらりと窺っていた。
山刀で深く抉られた脇腹。脇腹を押さえた母の手の下から、指の間から、赤い血が流れ落ちていた。
母の血が止まる気配はなく、母の顔色もまた、次第に青白くなっていった。
母の走る速度が緩み、遂に止まった。
母が膝をつく。
限界なのだと、フウは悟った。つまりは、ここが終わりの場所なのだと。
仮にも狂泉の森に生まれた身だ。死ぬことは怖くなかった。それに、死ぬにしても母を含めた一族みんなが一緒だ。おそらく、もう一族で生きているのは自分たちだけだろうと、フウは幼いながらも理解していた。
「大丈夫?母さま」
荒い息を吐きながら母が笑う。
「狂泉様のところへ行く時が来たみたいね」
「うん」
膝をついたまま母がフウに青白い笑顔を向ける。
「怖い?」
フウは笑った。
「ちっとも」
「ごめんね、フウ」
「何が?母さま」
「あんたに、辛い思いをさせることになること」
「死ぬのなんか怖くないよ」
「そうだね。その方が楽だろうね。でもね、あたしは、あんたに生きて欲しいの」
フウは母の顔を見返した。母の言葉の意味が判らなかった。
「一人で逃げて」
フウは絶句した。一族の者が次々と倒れていった時よりも深い戦慄が、彼女の幼い身体を震わせた。
「狂泉様の巫女の一人として、あんたを破門するわ。だから、逃げて。復讐なんか考えないで、森を出て、幸せに生きて」
「いや」
フウは即答した。森を出る。一人で。それは、フウにとって死ぬよりも遥かに恐ろしいことだった。
「あんたの気持ちは判る。でも、そうして。ううん。フウ。……ゴメンね」
母が言葉を切る。そして母は、声に妙な力を込めて言った。
「死なないで。逃げて」
母の言葉が、まるで実体があるかのように、フウの心にズシリと落ちた。死にたくない。逃げなきゃ。という想いが、不意に彼女の心の奥から湧き上った。
その想いに懸命に逆らって、フウは母に縋った。
「母さま、何……」
フウを見ていた母がふと後ろを、森の奥の暗がりを窺った。彼女もまた、狂泉の森に生まれた身だ。追手が近づき、フウを逃がすには手遅れだと悟った。
母は再び、声に妙な力を込めて言った。
「フウ。そこの茂みに隠れなさい。気配を消して。誰もいなくなるまで、そのまま出てきちゃ駄目よ」
切迫した母の声に、今度はフウは全く逆らえなかった。命じられるままにフウは母から離れて茂みに潜んだ。気配を消すのは、彼ら狂泉の森人にとっては息をする以上に簡単なことだ。フウの気配は、たちまち森の中に消えた。
母はほっと息を吐いて、近くの手頃な木の幹に体を預けた。
最初は些細な諍いだった。いつもそうだ。それがここでは、狂泉の森では、互いの一族の命運を賭けた争いになってしまう。森人の持って生まれた気性の問題か、それとも、狩猟とともに、復讐を司る狂泉の性質故か。
狂泉の巫女の一人である彼女にも、それは判らなかった。
実のところ、彼女自身が負った脇腹の深手にしても、それ以上の深手を何人もの相手に負わせた代償だ。怒りを抑えることが出来ない。それは、彼女自身も同様だった。
彼女は、重たくなった頭を上げた。
森の暗がりから、影が現れた。
彼女と同じ年頃の女たち。
「もう、死ぬわね。コイツ」
「そうね。でも、生きている間に引き裂いてやりましょう」
「ええ。コイツに殺された一族のために」
女たちが彼女に歩み寄る。
フウ。と、彼女は茂みに隠れている娘に心の中で話しかけた。わたしの最期をしっかり見届けてね。そして、出来るなら、愛する人と、幸せに生きてね。
女たちが彼女に躍り掛かる。
その女たちの隙間を縫うように、一本の矢が、ヒュッと短い音をたてて彼女の心臓を貫いた。痛みは感じなかった。即死、と言ってもいいぐらいの短い時間。彼女は、自分を殺した相手を見た。
森の暗がりの中に、少女のシルエットがあった。
少女に、彼女は心当たりがあった。
狂泉の落し子とまで称された少女。確か、少し変わった名をしていたはずだ。まるで男の子のような。
ああ。彼女が、フウを守って下さいますように。私を殺した彼女が。狂泉様。これが私の最後の願いです。彼女が、フウを……。
3人の女たちは、矢に心臓を貫かれて息絶えた女を見下ろし、矢が飛んで来た森の暗がりを不満そうに振り返った。
「カイト。なぜコイツを殺したの?」
カイトと呼ばれた少女が姿を現す。
明るい茶色の髪、栗色の瞳。身長は女たちの胸の辺りまでしかなく、頬には健康的な赤味と幼さを残していた。
実際、彼女はまだ10才にしかならなかった。しかし、口を真一文字に結んだカイトの顔に子供っぽさは欠片も無く、まるで仮面のように何の表情も浮かんではいなかった。
「止めを刺しただけ。何か問題があるの?」
子供らしさのない乾いた声でカイトが問う。
幼い彼女に圧倒されて黙り込んだ女の一人が、その事実を振り払うように、フンと鼻を鳴らした。
「まあいいわ。コイツと一緒に娘もいたはず。まだ近くにいるはずよ」
「そうね。コイツの代わりに娘を引き裂きましょう」
「ええ。生きて、苦しませてやりましょう」
カイトが辺りを見回す。
カイトの視線が一瞬、フウが潜んだ茂みの上で止まった。うっそうと繁った葉を通して、確かにカイトとフウの視線が合った。
母を殺した相手であるにも関わらず、フウは、なんて綺麗な瞳だろうと思った。
栗色でありながら、どこか青味みを帯びた瞳。
とても感情豊かな、優しさを秘めた瞳。
しかし、カイトはすぐに視線を外して、3人の女に背中を向けた。
「ここには、誰もいない」
「なんですって?」
女の一人が不満げに言う。
「そんな訳ないでしょう?」
カイトが弓を持ち直す。幼いカイトが持ってもまだ小さく見える弓。カイトはいつの間にか、弓と一緒に3本の矢も手にしていた。
「いないと言ってる。それとも、わたしの言葉を疑うの?」
女が鼻白む。
彼女たちにしても狂泉の森に生まれた身だ。大概の相手なら黙るところではない。むしろ、自分たちを侮辱したと、カイトを引き裂いたとしても不思議ではない。
しかし、彼女ら3人で襲い掛かったとしても指一本触れることも出来ずにカイトの矢で射殺されてしまうことを、彼女らは良く知っていた。
「アンタがそう言うのなら、そうでしょうよ」
「そうね」
「娘は、逃げてる途中で、狂泉様に捧げたのかもね」
口々に女たちは言い、殺気を失させた。
白けた、というのが、彼女らの偽ざる想いだった。
不満を抱えたまま女たちが立ち去り、カイトもまた森の中に姿を消した。
誰の気配も無くなってから茂みを這い出し、フウは、母の死体の前でしばらく泣いた。
そうして、彼女は勇を鼓して、狂泉の森を後にした。
それが4年前のことである。